46 リービッヒ冷却器(後編)
同日
「こんなものを淹れてみたんだけど」
「オレンジジュースですか?」
一通りの実験やその記録が終わったらしく、部屋から出てきた倉橋さんがお盆に乗せて出したのは、濃い黄色の液体である。柑橘系の……おそらくオレンジ系じゃないかと推測する。
「そうそう。まあ夏みかんの果汁を原材料にしているから、夏みかんジュースというのが適切かもしれないけどね。まあ、とにかく飲んでみてよ」
「有難うございます。では早速……」
「少しお待ち下さい、マスター」
そう言って遮ったのは、第一秘書班は3係の大萌江さんである。
大萌江さんは秘書としての日常業務に加えて、理科に関する造詣が深い(もちろん本職の理科班には及ばないが)ので、今回の大原家訪問に同行してもらった。
その大萌江さんが止めるとは、一体どうした事だろう?毒が入っている可能性は排除出来ないが、倉橋さんがそれをするようには思えない。だいいち、大萌江さんはこの飲み物の毒見すらしていないのだから。毒見がまだ済んでいないから食べるな、という意味だろうか。それならそれで問題ないのだが、大体こういう時は毒見をあらかじめ済ませておいているはずだ。いざ飲もうとしてから毒見を始めるのは、些か段取りが悪い。
「ふむ…特に問題はなさそうですが…この夏みかんジュース、とても濃いですね」と、少し酸っぱい顔をして大萌江さんが言った。
濃い、か。とりあえず毒とか、そんな素っ頓狂なものは入っている訳ではなさそうなので安心したが、何でまたそんなことが?
「ああ、気付いちゃった?そうなんだよ。この夏みかんジュース、リービッヒ冷却器で濃縮したものなんだ」
ああ、そうか。いや、話の流れ的にもここはリービッヒ冷却器の活用を図るのは当然の事なのだが、倉橋さんの場合、いくら研究一筋とはいえ、ふとした事で会話がすぐ横道にそれるので、すっかり普通のオレンジジュースかと思ってしまった。危ない危ない。
「ちなみに倉橋さん、どれくらい濃縮していますか?」
「70%は飛ばしたはずだから、最低でも三倍とかそこらだと思うけど」
「その言葉には間違いないようです。この時期の、大橋領内の比較的高級な夏みかんに換算すると、約3.7倍濃縮といったところでしょうか。比較的濃厚な甘みがあるので、いわゆる流通品の中ではかなり高いものと思われるため、この濃縮倍率はそうそうずれるものでないと推測されます」
倉橋さんの説明に、大萌江さんが補足をした。なるほど、結構高い夏みかんを使っているのか。それならなおさら頂かないと失礼なのかもしれない。
「大萌江さん、それは普通の人が飲んでも大丈夫なものですか?」
「人によりますね。これくらいなら『濃厚』の範疇にすませる事ができる人もいますが、マスターの場合濃すぎて飲めないかもしれません。とりあえず、一旦飲んでみてはいかがでしょう」
なるほど。確かに人の好みというのは一様ではないだろうから、実際飲んで見るというのは重要だろう。大萌江さんのアドバイスに従ってみる事とする。大萌江さんがグラスをこちらに渡したので受け取り、一口含む。
…………これはかなり濃い。確かに濃厚な旨味や甘味、そして強烈な酸味を味わう事もできないことはないのだが、それよりも喉にはりつくような濃さを先に感じてしまう。
「なるほど…確かに、これは飲むのがきついですね。勿論、好きな人はいるでしょうが」
僕自身薄味好きではあるが、濃い味にも普通に耐性はある。塩鮭は中辛くらいまでなら難なくいける口であるし、中華料理の万能調味料にしたって、多少入っているくらいなら、寧ろ好きなくらいだ
それでも、濃くて舌がひりひりする。
「そうなると、商品にはならないですかね」
「いえ大塚さん、これには大きなメリットがあると思いますよ」
大塚さんの意見に反対…というよりは判断材料を用意しようとしたのは、我らが誇る第一秘書班長、田名川さんである。
「メリットですか?」
「ええ。大塚さん、濃縮還元ジュースをご存知ですか?」
「はい。実際に飲んだことはありませんが…ということはもしかして」
大塚さんが何かに察したような顔をする。ああ、そういう事か。
「ええ。濃縮元の材料としてはかなり需要があると思います。水分を飛ばすことによって、運搬時のコストを飛躍的に下げる事が出来るのは勿論、水分を飛ばす事によって腐敗を遅らせる事もできます」
「なるほど…確かに、こんな高級な夏みかんを使ったジュースが、早く腐ってしまったり、どこでも手に入る水分のために運搬量が少なくなってしまったら良くないですからね」
田名川さんから紡ぎ出された意見に、大塚さんが納得したようだ。
「コールドチェーンを整備してしまえば、全国で売り出すことも出来そうですね」と、これは商務班商務係の船場さん。
コールドチェーンとは、要するに冷蔵庫にいれたまま運ぶ流通方法、例えば冷蔵倉庫や冷凍トラックといったものだから、この時代にコールドチェーンを整備するのは、大橋領内といえど一筋縄ではいかないだろう。
うちの場合は、冷蔵外付けアイボやら冷蔵アイボやらが冷蔵倉庫や冷蔵トラックの代替として使うことが出来るから、コールドチェーンの構築にはそれほど苦労しないだろうが。問題あるとすれば、各都市内のスペース確保くらいだろうか。
「なるほどなるほど…ただの思いつきで煮詰めてみたけど、思いの外これ自体に活用法がありそうだね」
そういって倉橋さんが熱心にメモをとった。思いつきで人に無茶苦茶濃いのを飲ませようとしていたのか。探究心が大きいのは大いに結構だが、少し倫理観というのがあっても良いと思う。
「リービッヒ冷却器だと、あくまで実験室レベルの量にとどまりますけどね」
「そうだね。まあ、量産は鈴ちゃんの仕事だから、鈴ちゃんと相談するね」
気体を生成するときも、実験室と工業ではアプローチが異なる。実験室ではコストはかかっても簡易な装置で出来るものを、工業では機構は複雑でも大量に作れるものを優先される傾向にある。きっと大原家内では、二人の立ち位置はそんな感じで微妙に住み分けているのだろう。
さて、出されたものは飲み干さねば失礼なので、ecで生成した水を要所要所で混ぜながら飲み干していく。…うん、普通に美味しい。やはり、濃すぎは良くないし、最適な濃さのジュースというのは何物にも代えがたい。
「美味しいですね。さすが高級な夏みかんを使った夏みかんジュース、といったところでしょうか」
「また、そんな事いっちゃって、普段から美味しい夏みかんを食べているんでしょう?試しに出してみてよ」
そう倉橋さんが冗談めかして返した。勿論ec産品は限界まで改良しているのだが…
「いや、自分で作ったものと、他人に出してもらったものじゃ、美味しさが全然違うじゃないですか。夏みかんにしたって同じことが言えると思います」
「本当にそうかな?美味しさというのは、相対的になりうる要素こそあれ、そこまで極端な差があったら、もうec産品以外は美味しいとは思えないんじゃ?」
僕の感想に、倉橋さんが疑問を呈した。それをつかれると結構痛いところであるのは確かだが、嘘は付いていない。実際、ec産品だけだとそれはそれで寂しいから、共存の道を探らないといけないのは本当だし。
「……まあ、それはそうかもしれないですけど」
「実際に食べてみた方が早いかもしれませんね。こちら、ec産の夏みかんとなります。どうぞ、お受け取りください」
そういいながら、田名川さんが夏みかんの入ったかご(駕籠ではない)を倉橋さんに手渡した。
「あ、有難うございます。では、後ほど」
そんなやり取りがありつつ、博櫛訪問は終了した。…結局鯛坂さんと会うことは出来なかったが、どこに行ったんだろう?
ところで。
今回は、こんなものを作ってみた。
[糖度計 Lv1
普通の糖度計。果汁等を検知部分に垂らすと、その糖度を測定する事が出来る。その仕様上、計測が完了するまでに3分ほどかかる。]
糖度計だ。工業部品も多くのものを工業班をはじめとする皆さんが作ってくれた事もあって、特にベースのない工業物品でも、難なく作れるようになってきた。特にこの糖度計、センサーも多く使われているので、そういうセンサー類も全て作成しているという事だ。今、工業班の仕事場まで行けば、手に入らない工業部品や工具はほとんどない。本当に、影での努力を怠らない人たちだ。
いつもお読み頂き有難うございます。




