太陽は掌中に抱けず
二十一世紀に入ってから二十年ほど経ったころ、新冷戦がやって来た。悪いことばかりではなかった。先端技術の開発競争で、人類はいくつかの成果を手にする。その一つが、完全なミサイル迎撃システム。すべての核搭載能力を持つ飛翔体は監視され、あらゆる核弾頭は確実に迎撃される。新冷戦がはじまって二十年後、人類は人工の太陽を完全に掌握することに成功し、新たな均衡の下での平和を手にすることになる。それが、五十歳を回った私の生きる世界だった。
「この声明で我々はついに完全なミサイル防衛システムを手にし、核戦争の脅威は過去のものとなったことを……次はカリフ国とイラン、二国間の対立についてです。前時代的な核ミサイルを突きつけ合う二国の対立は激化し……先進国は完璧な迎撃網によって守られていますが……専門家によれば、二国の核戦争によるフォールアウトおよび核の冬の脅威は……」
「やってみなければわからないんだよ」
日の光の差し込む病室。真っ白なベッドに腰掛ける母の顔はしわだらけで弱弱しくどす黒かったが、眼だけは決意の光を放っていた。
「しかし母さん、シミュレーションではよくない結果が出ている。手術はよした方がいい」
私はその時三十歳で、まだ自分には他人の確固たる意思を変更させることができるという幻想を持っていた。それはとりわけ頑固だった母にはいっそう当てはまらない幻想だった。
「やってみるさ」
「母さん、シミュレーションが……」
「シミュレーションは所詮シミュレーションだろう? 現実とは違う。やってみなければわからないことなんてこの世にはいくらでもあるのさ」
私は何度も母を止めた。言葉を尽くした。涙も使った。しかしその甲斐はなかった。そして母は、死んだ。成功率一割の手術に臨んで。私は自分を責めたものだ。止められたはずだったのに、と。シミュレーションの妥当性さえ納得させられれば、もっと長生きさせてあげられたのに、と。
何十年も時折見る同じ夢に苦しめられてきたのだ。私はこんなことで毎日の業務に支障を来したりしない。
もう中年となって久しくなった頃、私はこの頃アントレプレナーに人気の事業を始めた。それは二〇四〇年代の情報氾濫時代において必要不可欠な仕事、スコッピングだ。日々アップロードされる膨大と言う言葉でも足りない大量のデータを精査し、他者が言及するに足り得るコンテンツを探し出す。AIの支援の下、大手から零細まで沢山のスコッパーたちが金に換えられる何かを求めてデータの山と戦っているわけだ。無料だが埋もれている、対価を払うに値するコンテンツ——発表時には目を向けられなかったが今なら有用な研究論文、将来性のあるビジネスアイディア、正当に評価される機会に恵まれなかった娯楽作品——を探し出す真っ当な仕事もある。上げられた動画の中から肖像権を侵害しているものを目ざとく見つけ出し、被害者に訴訟を持ちかけるドブネズミのような仕事もある。我々の場合は清らかな本流から外れた汚水処理の方だ。だがまだ洒落が効いている。我々の商品は「陰謀論」。日々ささやかれる大量の陰謀論の中からまだまともに情報ソースを辿ることが可能な言説を見つけ出す。そしてスマートコントラクトを介して貸与された計算資源を使ってシミュレーションし、どれだけそれに妥当性があるかを独自のノウハウでシミュレーションし、検証するのだ。その検証結果こそが我々の商品。陰謀論好事家たちの出資した資金を対価にパブリックスペースに公開されるのだ。
私たちチーム三人は今日も目黒のオフィスで日々の流れの淀む場所、情報の山にスコップを突き立てていた。
「社長、今日はやっぱり核兵器と迎撃技術関連が多いですね」
「やはり例のニュースがみんなの想像力を喚起したようだな。サリ、これから四十八時間はそのニュース関連の言説だけを拾ってくれ」
私を社長と呼んだのはサリ。優秀な女だ。私の会社ではメインの情報鉱員、スコッパーを務めている。私が最も買っているのがその当て勘で、どんなゴミの山の中からも価値あるものを掘り出してくれるのだ。。
「じゃあ自分は他のあまりものをまとめればいいんですね、いやあ楽しい仕事だ」
タイチ。こいつもできる男だ。スコッパーとしてはサリの勘に及ばないことがあるが、勘で動くサリだけでなく、堅実に理詰めで動いてくれる人間も必要だ。そして彼らを統括する立場の私、この三人で我が社は構成されている。
オフィス内を歩き回って二人に指示を出していた私は自分の机に戻ってパソコン仕事に戻る。統計をチェックする。陰謀論——想像力たくましい連中のつぶやきをAIが分類し、分析したものだ。ほとんどは役に立たない妄想。だがそんな中でも本当にか細い情報リソースを拾い集めて一つの論を構成しているものがある。もちろん反論も無数に考えられる粗雑さが見て取れるが、正確に判断するにははシミュレーションが必要だ。だがいちいち一つ一つをシミュレーションにかけていては予算と時間がいくらあっても足りないので、厳選するわけだ。陰謀論の傾向を示したグラフを一瞥した私はいつもと違った偏りに驚く。
「本当に米中露の声明に関するものが多いな」
それは朝のニュースだった。前世紀に落ち着いた核軍拡競争は新冷戦に入ってミサイル防衛技術競争となり、多数の成果を産み出していった。弾道弾に対し運動エネルギーでもって迎撃する通常弾頭の弾道弾迎撃ミサイルや、古式ゆかしい核弾頭搭載の迎撃ミサイル。哨戒飛行する航空機や飛行船や衛星からのレーザー、地上からのレールガンなどが記憶に新しい。
それらのミサイル防衛技術競争が何を生み出したかと言えば、全世界を覆う鉄壁の要塞のごときミサイル迎撃網である。かつてABM制限条約締結時の米ソが危惧したような、迎撃能力向上による均衡の崩壊は起きず、人類は緩やかに、全面核戦争による文明消滅の危機から解放されたのだった。そしてそんな状況が生み出した最大の成果が今回の米中露共同声明である。
「我々はついに全面核戦争の危機から解放されたのです。もはやこの地球上のどこから発射されたミサイルもそれが米中露とその同盟国を目標とする限り撃ち落とされるのです。例外や失敗はあり得ません」
要約するとこうだ。つまりはこの世界は核保有国同士の核抑止という危うい均衡から解放され、かりそめだった平和が真に実現した時代に入ったということだ。通常戦力による戦争の可能性の極大化という危惧はあるにせよ、大規模破局よりはマシではないか、というのが大勢の意見だったらしい。少なくとも核兵器競争という分野での新冷戦はここに終結したと言えよう。ネットの意見を見てみよう。大別するとこうだ。
一、核兵器の脅威からの解放を素直に喜ぶ意見。少数派だ。二、通常戦力による世界大戦の発生を危惧する意見。裏を読みたがる彼らのほとんどがこれだ。三、三大国には何か隠された意図があるというもの。これが陰謀論。我々の検証対象となる。
「すごいですね。今回の氾濫ぶりは。歴史が変わった瞬間に立ち会った人間っていうのはみんなこうなんでしょうか」
モニターの向こうからサリが話しかけてくる。
「ああ、9.11の時もすごかったさ。あの時少年ながらに陰謀論にはまったが、今の歳になって仕事にするとは思わなかったよ」
確かにものすごい量の、陰謀に言及する言説が出ている。米中露三大国及びその同盟国(我らが日本を含む)による核と迎撃技術の独占による世界支配の野望。次なる世界大戦の布石。お馴染みの「宇宙人による人類支配の前段階」。まあ自分ですら予想できる顔ぶれだ。今日のうちはめざましいアイディアを語る言説は見つかりそうにない。やはり大ニュース当日に光るものを発見するのは無理か。私は二人が作業を終えた後、AIがリアルタイムでピックアップしてくる代り映えのしない妄想の羅列を眺め、いい加減にして帰路に就いた。
アパートに帰る。私は独身だ。同じ世代には珍しくない。結婚にそれほど注力しなくなった特異な世代……。私の後の連中は焦った政府が打ち出した「国策お見合い」とも言うべき制度でどんどん結婚していった。我々はいわばはぐれ者の世代と言うわけだ。孤独な生活を送る哀れな世代。だがこの生活に不満や寂しさを感じないのも事実だ。散らかった部屋をかき分け敷いたままの布団に倒れ込む。タブレットを撫でて昼間の続き。相変わらず暇人たちは妄想を作り出すことに余念がない。妄想扱いしているが、私ももちろんそんな妄想に取りつかれた連中の一員だ。私なりの考えを関連するトピックを扱う掲示板に書き込む。古めかしいテキストオンリーの掲示板は我々の世代に人気だから、しぶとく生き残っている。
『今回のニュース、世界大戦の予兆とか言われてるけど、個人的にはそうじゃない、隠された意図があると思うんだがどうかな?』
仕事中に色々と考えた結果のまとめを書き込んでいく。
『陰謀論来たか』
『またそれか』
『どうせ妄想だろ』
反応が来る。お前らのそれだって妄想じゃないか。昼間からお前らの掲示板を見ていたが、ちゃんとしたソースをつけて語っていた人間は皆無だぞ。海外のフォーラムを少しは見習え。そんなことを想いながら海外発の情報に自分なりの解釈をつけた考えを述べる。
『核兵器と迎撃技術による新たな均衡、そこに何かの前段階のようなモノを感じるんだが』
海外では主流になっている考え方からの気づきだ。一般的にはここから通常戦力による大戦の可能性へと論が進んでいくわけだが、私は焦らなかった。もっと何かがあるんじゃないかと。核兵器と迎撃技術の独占、第三世界への絶対的支配力。
『だからそれが通常戦力大戦への布石だって言うんだろ?』
『ほかの陰謀論言い出すんだろ。奇をてらってるだけ。無視無視』
私はイライラしながらタブレットの画面を消す。所詮国内の掲示板なんてこんなレベルか。あいつらは海外ソースすらろくに読めないのだ。だが気を取り直してもう少しだけネットを覗いてみることにする。眠くなるまではこうするのがもはや習慣なのだ。今度は海外の掲示板の書き込みに目を通していく。ふと、自分の考えに沿っている書き込みをしているIDが見つかった。案の定、他の連中からは冷淡な対応をされているが、私はそのIDの書き込みを精査する。英語のその書き込み曰く、
『カリフ国とイランの核開発競争と今回の声明には直接触れられていないにせよ何らかの関係があるかもしれない』
私は天啓を得た思いで、その考えを検討し、睡眠時間を削った。
「サリ、引き続き昨日のニュースにかかわる言説を探してくれ。タイチ、カリフ国とイランに関するニュースは?」
タイチは意外そうだった。
「え? 社長、それって今必要ですか? 確かに核兵器開発という文脈では無関係とはいえないでしょうがこの二者関連の言説はほとんどありませんよ?」
「ほとんどない、か」
一般に言って、陰謀論にはブームがある。宇宙人や影の政府などと言ったお馴染みはいつもそれなりの人気があるが、現実世界にある程度立脚した陰謀論的言説はほぼその時その時のブームが大きく影響している。何か大きな事件が起これば雨後の筍の様にぽんぽんぽんと陰謀うごめく世界の見方が生まれ出てくる。だいたいそういう言説の寿命は数年と言ったものだが、9.11のように大きな事件の場合はほとんど永続的に生き延び続けることもある。そしてそれらは論の生成原因の大部分をマスコミの報道傾向に依拠しているのだ。マスコミによる情報統制を警戒していながらマスコミによって作られる情報の流れに沿ってしか陰謀を見出すことができない、陰謀論の大いなる矛盾だった。
「なぜ少ないと思う?」
私はタイチの椅子に手をかけ、彼のコンソールを覗き込みながら訊いてみる。そこには日常のささいな事件にまつわる影の思惑なんてものが羅列されていた。確かにカリフ国とイランの文字はほとんど見当たらない。
「飽きられてますからねえ。今この二国にわざわざ入って行く物好きなジャーナリストは少ないですよ。そして彼ら以外からのルートで情報は入手できない。共有ネットワークから隔絶されたイランの情報は入って来ないし、カリフ国は核開発以外のもろもろが遅れ過ぎてて情報インフラが整ってない」
新聞社の大規模縮小でジャーナリストたちはほとんどがフリー化した。零細メディアたちの協会が金を出し合ってそういったフリーのジャーナリストに取材費用を出し、情報を取ってこさせる。今はそのような形態のマスコミが主流だ。必然、人気のない分野の報道には金がろくに集まらず、そこからもたらされるニュースのフォロワーも少ない。つまり、人気のない分野のニュースは最初からそれを追っている人間以外「誰も知らない」状態になってしまう。陰謀論から見向きもされなくなるのは当然だった。私はタイチがほとんど情報を集められていないのを見て取ると席に戻ってどっかと椅子に座る。
「カリフ国とイランか」
二十年前の、アラブの春の深化と収束、ISの残した文化的成功例。それでもって成立した、イラク北部に居を構える宗教国家、カリフ国。カリフを精神的支柱としてまとまるイスラム原理主義国家は、数ある有形無形の妨害を撥ね除け、自主独立をアラブ世界に打ち立てた。
対して、イラン。イランの核保有は、どちらかと言えば北朝鮮的な「核の恫喝」をもって世界の鼻つまみ者となる、巨大な「ならず者国家」を生み出した。もっとも、それは彼らなりの生存戦略だったわけだが。
二千二十年代後半に興ったこれらの勢力は互いに対立し、核開発競争のさなかにあった。無論、先進諸国、とりわけ米中露三大国はこの動きに神経をとがらせてきた。弾道ミサイル防衛システムの性急な構築も、この二国の動きがあったからと言われている。もっとも、ブーストフェイズで大量のデコイを放出する技術すら持たないこの二国の弾道弾など、恐るるに足らなかったのだが。二千二十年代の技術ですら完封することが容易だった。ここ十年、確かに核兵器技術は二国間の間で熾烈な競争の末、それなりのレベルには達している。しかしそれは二国間の間では、だ。三大国の公式見解では、その技術は二十世紀の第一次冷戦レベルとのことだ。それは本当なのだろう。爛熟しきった三大国の核迎撃システムの前には、我々に向けて核を発射することは一方的な報復攻撃にさらされることを意味する。自殺行為だ。ゆえにそれほど脅威ではない。だからこそ、専門で追っている以外のほとんどの報道関係者からは無視されてきた。今世紀初頭、インドパキスタンの核開発競争が世界的にほとんど存在感のない事象だったように。私はタイチに訊ねる。
「今回の声明とカリフ国とイランについて関連づけて言及している陰謀論は見つかったか?」
「ええ、一件だけっすね」
「一件だけ?」
私は驚いて彼の方に体を向ける。
「そう、一件だけなんです。陰謀論という形で言及しているのは。珍しいですね」
昨日私が見つけた一件だけ? それはそれで不自然な事なのだ。普通、陰謀論的気づきはオリジナルなモノであっても個性的なモノではない。全世界で同時に百人は同じことを考える者がいるのだ。なぜなら陰謀論とは単純なもので、表に出て来た情報の単なる裏返しか、登場人物の裏での結託か、さもなければさらに裏にいる何者かの存在という、型通りのストーリーに当てはめて作られるのが普通だからだ。型通りにしか作られないなら誰が作っても似たり寄ったりになる。陰謀論とはそういうものだ。だからこそ、似たものが存在しない孤独な陰謀論などそうそうあるものではない。今回のこの一件だけの陰謀論というのはは宝石に例えられるべき発見だ。私は本当に素晴らしいものを見つけた気になった。
「整理しよう」
私たち三人は非常に面白い種を見つけた時にいつもそうするように、三人ひざを突き合わせて議論の準備に入った。タイチの淹れた不味いコーヒーの入ったマグカップを片手に私は概論を述べる。
「つまりだ、この言説、こいつは今回の声明と例の二国を結び付けて考えているわけだ。ほかには誰もそんなことは考えてもいないのに」
「独創的ですね」
サリは興味深々な様子だ。興奮しないわけがない。珍しい事態なのだ。
「得難いよ、独創性。この仕事をし初めてまだ三年だがなかなかお目にかかったことはないよな? たった一件しか存在しない陰謀論なんて」
「ないっす」
タイチの方はあまり関心がないらしい。情報のゴミ処理をし過ぎたせいで無感動になっているのかもしれない。
「社長、本当にこれはそんなに価値ありますか? 俺にはどうしてもそうは思えないんですけけど」
議論を台無しにするようなことでも忌憚なく言えるのがこの男のいいところだ。認識を最初から整理しなおし、言語化するのに役立つ。私はすぐにその作業に入る。
「説明しよう。なぜ私がこの言説に光るものを感じたかを」
サリが身を乗り出す。真剣な表情。口を差し挟む。
「一時期流行りましたよね? カリフ国が陰謀で出来上がったって話と、イランの核保有もまた陰謀だって話」
「それだ」
私は言いたいことを先取りしてくれたサリに感謝の念を抱く。こういうところがあるからずっと部下に持っていたくなるのだ。タイチの方はこれがないが、得意不得意と言うことで納得している。私は熱が入ってきて、立ち上がり、歩き回りながら話し始める。
「米国がアラブの春を起こし、その後にカリフ国を作り上げたのだという陰謀論が存在する。9.11から続く一連の中東への介入がこの文脈に属するという意見すらある。イランについては、それまで散々核保有に関して圧力を受け続けてきたのに、二千二十年代に入ってからの早々とした保有にも疑問が投げかけられている。そしてここに今回の声明への関わりが示された。カリフ国ができたのも、イランの核保有も、核兵器が完全に管理される時代になったのも、一つの線でつながる一つの陰謀の結果なのかもしれない」
「きわめて陰謀論的な思考形態ですね。毒されましたか? 社長。陰謀論という仮定の論に仮定の論を積み重ねるのは彼らに特有の悪癖ですよ」
確かに言うとおりだが、時には思考を飛躍させることも必要なのだ。もはや話を真面目に聞くのはサリだけだ。
「もしそうなら」
椅子から身を乗り出し、膝に肘を突き、マグカップを両手で握って話す。本気で考えながらしゃべる時の彼女の癖だ。
「米中露は何が目的なんでしょう? 今世紀初頭、三大国は中東の国々が核兵器を保有することを必死で抑止してきました。幾度となく繰り返された戦争や、飴と鞭を使い分ける政策などで。それが急に手綱を放すようにカリフ国とイランの核保有にタッチしなくなった。二十年前のことです。その時は小学校にも上がっていなかったのでわかりませんでしたが、後で考えてみると確かに違和感を抱いたものです。事態の進展が簡単すぎると」
「私も当時違和感を抱いたさ。そしてイラン・カリフ国の現状は米中露の合議によって成立させられた、と考えたくなった」
「この仕事のせいで頭が陰謀論気質になった人間がまた一人」
タイチは気にくわないらしい。
「だっておかしいじゃないですか」
サリが再び口を開く。
「それまで動乱の気配さえ見せなかった中東が急に沸き起こったアラブの春で世俗君主を追い出し、その後のISの混乱を経てカリフ文化が再興。カリフ国が国際的承認を消極的ながら受けて成立……。そしてカリフ国が核保有する気配を見せた瞬間、今度はイランがいきなり核保有。誰かが書いた設計図通りです、まるで。不可思議な力が働いたとしか思えない」
しゃべり終えたサリはマグカップを傾けてコーヒーを一口含んだ。酷い味に顔をしかめたのがわかった。私は今一度論を整理する。
「一つ、アラブの春から続くカリフ国の成立のおぜん立ては米中露三大国の陰謀である。二つ、イランの核保有もまた同様の力学が働いており、陰謀である。三つ、で、あるなら当然現在のカリフ国・イラン二国間の核を突き付け合う対立もまた陰謀の内である。四つ、今回の完璧な弾道弾迎撃技術により到来した平和と以下に述べた陰謀とは何らかのかかわりがある」
「そんな感じですね」
「陰謀に陰謀を重ねる思考、尊敬しますよ。ああ、こういうのはどうでしょう。全部宇宙人か、『陰の政府』が描いた絵図なんだ」
不貞寝するように椅子に身を沈みこませたタイチが天井を向きながら言う。
「背後に立つ誰が最終的主体となっているかは置いておくとして」
私は話を続ける。
「何らかの方向性を持った力学が存在する、と仮定したときに一つのストーリーが出来上がりそうなんだ。歴史や世界が単一の物語で動いているというのも陰謀論に特有な、妄想の一つなんだろう。しかし何か重大なものが隠されている気になるのも確かだ」
あと少しでこの世界の謎がわかる、自分は今その扉に手をかけているんだ。私は本気だった。
「それらを繋ぐ何かが必要なんですね」
サリが考え込む仕草を見せる。
「やはり核兵器は外せないファクターなんじゃないでしょうか。三大国とイラン・カリフ国を繋ぐのはその点です」
私は同意する。
「そうだな。こう見てみないか? イラン・カリフ国は対立する二つの勢力ではなく、同じ技術レベルに立つ仲間なんだと」
「それはつまり?」
「こと、核技術と言う観点だけから見れば、米中露とイラン・カリフ国の間には大きな開きがある。真の対立はここにこそある。完璧な迎撃技術と核投射能力を持つ三大国、大量先制攻撃・大量報復の技術こそあれ前世紀レベルの投射・迎撃技術しか持たないイラン・カリフ国」
サリは背もたれに身を沈めてうーんとうなる。
「なるほど。この問題を『対立する二国と傍観者である三大国』と見るのではなく、核技術ギャップを抱える二勢力の対立と見るのですね」
「そう。そこに答えがあると思うんだ」
「世界の謎を解き明かすカギですか? そいつぁすげえや」
いい加減うっとうしいが、この場にいる全員が陰謀論にかまけるよりかはこういう引いた見方の人間がいる方が何倍もマシなので我慢する。
しかし、そう、カギだ。カギが見つからない。真実の扉を開けるカギが。そこから論がつながっていかない。一体何が目的で三大国は二国の対立構造を用意したのか。核兵器などという危ないものを拡大させることまで放置して……。
「サリ、現在の三大国の短距離・中距離・大陸間弾道弾および潜水艦発射式弾道弾の迎撃能力はどの程度確実なんだ?」
「百パーセント。撃ち漏らしは絶対にありえない、と言われるレベルです」
サリはコンソールの方に向き直って情報にアクセスし始める。
「迎撃態勢は何重にも冗長性が持たせられているわけですね。ブーストフェイズにおける航空機および亜宇宙艦照射式レーザーによる直接対処や反射衛星を経由した対処。ミッドコースフェイズにおいては哨戒艦や地上や宇宙からの迎撃ミサイル、レールガンによって九割九分が対処可能。万が一ターミナルフェイズになるまで迎撃できなくても各都市に常設されている個別迎撃システムが完璧に機能するから大丈夫ってわけです」
「これが三十年かけた成果か」
「二〇一〇年代にはなかったんでしだっけ?」
「ここまで意識が高まるだなんて想像もしていなかった。新冷戦のせいだな」
私が二十代半ばの頃——二千十年代を自分の生まれる前の出来事とする彼女にはピンとこないらしい。私だって旧冷戦の話をされても歴史知識でしかわからないのだし、そんなものだろう。
「でも新冷戦ももう終わりじゃないすか。ついこないだの声明で」
タイチも少しは話が気になり始めたらしい。
「そうだ。迎撃能力の爛熟をもって核兵器は無意味と化した。どうしてここまでスムーズに事が進んだと思う?」
タイチは両手を広げて、
「陰謀があったから! 密約があったから! まさか本気でそんなこと……」
「本気だ」
私の言葉に彼は心底驚いたようだった。
「まさかそんな」
「あり得なくはないの」
私とタイチはサリの方を見る。
「今世紀初頭のアメリカの核迎撃能力向上にあれほど反発していたロシア。ABM制限条約に見られるとおり、迎撃能力の向上は核の均衡を崩すはずの危険な行為だったわけ。でもそのはずが、この三十年で急速に三大国が技術をそろえてしまった。まるですべての技術を共有していたかのように」
サリを除く二人はじっと話に聞き入る。話は核心に迫ってきた。
「この声明を出すことになった背景。三大国の核及びその迎撃技術の均衡は秘密裏の合議によって出来上がったと考えて差し支えないかもしれない」
「そんなこと可能なのか? 三大国の指導層だっていくらでも変わる、統一された意思の下、そんなプロジェクトを運ぶなんて」
と、タイチが言うが、サリは頭を振る。
「前世紀でもあったこと。あの米ソの均衡は密約がないととても安全には達成できないんじゃないかな」
「それは仮定だ」
タイチはなおも食い下がる。私は口を出す。
「まあまあ、そこらへんにして」
二人の視線を集めた後、私は話をまとめる。
「つまり、こういうわけだ。現在の三大国の状態もまた陰謀によるものだと。そうだろう?」
サリは黙って頷く。タイチはついていけないということを肩をすくめる身振りでもって表明する。
「あれも陰謀、これも陰謀、お次はなんだ? すべての陰謀は繋がってるとでも言いだしたいのか?」
まさしくそういうことだ。私とサリは顔を見合わせてお互いの考えを確認する。私が言語化する。
「カリフ国の誕生。そしてイランとの、三大国にとって管理可能な核対立。三大国の構築した平和。これを一本の線でつなげたい」
少しの間の沈黙。しかしサリがそれを破る。
「やはり、デモンストレーションなのではないでしょうか」
残る二人が彼女の顔に視線を遣る。
「三大国はミサイル迎撃システムを使ってイラン・カリフ国間の核戦争を実力をもって阻止しようとしているんですよ。どちらか、あるいは両者が弾道弾を打ち上げる、バーン、おしまい。平和は脅かされない。迎撃網の宣伝にもなるし、筋は通っていると思います」
「ああ、そうだ」
タイチが素っ頓狂な声を上げる。
「確かにそうかもしれない。正義の味方だよ。三大国は二国間の核戦争を寸でのところで止めようってんだ。それ、当たってるんじゃないの?」
サリが答える。
「当たってるかどうかなんて私たちにわかるわけないでしょ。私たちにできるのはそれが陰謀論としてどれだけ妥当かってことだけ。この内容でシミュレーションにかけてもいい」
「サリ、それは可能なのか? つまり、二国間の核戦争を既存のミサイル防衛網で阻止するなんてことが」
即、答えが返ってくる。
「理論的には可能。中東を取り囲むように防衛網が構築されているから。この地域から外に向けて投射される投射体はおろか、内部から内部への投射も対処可能」
「なるほど。ではそのシナリオでシミュレーションにかけてみるとしよう」
筋は通っている。しかし何か引っかかる。確かに現状を有効活用するにはそれだけのことをすれば十分だろう。だが今世紀初頭からの陰謀の結末として適当かと言うとそうでもない。わざわざその程度の目的のために四十年かけてこの状況を用意なんかしないだろうということだ。二千二十年代のシェール革命と太陽光革命により全世界のエネルギー需要が石油に依存しなくなって久しいが、依然地政学的に中東は重要だし、わざわざミサイル防衛網の実証のためだけにその地域を支配する勢力の伸長を野放しにするとは思えなかった。
その時、各人のスマホ——この時代、金銭授受を含めたほとんどの個人情報のやりとりはこれ一台で管理されているから、スマートフォンだなんて時代遅れの名前は適当ではないのだが、名前だけが残った——が鳴った。みな、重大なニュースが入った時には鳴るように設定しているのだ。三人とも一斉に自分のスマホに目を落とす。ヘッドラインにはこうあった。「カリフ国、イラン、核戦争間近か」。
急いで陰謀論を拾い上げるのに特化するよう調教の施されたAIを起動するサリ。しかし案の定、我々のようなストーリーを作り上げようとしている言説は見当たらなかった。あっても今回の二国間の緊張が三大国の陰謀かと論ずるものばかりで、二国の存在そのものや三大国の均衡に着いて陰謀論の手を伸ばすものはあれ一件だけだった。
「ま、予想通りなら二国間の核戦争は三大国にえいやっと子供の喧嘩みたいに止められて終わりだね」
「そうだね」
と、サリ。言葉の上では肯定的だが彼女の本心はわかっている。まだ謎があるように感じている。私も同じ気持ちだ。私は指示を出す。
「まだ想定が不十分かもしれないが、今の予想をシミュレーションにかけて妥当性を検証してみよう。サリ、計算用の因数をなるだけピックアップしてくれ」
サリが頷く。しかしタイチは、
「まったく、俺たちの生活には1ミリも関係ないのによく本腰いれられるよ」
サリはタイチの方に椅子を回すと目を剥く。
「確かに、想定されるシナリオ通りなら核攻撃は三大国に迎撃されて終わり。だけどそうじゃないかもしれないじゃない。二国合わせて一億の人がいて、その何割かがもうすぐ死んじゃうかも知れないんだよ? よく平気でいられるね」
本当に信じられない、という顔だ。対するタイチは肩をすくめて、「たとえそうなっても俺には関係ない」と言う顔をする。だが私はそれに注意を入れる。
「関係ない、と言うことはないぞ? 二国間の核戦争が実際に大規模に起こったとするなら我々にとっても実際的な脅威となる可能性があるんだ」
こちらに意外そうな顔を向ける二人。
「フォールアウトと核の冬だ」
私の言葉にタイチが反論する。
「しかし社長、二国間の核戦争では規模が小さすぎます、両国の間で核戦争が勃発しても想定される塵の舞上がりは核の冬をもたらすほどでは……」
「二〇一〇年代、インド・パキスタンを例に挙げ、両国間合計五十発程度の規模の核戦争でも世界的な核の冬は訪れると試算されている」
「そのシナリオ、シミュレーションに入れてみますね」
やがて仕事を終えたようだ。
「社長、やはり我々が到達したストーリーはある程度の実現性を持つシナリオとして想定可能です」
「やはり三大国はカリフ国とイラン間の核を投げつけ合う喧嘩を実際に起こかけてから止めようとしている、で、間違いないのかな」
サリもタイチも頷く。わたしはふと、
「まるでミサイル防衛システムのケージの中に件の二国を捕えて実験観察しているようだな」
ぼそりとつぶやく。何故かわからないがサリはそれに反応したようだ。
「今なんて言いました?」
「今?」
「ケージって言いましたよね?」
私は無意識に呟いたその言葉を反芻してみる。
「ああ、カリフ国とパンアフリカ連合は三大国のミサイル防衛網に囲まれた実験ケージの様なものだと……」
「それだ!」
サリは何かにとりつかれたように簡易シミュレーションを始める。借り受けた計算資源を使用しない検証方法だ。
「そう、実験」
そのうちに確信したように口を開く。
「これは今世紀初めから周到に準備された実験なんだ。この考え方には妥当性がある」
タイチが何のことだ? と訊ねる。
「カリフ国とイランの対立、核兵器を突き付け合う状況、全部仕組まれたものなんだよ。三大国はこれを使って何かを実験しようとしてるの」
「そんな大規模な実験? あるはずない」
「そんなことないよ」
サリは反論する。
「ソ連だって実験みたいなものだったんだよ? どうしてカリフ国やイランがそうじゃないと言えるのさ」
タイチは首をかしげながら、その実験を使って何を検証しようとしているのか、と訊いた。
「そのためにはシナリオを組まなきゃ。それをシミュレーションするのに必要な計算資源の量も試算しなきゃならないし」
私はできるのか、と訊く。やってみます、との答えが返ってきた。そして彼女はこう続けるのだ。
「国家がその国営の研究機関からほとんどの計算資源を手放してかなり経つのは知ってますよね。国家だけでは十全なシミュレーションができない。代わりにそれを手にしたのは計算資源貸与業者。そしてそれらの計算能力をブラックバジェットのみを使ってかき集めても『実験』の結果をシミュレーションするには不十分だと判断したんでしょう。だから実際に現実世界で『実験』してみることが必要なんです」
——人間は必要とするものだ。シミュレーションでは足りない、実際に起こった結果を。母の言葉を思い出す。だからこそ実験が必要なのだ。
彼らはそう考えたに違いない。四十年以上前、現代の世界を思い描いた陰謀の主体者たちは。シミュレーションだけでは望む結果が得られないと判断し、実際の実験場を作り上げることを決めたのだ。ここまでしてその結果を欲しがるとは。
極大のリスクとして君臨し続ける核兵器の使用。その危険性が極大のままであり続けるのは誰も核兵器を使った後の未来を見たことがないからだ。「死んだらどうなるかがわからない」というリスクを検証するために「実際に死んでみて調べる」事ができないのと同じように、核戦争は自分達で実際に検証してみることはできない。核兵器を含む大量破壊は極大のリスクであるから。リスクを恐れて何もできなくなるのはおろかなことだが、どれほど大きくなるかわからない不明なリスクを背負い込むこともまたおろかであるのだ。
だからこそ三大国はその陥穽から逃れるためにこの実験を思いついたのだ。ミサイル防衛ネットワークによって三大国と同盟国は実験モデル自身のリスクからシャットアウトされる。こうすることで人類は安全に核兵器使用のリスクの真実を理解できる。——二国の千万の人民を犠牲にして。フォールアウトの拡散と核の冬というリスクもカリフ国とイラン程度の規模ならおそらくぎりぎり許容できる範囲と判断しているのかもしれない。
「核への恐怖か」
私はぼそりとつぶやく。
「その克服のために数千万の人間を犠牲にする計画を数十年かけて現実化するとは。彼らは核戦争を防ぐことが目的なのではなく、自分たちは安全なケージの向こう側にいたまま実際に核戦争を起こしてそのリスクを検証したいのだ」
「最高のストーリーですね」
タイチはまだこれが「ありそうなもの」としては考えていないようだ。私はどうだろう? 今は筋の通って見える陰謀論に思い至った興奮からそれが真実だと半ば信じてはいるが、実際どうだろうか。
「こんなことってないですよ」
サリが心底信じられないという顔で吐き捨てる。少なくとも彼女はこの陰謀論の現実性を信じ切っているか、信じ切る気分が支配的らしい。
「まだ現実化もしていないリスクのためにそんなたくさんの人間を犠牲にするだなんて。いくらシミュレーションでは満足いかないからって」
「負荷テストと言ったところかな。行きつくところまで行きつかないと実験の意味がないということだ。そしてこれが成功すれば三大国は全面核戦争へのエスカレーションというリスクを完全に押さえたうえで限定核戦争を制御しつつ執り行うことができるようになるだろう。核兵器はもう使用即世界滅亡への引き金というわけじゃなくなるんだ」
サリは興奮で震えながら、
「国際世論はどうなるんですか? 実験のために核戦争を傍観して撃ち落とせるはずのものを撃ち落とせなかったら三大国は非難を浴びるでしょう?」
「思い出してくれ、サリ。今回の声明で表明されたのは三大国とその同盟国の平和だ。それ以外の国同士が何をしようと止める義理はない。道義的責任という名のバカ騒ぎの原因は出来ても致命的な非難にはならないさ。誰も、自分以外の人間の殺し合いに本気で首を突っ込みたくはないからね。精々、核戦争後の復興支援で自らの欺瞞に満ちた道徳心を満足させるだろうさ」
優しい彼女は残酷な言葉を聞くと顔を覆った。タイチが新しいコーヒーを入れてきて彼女のデスクに置く。それを啜ると、サリは正直にまずい、と言った。
「二国間の核の撃ち合いを止められなければミサイル防衛網の信頼が揺らぐんじゃないのですか? 三大国はそれを恐れて止めるはずだ」
サリを慰める目的らしい、タイチが一つの解釈を提示する。私は首を横に振る。
「いいや、タイチ。それで揺らぐのは『何の力もない民衆の心』だ。三大国の陰謀主体者たちはミサイル防衛網の盤石さが何も変わっていないことを知っている」
「私たちは完全に蚊帳の外ってわけね」
鼻をすする音が聞こえる。泣いてしまうとは思わなかった。
「最後の質問だけど」
声は震えていた。
「核戦争に付随して起こるフォールアウトの拡散と核の冬はどうするのです? 今シミュレーションした結果では——簡易なものだからあまり信用はできないんだけど——かなり危険という結果が出ましたよ」
私とタイチは顔を見合わせる。私がさきほど言ったばかりのことだ。二国間核戦争による核の冬。それはどれだけの規模になるかわからないが、我々全員にとってフェータルなものかもしれないし、そうではないかもしれない。
「それがどの程度の規模になるかも実験対象なのだろうな。おそらく三大国はそれに関するかなり詳細なシミュレーションを執り行ったのだろう。しかしそれだけでは決定的な確信には至らなかった。だからこそ現実に検証するべきと判断したのだろう。危険も大きいが、得るものも大きいから」
私は正直に思ったことを言う。サリはフラリと頭を傾ける。ショックだったらしい。
「これが本当の本当にただの陰謀論の妄想であることを祈りましょう。きっと三大国はイラン・カリフ国がコトを始めても、打ちあがる弾道弾や巡航ミサイルのすべてに対処するはずだから」
だがそうじゃないかもしれない。その場合どうなるか。この実験の人類史的意義を考える。これが成功すれば人類はついに核兵器という滅びの神をその手に収めることができるのだ。そのリスク、全面戦争時の文明へのダメージ、復興速度、回避方法、エトセトラ……。得られる教訓は膨大だ。これにミサイル防衛網が合わさることにより飽和量以上の核兵器を突き付け合って人類終末時計を睨み続けていた時代は終わる。確実に。人類は核兵器による人類滅亡のリスクを実際的に評価し、管理出来るようになるのだ。
それによってもたらされる平和。人類が今まで決して手に入れられなかった平和だ。それが数千万の民を生贄に捧げることで手に入る。なかなか非人間的だが……。それも一つの道のように思えた。
「わたしやるよ」
サリが立ち上がる。マグカップが乱暴に机に置かれ、中身が少しこぼれた。
「こんなの絶対におかしい。この話をネットに上げて世論を作る。絶対に核戦争を三大国に止めさせてみせる」
「サリ、ちょっと待ってくれ」
私は呼びかける。サリは止まってくれた。こういう時にいったん待ってくれるくらいの信頼関係はあったということだ。私は自分の考えを述べる。
「考えてもみてくれ。今それを何の力も持たない、あまつさえ、陰謀論を取り扱う会社に身を置いている君が言ったところでそれはよくできた陰謀論の宣伝と思われるだけじゃないのか? 誰が信じるんだ? カリフ国の成立が陰謀? 核戦争が大いなる実験? これが正しければカリフ国成立の大いなる布石となる9.11も陰謀だったってことになるがあまりに大きな話だ。君一人じゃ無理だよ」
サリはむくれて、
「じゃあどうするっていうんです? このまま核の冬に飲まれるかもしれないのを黙って見てろってこと?」
「やってみなきゃわからないんじゃないか? 二国間が核戦争をしても大した核の冬は起きないかもしれない」
タイチの言葉。やってみなければわからない……。その言葉は私の胸に突き刺さった。母さん。
「それは危険な考え方だぞ? シミュレーションは警鐘を鳴らしているのにやってみなければわからないなんていうのはリスクを無視した自殺行為だ。そして恐ろしいことに三大国もそう考えているのだろう。シミュレーションで満足しておけばよいものを」
「ではどうするんです?」
私は即答する。
「誰かがより精緻なシミュレーションを肩代わりして破滅的な結果に説得力をもたらすしかないな。三大国が使った以上の計算資源をつぎ込んで」
「シミュレーションしても破滅的な結果が出なかったら?」
タイチの疑問ももっともだった。そしてなにより三大国でも演算しきれなかったシミュレーションをより完璧な形でやり直せる第三者などがいるというのだろうか。サリがおそるおそるという風に手を上げる。我々の注意が向いたことを確認すると彼女は発言する。
「せっかくノウハウを持っているんだし私たちが十分な量の計算資源を借り入れてシミュレーションするというのはダメですかね?」
私もタイチも無論考えていたことを代弁する言葉だった。だが現実的ではない。三大国でもやり切れなかったシミュレーションを成すだけの計算資源を、どうやって一零細企業である我々が使用権を購入できるというのだろう。資金が足りなすぎるというレベルではない。スポンサー、陰謀論の担い手たちも決して裕福ではないのだ。ふと、唐突にサリが立ち上がる。
「シミュレーション結果を偽造すればいいんだ」
「なんだって?」
私は理解できなかった。タイチもその様子だ。
「公表されて広く認知されてしまえばそのシミュレーションが正しいかどうかなんて関係ないんですよ」
彼女は興奮した様子で続ける。
「とにかくこの『実験』に関する議論を呼べばいいんです。出来るだけたくさんの人にシミュレーションに疑問が残ると言わせれば勝ち。そのうち資金のある何者かが正式にシミュレーションを行って検証し直してくれますよ」
「そのシミュレーションでカリフ国イランがどのような規模の核戦争を起こしても世界全体に対する影響はないと言う結果が出たらどうするんだ?」
タイチが先ほどの疑問を口にする。サリは頭を振って、
「バイアスをかけるしかないね」
と言った。
「最初にセンセーショナルなシミュレーション結果を出してまず人々の耳目を集める。その上でどんな精緻なシミュレーションがもたらされても人々は最初の破滅的なシミュレーションの印象を忘れないよ」
「なるほど、陰謀論的手法か」
私は顎を撫で筒このプランを頭の中で検証する。言説が世界に伝播する様を思い描きその妥当性を何度も確かめる。まさにシミュレーションだ。やがて私はこう言うことに決める。
「やってみる価値はあるだろう。タイチ、最も攻めた形の陰謀論にまとめてくれ。『シミュレーション結果』を納得でき得るような見た目にして入れ込むのを忘れるな。サリはその『シミュレーション結果』を偽造してくれ」
「はい!」
私たちは動き出した。
作業が終わった。我々の作品、陰謀論はゆっくりと広がっていくだろう。陰謀論ファンたちからの反応も上々で、我々は十分な報酬を得ることさえできた。打ち上げの帰り道、三人で並んで歩いている折り、サリが語り始める。
「一件だけカリフ国とイランに言及していた陰謀論あったじゃないですか、あれ、三大国の内部犯の流したものかもしれませんね」
「どうしてそう思うんだ?」
私とタイチは驚く。
「やはり三大国は既に自分を納得させられるレベルのシミュレーション結果を手にしているんだとおもうんです。それが破滅的な結果なのか、そうでないのかまではわかりませんが」
「破滅的な結果なら『実験』を中止するんでは?」
とタイチ。サリは首を横に振る。
「本当に半世紀近くもかけて『実験』が準備されてきたのなら今更中止はできないでしょ。社長が言ったように『やってみなければわからない』とでも思っているんでしょうね。しかし内部では葛藤がある。本当にシミュレーションは正しいのか? 人類滅亡シナリオは本当に現実のものとなるんじゃないのか? そう思った一派、あるいは一人があんな形で情報を流した。我々のような存在の想像力に賭けたのね。陰謀論様様ってわけです」
考えられる帰結だった。あのような陰謀論の種を意図的に流すことは当局の監視の目から逃れつつ私たちのような存在に事実を伝える唯一の方法だ。
「そして、私たちはやっと、陰謀の魔の手から解放されたかもしれない」
「それは三大国の『実験』のことか?」
「そうじゃないんです」
サリの横顔に私達二人の視線が集中する。
「もし仮にもっとも精緻なシミュレーションをだれかが行って、それが破滅的なもので、三大国がその結果を信じて『実験』を中止するんだとすれば、この世のすべての陰謀は崩壊する」
「どういうことだね?」
私は訊いた。察しの悪い自分にはわからない。
「いえ、もし計算機が何者かの陰謀を抜いたこの世のほとんどの因子から近い未来を予測できるなら、そこに陰謀が介在したときにはすぐにそれがわかってしまう」
なるほど、と我々は頷いた。未来予測ができるということは、それが何らかの形で現実と一致しなかった時、陰謀による改変があったと言えるからだ。つまり、シミュレーションがクソッタレな現実を打ち負かしたわけだ。この考え方が広まれば現実を過度に猛進して危険な賭をする人間は減るだろう。確実に。その精緻さを増していくことにより、シミュレーションが人間を救うのだ。シミュレーションに従う限り、人は破滅を回避するか、さもなければ覚悟できるのだから。
「計算機科学が、三大国が信じたレベルのシミュレーションを行える機械と同レベルのものを民間にもたらすまでそう遠くないな。つまりもうすぐ俺たちは廃業ってわけだ、陰謀のない未来万歳!」
タイチはなんだか本当にうれしそうだ。しかしこの予測は面白い。我々は陰謀という導きからも解き放たれることになるのだ。計算機が計算する未来は確定だ。「やってみなけらばわからない」は通用しない。それが人類にどう影響するのかはわからない。だが今はとにかく、自分が引退した後、つまり陰謀論が完全に滅んだあと、この二人がどう仕事を得ていくのかを考えてやらないと、と思うのだ。
結局例の陰謀論は空前の大ヒットで、あらゆるメディアがそれを取り上げるに至った。そのミームはあらゆる場所に拡散し、ほとんどの陰謀論好きのコミュニティが、作られた核戦争とその結果としての核の冬による世界滅亡を思い描いた。もう少し慎重な人間たちは、それに添付されていたシミュレーション結果の妥当性に疑問を持った。予想通りに。膨大な計算資源がつぎ込まれ、人類滅亡シナリオから最も楽観的なシナリオまであらゆる可能性が提示された。しかし最も権威のある研究機関が動いた。彼らは市場の計算資源のほとんどを買い取り、シミュレーションを行った。結果は、放射性物質の雲の広がりによる人類滅亡の可能性が九割……。そして、運命の時が来た。イランは「やってみなければわからない」と考えたらしい。
『イラン、カリフ国へ向け核攻撃、カリフ国、報復核攻撃』
そのニュースはミサイル発射数分後に世界を駆け巡った。そしてもう一本のニュースも。
『ロシア、中国、及びインド洋に展開していた米艦隊。、カリフ国、イラン両陣営のミサイルをすべて撃墜。被害はなし』
陰謀論を信じていた人間はこう考えた。三大国は新たに提示された悲観的なシミュレーション結果を信じ、核の冬による人類滅亡を恐れ「実験」を途中で止めたのだと。信じていなかった人間の考えはこうだ。最初から実験など存在せず、三大国は平和の守護者としての任務を粛々とこなしただけだと。実際、真実はわからない。だが我々は信じている。我々こそが全面核戦争の危機を止めたのだと。ともかく、誰の御蔭にせよ、我々は解放されたわけだ。地上に数十もの太陽が花咲く未来から、限定核戦争がそこら中で起こる未来から、フォールアウトに包まれて滅び去る未来から。核はきっと人類には過ぎたおもちゃなのだから、それが人間の手にしっかりと収まる日など、永遠に来ない。