二の臓・昔話
低いうなり声で、娘は目を覚ました。
自分の体に布団がかけてあるのに気づき、そのことをひどく意外に思う。身じろぎをして起き上がると、銀の鎖がじゃりじゃり鳴った。縛められた首輪の感触がうっとうしい。
「ぅ……ぅうぅ……っ、ぅううっ……っ!」
また聞こえたうなり声に、娘は青い目を上げる。見つめた先に、この部屋の主人が歯を軋らせてうめいていた。女のようなはかなげで綺麗な顔立ちが、辛そうにきつく歪んでいる。まつ毛の長い目もとから、幾本も涙のすじが伸びていた。
紅封死族の生き残りは、ゆっくり二三度またたいた。
「……貴族でも、うなされるのか」
娘は当たり前のことに気がつき、どこか淋しげに微笑した。鎖を引きずってラマンのもとに歩を進め、そっと青年の頬に触れる。
「……ぅ……ぅう……うわぁあぁっ!!」
刹那、ラマンが悲鳴を上げて飛び起きた。怯えきったまなざしで娘を見つめ、やっと正気に戻った風に微笑んだ。緑の瞳が、赤く充血して涙に潤みきっている。
「……あぁ……ごめん。見苦しいところ、見せちゃったね……」
「お前も、夜にさいなまれる性質なのだな……」
娘の目からは心なし険が抜けている。青年が細い手をさし出すと、娘はちょこりとその手に右手をのせた。
「まだ名乗っていなかったな。私はセレナ。セレナ・ニンファ・ドラコーナだ」
急に柔らかくなった物腰に、ラマンはきょとんとしながらうなずいた。セレナの白い手をなかば無意識にさすりながら、優しい声で訊ねかける。
「僕の話は、聞いているかな? おば……祖母から」
『お祖母様』と言いかけて咳払いし、言い直す。娘はそれに気づかぬそぶりで、軽く首を振ってみせた。ラマンは頼りなく微笑い、病的に赤いくちびるをそっと開いた。
「それじゃあ話してしんぜよう。役立たずの貴族の話を」
己でおのれを嘲るように微笑んで。
青年は淡々とした口調で、軽く言の葉を紡ぎ出した。
「昔むかしその昔、一人の青年貴族がおりました。青年は貴族でありながら、大変な剣の遣い手で、その手で『魔王』を倒しました」
おとぎ話のような語り口に、セレナは黙ってラマンを見上げる。これほど優しく柔らかな声音は、長いこと耳にしていなかった。
「青年は『勇者』と呼ばれ、皆に崇められました。その貴族の末裔がこの僕なのです」
そろりと娘の爪を撫ぜ、ラマンは静かに口をつぐむ。そんな青年の顔をセレナは黙って眺めていた。しばらくしてから意外そうに目を見開き、大きな声で問いかけた。
「それで終わりか?」
「え、終わりだよ?」
青年貴族の返答に、セレナが呆れたように首を振る。
「説明不足だな。何故に私がここへ来たのか、そこのところがちょっとも分からん」
言われて初めて気づいた風に、ラマンは再び口を開いた。
「呪いだよ。魔王は死ぬまぎわ、勇者に呪いをかけたんだ」
ラマンは娘の白い手から手を離し、セレナに己の指を見せた。
卓上ランプのオレンジの灯りに薄っすらと、細い指先が照らされる。そこにはじわりと灰色のインクを染ませたように、かすかな染みが浮いていた。
「魔王は、呪いの言葉と血を吐き散らかして死んでいった。『子々孫々、憎き勇者の血筋が絶えるまで、男系の子孫は二十歳に満たず、体の腐れ落ちる病にさいなまれて死ぬように』とね」
セレナが青い目を歪め、細く長く息を吐く。青年は沈んだ緑の瞳に娘を映し、吐息と共につぶやいた。
「祖母は、僕に死んで欲しくないんだよ」
「それはそうだろう」
「違う」
セレナの語尾をさえぎって、ラマンが吐き捨てるように応えた。
「僕は勇者の末裔だ。僕が僕であるだけで、この邸には無限に金が入ってくる」
ラマンは口もとを歪めて微笑い、辛そうに目をまたたいた。
「祖母は、金づるを失うのが怖いんだ」
セレナが青い目を静かに閉じた。
ゆっくりとまぶたを開き、ラマンの指の染みへ目を落とす。
「……お前、他に家族はいないのか」
「皆、僕が幼いころに死んだんだ。真に家族と呼べるのは、あの祖母だけだ」
ラマンはどこか遠くを見るような目をしながら、小さく答えて微笑んだ。セレナが黙って青年の指先に手を触れて、さするように撫ぜ回した。
「お前、今年でいくつになる?」
「今日で……」
ラマンは律儀に時計を確認し、改めてこう言葉にした。
「今日で、ちょうど十九歳だ」
ラマンの返事に、セレナは花のしおれる風情で薄く微笑った。
「そうか。ならばラマン、この私を惚れさせてみろ。そうして今日から一年経たぬうちに、私の心臓を抉り食ろうてみるが良い」
ラマンは細い首を揺らし、うなずくようにかぶりを振った。
夢に蝕まれる貴族と、秘民族の生き残り。歪んだ合わせ鏡そのものの互いの孤独を、二人はすでに知っている。
魅かれている。
もう今この瞬間から、お互いに、どうしようもなく。
崩れ落ちそうな笑みを見せたセレナが、ふと気づいたように問いかけた。
「そういえば、お前さっきうなされていたな。どんな夢を見ていたのだ?」
「あぁ……うん。君に似た架空の恋人が、目の前で殺される夢を見ていた」
ラマンの返事に娘が青い目を見開く。
セレナの反応を見てとって、青年は苦笑いして謝った。
「ごめん。こんなこと言われて、良い気分のものじゃないよね」
「あぁ……いや」
「……僕はね、毎晩そんな夢を見るんだ。現実には恋人なんていないっていうのに、そういう夢ばかり、毎晩まいばん」
青年の返答に、セレナが言葉を失った。それから青い目を幾度かまたたき、決心したように口を開いた。
「……私も、毎晩そんな夢を見る。さっき見た夢の恋人は、やはりお前に似ていたぞ」
今度はラマンが言葉を失う番だった。青年は何度か金魚のように口を動かし、やがて微笑いながら問いかけた。
「現実には、恋人はいる?」
「いない」
「そう。良かった」
思わずもらしてしまった本心に、ラマンが薄く頬を染める。こそばゆそうに微笑ったセレナの頬も、心なしか色づいていた。
「なぁ、ラマン。ベットで一緒に寝て良いか?」
「…………うん。二人で寝れば、うなされないかな?」
「そうかも知らん」
ちょっとはにかんで応えてみせて、セレナがベットへもぐりこんだ。鎖をじゃりじゃり言わせながら、父親に添寝してもらう幼子のような笑みを浮かべる。布団一枚減ったベットは、普段以上に温かかった。
二人は猫二匹がくっついて寝るように、きつく抱き合って眠った。何もしなくとも満たされていた。けれどもやっぱり、お互いにまたうなされて。
「う……ぅうぅ……うわぁっっ!!」
「ぅ……ぅあぁあ……あぁあっっ!!」
互いの悲鳴で目覚めた二人は、涙で濡れた顔を見合わせて微笑んだ。夢で死んだ恋人が生き返ったような心地で、またきつく抱き合って目を閉じた。
そうしてまた二人、苦しいくらいにうなされて。歯を軋るほどうなされながらも、ほんのりと甘い想いが二人の脳裏を色づけていた。