17 ベルガモット、迷宮隊の帰還
1512年3月28日
「ベルガモットはいかがですか?」
「それってシトラス系のあれでしたっけ」
平凡な一日が今日も始まる。
今日は雲の割合が5-6くらいの、天気図で言うと晴れ。
一応解説しておくと、天を半球と捉えた時に、半球の8割を雲が覆っていたら曇り、それ以下なら晴れ、2割以下なら快晴、雨が降っていれば雨だ。「雲」と「曇」は特に間違えやすいので、読者の皆様の中にもし万が一小中学生がいるとしたら、少し注意してみて欲しい。
話を戻そう。今は本棟34Fの第4談話室で寛いでいる。
談話室は、基本的に話をするためのスペースだが、座り心地の良いソファから、真面目な話を出来るテーブルセットまで、部屋によって様々(勿論、両方ある談話室もある)。その中で、第4談話室は、ラグジュアリーなソファが揃う部屋だった。その中で、秘書班の高砂さん一行と話をしていた。色々な人とコミュニケーションをとるのも大切。
そして雑談をしていたら、高砂さんがベルガモットについて話を振ってきた。
「たかがベルガモット、されどベルガモット。生食にこそ適しませんが、香料としてはかなり特異なものなんです」
「と、いいますと?」
香料が特異、ですか。ドリアンみたいな特徴的な匂いがするのか、もしくは持続性があるとかだろうか。
「普通の柑橘類の精油は基本的に、リモネンを主原料としているのですが、ベルガモットはリナロールと酢酸リナリルが主原料なんです」と、高砂さんが返した。リモネンとリナロールか。その話を聞く限りだと、どうやら匂いや持続性に特徴が有るわけではなさそうだ。
「普通と違う成分ということですね。生食に適していない、というのは?細菌があって人体に有害なんですか?はたまた寄生虫とかが生息しているんですか?」
人間というのは、割りと何でも食べてしまう。それでもあまり食べられない、という事はそれなりの理由があるのだろう。毒をベルガモットが持っているという話はあまり聞かないが。
「いえ、そういう訳ではなく…実際に食べてみましょうか。先にネタバレしておくと、かなり苦いです」
苦いんですか。ならちょっと遠慮しておきたい。
そんな気持ちをよそに、あらかじめ香油用に生産しておいたベルガモットが一個まるまる剥かれようとしている。ちなみに説明文はこんな感じ。
[ベルガモット Lv22
香りの良い柑橘類。香油や香水にする際の、エッセンシャルオイルが濃厚で使いやすい。独特の味わいと、鼻腔を通り抜けるような匂いがある。]
そしてそのベルガモットは高砂さんが果物ナイフを入れたかと思うや、次の瞬間には美味しそうにカッティングされていた。
「じゃあ、一切れ頂きます」
「勧めておいてなんですけど、無理そうだったら遠慮なく吐き出して構いませんからね」
高砂さんが申し訳なさそうに言う。でも、ここまで来てしまうと、後戻りしようという気さえ起きなくなっていた。
「お気遣い有難うございます。さて…」
カッティングされたベルガモットを一切れ手に取ってみる。
こうしてみると、普通の、野生の柑橘類と何ら変わらない。シトラスな良い香りもして、少し期待してしまう自分もいる。僕自身はシトラス系の匂いが特に好き、という訳でもないのだが。
少し決意を固めた後、切り込みの入れてある外皮を剥き切り、そのまま薄皮ごと口に入れる。しっかりと一口噛むと、そこに果肉のみずみずしい歯ざわりと、強烈な苦さが待ち構えていた。
「うわにが!」
つい反射的に飲み込む。どうやらその選択は、吐き出さないという意味で正解だったようだ。
あれです、グレープフルーツの外皮をそのまま食べているあの感覚。飲みきった後も、喉が苦い。それと同時に鼻腔に良い香りが広がる。
胃に到達したベルガモットが、良い香りを喉に鼻に未だ撒き散らしているようだ。それがなまじ良い香りであるばっかりに、強烈な違和感が広がる。というか脳が考えることを拒否している。にが…
「大変申し訳ありません。これをどうぞ」
高砂さんがすぐに飲み物を出す。それをそのまま受け取り、十分喉の乾き、というより異物感がなくなった所で言葉を紡ぎ出した。
「…だいぶ楽になりました」
「それは何よりです。本当にすみません。以後この高砂、全身全霊を持って気をつけます」
そう言って高砂さんが頭を下げた。その姿に、少し申し訳無さを覚える。
「いえ、大丈夫です。ところで、ベルガモットの話、どこまで進みましたっけ?」
「苦味の話です」と、黒谷さん…彼女もまた秘書班の一員である…が言った。
「そうでした、ベルガモットの苦味の話です」
高砂さんも思い出したようだ。説明が続けられる。
「ベルガモットは、他の柑橘類に比べても、フラボノイド配糖体の量が多いんです。具体的に言えばグレープフルーツの1.4倍くらいですかね」
この苦味って、他の柑橘類にもある苦味で、ベルガモットが特にそれが多いと、そういう訳か。道理でグレープフルーツの皮のような苦味がしたわけだ。
「ところで、配糖体とは?」
あまり聞いたことのない単語を聞き返した。どこかで見たような気もするが…
「配糖体とは、糖に原子団…ヒドロキシ基とかの『基』のことですね…が結合した状態のことです。鎮痛剤として昔から使われている、ヤナギに含まれているサリシンとかは、配糖体ですね。
それで、この配糖体、サリシンもそうなんですけど、結構な割合で苦いんです。今召し上がってお分かりになったとは思いますが」
「ええ、十分にわかりました」
出来れば二度と味わいたくはない。そんな表情を見せると、高砂さんは申し訳なさそうにしたまま、突然話を思い出したかのように話をもとに戻した。
「とにかく、このベルガモット、香料的な使い所は結構あると思うんです」
それに関しては同意するほかない。例えば…
「普通にこんなのはどうでしょう」
[ベルガモット香油 Lv1 20ml 1500ec
普通のベルガモット香油。とても良い香りがする。明治時代から東京の一流デパートで販売され続けてきたような、そんな格調高い香り。]
試しにベルガモット香油を作ってみた。さすが香油界でも名のしれている品種だけあって、特に改良を加えなくても、それなりの性能が得られる。
黒谷さんに瓶ごと渡すと、彼女はすぐさま瓶を開け、匂いを嗅ぎ、小さく息をついた。
「良いですね。シトラス系が好きな人は、すぐにでも使用して良いくらいのクオリティですね。マスターも髪におつけになりますか?」
「いや、遠慮しておきます。実はシトラス系の匂いはあまり好みじゃなくて」
「じゃあ、こんなのはいかがでしょうか」
そうやって秘書班の宮野さんが取り出したのは、また別の香油だった。…?この香りはどこかで…あれか。
「バラですか。結構香油でも人気のある香りですよね」
僕もシトラス系の香りよりはバラの香りの方が好きだったりする。
といっても僕自身香油はつけないので、柔軟剤とかの香り付けに使うくらいだが。
「その通りですね。といっても、これは香油ではなくて香水ですが」
そう言われて手にとって見ると、確かに香油よりサラサラと、お酒っぽい感じもした。
「香水は肌や衣服に付けるんでしたよね」
「その通りです。髪は香油、服は香水、といった所でしょうか。その香水の中でも、この香水のように単一の植物の香りを再現する事を目的とした香水のことを、シングルフローラル、と言います」
へえ。日本にいた頃は、香水とか化粧品には特に興味も無かった。専門知識を持った人と話をすると、こんなにも楽しいのか。
「単一の植物の再現が有ると言うことは…」
「ええ、複数の植物の再現を目的とした香水もあります。そうした香水一般にフローラルブーケと言われていて、名前の通り花束の再現が主目的ですね。フローラルブーケの愛好者もかなりの数存在します」
「へえ。結構色々な種類があるんですね」
香水なんて香りの方向性だけで区別されるのかと思っていたが、香りのアプローチの仕方でも分かれてくるのか。言われてみれば当たり前な気もするが、少し驚いた。
「ちなみに、ベルガモットを基調とした香水も人気があったりします。ツノマタゴケを基調にベルガモットを加えたシプレーなんていうのも、結構いい感じです」と、これは高砂さん。
確かに、シトラス系の香りが人気があるのは、肌で感じるところだ。僕自身がそれほど好きでないだけであり、仮にそれ程人気がなければ、百貨店でそんなにシトラス系の香料を扱うはずがない。まあ積極的に試していこうとは思わないけど。
「そういう物をちゃんと試してみるのも良いですね…ておや?」
今、目の端に、面白い集団がいたような…よくよく見ると、人影が列を連ねている姿だ。思わず談話室の外を見つめる。すると、一人の人物が代表して挨拶をした。
「只今帰りました、マスター」
談話室の外の廊下にいたのは、つい二月ほど前に見送った顔…迷宮隊の一部メンバーがいた。
「よくぞ戻られました。積もる話もあるので、こちらにどうぞ」
そうやって迷宮隊メンバーを談話室に呼び寄せた。
見ると、戻ってきたのは、迷宮隊隊長の白咲さんを含め25人。本当に最低限のメンバーしか帰ってきていないようだ。心なしか髪が濡れている。
早速全員ソファに座ってもらい、秘書班の面々にお茶を手配してもらう。
「あれから二月弱、どのような事がありましたか?」
「では、順を追ってご説明いたします」
そういったのは白咲さんだ。
白咲さんは、公務隊の中でも比較的大柄な黒田さんよりも、さらに一回り大きい、しっかりとした体格の持ち主だ。見た目や話し声などは、完全にスポーツ青年のそれだ。
「2月13日、旗ヶ野を出発した我々は、予戸街道を南下しました。通過した主要な都市をあげれば、路原、和泉野、刺木、中山、沙美川、凍井、椿野、それから中島中部の大都市である束中。そして生生生、鵡方、※原[脚注:※はやまいだれに莫]、それから清澄、旧宮に予戸。
そうすると予戸が半島の付け根の方にあるので、その半島の先まで行くと、海崎。そして、島を渡ると、その向こうには、中島と広さがさして変わらない、いや、それよりわずかに大きい島がありました」
もうこの段階で結構な都市を通過しているが、中島とその周辺の島では、蝶野でしか迷宮が見つかっていないので、当然迷宮はまだ発見していない。
「そして、その島…中島で五番目に発見された大島なので、仮に五州とでもしておきましょう…を内陸に100kmほど進んだ所で、ついに迷宮を発見しました。以前献本をお送りした時は、『迷宮らしきもの』という表現しか出来ませんでしたが、迷宮であることが確定しました。とりあえず第一迷宮、と呼んでおります」
第一がある、という事は第二もある、という事だろうか。
「そして、迷宮が発見されたので、我々は一部人員、20班分を残し、さらに南下しました。
その後、森林や草原、河川などを伝いつつ、多くの島…そのどれもが中島以上の面積と推定されます…を経由し、大陸に到達しました。ここまでが2月一杯の話です」
世界地図も見たことはあるし、予想はしていたが考えていたよりもずっとこの世界は大きい。
そんな所(しかも道すらない所)を、二十日かけずに走破するところに、驚きを禁じ得ない。白咲さんの説明はまだまだ続く。
「そして、大陸を踏破しました。
今までは南方向に島が連なっていたのですが、大陸は東西に広がっていることが判明しました。そして、大陸北東岸から東北東~北東方面と、大陸南西岸に群島が南西方面に群島があったので、それらに分担して探検を行っています。
ここまで来たので、今まで献本等のみ迷宮隊逓信班によって行っていましたが、一旦迷宮隊長の私が帰還し、こうして直接ご説明する運びとなりました」
当たり前だが、大陸の踏破を二十日あまりでする事は常人には殆ど不可能だ。
オーストラリア大陸を白人が完全に探索しきるまでには途方もない時間がかかった訳だし、あるいは南アメリカ大陸に人類が波及し切るにはそれこそ1000年2000年のレベルでかかったはずだ。
「それはそれは、お疲れ様でした。あちらでの生活はどうされていますか?」
健康で文化的な生活が出来ているかどうかは、少し気になる所である。
「基本的に、気になるものを発見したらそこに2,3班残して先に向かうので、班を超えた枠組みではバラバラです。不眠不休で進んでいますが、測量や採集もあるので、中々思うようには進んでいないのが現状です」と、白咲さんが返した。あまり健康そうな生活ではなさそう。
「いやいや、進んでいると思いますよ。予想していたよりも、ずっと進んでいるようで安心しました。ところで、いつまでここにいらっしゃいます?」
「報告が終わりましたので、名残惜しいですがすぐに前線に向かおうと考えています」
いやいや、いくらなんでも早すぎやしないか。もう少し話していたい事もあるし、やりたいこともある。そのためには白咲さんが、確実に必要なのだ。
「折角ここまで来たんですし、もう少し骨を休めていきません?4月10日くらいまでいらっしゃっても、別に罰は当たらないと思いますよ」
「では、お言葉に甘えて」
こうして、迷宮隊の一部隊員がしばらく滞在することになった。
いつもお読み頂き有難うございます。
次回更新は4/12を予定しています。




