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ec経済観察雑記  作者:
42/66

32 商売拡大の是非

1512年5月16日


「島木屋さんへの卸売以外にも、小売業界への参入を図るべきだと思うんです」

「小売業界への参入ですか」

 平凡な一日が今日も始まる。


 ここは執務室。

 今日ものんびりと作業しつつ書類に目を通していたら、商務班の川口さんがやって来て、前述のような小売業界への参入を訴えた。


「その必要性が今ひとつ見えないのですが」と、これは藤山さん。

 確かに、島木屋さんに卸すだけで、ec産品の十分な供給は出来ているように見える。そんな藤山さんに、川口さんが反論する。


「いえ、今の島木屋さんオンリーへの投資は、二点問題があると言わざるを得ません」

「問題…ですか」と、これは大塚さん。

 彼女自身少し頭に思い浮かんでいるものがありそうな気もするが、あくまで川口さんの出方を見守る構えのようだ。

 その反応に触発されたかのように、川口さんが返す。


「ええ。今から順にご説明したいと思います。片倉さん、あれを」

 そういって同じく商務班3係(川口さんも3係である)の片倉さんが、ホワイトボードを持ってきた。

 ホワイトボードには、磁石にくっついた…紙芝居のようなものが付いていた。紙芝居のようなものをよく見ると、そこには、プレゼンテーションソフトで作った資料を印刷したかのようなフリップがあった。




===フリップの内容===

有効需要の喪失

価格破壊効果の減少




 なかなか凝ったことをしますね。そうこうしている間に、川口さんが説明を始める。


 こうすると、学校で作ったプレゼンテーションを思い出す。学校内のパソコンの内蔵フォントがあまりに少なく、仕方なくOSオーエスStandardスタンダードゴシック Pピーというフォント(多くのパソコンに内蔵されている、かなり粗い画素数でも読めるようにしてあり、かつ字間を揃えずに可読性を向上させたフォント)を使っていた記憶が蘇る。

 だが、それと決定的に違う事があるとすれば、今眼前にあるフリップが、スタイリッシュで、それでいて可読性の高いフォントが採用されている所であろう。

 そして遠目からは判断が付かないが、これは恐らく印刷ではなく、手書きだろう。手書き特有の温かみが、フォント特有の正確さと奇妙な融合を果たし、見るものに一種の高揚感を与えていた。


「まず、『有効需要の喪失』についてお話したいと思います。マスター、島木屋の商圏はどれくらいか、ご存知ですか?」

 商圏人口、か。普通に大橋領全体かと思う。


 商圏とは、一言でいうと、『どれくらいの範囲の顧客が店まで来て買い物をしてくれるか』という範囲である。

 例えば、商店街の八百屋さんなら、商圏はたかだか半径300mとか、多くて500mといったところだろう。しかし、これが本屋になると、半径1-3kmくらいまで広がる。紳士服店などはもっと広く、デパートなら県内一円、ターミナルデパートなら沿線全て。銀座や原宿などに店舗を構える所では、日本全国を商圏としている所もあるという。

 ちなみに、土産物屋はたとえ日本全国各地かた来た観光客が商品を購入していたとしても、日本全国が商圏とはならない。あくまで、日常的に集客出来ている範囲、というのが肝だ。


「大橋領一円では?以前店に来た時に、農村の方らしき人も来ていましたし」

 あの時には、丁稚や奉公人だけではなく、農家のおかみさんのような人もいた記憶がある。その回答を見据えていたように川口さんが流暢に返答する。


「ところがそうではなく、商圏はせいぜい美流全域と巴坂、大橋城、それから博櫛などのごく近隣の農村部だけなんです。基本的に美流に店を構えるところは、どこもそれくらいが商圏となっているんです」

「そんなに狭かったんですね。徒歩や馬以外の交通手段が無いことを考えれば、それも自然かもしれませんが」

 例えば鉄道とかが開通すれば、あの立地だ、商圏は跳ね上がる事間違いなしだと思う。それでも、戦国時代という時代背景は、先進的な取り組みをする百貨店の商圏を縮めるには十分だったようだ。

 大橋領内の人口は40万とかそこらなので、もしもっと商圏人口を広げたいならば、多店舗展開をしなければならない。


「つまり、島木屋さんへの販売だけでは、全ての『ec産品を購入したい層』にはカバーできないという事ですか」と、藤山さんが聞く。

「ええ、その通りです。ここまで、何か質問ございますか?」

 川口さんが一旦話を切るが、特にここまで質問は無い。周りを見渡しても、質問をしようとする人はまだいなかった。


「無いようでしたら、次の説明に進ませていただきます。『価格破壊効果』の減少についてです。基本的に、島木屋さんは営利を追求する営利団体であると同時に、需給バランスに翻弄される仲介者でもあります。例えば、マスターが、今のまま米価を暴落させたい場合は、どうしますか?」

 米価を暴落、か。色々方法はあると思う。


 例えば、パン食を普及させれば、米の需要量が下がり、必然的に米価は下がるだろう。同じように、米へのネガティブキャンペーンを行っても有効だろう。考え方によってはネガティブキャンペーンの方が暴落させやすいかもしれない。

 でも、彼が言っているのは多分そうした類いのものでは無いのだろう。これらの意見は、全て需要、すなわち消費者側を操作する方法だ。そうではなく、ec産品を大量に生産するいわば生産者として、最も手っ取り早く米価を暴落させる方法は…


「島木屋さんに大量に卸します。相手が拒んでも、無料で二倍にするみたいな方法を駆使して、短期間で大量の米を、島木屋に送ることにします」

「そうですね。生産が多くなり、それによって需給のバランスが崩れ、価格は暴落します。しかし、この方法だと、一つ欠点があるんです」と、川口さんが満足そうに頷くとともに、新たな質問を振ってきた。


「欠点、ですか」

「ええ。島木屋さんが、大量需要に合わせて値上げを実施する可能性です。特に我々は島木屋さんにメーカー希望小売価格を掲げて取引している訳ではないので、島木屋さんが値上げをしても拒めません」

「ついでに、島木屋さんなら、需要と供給を読みきって、世間で言う適正価格…それはすなわち我々にとっては少しだけ高めの価格で販売されると思います。紺原さんのチート能力を見る限り、我々にはその確証があります」と、先程フリップを準備した片倉さんが補足した。


 なるほど、確かに紺原さんならしかねない。実際出来る能力もあるだろうし、店を大橋で一番店、いや中島皇国のなかで一番店にしよう、という目的も有る。何より島木屋さんには、間口が狭い。これ以上客足が増えれば、身動き取れない状態にもなりかねない。

 島木屋さんは3フロアによる営業で他の商会と変わらないくらいの延床営業面積を確保しているが、それでも、扉はそれほど広くしていないし、エスカレーターや階段も多いとはいえない。お客さんの数をコントロールするために値上げを行う事は十分あり得るだろう。


「以上、2つの理由により、島木屋さん以外にも販路を開拓すべきだと主張します。いかがでしょうか」

 ここで川口さんが言葉を切った。

 今までの主張内容をもう一度思い出してみると、有効需要の喪失、という面はもちろんのこと、価格破壊効果が薄れる、という意見は理に適っている。理に適っている、のだが。


「価格破壊効果の減少を問題点とする事には反対します」

「『価格破壊効果の減少を問題点とする事に対する反対』ですか。一応理由をお聞かせ願って宜しいですか?」と、川口さんがいくらか興味ありげに聞いてきた。

 おそらく、己の理論だった説明を、どのようにひっくり返すのか、というような興味だと思う。


「そんなに難しい話ではありません。『価格破壊はほどほどにね』という話です」

 確かに、価格破壊効果が高まれば、消費者の生活は豊かになるだろう。農民に話を限定したって、今まで雑穀と大根くらいしか食べられなかったのが、他の副食物が安くなれば、それに伴って色々な、例えば魚とかを食べられるようになるだろう。


 しかし、大橋領内の庶民の大多数である農民は、農作物を売って生計を立てている事を忘れてはならない。つまり、野菜や米が大幅に価値が下落した時、一番損害を被るのは彼ら農民なのだ。

 後は実は米によって税を徴収している双田さんも結構危ないが、ここでは一旦置いておく。とにかく、価格破壊の具合があまりに酷いと、一般庶民の生活を助けるどころか、生活すら破壊する事にも繋がる。

 あとは当然、価格破壊は商業にも再起不能となるダメージを与える事にもなりかねない。某大型商業施設の出店により生まれたシャッター街など、特筆する必要もないだろう。まあそれらの商店街の場合、その構造的な問題が衰退をもたらした面もまた有るわけだが。


「なるほど…つまり、『現在の価格構造である事を利用して生活している人が大多数な以上、その価格変化があまりに急激だと、それらの雇用が失われてしまう』と仰りたいわけですね」

 その川口さんの確認に、僕は首を縦に振った。その反応を確認して、川口さんが再び口を開く。


「…わかりました。では、これからも島木屋さん一本でやっていきましょう。確かに、島木屋さんの価格調整のバランス感覚は目を見張るものがあります。きっと島木屋さんなら、マスターが望む価格変化を容易に引き起こしてくれるでしょう」

 そういって川口さんと片倉さんが一礼し、フリップを片付けようとしていた。その背中は寂しげで、少し見ていられなかった。でも、彼らは一つ、勘違いしている事がある。


「ちょっと待って下さい。今までの会話の流れをお忘れになっていませんか?僕は確かに二番目の理由には反対しましたけど、最初の理由については全面的に賛同しますよ」

 その一言に、片倉さんが手を止めた。それと同時に、川口さんが振り向き、こちらの顔色を伺った。

「最初の理由…そういえばそうでしたね。では、『有効需要の喪失』については危惧している、と考えて宜しいでしょうか?」


「ええ。そのために、直営の販売店を各所に設けるのはありかもしれません。当然、価格は島木屋卸売価格よりもいくらか高めにしまして。そうなると、どういう影響が考えられるか、商務班で調査をお願いできますか?」

 その言葉に、川口さんは途端に目を輝かせた。後ろの方に目線を下げてみて、片倉さんの方を見ても、同じように目を輝かせていた。

「了解致しました。頂いた業務、必ずやこの川口と」

「片倉が誠心誠意調査してまいります。可及的速やかにご報告致します」

「よろしくお願いします」


 こうして、平凡な一日が終わる。

いつもお読み頂き有難うございます。

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