37 ルーレット、パティスリー
1512年6月6日
「賭ける所を選択してください」
「あまり倍率の高いところには賭けづらいですね、なかなか」
平凡な一日が始まる。
ここは、ビリヤード場の1F上、180階のカジノ場だ。
本棟180階にあるこのカジノ場は結構広く、フロアの1/3を占めている。そのカジノの場の中には、数々のカジノゲームが、ゆとりを持って配列されていた。各コーナーには、担当の女中さんが待機している。
そして、僕は今、カジノゲームの定番、ルーレットの前にいた。ルーレットには、担当者として、女中隊遊戯班の大戸さんがいる。そして僕が座る椅子の背後には、瀬戸さんと田名川さんが控えていた。
「うーん…どこにしましょうかね」
賭ける所を選ぶ前に、ルーレットのルールについて、おさらいしておこう。ルーレットは、1-36と、0に分割している回転体(何のことはない、まさしくルーレットのことだ)のどこに球が落ちるかを当てるゲームだ。
1から36までの数字は、赤地もしくは黒地に背景がそれぞれ18づつ塗られており、それもゲーム上重要な位置を占めている。なお、0は緑である。
それで、特定の数字を当てた時、36倍の掛け金が払い戻されるが、賭ける人(ここでは子とでも言っておこうか)は、特定の数字を当てるだけでなく、いくつかのルールのもと、ある程度幅のある予想が許されている。
例えば、奇数か偶数か(掛け金2倍)、赤か黒か(掛け金2倍)、18より前か、19より後か(掛け金2倍)、1-12、13-24、25-36のいずれか(掛け金3倍)、もしくは3で割った余りが0か1か2か、それから例えば1-3、7-9などといった3つの数字に入るか(掛け金9倍)、隣接した2つの数字に入るかどうか(掛け金18倍)。まあ色々な賭け方があるのがルーレットの魅力だろう。
そして、戻り率の問題だ。もし仮にルーレットの出目が完全に1-36、赤黒のみであれば、戻り率は100%で、試行回数が十分に大きければ、いくら賭けても得も損もしない。
しかし、実際のルーレットには緑色の0がある。この分は、あらかじめ0に賭けていない限り親の総取りとなってしまうので、戻り率は100%以下となる。ギャンブルとは常に胴元が儲かるように設計されている。
その上で、何を選択しよう。本当に悩む。
因みに今はチップを使ってゲームを楽しんでいる。ノーレートなので、大勝ちしても大負けしても全く財布に変動はないが、出来れば長く遊びたい。となると、一発勝負ではなく、寧ろ低倍率が自然か。
「では、黒で」
そう言ってチップを2枚かける。そしてルーレットの回転が始まった。回転が終わった時、球が入っていたのは…黒の所だ。見事当たったので、4枚手元に戻ってきた。
「じゃあ、今度は偶数で」
今度はチップを3枚かける事とする。するとまた当たり。偶数は2倍戻りなので、6枚のチップが返ってきた。その後も、2倍賭けを続けていたが、これがまあ面白いほど当たる。
「何か癖とかを見ているんですか?いや、マスターの運が良いのは重々承知していますけど、それにしたって、ルーレットは完全に運だえのゲームではないはずです」と、田名川さんが聞いてきた。
確かに、その指摘は正しい。完全に運だけの勝負に見えるルーレットだが、その実運だけが支配するとは限らない。一番大きいのは、回す人の癖だ。
どんな人にも、癖というものはある。なくて七癖なんて言葉もあるくらいだから、ルーレットを回転させるときにも個性が出て来ると考えるのが自然だろう。実際、上手い人は最初は2倍の定額賭けを何回かし、回転者の癖が見えてきたら一気にそれに伴う勝負を仕掛ける。
でも、それは本当に上手い人の思考だ。
「いえ。完全に、感覚のまま賭けています」
そう。僕みたいな素人は、そんな事を考えず、堅実に、賭け方を工夫して長く遊ぶしか無いのだ。
「そうですか…」と、田名川さんが腑に落ちない様子で返した。
この会話をしている間にもチップは増え続け、20枚あったチップはあっという間に100枚にまで膨れ上がっていた。
「マスター、上手くチップが増えましたね。ここまでチップが膨らんできたら、そろそろ高額賭けをしても宜しい頃合いかと」と、瀬戸さんが耳打ちした。
まあ80枚ほど稼いだし、そろそろ頃合いかもしれない。
「じゃあ、15に100枚賭けします」
そう言って、チップを100枚分、15と書いてある布の上に置いた。
よく見るとこの布、タペストリーで編まれている。この細かさは、きっと黒田さんだろう。本来なら契約条件に反するが…まあ、黙認して良いだろう。役立っているし、多分カジノ担当の要望で作られたのだろう。後で問いただす必要はあるかもしれない。
「宜しいんですね?」と、大戸さんが確認した。
確かに、さっきまでちまちまと二倍賭けしていたような人の賭け方とは思えない。そうでなくたって、36倍賭けに全てのチップを賭けるなんて正気の沙汰ではない。
「ええ、お願いします」
「分かりました」と言うやいなや、大戸さんはルーレットを回転させた。
ルーレットが回転し、球が入れられる。ルーレットの回転が止まった時、球は、15番に入っていた。
「おめでとうございます。36倍賭けに100枚でしたので、3600枚戻りです」と、大戸さんが100と書かれたチップを36枚、心なしか震える手で僕に渡した。
「これで3600枚になりましたね。次はいかがされます?」と、瀬戸さんが聞いてきた。
うーん、どうしようかな。もちろんこのまま賭け続けて増やすのもアリだが…
「そろそろお暇します」
「左様でございますか。今日はありがとうございました」と、大戸さんが頭を下げる。
「こちらこそ有難うございました。ところで」
一つ聞き忘れていた事があった。
「このベッティングシート、タペストリーですよね。このタペストリーってもしかして黒田さんから入手したものですか?」
「ええ。先日、何の気なしに絨毯展示室に行ったら、丁度これが飾られていまして。経理係本部まで行って持って帰っていいか聞いたら、快諾してくれたので、そのままベッティングシートとして活用しています」と、大戸さんが快活に答えた。
なるほど、そういう経緯だったのか。黒田さんも、自らの持つ絨毯技術を、迷惑ではなく役立てる形で活用しているようだ。
「有難うございます。では、これにて失礼します」
こうして、カジノ場を去った。
そして、少し小腹が空いたので、喫茶室に移動することにする。ここから最寄りの喫茶室といえば、171階にある第15喫茶室であろう。
ところで、一般的な喫茶室は喫茶店をイメージして作られているが、日本においていえば、珈琲を提供するのは何も喫茶店だけに限らない。
街中のパン屋さんやケーキ屋さんには、ついでに珈琲と喫茶スペースを提供しているところもさして珍しいものではない。そういうパン屋さんやケーキ屋さんがある事を鑑みて、第15喫茶室は、ケーキ屋をイメージした部屋になっている。…いや、ケーキ屋というよりパティスリーといった方が適切かもしれない。
エレベーターを上り、扉が開き、171階につけば、もう第15喫茶室は目の前だった。
「いらっしゃいませ」
そういって応対したのは、第一喫茶班15係の横尾さんである。
ここ、第15喫茶室は、第一喫茶班15係と第二喫茶班15係が共同で管理している。共同で管理しているだけあって、いくら班別に普段活動しているといっても、少なくともこの喫茶室の中ではどちらの班がどの時間帯になっているかは、分かりやすく分離されているわけではない…例えば第一喫茶班の方が昼勤で、第二喫茶班が夜勤であったりはしない。
しかし、どちらの担当時間であったとしても、ここのケーキやその他フランス菓子が美味しくないことは決して無い。
今回は秘書班の面々を引き連れているので、テーブル席に座ることとする。4人がけの席だ。窓際の席に座ると、その右隣には田名川さん、正面には瀬戸さん、斜向かいには藤山さん、そしてお誕生日席には大塚さんが着席した。別に大塚さんが誕生日な訳ではないが。
そして、テーブルにおかれたメニューを見る。このメニュー、例えば3月末に第44喫茶室で見たようなメニューと大きな違いが一つ有る。
まあ、値段がついている、とそれだけの事なのだが。使用人の皆さんへの給料支払いが始まってから、全てのメニューに値段がついた。といっても、僕に関しては特に値段を気にせずに自由に頼めるので、好きな分だけ食べることが出来るのだが。
さて、このメニュー、飲み物のメニューは実に普通である。珈琲豆はブレンドしかなく、それのホットとアイス、そしてミルクや砂糖のありなしが選べる程度だ。
一応カプチーノマシンはあるようなので、カプチーノを頼むことは出来るが。紅茶に関しても茶葉はアールグレイとセイロンだけだ。そしてストレートの他、レモンティーとミルクティーが選べるという、某清涼飲料のようなラインナップである。
後はオレンジジュースとアップルジュース、ぶどうジュースにレモンスカッシュ、コーラに牛乳というありふれたラインナップ、といっても差し支えない。
ただ、お菓子の多さに関しては、他の追随を一切許さない。ショートケーキにチョコレートケーキ、フルーツタルトにモンブランにシュークリームといった普通のケーキ屋にあるようなケーキは勿論のこと、ミルフィーユにフォレ・ノワール、タルト・オ・シトロンにオペラ、マルジョレーヌといったような聞いたことがあるような無いようなケーキが、ページから溢れそうになるくらい掲載されていた。これだけ多いと、どれを食べようか悩み物だ。
「じゃあ、フレジエとレモンスカッシュを」
悩んだ末、この二つにする。レモンスカッシュは喫茶店の飲み物として象徴的な飲み物だったのでチョイス。
後、さっきまでカジノに興じていたので、そんな大人の雰囲気の余韻を味わいたい、というのもある。そしてフレジエについてなのだが…この喫茶室はケーキ屋をイメージしているので、ある程度名前の聞いたことのないケーキであっても、ショーケースを見ればどんなケーキなのか分かるので、ショーケースを遠目に見て、一番おいしそうなものにした。
「あ、私もフレジエを。飲み物はオレンジジュースで。マスター以外の注文は使用人仕様でお願いします」
瀬戸さんもフレジエを選択したようだ。使用人仕様、というのは超低カロリー加工の産品の事である。ちゃんと分けておかないと、大変な事となる。といっても、僕はカロリーが長期間摂取できないとしても別に死にはしないし、神造人間にとっても、必要カロリー量を大きく超過したとしても、必要な分以外は特殊な脂肪などに変換して溜めておく事が出来るので、少なくともこの領内に関してはさして問題はないのだが。
「私はレーヌ・ド・サバで。飲み物は、アイスコーヒーをブラックでお願いします」
大塚さんはブラック派らしい。ショーケースの方を見ると、レーヌ・ド・サバも何やら黒っぽいケーキのようだ。なんとなく分かる気がする。
「ピティヴィエ・フォンダンをお願いします。それから牛乳」
藤山さんはそんな組み合わせだ。ケーキに牛乳か。意外と合うのかもしれない。
「では、私はフランとミルクティーをお願いします」
田名川さんはそんな注文をした。ミルクティー、か。フランは遠目に見たところ、茶色っぽいケーキのようだ。
「かしこまりました。すぐにお持ちしますので、しばしお待ち下さい」
3分後、ケーキと飲み物を乗せたお盆を持って、女中さん…因みに横尾さんではなく、同じ班の川崎さんである…がやってきた。そして各席に間違いなく配分されていった。ふと手前の方、すなわち自分の頼んだ物を見ると、そこにはレモンの輪切りが目に優しい飲み物と、ピンクのケーキがあった。間違いない、レモンスカッシュとフレジエだ。
フレジエはどんなケーキか。簡単に言えば、イチゴのケーキだ。そういうとショートケーキの同類に感じるかもしれないが、表面が生クリームに覆われていないだけあって、かなりしっかりしたフォルムのケーキだ。フォークで切って、一口食べてみる。
…うん。中にあるイチゴが美味しいのはもちろんだけど、クリームが美味しい。中側にあるクリームも、ショートケーキと同じ生クリームではなく、カスタードクリーム主体のクリームだ。でも、これはカスタードクリームオンリーではない。何が合わさってるんだろう?生クリームでは無いし。
「中のクリームが美味しいですね。フレジエ。これは多分カスタードクリームとバタークリームをあわせたものですかね」
瀬戸さんがそんな感想を漏らす。そうか、バタークリームか。そう言われれば、懐かしい味がする。商店街のケーキ屋さんが扱っていたケーキのような味だ。
「このピティヴィエ・フォンダンもなかなかです。アーモンドの香ばしさがスポンジの美味しさを引き立てています」
そういって藤山さんが食べているピティヴィエ・フォンダンも美味しそうだ。ケーキに牛乳、というのも一瞬どうかと思ったが、アーモンドの香り引き立つスポンジと一緒に食べるなら、確かに牛乳は適役かもしれない。
「レーヌ・ド・サバもアーモンド風味ですね。それがチョコレートとよくマッチしています」
大塚さんもそう言いながらケーキを頬張った。そうか、レーヌ・ド・サバもアーモンド風味なのか。フランス菓子のアーモンドの採用率を調べてみても面白いかもしれない。あ、ブラックコーヒーは遠慮しておきます。
「シンプルですが、フランも美味しいです。カスタードを生地に敷いたタルトといった感じですね。甘いケーキに、無糖のミルクティーは相性ぴったりです」
田名川さんがそう言いながら食べているフランは、取り立てて特徴のないケーキだ。日本のケーキ屋さんならまずどこでも入手できるであろうフルーツタルトから、フルーツをそっくり取り除いたようなケーキ、とでも言えば良いだろうか。そんな、地味と言っても良いケーキだが、そのシンプルさ故に、恐らく製作や改良に多大な労力がかかるのであろう。シンプル・イズ・ベストとはよく言ったものだ。
いつものメンバーが感想を言い終えたところで、レモンスカッシュに手を伸ばす。…うん。すっきりとした甘さと、炭酸が口に広がる。…こんな感想を以前も口にしたような。確かあれは、レモネードに関しての感想であっただろうか。
「横尾さん」
「はい、どうかされました?」
テーブルの掃除をしていた横尾さんを呼び止めると、それを一旦中断して、こちらに向かってきた。
「いえ、一つだけ質問を。レモネードとレモンスカッシュの違いとは、何ですか?」
「ああ、その事ですか。実はかなり単純な違いで、炭酸ありのレモンジュースがレモンスカッシュ、炭酸抜きがレモネードなんです。それ以外の違いは特にありません」
「ほう」
という事は、以前僕は『炭酸ありのレモネード』という表現を用いたが、それは正しくなくて、実際はそれはレモンスカッシュだったという事か。
「なので、レモンスカッシュを作って提供しているような店では、裏メニューとしてレモネードを置いてある事もあります。もちろんここ第15喫茶室でも、レモネードの注文を受け付けています」
「ほう」
そして、その後も雑談は続き、また残ったチップを使ってルーレット場で遊んだりして、平凡な一日が、今日も終わった。
ところで。
今回は、アーモンドを作った。ピティヴィエ・フォンダンやレーヌ・ド・サバなどに使われていたので、よく印象に残ったのだ。ところでアーモンドといえば、既に煎られているアーモンドを想像する人も多いとは思うが、今回作ったのは生アーモンドだ。
[アーモンド Lv12
よく育った、普通の生アーモンド。煎って食べると美味しい。砂糖がけでも、塩がけでも。]
確か、毒殺された被害者の口元を嗅いだら、アーモンド臭が漂っておりそれにより青酸カリによって毒殺された事が分かるシーンが推理小説やテレビドラマなどにあるが、あれは実際には生アーモンドの香りだったはずだ。結構モモのような香りが特徴だが、生食はくれぐれもしないように。




