序・最低の出逢い
よろしくお願いします。
朝の四時に目が覚めた。
青年はベットの上に起き上がり、無意識に頬へ手をやった。濡れている。
「泣いていたのか……?」
夢を覚えてはいないけれども、またうなされていたのだろうか。青年はふっと首を巡らし、壁にかかったカレンダーへと目をやった。
六月六日。今日の日づけに、『誕生日』とおのれの文字で書いてある。
「……ああ、今日でとうとう十九歳か。あと、きっかり一年か」
何事かあきらめたような声音でつぶやき、青年はまたベットにもぐりこむ。
「……良い夢、見たいなぁ」
自分の耳にも聞こえないくらいの声でささやいて、そっと緑の目を閉じる。またうなされてしまうことを、痛いくらいに予感しながら。
二度目の目覚めは最悪だった。
ドレスを着た恋人が、異教の儀式の生贄として磔刑になり、槍で刺されて息絶える夢。現実には恋人なぞいないというのに、青年はこの手の夢に毎晩うなされる。
「……前世の記憶だったりして」
吐き捨てる口ぶりで一人おどけて、青年は『けっ』とすさんだ息を吐く。現実の人生が最悪なのに、前世もそんなじゃやりきれない。
目に深いふかいくまを刻んで、青年は普段着のスーツに着がえを済ます。ちょうど着がえを終えたところで、ドアごしにメイドに声をかけられた。
「ラマン様。ラマン=ロマンシェ=ストーリア様。大奥様がお呼びです」
「ああ、今行くよ」
「お早くお願いします」
駄目押しに静かに言い置いて、メイドの去ってゆく足音がする。ラマンと呼ばれた青年貴族は、長いながい吐息をついて、自分の部屋を後にした。祖母の部屋の前まで行き、さっきまでとは段違いに快活そうな声を出す。
「お祖母様、お早うございます! 孫のラマンです! 何の思し召しでしょう?」
「お早う、ラマン。貴方に誕生日のプレゼントがあるのです。早くお入りなさい」
(プレゼント?)
何だろう。生首の入った琥珀だろうか。絶滅危惧種の珍獣だろうか。そんなもの、僕はいらないのにな……。
内心で深く息をつきながら、ラマンは「はい!」と無邪気な子どものような声で応えた。「失礼します」と言いながら、祖母の部屋の扉を開ける。
人形がいた。
美しい人形が……いや、人形のように美しい少女が、首輪と鎖で縛められ、こちらを睨みつけている。
白く長く艶やかな髪に、朱をはいたような赤いくちびる。桜色の指の爪。そして何より、印象的なのは大きな瞳の色だった。氷の花のように青く冷たい目の色が、ラマンの胸を貫いた。
それにしても、その扱い! 首輪と銀の鎖だなんて、まるで猫科の猛獣だ。光景の異常さに息を呑み、ラマンはかすれた声で問いかけた。
「……、お祖母様、このお嬢さんは一体……?」
「ですから、誕生日のプレゼントです。良いこと、ラマン。一年以内に、この娘に心の底から愛されなさい」
祖母の唐突な命令に、ラマンが細いまゆをひそめた。人形のように綺麗な娘は、依然としてこちらを睨みつけている。その美貌はすさんでいて、薄いうすい刃で出来た、にせものの花を思わせる。何も知らずに手で触れたら、血だらけになるに違いない。
ラマンの祖母はねっちりとした粘着性の微笑を浮かべ、べたべたと言葉を紡いでゆく。
「ただ、愛してはなりません。貴方はとても『優しい』から。その子を殺して口にする時、きっとためらってしまうから」
(こ……殺す!?)
物騒極まりない単語が、気弱な青年の脳裏を穿つ。ぐぅう、と咽喉を鳴らしたラマンが、すがりつくように口を開いた。
「ま、待って、待ってくださいお祖母様! 僕には一体、何のことだか分かりません!」
「いいえ分かっているはずです。この娘が、貴方の十九歳の誕生日プレゼントだということ。愛されなくてはいけないということ。この二つのヒントがあれば、答えなぞすぐに分かるはず」
たんたんとたたみかけて言葉を重ね、祖母は嫌悪をもよおすような笑みを浮かべた。
「これだけ言ってもわからないの? それなら、答えを教えてあげましょう。……その娘は、『紅封死族』の生き残りよ」
ぴくり、娘が肩を揺らした。海底の氷のような青い瞳に、かすかに怯えの色が走る。祖母はひとしきり言葉を吐くと、もう娘には目もくれずに、つかつかと部屋を横切った。
「その娘は、貴方の部屋へ移しておきます」
扉の前で振り向きざまに言い残し、祖母は部屋を出て行った。
残されたラマンは、困惑しきって娘を見やる。娘はむっつり押し黙り、ただひたすらにラマンを睨みつけている。
「え、えぇと……とりあえず、よろしく。僕はラマン。ラマン=ロマンシェ=ストーリア。君は?」
娘はラマンを睨み続ける。心の臓を突き抜けそうな冷たい目線に、あふれんばかりの敵意と悪意が感じられる。
「えっと……何かして欲しいことはある?」
「出て行け」
小さな声で告げられて、ラマンがふっと首をひねった。
「今、何て」
青年貴族がつられて小声で訊き返す。その語尾を押し潰す勢いで、娘がきんと鋭い口調で吐き捨てた。
「出て行けと言ったのだ。貴様の面など見とうもない」
ラマンは驚いて二三度またたいた。それから淋しそうに微笑って、祖母の部屋を出て行った。一人残された少女は、深く長く息を吐いた。赤ビロードの絨毯の上にうずくまり、猫さながらに体を丸めて横になる。
娘はやがて、息絶えそうにかすかな寝息を立て出した。身じろぎをした首もとで、無骨な鎖がじゃらり、と鳴った。