107 四分の二の極
「はぁ、はぁ、はぁ……。」
サンは走る。
建物の陰を縫うようにして、決して大通りの魔物に姿を見せないよう細心の注意を払いつつ、必死で走る。
サンが遅れれば遅れるほど、シックに危険が襲い掛かる。
自分のためでは無く、使命のためでも無く。贄の王の従者では無く、今は一人のサンとして、ただ友のために。
「はぁ、はぁ、はぁ……。」
大関門が近づく。巨大な門が視界いっぱいに広がっていく。
大関門を背にすれば魔物の動きを制限出来る。大関門を越える高度まで上がるためには多少の時間がかかるため、空を飛べる魔物にとっても大関門は壁として働いてくれるからだ。
そしてサンは背後を気にすること無く、正面からやってくるだけの魔物に狙いを定める事が出来る。
「はぁ、はぁ……はぁ……。」
走る、走る。
ただ一心にシックの無事を願いながら。
ずぅうん、と地面が一つ揺れる。
押しつぶそうと振ってきた巨体から走って逃れたシックはすかさず反転、勢いのままに剣を突き立てる。
すぐさま抜いて退避。直後、魔物の巨体が転がってくるが、既にシックはそこに居ない。
魔物の動きが止まったところをとらえ、斬撃を叩き込む。
一つ、横に一文字。
二つ、右から斜めに斬り下ろす。
三つ、踏み込みを乗せての斬り上げ。
四つ、なぞり返すように上段からの斬り下ろし。
後ろに飛び退って、地面にしがみつくようにしゃがむ。魔物の翼が大きく羽ばたき暴風を生み出すが、それを難なくやり過ごす。
魔物はそのままばさばさと羽ばたいて宙に浮かび上がる。人の身長分ほど飛び上がったところで振り返り、無数の目がシックを捉える。
しゃがんだ状態から地面を蹴って駆け出す。魔物の周りをぐるりと回りこむように走る。
魔物の無数の口が次々に黒い液体を吐き出し、それらは走るシックの背後へとべちゃりべちゃりと落ちて弾ける。
そのうちの一つがシックの正面に落ちる。だが、まるで読んでいたかのように横へ跳ぶとすんでのところでそれを回避。
ひと際大きな羽ばたきと共に、開いた僅かの距離を埋めようと魔物が体ごと突っ込んでくる。
シックは走る方向を転換、突っ込んでくる魔物と交差するように走り抜けながら、魔物の横腹目掛けて剣を振る。
魔物の体重をまともに受けた剣の重さに危うく取り落としそうになりながらも耐えて振りぬく。
魔物の横腹に見事な一本線が刻まれ、そこから赤い血が噴き出した。
「ギギギギギギギィイイイッ!!」
叫びと共に魔物が地面へ落ちる。ずぅうん……っ!と思い地響きが足に伝わってくる。
「ふぅーーっ……。」
長い息を一つ吐く。
戦いは順調である。しかし、危うい綱渡りには違いない。体力を激しく消耗しているし、ひとたびあの巨体に押しつぶされれば命は無い。
それでも持ちこたえなければならない。なんとしても、サンに危険無く魔法を使う時間を与えるのだ。
魔物が立ち上がる。ゆっくりと振り向いて、無数の目でシックを正面に捉える。
その身体にはいくつも傷が刻まれている。血を流す深いものや、表面を斬っただけの浅いもの。しかしそれら全てを集めても致命傷には程遠い。
やはりシックの持つ剣一つではこの魔物を仕留める事は出来ない。改めて、自分の時間稼ぎという役割を強く認識する。
「やれやれ……。サンはそろそろ門に着いた頃かな……?」
大関門の大扉をぴたりと背にする。
遠く、大通りのずっと先では魔物と相対するシックが粒のように見える。
「ふぅー……。」
意識的に息を吐き出し、集中を高める。ここからが、自分の役目だ。
サンが同時に使える魔法は二つ。すなわち、右手と左手だ。
詠唱など特別に集中を要する魔法は一つずつしか使えないが、魔法自体は片手で使用出来る。
しかし、今回は“両手”に魔力を集める。
両手を胸の前でかざし、“雷”の魔力を練って編んでいく。かたちを作る。
そしてその口から、魔なる言葉が紡がれる。
「『双天の龍と星よ……。我の声を聞き届けたまえ。天地裁きしもの。すなわち我が父祖、雷の龍。天地照らせしもの。すなわち我が郷、遍きの星。我こそは龍に赦され、星に愛されしもの――。』」
サンの両の手にそれぞれ魔の光が宿る。右手には雷龍の証、紫の光。左手には星の証、黄の光。
「『――偉大なりし雷の龍は、天地全ての罪過を見つめて最後に初めて眼を開く。そして唱えるは全き裁きの赦しと罰。彼のものは、森羅万象の裁定者である――。』」
右手に宿る紫の光が刺々しく輝きの鋭さを増す。目に焼き付くようなその光は、暗雲を走る稲光に良く似ている。
「『――煌めきなりし遍きの星は、天地全ての陰を照らさんと世界の最初に手を伸ばす。そして唱えるは遍く愛の救済と夢。彼のものは、森羅万象の擁護者である――。』」
左手に宿る黄の光が優し気に輝きの柔らかさを増す。心癒すようなその光は、夜空に昇る月の光に良く似ている。
「『――龍よ、星よ、今ここに触れ合いて我に御力を与えたまえ。我の願いを許したまえ。我の心を見つめたまえ――!』」
両手の光が手の中で混ざり合っていく。紫と黄の折り重なる不可思議な光は、刺々しい鋭さと優し気な柔らかさを併せ持ち、踊るように揺れる。
「『――今!我はここにうたうもの!世界の瞬きと微睡みの間に、我の意思こそ顕現せん!』」
両手の中にある光が太陽の如き輝きを放つ。紫も黄も一つの白に塗りつぶされ、鋭さも柔らかさも無垢なる輝きに消え、ただ眩いばかりの光。
いける。
サンはそう確信した。これならば、翼を奪うだけでは無い。あの魔物の肉体をまるごと崩壊せしめると。
これで準備は整った。後は、魔物が射程に入るまで待つばかり。
――ありがとうございます、シック。どうか無事なまま。
こちらへ向けて真っすぐ飛んでくる魔物をじっと見つめて、もう一度息を吐いた。
魔物は賢い。
それゆえ、大関門を背にしてサンが現れ、それを捉えた瞬間に飛び立とうとした。これまでの戦いで、既にサンに対して最大の警戒を抱いていたからだ。
翼を広げ、三本の足で地面を強く踏みしめ、羽ばたきと共に地面を蹴りだそうとした瞬間、魔物の体が崩れた。
シックの斬撃が魔物の指の一本を斬り落としたのだ。
まさしく足下を掬われたような恰好で魔物が地面に倒れる。その体に、更に斬撃が加えられる。煩わしさと痛みに怒り、その場でばたばたと暴れて振り払おうとする。
魔物は焦っていた。あそこに見える紫と黄の光が何なのかは分からない。知りもしない。
それでも放っておいてはいけないことだけは分かる。一刻も早く潰さなければならない。
「ギギギィイイイイイイイーーッ!!!」
怒りの叫びを上げる。どけ、邪魔だ、消えろ。関わっている暇など無い。あの光を潰さなければ――。
ばたばたと地面で醜くもがき暴れる姿勢から、強引に地面を蹴って飛び立つ。
不器用に醜い翼を羽ばたかせ、魔物は飛ぶ。低空をまっすぐ、まっすぐに大関門の下、サンの場所目掛けて。
紫と黄の光が輝きを増す。
やがて、太陽の如き眩い白光へと至る。それが、“手遅れ”のしるしだと魔物には分からない。
そのまま、まっすぐまっすぐ飛んでいく――。
魔物が凄まじい速度でサンに迫る。最早距離はほとんど無く、走れば簡単に埋まる距離。魔物の飛ぶ速度ならば、もっと短い時間で埋められてしまう距離。
そして、それはすなわち“魔法の射程に入った”ということである。
もしシックが居なかったならば、確実に詠唱は間に合わなかった。後で改めて感謝しなければ。
集中に雑念が入ったせいか、手元の白光が僅かに揺らめく。大魔法の制御は難しい。完成間近のこの瞬間でも、あるいはだからこそ、ほんの少しの要因で崩れてしまう。
慌てずに集中を持ち直し、魔物との距離、発動の瞬間を計る。
射程には入っている。それでも、確実に当たる距離まで。
あと、少し。ほんの、少し――。
――今!
「『“対極天の雷”。』」
太陽の如き白光が収縮する。極小の点となった次の刹那、一条の光が走った。
音は無い。
いや、置き去りにしたのだ。光は、”雷“は、音よりもずっと速いのだから。
瞬きよりも速く、魔物が反応する間も無く、光は魔物の体を捉える。
その極小の時間、極大のエネルギーを浴びた魔物の肉体は一時、物理的な法則として崩壊しなければならない事すら分からず硬直する。
そして――。
轟音がタッセスメイアの谷中に響く。
衝撃波が音となって反響し、永遠のように響き渡る。
魔物の肉体だったものは轟音と共に弾け飛び、黒い肉と毒液を辺りへぶちまけながら地面にべちゃりと落ちた。




