一の臓・幸せになってみたいけど
味も分からぬ朝食の後、ラマンは自室に引き上げた。
四方を囲む本棚から、『世界の秘民族』という事典を引き出し、めくり出す。さっき祖母の口にしていた『紅封死族』の項を引き出し、声を出して読み始めた。
『紅封死族の心臓は、万病に効く妙薬となる。ただし心臓の持ち主が、自分を食する相手に対し、絶対の愛情を持っていた場合のみ……』
なるほど。祖母が言っていたのは、こういうことだったのか。
ラマンは心中で納得しながら、いささか呆れた。「愛してはならない」というのは、いかにも祖母らしい横暴な言い分だ。ラマンはそっと吐息して、また続きを読み上げた。
『それ以外の場合には、紅封死族の心臓は、口にした者を無情の苦悶の末、死に至らしめる劇薬となる』
ふぅん。
ラマンは他人事のように気のない声でつぶやいて、再び本へ目を落とした。
『その痛み苦しみは筆舌に尽くし難く、死者の表情は内臓を全て吐き出したような、醜いものになると言われる。また、紅封死族はおしなべて……』
ラマンはそこで言葉をあきらめた。もうこれ以上、声に出して読む気になれない。青年は紅封死族の項だけを流し見て、事典を棚にそっと戻した。
「『生き残り』か。僕と同じだな」
ラマンは淡い悲哀を染ませて吐き出すと、口に手をあてて咳きこんだ。
のぞいた手のひらに、赤い血の染みがついていた。ラマンは慣れた手つきでハンカチを取り出し、血を拭ってくずかごへ捨てた。
「一年か」
あと一年。一年が経たぬうち、あの娘に惚れられなければ命はない。けれど、こちらが本当に好きにならないで、心底相手に好かれることなど可能だろうか。
(分からない……)
内心でつぶやいた青年は、考えるのを放棄した。黒檀の机に向かい、少し首をかしげた後、白い紙に始まりの文字を書きつけた。
『幸せにならないで』
この上なく後ろ向きなタイトルだ。
自分でも分かっているけれど、他に良い案が思いつかない。ラマンは小さく息をつき、思いつくままに小さなお話を書き出した。
『一人の少年が、壊れた蟻塚のような街を歩いている。
沈んだ青い目をした少年だ。泥まみれの黄ばんだシャツに、乞食から剥ぎ取ったようなジーンズ。みすぼらしい少年のなりを、ここでは誰も咎めない。道行く人々の誰もが、少年よりもひどい格好をしているから』……。
(また今回も、悲しい結末になるだろう)
つらつらと言の葉を書き連ねながら、ラマンは思う。童話作家のラマンは、悲しい終わりのお話を得意とする。いや、『得意とする』とは言葉に語弊があるだろう。ラマンは、悲しい終わりのお話『しか書けない』のだ。
夜ごと悪夢にうなされて、丸十九年。そんないびつな人生すらも、このままいけばあと一年で幕を閉じる。
死ぬまでに、せめて一つくらいは幸せな結末の話を書きたいと、青年は淡く願っていた。そんな願いとは裏腹に、書き紡ぐ文字の羅列は悲しく重く、薄暗い。
分かっている。
自分が幸せにならなければ、幸せな結末のお話なんて書けはしない。
「……死ぬ前に、一度くらいは幸せになってみたいなぁ」
(けれど、このお話の少年みたいな人からしたら、貴族の僕の戯言なんて、つばを吐くほど贅沢だろうな)
ラマンは内心でつぶやきながら、またお話をつづり始めた。悲しく重い言の葉が、ペンの先からあふれ出した。
その日の夜が訪れた。
紅封死族の娘は鎖と首輪でつながれたまま、ラマンの部屋へ移された。娘は押し黙ったままで、あいも変わらずじっとラマンを睨んでいた。だが、やがてその場にうずくまり、絨毯の上で何もかけずに眠り出した。
(すごく疲れていたんだな……)
ベットに運んであげたいが、ひ弱な自分の腕だけで娘一人を抱えられるか、いまいち自信がない。
『その娘はひどい環境で暮らしていたから、ベットではかえって寝にくいでしょう。床に転がしておきなさい』
さっき吐かれた祖母の言葉を思い出し、ため息をついてあきらめる。天使の羽根をつめこんだ羽毛布団を、自分のベットからはぎ取って、娘の体へかけてやった。かけた刹那、娘は小さく身じろぎし、白い歯をきりきりと軋らせた。
「……っふっ……ぅっ……うぅう……っ!」
かすかなうめきが、くちびるの間から洩れてくる。ラマンがとっさに娘の頭に手をやると、娘はふぅっと息をつき、またひそやかな寝息を立て出した。
「……ふぅん……」
(何だか、僕みたいな娘だな)
内心でつぶやくと、何故だかひっそり嬉しくなった。ラマンは細い指先で、娘の前髪をなぞるように撫ぜてやる。
「大丈夫。僕は君を食べないよ。食べないから、安心してお眠り……」
娘はくっと小さく身じろぎし、眠ったままで微笑した。どきりとするほど無防備な、可愛らしい寝顔だった。
(この表情……どこかで目にした気がするのは……)
おぼろな既視感にさいなまれ、ラマンが緑の目をまばたく。考えても分からないので、また考えをあきらめた。無駄な時間を使うほど、自分には余生に余裕がない。
壁掛けのアンティーク時計に目をやると、十時を回ったところだった。
「少し早いけど、もう寝るか」
ラマンはくっと伸びをして、ベットの中にもぐりこんだ。羽根布団一枚分軽くなった感触が、何だか肌に嬉しかった。
寝入りしな、また真っ黒な悪夢を見た。目の前で殺される恋人は、現実で逢ったばかりの紅封死族の娘に似ていた。