29 デビッドカードのようなもの
1512年5月9日
「じゃあ、これだけお預かりします」
「よろしくお願いします」
平凡な一日が、今日も始まる。
ここは本棟155階、第一銀行室。もともと中会議室だったのを、以前の給料支払決定に伴って改装したものだ。
ここに多くの人が、預金をしに集まっていた。
「しかし、給料を支払っても、その殆どが預金に回っちゃいますね。この長蛇の列を見る限りだと」
この銀行室には窓口が3つある。元々の目的としては、預金、引き出し、貸出とその他金融商品取扱いの3つの業務を分担する事だたが、あまりに預金が多いので、現在は預金の窓口を2つにして、その他の案内を残りの窓口が担当している。
使用人への給料は、現金不足感を使用人の皆さんに感じさせないために現金で支払われているが、この長蛇の列を見ると、もしかしたら振込支払いの方が良いのかもしれない。
「そんな事もないですよ。例えば私の通帳を御覧ください」
そういって通帳の中身を見せたのは、女中隊995班の落合さんである。
中身を見ると、4月23日の入金から5月9日の入金まで、何回か少額で引き出ししている形跡が見える。具体的に言えば4月26日に40文、5月1日に58文、同月4日に4文といった具合だ。振り込み引き出しに関して手数料を設けていないので、勿論こういった使い方は全く問題ないのだが…
「必要な時に必要なだけ引き出しているわけですか?それなら、少額の現金を持って生活し、足りなくなった時はある程度まとめて引き出した方が良いのでは?」
「…?ああ、もしかしてマスター、ご存知ありませんか?屋敷内での一部施設では、通帳マネーが使えるんです」
通帳マネー?また気になる単語が…って、あれか。
「そういえば見かけたことがある気もします。確か、レポートに載っていたような…」
僕はお金を出さなくても必要な物品は何でも、屋敷内なら手に入るのでそうした支払いシステムはあまり身近には感じないが、確かに「通帳マネー」という概念はレポートに記載されていた。その時の記憶を基に、軽く説明しよう。
通帳マネーとは電子通貨の一種であり、現金を持っていなくても、通帳を持っていればそのままそこから引き落として支払いに充てられる、といったものである。
通帳読み取り機を色々な所に配置することで、そういった事を可能としている。
「それです。私の所属する部屋のすぐ近くに、通帳マネーが使える部屋があるので、こういうライフスタイルが可能となります」
これが出来る事で、通帳にお金さえ入れていれば、現金フリーで屋敷内では生活することが出来る。
「って事は、もしかして大量に貨幣を鋳造した理由はあまり無かったわけですか」
現金が無くても、通帳マネーさえあれば、問題なく給料を支払えるからだ。もちろん安心感を生ませるため、という理由が完全に潰えている訳ではないが、それにしたってこれだけ通帳マネーが通用している現状、その理由付けすら疑わしい。
「そういうわけにもいきません。この通帳マネー、確かに屋敷内の一部施設で流通していますが、それだけではこのお金をオカネたらしめるには足りません。このオカネ…いわば通貨は、他の信頼するに足りうる通貨と交換出来ないと、これは信頼できる通貨とは言えません。このお金は、いつでもこの第一銀行室で大橋領内で流通する貨幣と交換できる必要性があります。言うなれば、小判本位通貨です」と、落合さんが理路を立てて語った。
なるほど、小判本位制か。少し金本位制の話をしなくてはいけないかな。
金本位制とは、金を価値のよりどころにする、という通貨制度の事だ。例えばニクソン・ショック以前のアメリカとかが馴染み深いだろう。この金本位制下においては、例えば35ドルと金一オンスを交換できる、と定めておく。
もしくはこの例えが分かり辛いなら、例えば一万円を金3gを交換できる、と言い換えても良い。この言い換え先の制度で例えてみると、一万円札には常に金3g分の価値がある事を意味している。
つまり、銀行は求められればいつでも一万円札を金3gと交換しなくてはいけないし、国は銀行の要求を受けて、同じように一万円札を金3gと交換しなくてはいけない。
金と紙幣が問題なく通用している限り、人々は何の疑いもなく、「このお札は金3gと交換できるから、この紙幣には金3g分の価値がある」としてこの紙幣を流通させる事が出来る。
つまり、言うなればこの金本位制における紙幣は、金の代替品に過ぎない。この通帳に話を戻すと、通帳が何の疑いもなく通用しているのは、この通帳の数字がいつでも金貨や銀貨、銅貨に、銀行室で交換出来るからに他ならない、と彼女は言いたいわけだ。確かにそのとおりだろう。
「なるほど、それなら現金を沢山用意していないといけませんね。無いとは思いますが、万が一取り付け騒ぎが起こったら目も当てられないので」
この、一見便利で信頼もおける本位制度の弱点は、「本位通貨の備蓄が十分に無いと、本位制度が立ち行かなくなる」という点だ。
例えば金本位制度の場合、国は十分な量の金を備蓄しておく必要がある。原則としては流通している紙幣が全部交換しても足りるくらいの金備蓄が必要だが、そんな量の金を備蓄出来る事はまずない。何故なら、経済活動の増大に伴って、流通する通貨の量も増大する運命にあるからだ。
なので、全ての求められた紙幣を金と交換する事が難しくなり、その結果、21世紀の地球ではほぼ全ての通貨が「信用通貨制」へと移行した。信用通貨制とは、物凄くざっくりいってしまえば、紙幣に何の後ろ盾も与えない、あるのは政府からのお墨付きと世間からの信用だけ、という制度の事だ。
この場合、金貨などと違って、政府以外の人間がみだりに発行することは出来ない。当たり前だ、と思われるかもしれないが、もし政府通貨が「金と交換出来る」という点だけをもって価値があるとするのであれば、例えば金貨を勝手に発行したとしても、含有量が同じであれば全く政府発行貨幣と同じ価値を持つことになる。
ところがただの紙切れが、「皆が信じているから」その瞬間価値を持つのだとすると、偽金は許されない。仮に一万円札と全く同じものを作ったとしても、(少なくとも経済学上は)一万円札の代わりたりうる事は出来ないのだ。
つまり、繰り返しになるが、信用通貨制においては、現金というのは政府もしくはそれに準ずる機関が全て鋳造・印刷するという訳だ。政府が発行量を完全にコントロールする事が出来るため、管理通貨制度と呼ばれることもある。
話を戻そう。つまり、この通帳マネーも小判本位制を採用している以上、万が一のときに備えて小判や一文銭の備蓄が必要だという話だ。
そもそも、使用人の皆さんにそういった通貨に換えてもらって、屋敷の外で使ってもらわないと給料をあげた目的が十分には果たされない。なので、積極的に現金を使って欲しいものだ。
「そうですね。もう少し現金を積極的に使っていきたいものです」
こうして、僕たちは落合さんとともに第一銀行室を去った。結局、第一銀行室に滞在している間、行列が途切れる事は無かった。
折角なので、どんな使い方をしているのか、折角落合さんと一緒にいる事だし、落合さんの所属する995班4係に割り当てられた小会議室まで行く事とする。女中隊995班は、本棟3207階に小会議室が割り当てられている。なので、そこまでエレベーターで登ることとする。
「995班ですか。確かそこって自由班ですよね」と秘書班の伊敷さんが確認する。
「ええ。994班が最近秘書班に新しく割り当てられましたが、995班はまだ自由班です」と、落合さんが少し落ち込んだような様子で答えた。
さてここで班の仕事分担について、少し説明しておこう。班には、業務内容に応じて、名前がついている所がある。
例えば女中隊31班には第一秘書班という名前がついている訳だ。これらの名前がついている班のメンバーの主要業務は、その名前に関する仕事だ。
つまり、秘書班の場合は僕の身辺管理が主業務、という訳である。そして、名前がついている所がある、という事は、名前がついていない所もある、という事に他ならない。
そういう班は自由班、と呼ばれ、基本的に人員の足りない所で仕事をしたりする。運良く隙間の仕事を見つけたり、もしくは一定の仕事で占有権が認められたりすると、その班に名前が付けられたりする。とは言っても、さきほど簡単に『運良く隙間の仕事を見つけたり、もしくは一定の仕事で占有権が認められたりすると』といったが、これは簡単な事ではない。
なぜかというと、神造人間があまりにハイスペックであるからだ。要するに、一見縦割り業務的に見えても、他の関係する班と共同したり分担したりして作業を行ったり、あるいは関係ない隙間的業務もついでにやってしまう事が多々あるのだ。
そうした中で、自由班が新たな仕事を発見するのは容易ではない。なので、各所で名前付きの班と自由班により、仕事の奪い合いが勃発していた。
もちろん名前付きの班の間でも、業務量の少ない班は多い班から業務を少々掠め取ったり、境界線上にある仕事を奪い合ったりする事はあるが、自由班の争いはそれを大きく超越していた。とにかく仕事を取らないと、無能認定されてしまう、というような危機感があるのかもしれない。
そんな事を言っている間に、小会議室が見えてきた。女中隊995班4係小会議室だ。中に入ると、4係の面々が、3人集合していた。3人は、部屋中央に置かれたちゃぶ台を囲っていた。
「あれ、大峠さんはどこへ?」
4係のメンバーは落合さん含めて5人。座っていたのは3人であるから、確かに一人不足である。
「大峠さんならお手洗いにいかれましたよ」
神造人間もお手洗いにいく。つまり、消化のメカニズムとかは、普通の人間と変わりない、という解釈で良いのだろうか。
そうだとしたら、何故そんな高エネルギー倍率で吸収する事が出来るのか、なおさら不思議になってくる。いっそ核分裂とかしているのであれば、エネルギー量の計算という意味ではずっと楽だったのに。
「ああ、じゃあすぐに戻りますね。マスター、少々お待ち下さい、そしてこちらへどうぞ」
そうして、小会議室の一番奥に着席した。この角度だと、部屋全体を見渡すことが出来る。
この部屋は、厳密には一つの部屋で完結しているわけではなく、隣の部屋…角度的には995班3係小会議室である…とパーテーションで仕切られている。恐らく、多人数で使用する時はこのパーテーションを取り外すことによって12畳のスペースを確保出来る、という事だろう。
ただ、今はパーテーションのある角に箪笥が用意されていた。恐らく業務で使うような物を入れているのだろう。他の面を見てみる。
まず目に付くのは、会議室に一つ設置されている学習机だ。机の上には大学ノートとレポート用紙があり、この部屋で事務作業などが行われている事もまた感じる。
そしてその他に、本がかっちりと並んでいた。内容はかなりばらばらで、「栄養生理学」「寄生虫予防のポイント」「蒸気機関と蒸気機関車工学」「索道とインクライン」「林地学」「基礎からの撫育作業」などといったタイトルが並んでいる。出版社はどれも公務隊のようだ。恐らく各人が購入したものが、そこに並んでいるのだろう。
「あの本は、皆さんがご趣味で買ったものですか?」
「ええ。栄養生理学とか、そういう食品衛生に関する本は私のものです」
そう答えたのは、落合さんである。ふと、「栄養生理学」を手に取り、裏の値段を確認してみる。58文。また、「寄生虫予防のポイント」が40文。そして、この数字には見覚えがあった。そうか、書籍も通帳マネーで購入できるのか。
あと特に目についたのは、オルゴールだろうか。
オルゴールが稚げで、それでいて哀しげな音を奏でていた。恐らくオルゴールとかも給金で購入したものなのだろう。その他には、壁掛けの、備え付けの鏡があったり、カレンダーがあったりで、普通の個室、といった佇まいである。そして、そうしたもの以外に給料の使用状況を把握する事が出来る場所といえば…
「箪笥の中身を拝見しても…?」
「構いませんよ」
許可を取り、箪笥を開けた。数段分見る限り、どうやら各人の趣味を満喫しているらしい。
趣味の用具の他にも、櫛や歯磨き粉、シャンプーなんていうのもあり、使用人の生活をうかがい知る事が出来る。
そして使用済みのノートである。どんな事が書いてあるか気になったので、少しページをめくってみる。しかし、一枚捲ったその瞬間、僕は一瞬空気を捲ったような錯覚に出会った。
そして、その錯覚が別に錯覚でもなんでもなく、ただ単に落合さんがノートを回収しただけと気づくまでには時間がかかった。
「すみませんが、ここには何人たりとも見てはいけない情報も御座いますので、ご閲覧はご遠慮ください。最悪、見るとマスターの安全が侵されます」
「は、はい」
僕に見せられないなんて、どんな内容なのか逆に物凄く気になったが、そのままそのノートは箪笥の奥深くに仕舞われてしまった。まあ使用人の皆さんにもプライバシーがありし、そのノートの事は諦め、暫く雑談をした。
その話によれば、給料に見合った金額の売店が用意されており、必要な物品は基本的にはすぐに手に入る、との事だった。その事に安堵しつつ、平凡な一日が今日も終わっていった。
ところで。
今日は、一文銭を量産してもらうために銅を量産して、大橋鋳造所まで送った。というのも、女中隊995班の小会議室を見る限り、高額商品をがっつり買うのではなく、少額商品を少しづつ買っていくのが使用人の皆さんのライフスタイルで有ることが分かったからだ。
通帳マネーも便利で良いが、外に出ればそういった少額貨幣がもっと重要になってくるだろうし。
いつもお読み頂き有難うございます。
次回更新は7/6を予定しています。




