三の臓・百年経っても残るもの
歪んだ毎日が始まった。
秘民族の少女と、魔王に呪われた青年は、日々をラマンの部屋で過ごした。
「お祖母様、いくら何でも首に鎖はあんまりです」
そうラマンが訴えたことで、少女をつなぐ銀の鎖はなくなった。だが、セレナの首もとには今も首輪がついている。
「この娘はペットのようなものだから、ペットとして扱いなさい」
祖母はそう言って譲らなかった。
自分を家族として認めぬ者に、仔猫は決してなつかない。セレナもそんな仔猫のように、いつも祖母から距離を置いた。ラマンと二人きりになると、とたんに心の垣根を払い、とろけるように甘えてみせた。
「こんなに大事にされたのは初めてだ」
そう、セレナはいつも口ぐせめかしてつぶやいた。
ここに来る前はどんな暮らしをしていたのか、セレナは決して口にしない。たった一度「見世物小屋にいた」とだけ打ち明けたことがあったが、それ以上何も語らなかった。
ラマンもあえて訊ねない。言わないことが何よりの答えだと、孤独だった青年は、痛いくらいに知っている。
互いの傷に気づいていながら、あえて傷には手を触れず、腐れかけた甘い毎日が過ぎてゆく。そんなある日、いつものようにラマンが『仕事』をしていると、セレナが不思議そうに青年の手もとをのぞきこんだ。
「……なぁラマン。お前はひまさえあれば、そうして机に向かっているな。何をしている?」
青年は万年筆を握っていた手を止めて、セレナに原稿の束をさし出した。
「読む? ちょうど出来たとこだから」
セレナは原稿を受け取ると、小鈴振る声でタイトルを読み上げた。
「『幸せにならないで』……」
娘は淋しそうに笑んで、青年貴族へ問いかける。
「……作り話か」
「そう、童話だよ。これでも一応、作家でね」
「ふぅん……」
ざっと目を通したセレナは、読み終えて軽く息をついた。
「悲しい終わりだな。子どもに読ませる話というに」
「世の中ってのはね、」
ラマンが冷ややかに口を開く。荒んだ口調に驚く娘に、ふっと声音を和らげて告げた。
「世の中ってのはね、たいてい悲しい終わりが来ると、相場が決まっているんだよ」
セレナは、ふっと小さくたしなめるように微笑んだ。原稿をラマンへ手渡して、優しい口ぶりでささやいた。
「それは『お前の中で』の話だろう」
青年が緑の目を見張る。それから気弱に微笑して、何度も小刻みにうなずいた。
「そう。そう、かもね。うん」
あいまいに肯定してみせながら、ラマンは内心で大きく首を振る。
少なくとも僕の周りでは、淋しいことばかり起きている。
だってほら、僕らだってそうだろう? 二人のうち、どちらかが死なないといけない物語。結ばれても結ばれずとも、必ず死の訪れる物語。
(悲しいお話の主人公には、悲しいお話しか書けないんだよ、セレナ)
心中でそう語りかけて、ラマンはどこか痛んだような笑顔を見せた。
(セレナ。僕はそんなに器用じゃないから、自分が味わったことのない『幸せ』の話は出来ないんだ)
……それとも、君が。
くちびるだけでつぶやくと、青い目の少女はそっと首をかしげてみせた。
「何か言ったか? ラマン」
「ぅん……うぅん。何でもない」
「何じゃ、はっきりしないやつじゃのう」
ぐずるような表情のセレナに微笑んで、ラマンは心中でまた問いかけた。
(それとも、君が僕を幸せにしてくれるのか? 僕が僕の人生で紡ぐ、一番最後の物語に、幸せな結末をくれるのか?)
そう口にして訊ねるのは、あまりにも甘えている気がして嫌だった。ラマンはしばし言いよどみ、代わりにこんな言葉を発した。
「……セレナ。僕らの見ている、夢のことなんだけれどね」
「うん?」
「あの夢が、もしか僕らの前世だったとしたら……毎世結ばれない僕らは、何かの罪を犯したのかな? それとも、何かの『試練』なのかな……」
セレナは黙りこみ、真顔でラマンの顔を見つめた。
毎夜の悪夢は、血の匂いの香るほど鮮やかで苦しくて。とうてい夢とは思えぬほどに、毎夜毎晩生々しい。だから、もしかしたら『そう』なのではないかとも思う。
けれど、やすやす認めたくはない。認めてしまったら、あの血を吐くような悪夢は、全て真実になるのだから。そうして、今世もきっと、後の世の悪夢と化してしまうから。
「……もし、……もしもそうなら……どうする?」
セレナの紡いだ問いにもならぬ問いかけに、ラマンはすうっと黙りこむ。それから、ゆっくり微笑んだ。何もかもをあきらめてしまったような、そのくせ一すじの希望に必死ですがっているような。
痛々しすぎる、笑顔だった。
翌朝、セレナは肌寒さで目が覚めた。
となりにいたはずのラマンが、ひっそり机に向かっている。いつもと少し様子が違う。万年筆を握っているはずの細い手が、小さな刷毛を手にしていた。
「何をしている?」
そばに寄ってのぞきこむと、机にはゴム製の小さなボードがのっていた。その上に、細長く可愛らしい絵が置かれている。
右下にハートや星の形のクッキーが描かれていて、左上から枝垂れるようにピンクのリボンの絵があしらってある。透明なインクの缶のような入れ物から、つんと鼻を衝く臭いがした。
ラマンがふっと顔を上げ、嬉しそうに答えてくれた。
「しおり作り」
「しおり?」
「そう。こうやってね、描いた絵にツヤ出しと色留めの薬品を塗って」
言いながら、ラマンは絵の上につつつ、と刷毛をすべらせた。ごく淡い色調だった絵の色味がぐっと濃くなり、全体に艶やかな照りをまとったようになる。
「裏にはもう塗って乾かしてあるから、こっちが乾けば出来上がり。いつも童話のおまけにつけるんだ。手作りだから、限定十名様だけどね」
「ふぅん……」
私も欲しいな、と思いながら、セレナがこくりとうなずいた。ラマンの嬉しそうな表情が、ふっと淋しげな歪みを帯びた。
「きっと、僕が死んだ十年後には、もう何も残っちゃいないだろうけど」
「……何故?」
セレナの問いかけに、ラマンは気のない微笑を浮かべ、
「自分で分かるんだ」
と吐き捨てた。
「『勇者の子孫が書いたもの』ってことだけで、もてはやされているけれど……正直、金を払って読むレベルの話じゃない」
セレナが黙ってうつむいた。
否定できなかった。ただ悲しいだけの話は、行きずりに通行人から頬べたに氷をなすられたようなものだ。『何故こんな思いをしなければならない』と思うし、再びそんな体験をくり返したいとは思わない。
セレナが何も言えないのを見てとると、ラマンは淋しそうに微笑んだ。
「僕が死んだら、歴史の参考書に僕の名前と、代表作のタイトルだけ記されて、受験生の頭の片隅だけで生きるんだ」
少女は黙りこんだまま、ゆっくりと首を振ってみせた。ほっと軽く息をつき、青年の華奢な肩へ手を置いた。ラマンの耳もとへくちびるを寄せ、さとす口ぶりでささやきかける。
「されば、私を食らえば良かろう」
ラマンが目を上げて、緑の瞳に娘を映す。猛毒と妙薬を体内に隠し持つ少女は、穏やかな顔で微笑っていた。
「食ろうて、生き永らえて。死んだ後百年経っても読み継がれる、名作を書けば良かろうて」
セレナの言葉に、青年は黙って二三度うなずいた。
「うん。そう……そうだね」
おざなりに言葉を返して、そっとしおりに目を落とす。力ない微笑を頬に浮かべて、内心でこうつぶやいた。
(ねえ、でもそれは。君が僕を『本当に愛していれば』の話だろう?)
ラマンには分からない。
目の前の愛しい娘は、本当に自分を愛してくれているのだろうか。
夜毎の悪夢は……本当にセレナと関係があるのだろうか。それとも病魔に脳みそまでやられてしまって、ただの悪夢を前世と取り違えているのだろうか。
何も、なんにも、分からない。
このまま何も分からないまま、僕は死んでいくのだろうか?
思い悩む青年貴族が、深く長く息をつく。すがりつくように振り向いて、セレナの細い首に腕を巻きつけ、触れるだけのキスをした。
「……お前……」
「大丈夫。『体の腐れ落ちる病』は、人には伝染らない。これは勇者男系にだけくだされた、魔王様の呪いだから」
皮肉混じりにおどけてみせる青年に、セレナはくちびるを歪めて首を振る。
「そうではない」
「何が?」
「だ、だから、その……もっと深くとも良いと言っておる」
「……何が?」
「だ、だからだな、つまり……もっと本格的な口づけをしても構わぬと……あぁもうっ! これ以上おなごの口から言わせるなっ!!」
真っ赤になって叫び立てるセレナの口に、ラマンがもう一度キスをする。息も出来ぬほど熱情的なキスをして、キスにキスを重ねていって、なだれるようにベットへもぐる。
めくるめく甘い時間の後、寝入ってしまったセレナの顔をじっと見つめた。
(どこかで、見た表情)
夢で見た表情。
僕は……一体何なのだろう?
前世からの罪人か、それともただの狂人か。
僕は……一体何のために、この世に生まれてきたんだろう?
考えても分からなくて、ラマンは思考をあきらめた。まぶたを閉じて眠りにつくと、また悪夢に襲われた。血を噴くような悪夢の中で、死ぬ運命の恋人は、それでも懸命に微笑っていた。
その笑顔は、やはりセレナのそれにそっくりで。
愛しくて苦しくて、ラマンは夢の中で、恋人をその手で殺していた。