四の臓・証
染みが大きくなってゆく。
指先から足先から、灰色の染みが広がり数を増やしてゆく。不気味に重く黒ずみながら、細い四肢を彩ってゆく。
『私を食らえ』
『私を食らえ』……。
セレナはラマンの染みを見るたび、祈るように急きたてた。
だがラマンは首をたてに振らなかった。暗い色の血を吐きながら、どうしても娘の心臓に手を出そうとはしなかった。ただ、自分を見つめる緑の瞳に、段々と危うい靄がかかってゆくのに、紅封死族の娘は気づいていた。
そんな歪んだ日々を過ごし、気がつけば六月五日になっていた。
もう一刻の猶予もない。このまま明日を迎えれば、ラマンは十九で死んでしまう。微笑みながら血を吐くラマンに、セレナはだから、ナイフ片手に語りかけた。
「ラマン。私を食らえ」
紅封死族の娘は語る。この上ない、愛の告白のように。
「私は数日前から何も口にしていない。死んだ後、穢いものをまき散らすこともないだろう」
セレナは、美しく死のうとしている。
僕のために……僕のために?
ラマンは歪んで霞んだ瞳で、少女の瞳をじっと見つめた。
セレナ。
僕は、君を愛している。でも、君は?
「お前を愛する私の心臓を食ろうて、生き延びろ」
分からない。
どれほど口先で『愛している』と言ったって、本当のことは分からない。
「まかり間違って死んだとて、それすらもお前の望むこと。悔いはなかろう」
ラマンはナイフを受け取った。刃を差し出すセレナの右手に、必死ですがりつくように。
そう。
死ぬとか、生きる、とか、もうそんなのはどうでも良い。
誰からも本当に愛されたことのない僕には、何も分からない。セレナ、君が僕を芯から想ってくれているのか、それすらもまるで分からない。
それを知る方法は……もう、一つしかない。
それが知りたいから、僕は、君を。
(ぐちゅり……っ)
ナイフを握ると、腐った染みの潰れる音が、かすかに聞こえた。ラマンはセレナの背中に腕を回し、抱きしめるように娘を刺した。
ぐぶり……っ!!
肉を裂いて刃の突き刺さる感触が、柄を伝って指に伝わる。熱いあつい体液が、指先を湿して垂れてゆく。
「……っか、はっ……っ」
娘が真紅の血を吐いて、くずおれるように胸の中へ倒れこむ。ラマンはセレナの背中の傷を刺し広げ、骨と骨のすきまから、小さな心臓を引きずり出した。
戦慄と興奮でわななく手に心臓を握りしめ、恐るおそる口に運ぶ。鉄の味と甘い香りが口の中に広がって、ラマンは少し咳きこみ、血を吐いた。
ああ。
死ぬのかな。
そう思ったが、それ以上血はあふれて来なかった。腐れて膿と血のにじんでいた指先から染みが薄れ、じわじわと消えてゆく。袖をめくってのぞいてみると、細い腕を覆い尽くすように浮いていた染みは、水の干上がるように消滅してゆくところだった。
ラマンはうなだれて、白い頬を弛緩させた。
ああ。ああ。
セレナは本当に、僕を愛してくれていた。
「そんな、君を……」
僕は、この手で殺して、食ったんだ……。
ラマンはだらしなく微笑いながら、血塗れた心臓の欠片に口づける。その瞬間、記憶の奔流が体内をざあっと洗ってあふれ出した。
それは今までの悪夢の記憶。
いや、そうではない。今までの、全ての前世の記憶。全ての思い出が昨日のことのような生々しさで、ラマンの内に蘇る。
ヤリア。
ミィク。
クリナ。
リリィカィナヒルエユリカキキョウサラーノ……!!
前世の全ての恋人の名が、脳裏を撃つようにほとばしる。血生臭い思い出と、愛しい恋人の笑顔と共に。
記憶の激走が止んだ後、ラマンはその場に崩れこんだ。泣きながら笑い出し、きつくきつくセレナの亡骸を抱きしめた。
「……はは……ははは……っ、また、駄目だった……また、幸せになれなかったよぉおおぉおぉおーーーっっ!! セレナぁああぁああぁああああーーーーっっ!!!」
孤独な魂の悲痛な叫びは、延々と一人の部屋にこだました。
己の体液に血塗れて、セレナの亡骸は、少しだけ微笑しているようだった。
一月が過ぎた。
祖母の部屋を訪れたラマンは、大事なことを彼女に告げた。
「……何……ですって?」
目を見開いて問い返され、ラマンは祖母に再び告げた。
「ですから、僕は薬の開発に助力しようと思うのです。『万病に効く妙薬』の開発に」
「何を言っているの? だってそれには、貴方の血がいるのでしょう?」
「ええ、妙薬の開発には、『紅封死族の心臓を口にした者の、致死量の血液』が必要です」
せっかく生き延びた青年貴族が、当然のように言葉を紡ぐ。ぱくぱくと金魚のように口を動かし、祖母はやっと言葉を継いだ。
「だって貴方……だってあなた……!」
「……お祖母様。紅封死族はおしなべて短命なんだそうですね。だから僕が彼女を食わずとも、彼女はおそらく、すぐに死んでいたんです」
「そ、そんなことはどうでも良いのです……どうして、どうして貴方まで……!」
「よすがが欲しいのです。僕とセレナが『この世に生きていた』というよすがが。僕とセレナの欠片が、妙薬となって多くの人の命を救う。何よりのよすがじゃあないですか?」
綿帽子のような笑顔をみせたラマンが、ふっと真顔になって語りかけた。
「……お祖母様。やっと分かりました。僕とセレナは、今まで一度も幸せにはなれなかった。それが前世の罪なのか、試練なのかは分かりませんが……僕らはずっと、自分たちのことしか考えてはこなかったんです」
「……何を、訳の分からないことを……っ!」
「僕らはずっと、自分たちの幸せのことしか考えてはこなかった。だからきっと、赤い輪廻から抜け出せなかった。けれど他の人に良いことをしたなら、来世はきっと……」
ラマンの紡ぐ言の葉に、祖母が黙りこむ。そのしぼんだ瞳から、一すじ、二すじ、涙が落ちた。
「……お祖母様……?」
「どうして。どうして、お前までいなくなってしまうと言うの……?」
祖母は悲痛に泣きながら、たった一人の孫の胸にすがりつく。
「お前のお父様もお祖父様も、魔王の呪いで亡くなった。お前の母様、私の可愛い義娘さえ、馬車の事故で先立った。お前の他には、もう身よりもないというのに……私には、もうお前しかいないのに……お前まで、お前までもが……っ!!」
はたはたと泣く祖母の姿は、『金目当てのごうつく婆あ』などではなかった。真実、孫を想う祖母の痛ましい姿だった。
「……お祖母様……」
僕は、勘違いしていたのか。
どれほどに歪んでいようとも、祖母は本当に、僕の身を案じてくれていたのか……。
今さらのように実感して、ラマンは祖母の背へ手を伸ばす。抱きしめようとした手をすり抜け、祖母がその場へ倒れこむ。
「……お祖母様?」
祖母は、動かない。微動だにせず、目を見開いて倒れたままだ。
「……お祖母様。おばあ様! おばあ様!!」
ラマンの声にも、祖母は反応しなかった。青年の声に、聞きつけた屋敷の者が駆けつける。老いた婦人はすぐに病院へ運ばれた。だが祖母は、そのまま二度と目を覚まさなかった。医者によると、老衰だとのことだった。
ラマンは、そうして全てをなくした。
この世に未練は、もうなかった。