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「この世の全ての悪は浮気をすることに由来すると思うの」
長い会話の停滞の末、彼女はそう言い放った。
お好み焼きのカスをへらで端へと追いやりながら、僕は顔を上げて彼女のきっぱりとした表情を見た。察するに、どうやらこれが本日の議題らしい。
「言いたいことはよく分からないけど、なんだか箴言って感じのセリフだね」
お好み焼きのカスを全て端の穴に落としてしまうと、僕は自分の飲み物が無くなりかけていることが気になり始めた。
「佐野くんはどう思う。浮気について」
「まあ、あまり褒められたことではないけど」
僕は考えるような素振りをしながら、店内を見渡し生ビールと枝豆を注文した。会話はもうしばらく続くはずだ。何せおそらく彼女はこの話をするために僕をここに呼んだのだから。
僕たちは大学3回生のときに知り合った。去年の秋頃、木曜2限の「生命科学の倫理的問題」という授業で隣りの席に座って以降、木曜日は毎週学食で昼食を共にしていたのだ。ところが、冬休みが明けると彼女は大学に全く顔を出さなくなった。だから、彼女と会うのはおおよそ1ヶ月ぶりだということになる。連絡が来た時、僕は彼女がテストの範囲を聞きだそうとしているのかと思ったが、違った。彼女は授業の単位取得を諦めたようだった。
「まだもう一年あるんだから別にいいじゃない」
彼女はあまり真面目な学生ではないようだった。
そのため、彼女が僕を食事に誘ったのはテスト対策のような実際的な動機からではない。彼女が僕を誘った動機は僕の持っている情報ではなく、僕自身にあるのかもしれなかった。僕の方もこのまま彼女と会わずじまいになって関係が途絶えてしまうのは惜しいと感じていたのだ。僕は彼女の誘いを素直に嬉しく思った。
しかし、困ったことに店に入って一時間、会話は全く弾まない。いつもの学食では彼女はもっと饒舌なのに、今日は違うみたいだ。彼女は何かを考え込んでるようだった。僕が苦痛を感じはじめたところで、彼女は語り始めた。浮気と悪の関係。どうしてそんな話を僕にするのだろう。
「すごくありきたりなことを言うけどね、君の主張には例外があると思うんだ。たとえば、僕たちが受けてた授業で、動物実験の残虐性についての話があったよね。君の主張が本当なら、ネズミや猿を殺した科学者は浮気をしたってことになるのかな」
「そうよ」
なるほど、ネズミに飽きた科学者はコウモリと一夜を過ごしたのかもしれない。
「でもそうなると、罪を犯す以前の科学者はネズミと愛し合っていたってことになるんじゃないかな。だとすると科学者はかなり変わった性癖を持っていたことになるよ」
「それは違うわ。科学者はネズミを裏切ったんじゃないの。科学者は彼の恋人を裏切ったのよ」
依然として彼女の主張は理解できなかったが、ひとつ分かったことはがあった。たぶん彼女のいう浮気は普通の意味での浮気ではないんだろう。彼女は形而上学的な概念として浮気という語を使っているのだ。あるいは、少なくともそういうフリをしているのだ。
「ひょっとしたら君が言いたい浮気ってさ、神に対する裏切りみたいなものなんじゃないかな。浮気はダメだよっていうのは、他の神を信じちゃダメだよっていうのとけっこう似てると思うんだけど」
彼女は口に手をやって少し考えた。何か思うことがあったのだろう。
「佐野くんが言ってることは結構近いと思うけど、神は関係ないのよね。浮気は浮気なの、文字通りの意味で。つまり私が言いたいのはね、誰かひとりを愛し続けるひとは、ぜったいに悪を為さないってことなのよ。何があっても。問題はね、ひとが一人の人間を愛しつづけるのは凄く難しいってことなの」