44 裁判見学(前編)
1512年7月5日
「大橋に行きたい気分です」
「では、準備を整えておきます」
平凡な一日が始まる。
今日は、窓から確認する限りでは、この季節としてはかなり珍しい晴天である。梅雨明けにはまだまだ時間はかかると思うが、別に梅雨もずっと雨が降っている訳ではないしね。そして、折角の晴天、出かけたいと思っていた所だ。
「ところで、大橋に言ってどこに行きますか?」
「どうしましょうね。そういえば考えていませんでした。とりあえず大橋城に行きますかね」
お出かけは、これぐらい無計画のほうが楽しい。
さて、そんなこんなで旗ヶ野を出発し、今は駕籠の中にいる。ついでだから、今のうちにお菓子でも作っておこう。勿論かごの中にキッチンがある訳ではないので、作ると言ってもec産品であるが。
[フィナンシェ Lv10
良いバターと砂糖をたっぷり使った、美味しいフィナンシェ。個包装になっているので、落としてしまっても問題なし。]
今回はフィナンシェをチョイスする。フィナンシェにも結構曰くがあったりする。バターや小麦粉、砂糖や卵白といったリッチな素材で出来ているお菓子で、これはパリの金融街に店を構えるお菓子屋さんが初めて作ったものだそうだ。
金融街を闊歩するお金持ちというのは、とにかく時間がない。少しでも株式市場から目を離してしまえば途端に大損してしまう世界だ。で、そのお菓子屋さんは、そんな時間の無いお金持ちにも、美味しいお菓子を食べてもらおうと、片手で食べられるお菓子としてフィナンシェを開発したようだ。なので、手で食べてもベタつきにくいし、一口サイズで食べやすい。しかも、リッチな素材で出来ているだけあって、お金持ちが普段食べ慣れていたようなお菓子と全く変わらない味を楽しめる。
そうした利点もあって、瞬く間に金融街にフィナンシェが広がったようだ。前回持っていったお菓子は確かマカロンだったので、もう少しだけリッチなお菓子を選ぼうとしたら、フィナンシェが最適かな、と思った次第である。
そうこうしている間に大橋城の城門にまで来ていた。そして顔パスで通り、いつもの道順を通って、いつもの部屋にいく。複雑怪奇なこの道順も、何回か通ればなんとなく掴めてくる。恐らくこの曲がり角はショートカットできるな。
そしていつものように応接間に到着すると、そこには堀永さんがいた。
「ああ暖ちゃん。お久しぶり」
「お久しぶりです。初めてこの世界に来たとき以来でしたっけ」
「そういう事になるね」と、堀永さんが笑った。
確かあの時は、同盟を結んだ時に文面を作成したんだっけな。彼女の作成した文章には、中々苦戦した記憶がいる。頭の良さ、というのは色々な尺度があるが、転生メンバーの中で一番頭が良いのは誰か、と言われれば堀永さんだと思う。
「海ちゃんが、ちょっと席を開けていてね。といっても、私もこれから仕事があるんだけど」
「仕事、ですか。また法案の作成ですか?」
確か堀永さんは、法案の立案に優れていたはずだ。将来的な安定統治のために近代法のような法案を整備しているのかな?
「いや、そうじゃなく、裁判の方。奉行として、最高裁判決を下さないといけない」
裁判。そういえば、以前柿氏に訪問してきた時に、そんな事を双田さんが言っていた。
警察の業務は有木さんの、裁判所の業務は堀永さんの担当だと。そして、地方の奉行所で不服を申し出てそれが受理された場合、これを最高奉行所で判決を下す事が出来る、とも。
さらに、その最高奉行所の奉行が堀永さんである事も言っていたはずだ。という事は、堀永さんが担当する事件は、かなり複雑なものと見て間違いあるまい。
「なるほど。因みに何時からですか?」
「四ツ半(夏至周辺の朝四ツ半は10時半頃)からだね。今もう四ツ(9時45分頃)を回っているから、もうすぐ。だからもう出発しちゃうけど…見に来る?」
「いきますいきます」
僕が商学部志望である事は、以前紹介したかと思うが、少し法学部の方にも興味があったのだ。
商学や法学を学んだことがある方には耳にタコかもしれないが、商業と法律は切っても切り離すことが出来ない。悪徳商法と健全な商売の境目は、法律を破っているか否か、と言い換えても過言ではない。法令遵守、とかコンプライアンスとかいう言葉もあるが、とにかく、会計士の試験にも各種法律の把握は必要不可欠なくらい、商業と法律は縁深いのだ。
その影響で、日本にいた時の僕の自室には判例六法の他に、民法や商法、会社法の解説本を何冊か揃えていた。そういう訳で、この大橋領での裁判は、多少なりとも興味のあるところだった。
「分かった。傍聴券は一応毎回少しだけ取っているから、それを使うと良いよ」
「有難うございます。因みに何席分あります?」
そんなに席はないだろうけど、席が少ない時は、誰と一緒に見るか、悩む所だからだ。
「3席かな。これ以上は自由席の兼ね合いもあって厳しいからね」
3席。そうなると、傍聴出来るのは、僕を除けば2人か。そうなると…
「田名川さん、青木さん」
「はい」
約0.7オクターブ差で、2人が同時に返事をした。青木さんが結構高めの声をしているんだよね。高校生という事を考えると、自然なのかもしれないけど。
「貴方がた、一緒に傍聴していただけますか?」
多分この2人が適任だろう。田名川さんは、秘書として僕の安全管理に努めて頂きたい、という理由から。そして青木さんは、公務長として大橋領内の裁判事情に精通していて頂きたい、という理由からである。
「了解致しました」
「必ずや私と青木さんでマスターをお守りします」
そう言った田名川さんはとても頼もしかったが、奉行所で身の危険があったら逆に怖い。そんな物理的にお縄待ったなしのところで、まず事件は起きないだろう。自分で配置しておいて何だが。
30分後。
すっかり満席になった奉行所で、開廷を待っていた。裁判の内容等は一応レポートを読んでいるので、話についていけない、という事はないだろう。裁判、といっても、内容は刑事事件では無く、民事事件である。
「しかし、凄い人出ですね」
傍聴席を埋め尽くさんばかりの人が、裁判の始まりを今か今かと待ち続けていた。様々な世代や身分の人の世間話が聞こえてくる。島木屋さんとは、また違った社会観察が出来そう。
「何と言っても、天下の堀永さんが奉行ですからね。正確無比な判決と、悪をくじき正義を助けるその姿勢は、もうエンターテインメントといって良いです。傍聴券は少なくとも裁判が確定して、販売が始まった直後に売り切れといった有様だそうです」
なるほど、奉行がエンターテインメントか。それほど面白い奉行が期待出来るという事だろう。そんな傍聴券をちゃんと確保している堀永さんは、何というか抜け目が無いというか。いや、堀永さんが奉行なんだけど。
さて、そんな事を話している間に、いつの間にか四ツ半になっていた。双田さんもそうだったが、大橋では十二支による時間表示より、数字による時間表示の方が一般的なようだ。勿論、彼らに10時30分といっても、神造人間の皆さんと同じように堀永さん達も普通に反応出来る。
「静粛に」
そういって堀永さんが手を2回叩いた。それだけで、傍聴席中の人間が静まり返る。息をするのも許さない、というほどでもないが、少なくとも堀永さんが手を叩いてからの10秒間は、誰も息を吸い吐きしなかった。
そして私語が一切なくなった事を確認すると、堀永さんが着席した。着席したときのことりという小さな音が、奉行所中に響き渡る。
「これより、裁判を始める。まず事件の概要について原告、説明せよ」
そういって、傍聴席から見て左手側にいた男が立ち上がり、奉行である堀永さんの方に向かった。
「はい。私は、大橋より東に7里(28km)、玉鷲村の名主を務めております、久保田信介と申します。事の顛末を、順序立てて説明いたします。
事の顛末は昨年の10月、私が行衛屋から一枚の屏風を買った所から始まります。なんと世にも貴重な舞派の獅子舞図屏風、世間に出れば千両箱が1箱や2箱では足りない、という逸品でございます。そしてそれがなんと300両での販売、店員の後押しもあり、私はすぐに買うことを決意しました。しかし私とて田舎者、本物の舞派の作品など見たこともなく、本物かどうかも分からなかったため、このような特約を結んで、300両で購入する運びとなりました」
そういって久保田信介と名乗った中年男性は、書類を堀永さんに提示した。そしてこの書類の内容をオペラグラスで眺める。内容は概ねこんな感じ。
===久保田氏が提出した書類===
契約書
10月2日
購入者甲は、販売者乙に対し、300両を購入の対価として支払い、乙は甲に対し、300両の対価として、舞派の作品である絵画丙を引き渡す。
ただし、甲は丙が偽物であると判明した時、乙との取引を無かった事に出来る。
===
一見したところ、とてもシンプルな契約である。本文の第一行目は、ただ単に「絵画を300両で売るよ」という内容の確認である。そうなると、問題となってくるのは二行目、つまり『ただし』以降なのかな。そして、久保田さんは堀永さんが、その簡潔な書面を全て読み終えたと判断したのか、再び話し始めた。
「この特約によって、私には、偽物と分かり次第すぐに返品する権利が生まれた訳です。そして、そのまま本物と信じたまま、正月を迎えました。
そして来る今年の正月、年に一度玉鷲村に私の一族が集結する時に、美術に明るい、そちらの世界では少しばかり名のしれた私の弟に見てもらう事にしました。すると、なんとこの絵画が偽物であったではありませんか。一応弟の知り合いの、これまた名のしれた、黄灰寺殿にも評定していただいたのですが、黄灰寺殿の見立てでも偽物。
すぐさま私は返品しようと思いましたが、私にも正月付き合いがありますし、そもそも行衛屋自体も正月7日までは休業していたので、とりあえずゆっくり向かって、正月8日になればすぐに返品しようと考えていました。
しかし、正月の6日、私の家の倉が燃えてしまいました。原因は未だに分かっていません。炊事の火の不始末かもしれませんし、はたまた放火なのかもしれません。とにかく、それによって私の購入したニセ絵画は灰になってしまった訳です。
さて、そこで困ってしまったのは返品でございます。すぐさま私の弟の保証書と、黄灰寺殿の鑑定書だけを持って行衛屋に持っていった訳ですが、そこでの返答がさあ驚いた、『物がない以上偽物かどうかは判断が付かないし、万が一偽物だったとしても原本がない以上、契約書上返品は出来ない』。勿論これには私も憤慨するしかなく、即時奉行を申し立てました。結果としては悲しいかな、行衛屋側に立った判決となりました。これに即時不服申立てのちそれが認められて、現在に至るまでです」
ここで久保田さんは一旦言葉を切った。ついでなのでこの話もここで一旦切らせてもらう。
いつもお読み頂き有難うございます。
11/25 登場人物を一部修正、加筆。




