10 サンのささやかなこだわり
巨大な廊下は天井と梁から落とされた埃や塵で酷く汚れてしまっていた。
だが、この程度は掃除魔法使いサンには問題にならない。こびりついていない埃や塵は簡単に”風“の魔法を操り、集められるからだった。
まずは酷く散らばった埃を大まかに集めることから始める。廊下の端から端まで埃をいたずらに舞い上げないよう気を付けながら埃と塵を集めていく。廊下の終わり、謁見の間までたどりつく頃には埃の塊は凄まじい量になっていて、布団でもつくれそうだなどとサンは思考を遊ばせる。
ちなみに、サンにとっては慣れたものだが、埃を舞い上げずに“風”で集めるというのはなかなかに難しい技術だ。単に風をぶつければ埃が酷く舞い上がるばかりで散らかる一方になってしまうので、風の強さと指向性を慎重に操作しつつ、回転させて埃を球状にまとめる。
繊細な魔力操作が問われる難題なのであった。一般的には魔法使いでも箒を使った方が早いのである。
埃を一か所にまとめると、サンは両手の【動作】で雑巾を持ち、長く広い廊下を見やる。
今までの要領では少々時間がかかりすぎるだろうか。――ならば。
サンはさらに両手で二枚ずつの雑巾を【動作】で持ち上げる。
魔力操作の難度は二倍どころではない。二本の手で四本の腕を操るがごとき業にサンは挑む。
しっかりと力を込めて汚れを磨き落とす。四枚の雑巾を操り、サンは壁磨きにかかる。
初めは上手くいかなかった。片手で操る二枚のうちお互いがぶつかる、重なって同じ動きをする、片方の魔法が途切れて落ちる。
だが負けない。
サンは一つの手で二つの【動作】を操るのではなく、二本の指でそれぞれ【動作】の魔法を操るという形を編み出し、二枚の雑巾の乱舞は徐々にその美しさを増していく。廊下の4分の1まで進む頃には、計4枚の雑巾を自在に操る離れ業をモノにしてしまい、これまでの二倍の速度で掃除を進めていく。
だが。
まだ、出来るはずだ。
だって、手には5本の指がついている。
ならば?
本来、5本の指は全くバラバラに操られることを想定されていない。
握る、開く、指を立てる。それらはあくまで指の連携であり、独立して全く別の動きをしているわけでは決してない。
5本の指を完全に独立して操ることの出来る人間がいたとすれば、それは完全に曲芸の類である。
サンは挑む。この難題に燃え上がる心と熱くなる思考で。
宙に計10枚の雑巾が並ぶ。
片手で5枚。指一本につき一枚。
雑巾たちが空を舞って壁に張り付く。
そして、雑巾たちは動き出す。
壁を、磨く。
しかし始めるや否やサンは悟ってしまう。
――難しすぎる、と。
複雑な意匠が柱に掘られ、様々な絵画が飾られる壁である。ただ5枚の雑巾を並べて滑らせるだけならばすぐにでも出来たろう。
だがそうはいかない。壁に柱に、意匠に絵画に合わせて一枚一枚動きを変えなければならない。
雑巾は魔法が途切れてぽろぽろと何度も落ち、宙に浮いたまま動作を止め、お互いに何度もぶつかりあう。力をちゃんと込められず、しっかりと磨くことが出来ない。
――しかし、サンは諦めない。サンの脳裏に完璧なイメージが描かれる。
それは、完璧に調和した動きでもって宙を乱舞する10枚の雑巾。互いが互いの不足を補い、互いが互いを高めあう、雑巾たち。
イメージは加速して、やがて現実へ降り立たんとする。
ぎこちなく、何度もつっかえた。何度も落とした。
だが、徐々に。
雑巾たちの動きが、滑らかになり始める。
イメージが、徐々に、現実へ。
そして――。
結局、サンはマスターしきれなかった。
少しずつ慣れ始めてはいたが、モノにするまえに廊下が終わってしまったのだ。壁だけでなく床も磨き上げてしまい、残る調度品たちは壊れやすいものも多い。不慣れな操作の練習を兼ねるわけにはいかなかった。
次こそは、次こそは。と念じながら調度品を丹念に磨いていくサンの姿は鬼気迫るものがあった。
やがて正面廊下の掃除が終わる頃にはすっかり夕暮れになっていた。黄昏に染まる廊下で一人、サンは磨きあげられた廊下を見通す。
ちなみに、天井からも床からも届かなかった壁の中間部分は諦めざるを得なかった。いずれもっと魔力操作を熟練させ、【動作】の届く範囲を伸ばしていかねばならないだろう。
そんなサンが背後に気配を感じれば、予想通りに贄の王がそこに立っていた。
「これは……掃除、か」
「はい、この大きな廊下は丁度終わらせたところになります」
「確かに、奇麗になっている……。天井まで?なのか?」
「はい。少々苦労しましたが」
贄の王は嘆息すると、呆れたような目でサンを見る。
「……大したものだ。よくやった、と言っておこうか」
「ありがとうございます。しかし、普通のことです。この程度」
そう言いながら、サンは気取るように礼を一つした。
「どう考えても、普通などではないように思える……。一人で、一日で終わらせるようなものではないぞ」
「いいえ。私のような者に出来るのです。極めて普通のことです」
「何というか、お前は普通ということにこだわりでもあるのだろうか?」
「こだわり、というか……。普通である、というのは事実ですから……?」
「とても、そうは思えないがな……。まぁ、いい」
贄の王はサンに背を向けると、謁見の間の扉を開く。
「ご苦労だった。――十分に休むがいい」
それだけ言い残して、贄の王は謁見の間に消えていく。
サンは若干ぽかんとして、主の消えていった扉を見つめていた。
仕事の労苦を労われるなど初めての経験で、どう反応したらよいか分からなかったのだ。
ただ、強いて言えば――。
「悪い気は、しない、ですね……?」
とある主観においては極めて普通だった掃除を終わらせて、サンは部屋に戻る。日が暮れてゆく中食事を作って食べ、入浴を済ませ、後は寝るだけとなったころにはすっかり月が空に昇っていた。
よく見ないと分からない程度に端を欠けさせた月は明るく美しい。サンは窓辺の椅子に座って、ぼーっと月を眺めていた。
命を捨てたはずが、生きていて。身体が『彼女』のものになっていて。伝承の【贄の王】を名乗る男の従者になって。
――世の中は奇妙なもの、といったような格言もあったが、今の自分ほど奇妙さを味わっているものもいないだろう、と思う。
こうして静かにしていると、自然と色々なことが頭を巡る。
慌ただしさに忘れていたものたち――。
それは悲しみ。それは怒り。そして僅かの――喜び。
サンはそっと胸に手を当てる。そして問う。そこにいるの?と。
――あなたは最期のとき、何を思ったの?わたしは……__を感じた――。
サンは取り留めのない感情に心をさらす。その核にあるものは罪悪感だった。
何故、と自分でも疑問に思う一方で、その理由を奥底では知ってもいる気がした。何が、罪なのか。何を、謝りたいのか。
「ごめんなさい……」
小さく、口に出してみる。言い慣れた言葉、聞き慣れた言葉。誰に向けられたのかも分からないまま――。
でも本当は、きっと知っている――。
サンの頬を雫が伝う。
それが何の涙なのか、サンには分からなかった。奥底に揺蕩う『 』だけがきっと、知っている。
“彼女たち”の涙で、月が、滲んでゆく――。
――ありがとう。
何のこと?
――ごめんなさい。
何も謝ることなんてない。
――愛してる。
ええ、私も。
――さようなら。
うん……、さようなら。
さようなら。
サンはベッドで目を覚ます。
「……あれ。いつベッドになんて入ったっけ……?」
サンは記憶を辿ろうとするが、月をぼーっと眺めていたところまでしか思い出せない。
窓辺を見れば、昨夜座っていたままに椅子が置かれている。
寝ぼけたまま、ベッドにだけは入ったのだろうか。サンは気にすることでもないと疑問を捨て去る。
ふかふかと両手と膝をベッドに沈ませつつ這い出せば、東の空から見慣れ始めたおぼろげな日光が差し込んでいた。