第5章 突然の話と、官吏としての話
ウェイリンも、システィも、ジェスも、またシミュルーでさえも、この王府屋敷にいきなりウェルティランがいることが、どうにも信じられなかった。しばらく4人で小声で話しこんでいる。
「な、なんで父様がここにいるのよ!州の政務で今頃は忙しいはずなのに……。ま、まさか、もう死んじゃって、天界に行く前にせめて私たちに会おうと思ってここまで来たのかしら?」
「そ、そんな滅多なことはおっしゃらないで下さい、お嬢様!これはきっと、あれですよ、あれ。“生き霊”ってやつです。謁見に及第なさったかどうか、慣れない王府できちんと生活できているかどうか、そういったことを気になされるあまり、魂だけを飛ばしていらっしゃったんですよ。」
「システィ……、“生き霊”では、祟ってしまうんじゃないのか?まあ、お嬢様よりかは的を射ているとは思うが。」
「でも兄さん、どっちにしてもそういうものなら、血色は悪くなっているはずですし、それに何より、透き通っているはずですよ。」
などと、言いたい放題言っている。もはや、普通にウェルティランがここに来ているという可能性は、頭の片隅にもないようだ。ちなみに、これらの会話は全て彼に筒抜けだったりする。
「……まったく……。私は狐狸妖怪か何かか?」
と、はじめは面白いので黙って聞いていたのだが勘違いが止まりそうもなかったのでとうとう突っ込んでしまった。ハッとして黙りこむ4人に、さらに呆れて、続けてこう言った。
「お前たちは……。私は現にこうして生きてここにいる。……まあ、ここに来なくてはいけない理由もあったしな。」
時は少しばかり遡り――
ルテティア城の侯爵執務室で、日々の政務にいそしんでいるリンディラン侯爵、ウェルティラン・テネール・ヴィンドリルに、その知らせがもたらされたのは、あの日から3日後のことだった。時間は、午後の執務のために部屋に入ってから、しばらくたったころだ。
たいていの場合において、王府ランゲールから、リンディラン州都ルテティアまでは、馬車1台と護衛の騎兵3、4人では、約6日ほどかかる。馬――つまり、今回のウェイリンのような人数、行き方――ならば、おおよそ8日間くらいとなる。そして、連絡用の早馬であれば、さらに短くなって4日から5日で着くことができる。なので、この知らせを持ってきた使いの者はは、昼も夜もなくそれぞれの街、城、関で最速の馬を乗り継ぎ乗り継ぎして来たようだ。ちなみに、リンディラン侯爵としての正式な行列――随行人数は300人とも言われている――を仕立てていった場合には、17日くらい。さらに、軍隊――5000人くらいの歩兵、騎兵、工兵の混成部隊――を引き連れて行軍する場合には、たいてい12日前後となる。
『閣下、王府ランゲールよりの書状でございます。』
いつかの州都内務局勤めのサーヴァン・ボーン官吏が、ドアの脇に立って、書状を捧げ持っていた。ウェルティランは入るように手招きすると、一礼して入ってくる。さすがに、今となってはもう書類を落っことすようなことはない。彼の目の前にいる侯爵の第一の側近であるイーヴェル・アラテドール侯佐から、ああいったことはいつものことだとあのときに聞かされていたし、それに、もう1人のご当人である“お嬢様”は、今はこの州都ルテティアにはいない。
『ああ、ありがとう。もう下がっていいよ。』
机に置いてから、サーヴァンは一礼して出でていく。ウェルティランは、それらの書状を取り上げて、“……さて……”と一つつぶやいた。書状は、3通あった。1通目は、彼の王府での勤務先である、国璽局からのものだ。2通目は、王府省からのものだ。そして3通目は、彼のいとこで、ヴィンドリル・リンディラン侯爵家王府屋敷当主、伯爵、ボルデア教令卿からのものだった。これらの内容は、一部前の国璽局、王府省のものと同じだった。つまり、ウェイリン・テネール・ヴィンドリルが謁見及第成ったことだ。ただし、ボルデアの手紙はさらに続いていた。さらに彼からの祝意、そして、ウェルティランへの皮肉――どうしてお前のようなどうしようもないクソ古狸から、ウェイリンのような至極まともで、すばらしい娘が生まれたのだろう?……きっと、アドレア様がとても素晴らしかったからだろうな、知っていたことだが。――といったことが書かれている。
ウェルティランは、前半はクスクスと笑いながらボルデアからの書状を読んでいた。しかし、その後半部になってくると、急に、その表情を引き締めたのだ。というのも、そこでの彼の文体は、現ヴィンドリル・リンディラン侯爵にして、王府では国璽尚書副官を務めるウェルティランも、何度も目にしている、ボルデア、公式文書でのそれだったからだ。ウェルティランは、その部分をじっと鋭い目で読んでいった。そのうちに、目に何か、キラリと光るものが見えたこともあった。
読み終えてすぐに、ウェルティランは手紙を焼き捨てようとした。自分以外の人間に読まれるのは、まずくなってしまうような内容であったし、教令卿自身、手紙の末尾に、
……ウェルティランがもしこれを読み終えたなら、すぐに焼き捨ててほしい。途中で見つかったら、破棄するようにと、持たせた者にも言ってある。それほどのものなのだからな。
と、書いてあったのだ。彼もそれには同感だったので、焼き捨てようとした……のだが、少し思い直した。……前半部だけは、残しておくことにしたのだ。理由は、とても簡単で、おもしろい、からだ。それから、机の上にある小刀をとると、スッパリと切って、後半部だけを焼き捨てたのだった。それからベルを鳴らす。用向きを聞くために入ってきた家人に、侯佐をすぐに、大至急呼んでくるようにと短く命じた。言葉通り5,6分ほどして呼ばれてきた侯佐は、急いできただろうに、少しも息が上がっていない。
『閣下、一体……。』
ウェルティランは、すぐには答えずに、
『すまないが、至急に王府ランゲールにどうしても行かなくてはならない用件ができてしまったようなのだ。しかも、その知らせからすると、どうやら秘密裡に、ということらしい。……軽い1頭立て馬車と、護衛として、特に遠乗り、早馬に秀でた騎兵を5人すぐに待機させてくれ。』
アラテドール侯佐は、短く返事をすると、すぐに準備のため、一旦部屋を出て行った。侯佐が戻ってくるまでの間に、侯爵は手早く旅装に着替えた。イーヴェル・アラテドールが馬車と騎兵を待機させて戻ってくるのと、ウェルティラン・テネール・ヴィンドリルが旅装に着替え終わるのとは、ほぼ同時くらいだった。侯佐は、さっきまでと領主侯爵の装いが変わっているのに少しばかり驚いたが、件のものを待機させたことを伝える。軽くうなずくと侯爵は、侯佐を従えて部屋を出る。
『……とりあえず、侯佐であるお前には、今話せる限りのことを話しておこう。……しかし、こんな風に私が言っているからわかりきっていることだろうとは思うが、他の者の耳にはこのことは一切、何があっても入れるな。他言無用だ。アラテドール、お前だけが知っていろ。』
ウェルティランが、早足で、早口で、なおかつあたりをはばかるように小声で歩きながら言った。イーヴェルは、緊張したような顔でうなずいている。彼は、そんな侯佐の様子を視界の隅で確認すると、1つ、ごく軽くうなずいた。そして、さらに言う。
『……私はしばらく――そうだな、1ヶ月か2ヶ月くらいというところか――の間、このリンディラン州には戻らない。どうも近いうちに、王府で何か問題が起こりそうなのでな、それの解決に一役買ってくるのだ。……先日、このルテティアから、そして、ランゲールという2ヶ所から発せられた奇妙な文書、命令、それらの黒幕が、どうやら判明しそうなのだ。……ここリンディラン州都ルテティアにおいても、出した者、それを手引きした者は判明しそうになっているのだから、黒幕本人のいる王府ランゲールでは、もう8割9割方分かっていることだろう。……と、いうのが、これから王府ランゲールに行く理由の1つめなのだ。』
『はっ?……まだ何かあるのでございますか?』
『ああ……まあ、こっちの方は、ウェイリンが首尾よくいったときにはと最初から決めていたことなんだがな……。ウェイリンが謁見及第成ったからそれを祝ってやろうと思ってな。そして、ウェイリンには早速、ヴィンドリル・リンディラン侯爵として1つ、仕事をやってもらうつもりだ。……それと同時に、私にとってみれば、ヴィンドリル・リンディラン侯爵としての、最後の仕事となる。』
『?』
彼の侯佐としては7年間、ひいては、約50年間にわたってウェルティラン、そしてリンディラン州を支えてきたイーヴェル・アラテドールにも、今のリンディラン侯爵の言葉の意味はすぐには分かりかねた。しかし彼もまた有能な政治家である。わずかに数秒ほどで、言葉の意味するところを察していた。思わず立ち止まり、
『!……ま、まさか閣下、閣下は、姫様に……?』
と、驚きながらもあたりをはばかって小声で聞くと、当のリンディラン侯爵“閣下”は、
『ああ。……その通りだイーヴェル。私の娘、ウェイリン・テネール・ヴィンドリルに、第57代、ヴィンドリル・リンディラン侯爵になってもらう。そして私を、ウェイリン不在時に領地を見ていく“侯爵名代”に任命してもらおうかと思っている。……まだまだあれには、領地経営と官吏なんていう、二足の草鞋状態は辛かろうし、大変だろうからな。そして、リンディラン侯爵名代として、あれがいない間、州の監督に専念できるようにするためにも、王府に行って、国璽尚書副官も辞め、引退するつもりだ。』
『ええ!』
侯佐は、ここで一番の驚きを見せる。しかし、侯爵の方は落ち着き払ったものだ。
『……何もそんなに驚くことはないだろう。』
ともつっこんだ。侯佐はただただ恐縮している。
『あ……いや……しかし』
いつもの彼にしては珍しいほどのどもりようである。ウェルティランはなおのも歩きながら、
『……まあ単に、私の二の舞はさせたくないんでな……。アラテドールよ、お前は覚えているだろう?私が、このリンディラン侯爵位を継いだころのことを……。』
アラテドール侯佐はうなずいた。が、すぐに、
『しかしですな……。閣下がこのリンディラン州にいらっしゃらないことは、すぐに知れてしまいますぞ。その時にはどうなさるおつもりですか?』
すると、ウェルティランは、……どうして今さらそんなことを聞いてくるのだ……?というような顔になって、呆れたような口調で言う。
『……そのために、ウェイリンの謁見及第の時期に合わせていってくるんだろう?……イーヴェル・アラテドール、私は、お前がもうそこのところもとっくに分かっていたと思っていたのだがな。……いいか、人に聞かれたら、こう答えればいい。……“閣下は、姫様の謁見及第をお祝いなさるために、王府へと参上なさっています。”とな。……いいか、“王府へいった”これは言ってもいいからな。……いわば――まあ、これも本当に行く理由の1つではあるんだが――、ウェイリンの謁見及第祝いというのは、囮なのだよ。……では、イーヴェル・アラテドール――私のよき侯佐よ――、私が帰ってくるまで、このリンディラン州を頼むぞ。それから、帰ってきた後は、もう閣下とは呼ぶな。……“名代”と呼べ。これは下官たちにも通達しておく。』
2人はいつの間にか政務用の宮殿を出て、城門の前まで来ていたようだ。もう馬車と騎兵は待機していて、侯爵を見ると、兵たちは一斉に跪いた。ウェルティランは、そうアラテドール侯佐に言い置くと、さっと、1頭立て馬車に乗り込んでいた。
……となったのが、今から5日前。つまり、ウェイリンの謁見、第二試験合格から3日後のことだったらしい。なので、ウェルティランはウェイリンがその後、というよりもこの日行われていた宮廷謁見に及第したことは知らないのだ。なので、彼女がそれを言うと、その直後にぎゅっと抱きしめられていた。いつかのように、泣いて取り乱し、摂政四家の当主と言って疑われそうな醜態をさらしまくっていたどうしようもないものではなく、微笑が浮かび、双方ともに安心するかのようなものだった。
「……そうか。おめでとう、ウェイリン。」
低い声でささやくように言う。ウェイリンはうなずく。
ちなみに今いるのは、彼女が泊まっている、“飛翼鷲の間”だ。そして、部屋にはウェイリンとウェルティランだけがいる。システィたちは、せっかくの親子水いらずで、邪魔をしてはいけないということでいない。さらにボルデアは王宮に出仕中、ツィリもまたヴィンドリル家の分家筋の屋敷に行っていた。それから、ここに来た理由を聞いてみると、前述したところの後半部――つまり、ウェイリンの謁見及第祝い――で来たということだった。
「あのね……それだけの理由で、現ヴィンドリル・リンディラン侯爵で国璽尚書副官ともあろう父様が、わざわざルテティアから、このランゲールまで、何日もかけて来られるわけがないでしょ?」
それを聞いた後、ウェイリンが言い聞かせるように、また、諭すように言った。けれども、言われているウェルティラン当人はといえば、ただ、ニコニコ笑っているだけだ。彼女はそんな父親を見ていてだんだんとイライラしてきて、ついには爆発してしまった。バシン!と机を叩いたのだ。驚くウェルティランに、彼女はたたみかけるように言った。
「あのね、そりゃあ、謁見に及第できたことを祝ってくれるのは嬉しいわ、ええ嬉しいわよ。しかも今みたいに、手紙じゃなくて、リンディラン州からはるばるランゲールまで来てくれて、直接言ってくれるっていうのもね。でもね……リンディラン侯爵としての仕事を全っ部アラテドールさんたちに押しつけてここまで来られても、私はちっとも嬉しくないの!それに、大体にしたところで、それだけの理由で父様が来られる、わけ……ないんだから。」
と、言った。最後の台詞の時、少しばかり声を詰まらせていた。……たったの1ヶ月ちょっと、というところだったのだが、それでも、ウェルティランに会えた、そして、ここまで父が祝いのために来てくれたことが嬉しい、と感じている自分を見つけたからだ。ウェルティランは、そんなウェイリンに対して、しばらく何も言えなかったが、なんとか言う。
「……あー……。うむ、まあ、お前の言う通りだよ。今回ここに来たのは、及第祝いをするためだけではないんだ。まず、お前に話があるのと、あと・・・・・そうだなあ、5,6人、王府の人にも会わなければならなかったからねえ。……今は王府勤めに当たってはいなかったんだが、こうして来たというわけだ。さあ、ウェイリン。まずはお前からだ。ウェイリン……お前には、これを受け取ってほしい。」
と。それからウェルティランは、旅装の合わせから、大型の鍵と印章を取り出して目の前の机に置いた。それを一瞥したウェイリンは、驚いた、なんていう生やさしいものではなかった。驚きのあまり何十歩も後じさってしまい、壁に頭をぶつけていた。見ていたウェルティランが呆れる。
突然きた痛みに、後頭部をさすりながらも、なんとか言う。
「……こ、これって、イタタ……。ヴィンドリル=リンディラン侯爵家の歴代当主に代々受け継がれている、侯爵の本章と、リンディラン州、ルテティア城の宝物庫の鍵……じゃない?」
最後には、おそるおそる、という感じで聞いていた。すると、ウェルティランはうなずく。そうして、ようやく彼女の頭が働きだしたときに、ハッと思い浮かんだことがあった。すぐに父親の顔を見る。ウェルティランは、さっきと変わらず、ニコニコと微笑んでいる。……え、ええ?これらのものを受け取ってほしいっていうことは……?と思って、目で問いかけるウェイリンに、ウェルティランは、にっこりしたままうなずく。
「そう。ウェイリン……。お前に、ヴィンドリル=リンディラン侯爵家の当主位、そして、リンディラン侯爵位を、継いでほしいんだよ。」
「えええええええええええええええええええーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
……ウェルティランの衝撃的すぎる言葉の後、コンマ数秒で、彼女は大絶叫していた。ここになって、ウェイリンの思考回路は“完全”にぶっ飛んでしまった。……まあもっとも、教令卿であるボルデアみたいに気絶まではしなかったが。
……ちょ!え……あぅ……、ちょっと待ってよ。……今なんて言ったんだこのバカ父は?……あ、いや、どっちかって言ったらむしろ、ボケ父、とでも言った方がいいかしら?……ああもう、どっちでもまあいいや。……バカでもボケでも、言いたいことは全然変わらないんだから。
と、思った。さらに、……わ、私にリンディラン侯爵位と、ヴィンドリル=リンディラン侯爵家の当主位を継げ、ですって……?とも思っていた。しかし、このブルグリット王国1300年近い歴史の中で、先代の当主がまだ元気で生きているその間に、当代に当主を譲る、なんていうことは、ウェイリンは全く聞いたことがなかった。どころか、実際に先例がないのだ。確かに病弱か何かを理由にして、実質的に権限を譲ることはあるにはある。けれども、名目としての実権者は、まだその病弱な現当主であったりする。このようなやり方は、よくクーデターのやり方としてよく行われているので、ウェイリンも知ってはいた。しかし、ウェルティランは、中央王府では国璽尚書副官を務めるほどの政治家であるし、まだ生命を脅かされるような大病もしていないのだ。そのため、いまだ、“ウェイリン待望論”すら起こってもいないのだ。そういったことをウェルティランに言うと、ウェルティランもまたこっくりとうなずいた。
「ああ、そういうことは、私も全然聞いたこともないよ。……でも、聞いたことがない、といったところで、それをやってはいけない、という理由にはならんだろう、ウェイリン。」
さらに、そういうようなことを平然と聞いた。……う、うん……それはそう、だけど……と、ウェイリンは思った。
「でも、どうして今、侯爵位を私に?」
と、聞いた。
「うん……、まあ、いろいろと理由はあるんだけどねえ……。まず、ウェイリン、お前が謁見に及第して、官吏になるな。中央、地方問わず、官吏としてうまくやっていくためには、親の爵位を継いでおいた方がいい、ということなんだよ。……その方が無用になめられることもないし、影響力もある程度持つことができるからね。」
「そんなことが理由なら、私は絶対に受けないわ。」
ウェイリンは、顔をくっと上げると、そう言った。……おお……頼もしいな、と、ウェルティランは内心でうっかりそう思ってしまった。しかし、いけないいけないと思い直し、さらに言う。
「まだある。……お前が謁見、それも宮廷謁見にまでも及第した。これが大きな理由なんだ。」
ウェイリンは、呆れた……という顔をして、言った。
「だからそれって、さっき父様が言った、“無用になめられないように”っていうことなんでしょ?……それが理由だったら、絶対にうんと言わないって、私さっき言ったばかりじゃない。」
ウェルティランは首を振る。
「いや、違うよウェイリン。これから言いたいのは、そういうことじゃあないんだ。……つまりだな、こういう次代当主っていうものは、早く誰に継がせるだとか、そういったことを、外に公にすることまではしなくっても、内々でははっきりとさせておいた方がいいんだ。……特に、うちのような領主貴族の直流家というものは、そうなんだ。……それに、お前はもう来年の今頃には、正式に官吏として任官してしまうだろう。まあ、半年くらいはリンディランにいるとしても、そういった話をゆっくりとするということができなくなってしまうからね。……州の政務もまた、大変なものがあるから。……それに、私自身のこともあったからね。」
……ウェルティラン自身のこと……。それはもう、ウェイリン自身も聞いたことがある。ウェイリンの父、ウェルティランもやはり、謁見に受かって1年間、各役所の下級官吏として働いていた。そうして、1年後、一番最初に正式に任官したのは、いきなり王府長官付きの文官長だった。しかし、それと同じ年に、彼の母、つまりウェイリンにすれば祖母に当たる当時の侯爵ミディスが亡くなってしまったのだ。そこで彼は急遽、着任したばかりの文官長という高官を辞めて、リンディラン州へと戻り、侯爵位を継いだのだ。
「……親は、そうそういつまでも生きているものじゃあない。だから、早いうち――しかも、今日のように切りのいいとき――に、誰に継がせるか、はっきりとさせておきたかったんだよ。……それに、ちょっとでも早く位を継いでおいた方が、もしも私に何かあったときに、まあ、まだまだ死ぬつもりはないがね、より早くにリンディラン侯爵、ヴィンドリル=リンディラン侯爵家の当主としての心構えができて、一石二鳥というものだろう。」
「で、でも父様……。私、まだ最低は……」
「そうだな。」
ウェルティランは、ウェイリンの言葉を引き取って言う。「そうだ。お前はまだあと1年、リンディラン州には帰れない。それは私だって分かっているさ。なんといったって、私もそれを経験してきたのだからね。だから、今は、侯爵家の当主位と、侯爵位の印としての、この印章と鍵、この2つだけを受け取ってくれるだけでいいんだ……。……どうだいウェイリン?これを聞いて、少しは安心したかい?」
「うん。」
ウェイリンは小さくうなずいて、そう言った。ウェルティランもまた、
「……そうか。」
と小さく言ってから、さらにうなずいて笑った。そうして、印章と宝物庫の鍵を娘にしっかりと握らせる。
「うん……よし。今は、とりあえずこれだけだ。それから(左手の中指にはまっている指輪を示した)この指輪については、まだ、もう1年くらい待ってくれ。この指輪は、お前には太すぎるからな。リンディランで、調整しておくのでな。……まあ、場合によっては、新しく作ることも考えなくてはなるまいな。……どちらにしても、お前が正式に任官して初めて、リンディラン州に戻ってきたときに、正式に、ヴィンドリル=リンディラン侯爵家の当主位並びに、リンディラン侯爵位継承の儀及び、戴冠、即位の式典を行うようにしよう。この指輪は、その時に渡すことにする。……どうだウェイリン、新しい侯爵になった感想は?」
「……まだ実感がない。……だって、侯爵位についたはいいけど、まだ何一つとしてやっていないんだもの。それに、ここだって侯爵家の建物だけど、ルテティアの城で渡されてもいないしさ……。……そうだ、今は父様はここにいるからいいけど、どうせ少ししたら、またリンディラン州に戻るんでしょう?……それで、私に侯爵位も当主位も譲っちゃって、王府勤めがないときはどうするの?……1年、ここにいるつもりなの?」
と、ウェイリンが聞いた。しかしウェルティランはそれにはすぐに答えず、別なことを言った。
「あ、そうだ……。別の話になってしまってすまないけど、まだ、お前がリンディラン侯爵位を継いだことは、誰にも言っちゃあだめだよ。」
と。
「う、うん。」
ウェイリンは、訳が分からないなりにうなずいた。それから、
「うん。よし、ウェイリン、“新”ヴィンドリル・リンディラン侯爵として、最初の仕事だよ。人事の任免だ。」
そう言うと、ウェルティランはいきなり娘の足下に跪いた。ウェイリンは慌てて身をかがめる。
「父様……。そんなことはやめて下さい。」
すると父親は、低い姿勢のまま、娘にささやいた。
「ウェイリン、今のお前は、ヴィンドリル・リンディラン侯爵だ。ただの、ウェルティラン・テネール・ヴィンドリルの娘ではないんだ。……ウェイリン、こういうことには最低限慣れるんだ。もしも、このままリンディランの領主、ヴィンドリル=リンディラン侯爵家の当主を継ぎ、侯爵になるのならな。……お前が、ヴィンドリル=リンディラン侯爵家の“直系長姫”だったころには、ただの会釈くらいですんでいたような人でも、当主位、そして、侯爵位を継いだとなったら、今の私のように跪いてくることになるんだ。……ウェイリン、まさかお前は、ひょっとして、そういう人たち全員にこれからずっと、そうしていくつもりなのか?」
ウェルティランのこうした言葉を聞いているうちに、ウェイリンは少しばかり哀しみを覚えた。
「……ねえ父様。領主貴族の当主位、それと、爵位を継ぐっていうのは、こういうことなの?……今まではお互いに、ある程度対等で、普通に話せていたのに、継いだ途端に、相手が跪いてくるっていう感じになるの?……私は、そういうのは、すごく嫌。それで、やりたくない。だってそうじゃない?私は私のままで、全っ然、どこも変わっていないのよ。ただ単に、肩書きが1つ2つ増えたっていうだけで、そのほかは前と変わっていないのに。」
ウェルティランは顔を上げ、ウェイリンをまっすぐに見る。
「まあね……。ウェイリンの言っていることは間違ってはいないよ。間違ってはいないんだけどね……。ただ、たいていの場合は、そういうふうにはなっていかないんだ。」
「それじゃあシスティも?……ジェスさんもシミュルーさんも?それに、アラテドールさんも、ラッティカ将軍もそうなっちゃうの?」
続けざまに問うてくるウェイリンに、ウェルティランは少しばかり答えに窮していた。あまりにも彼女の問いと問いとの間が短く、答えようとするとまたすぐに次の問いが飛んでくる、ということも、もちろんあった。しかし、1番の理由は別にあった。ただ単に、答えずらかったのだ。ウェルティランは、どう答えたものか迷っていた。このまま、本当のことを告げようか、否か……と。確かに、本当のことを言った方が、手っ取り早いのは事実だ。だが、それではウェイリンを多少なりとも、傷つけないわけにはいかなくなる。……本当のことを言うというのは、ウェイリンが抱いている、淡い期待のようなものを、粉々に、無残に、遠慮会釈もなく、残酷に、打ち砕いてしまうものだから。
ウェルティランは、こうしたことを考えた末に、ウェイリンにありのままを言うことにした。
「……うん、100パーセント、そうならないとは、言い切れないな。……少なくとも、ウェイリン、お前がリンディラン侯爵になった、ということで、周りのお前に対する見方も少しは、変わってくるかもしれないねえ……。」
ウェイリンはさっきからずっと、のどが上下するのを感じていた。ウェルティランはそれを見た。沈痛さをこめて目を1度つぶってから、さらに今度は、快活さをこめてこう続けた。
「……ま、まあ、最初のうちには全く慣れていなくってもね……。後々、だんだんと経験を積んでくれば、私みたいに慣れてくるようになる……」
「そんなのに慣れたくない。」
ウェルティランが励ますように言い終わってすぐ、ウェイリンはそう言った。父親は、少し詰まると、黙りこんでしまった。目の前で娘が、肩――これからかかってくるであろう職責に対して、あまりにも小さく、華奢過ぎる肩――を震わせつつ、顔をうつむかせて、両手をぎゅっと握りしめて立っているのを見たからだ。……これって全然関係ないことだけれど、あの国王陛下も、即位したてのころは、同じような思いをしたのかもしれない。……王太子の時にも教育はされていたとは思うけど、いざその場になってみると、こういう思いをしたのかも。でも、その王太子の時にも、そうだったのかもしれないな。と、彼女は思った。……今までは全く対等に会話をして、接してきていたのに、ある日いきなり、跪かれる者と、跪く者という関係になったのかなあ……、とも思った。
……家を継ぐっていうのは、たくさんのものを犠牲にすることでもあるんだな……、そう、次にウェイリンは思った。彼女は今までの間、自分は、ヴィンドリル=リンディラン侯爵ウェルティラン・テネール・ヴィンドリルの直系長姫なのだから、将来いつになるかは分からないが、その時には当然、リンディランの侯爵位を継ぐものだと思っていた。だが、今のウェイリンには、その“当然のこと”が、とても難しく感じていた。
……けれども……と、ここでウェイリンは思い直した。……この自分が、“私”が継がなければいけないのだと。継ぐべくして育てられてきた直系長子たる自分がいるのに、継がない、もっといえば、“継ぎたくない”というわがままはできない……とも。ただ、それによって、システィが、ジェスが、シミュルーが、また、アラテドール侯佐、ラッティカ将軍、その他州官、宮殿勤めの者たちが、ウェイリンへの態度を変えてしまうというのは、少しばかり悲しかったけれども。そして、そのことこそが、彼女にとっての、“家を継ぐためのたくさんの犠牲”だった。
「……分かりました。……父様。」
「ウェイリン……いえ、第57代ヴィンドリル・リンディラン侯爵、ウェイリン・テネール・ヴィンドリル閣下、御領地での人事任免でございましょうとも、また、たとえその対象が父でございましょうとも、その時にはフルネームでおっしゃるものでございますよ。」
再び跪いたウェルティランが、優しく言った。
「はい。……第56代……ヴィンドリル・リンディラ……ン、侯爵、ウェルティラン・テネール・ヴィンドリル……。……第……57代……、ヴィンドリ……ル・リンディ……ラン侯……爵ウェイリン・テネール・ヴィン……ドリルの名に……おい、て、あなたを……」
ここで大きく息を吸う。「ヴィンドリル・リンディラン侯爵名代に任命します!」
「ははあ!閣下におかれましては、貧臣・身命を賭しましてもお仕え、お助けいたす所存にございます!」
ウェルティランは受諾の台詞を言い終わり、跪拝の礼から直ると、すぐにウェイリンをぎゅっと抱きしめた。
「……よく言えたな、ウェイリン。お前がこのランゲールに行っていて、リンディラン州にいない間は、私が名代として、州をしっかり見ているから安心しろ。」
「と……父様……。」
「それから、侯爵名代として、すぐにこれから、この王府屋敷と、リンディラン州の全州文武官、宮殿勤めの者たちに向けて、通達も出してやる。『第57代ヴィンドリル・リンディラン侯爵、ウェイリン・テネール・ヴィンドリルに対する扱いを、今後、侯爵本人の命があるまで変えるべからず。』とな。」
「ふぇ……」
「……さっきは侯爵として、官吏としてきちんと立ってほしかったから、あんなことを言ってしまったが……。ウェイリン、まだまだお前は甘えていていいんだ。……立派にランゲールや地方で官吏を務め、リンディラン州もきちんと治められるようになるまではな。……それまでの間――まあ、領地経営についてだけだがな――は、私がちゃんとウェイリンに教えてやるから、安心していろ。」
「……」
もうウェイリンは、何も言うことはできなくなっていた。自分もまた抱きつくと、ウェルティランの肩――こちらはがっしりとした、武人の肩だった――に顔を押しつけ、声なく泣きじゃくった。父親は、そんな娘の華奢な肩を、何度も何度も優しく、まるで、赤子にするように叩きながら、安心させるように優しくこう言った。
「……泣いていい。……お前が、そうやって気持ちが治まるというのなら、そのようにするのが一番だ。……ウェイリン、お前が気持ちを出し尽くし泣き止むまで、私はずっとここにいてやる。」
……なんか最近……よく泣いているような気がする……、とこの時ウェイリンは思った。
それから何時間かたった。さすがにウェイリンはもう泣き止んでいた。午後3時頃に帰ってきたツィリは、ルテティアにいるはずのウェルティランがいきなり王府屋敷にいても、、特に驚きもしなければ、何も言わなかった。ただ、互いに軽く挨拶を交わしただけだった。……だが、彼女の夫、ボルデアは違っていた。
「……ウ、ウ、ウウ……ウェルティラン、きいさまああーーーーー!!!」
ボルデアが帰ってきたのは、宮城での勤めが終わった後だから、午後5時を過ぎたころだった。教令卿は、屋敷の居間の長いすにウェイリンと並んでかけているウェルティランを見るなり、激しく怒鳴り立てたのだ。ウェイリン、システィ、ジェス、シミュルーの4人は驚いているが、一方の怒鳴られている当人であるウェルティランの方は、平然たるものだった。ツィリにしても、……ああ、いつものか……とあきれ顔だ。あたふたとしているのは、この場では何も知らないウェイリンたちのみだった。ボルデア伯爵は、ものすごい剣幕でツカツカと近づいて、さらに言う。
「ウェルティラン!貴様、今ごろになってのこのことルテティアから出てきやがったのか!……どうせ、ずっとリンディラン州でのんべんだらりとしていやがったんだろう!ええ!」
貴族にはあり得ないだろう言葉遣いがあったような気がするけど……。と、ウェイリンは思った。しかしすぐに、それを打ち消してしまった。……ま、まさかね。おじ様が、“貴様”とか、“~しやがって”という言葉を使うなんて……。信じられない、と。
「おいおい……。俺はお前のいとこなんだぞ。……久しぶりに会えた仲の“とても”いいいとこに、かける言葉はそれしかないっていうのかい?……まあ、かける言葉がそれしかないっていうことは、一をいえばもう充分、全てが伝わっている、ということだから、俺としては嬉しいけどな。少しいえば、全て伝えられるということだな。……しかし、それでも寂しいものがあるよな。言葉は少なくて足りるとはいっても、やはり、領地のリンディランからはるばる来たんでな、少しはねぎらいの言葉も尽くしてほしいって思ってしまうんだよなあ……。」
……と、父様……それ、めちゃくちゃ間違っていると思うんだけど……、というのは、ウェイリンの心の中でのつぶやきだ。一方、あれだけ怒りながらも言った台詞を華麗にスルーされ、平然とあの台詞を返されたボルデアは、完全にいきり立ってしまった。ウェルティランの胸ぐらをつかみかねない勢いになっている。
「ええいうるさいうるさい!なあにが、“・久しぶりに会えた仲の“とても”いいいとこ”だ!おれは、嬉しいどころか、怒りでこめかみのあたりがさっきから痙攣してるわ!まったく、娘の苦労だのなんだのを知らんで……。」
……確かに、彼のこめかみを見ると、青筋が浮かんでいて、かすかに痙攣しているようだ、下手をしたら、頭の血管がまとめて切れそうだ。口をパクパクさせて2人を代わる代わる指さしているウェイリンに、ツィリは言う。
「安心してウェイリンちゃん、いつものことだから。」
と。ツィリがそう言って、ウェイリンを安心させようとした。しかし、ウェイリンは何となく、居心地の悪いものを感じていた。……なぜなら、どちらも彼女の身内であり、その一方は、自分の父だからだ。
「……・あ、あの、おじ様……・。ええっと、その父に代わってお詫び申し上げます。」
と、ウェイリンは、その場の雰囲気に流されるあまり、そんなことを言ってしまっていた。ボルデアは、“いやいや”というように、片手をヒラヒラ振ってから言う。
「いや、何もウェイリン、君が謝るようなことなんかないんだよ。……まったく……。このウェイリンは、とてもよくできた娘だな。まったく、まったく……・、どこぞの誰かとは違ってな。……私は前から不思議に思っていたんだが、その“どこぞの誰か”から、よくもまあこんなにいい娘が生まれたもんだよなあ。」
すると、今まで平然とボルデアの言葉を受け流していたウェルティランが完全にブチ切れた。
「アドレアを“どこぞの誰か”呼ばわりするなあ!!!」
その場に居合わせていたウェルティラン以外の全員は、……今の“どこぞの誰か”っていうのは、明らかにウェルティラン/父様/旦那様/閣下のことではないのか……、と揃って思っていた。そんな中でもボルデア教令卿、伯爵はすぐにいとこに言い返していた。
「何寝ぼけてすっとぼけたことを言ってやがるんだ!あのアドレア様を“どこぞの誰か”呼ばわりなんてできるわけがないだろう!……何しろ、ウェイリンの母親なんだぞ。……俺が今言った、“どこぞの誰か”っていうのはな、お前のことだウェルティラン!このバカでアホで寝ぼけすっとぼけのすっとこどっこい!」
ウェイリンはこの時、……おじ様は、父様のことは“どこぞの誰か”呼ばわりできるんだ、私の父様なのに……、と、思っていた。それにしても、ボルデアとウェルティランの口げんかは、だんだんと次元が落ちていっているように思えてならなかった。……もはや子供同士の言い争い……?とさえも思えてきた。今、この場を収拾しようとしているのは、ウェイリンただ1人だけで、ボルデアの妻であるツィリは完全に放っておいている。しかも、その様子を見ながらあくびまでもしていた。いつの間にか来ていたシスティたちに至っては、諦めてしまった。それから少しして、
「ねえウェイリンちゃん、私たちはちょっと、別の部屋にでも行っていようかしらね。……そう、私の部屋にでも。あんな、バカでアホなどうしようもない男2人の言い争いなんて、ウェイリンちゃんにとっては、ただの百害あって一利なし、の典型でしかないからねえ。……ねえウェイリンちゃん、あんな大人に決してなっちゃあいけないよ。」
と、言ったのだった。ウェイリンは内心で感動していた。……うっっわあ、義理のいとこと、自分の夫との口げんかを、“バカでアホなどうしようもない男2人の言い争い”にしちゃったよ……。うーん……、すごい、ツィリ様!……、とまあ、こんな感じである。かすかに顔まで輝かせている。実は、ツィリは、一般的にもよくあることだろうが、ヴィンドリル=リンディラン侯爵家の王府屋敷中では、夫で、伯爵、現教令卿のボルデアをしのぐほどの力を持ち、なおかつ、行使しているのだ。つまり、言い換えるとするならば、そのままだが、屋敷内最強の人だ。
「……さ、バカでアホな男2人は放っておいて、利口な女2人で私の部屋で話でもしていましょうね、さ、いらっしゃい。」
と言ったツィリに促されるようにして、ウェイリンは体の向きを変えた。と、その時、システィ、ジェス、シミュルー、また、ヴィルたちを含めたちょうど手の空いていた全家人が、ウェルティランとボルデアの口げんかの様子をこっそりとうかがっているのが見えた。それを認めたツィリは、すぐに彼らを散らしにかかる。
「みんなそんなところに固まっていないで、すぐに持ち場に戻る!でないと、全員解雇するわよ!」
その言葉で、様子をうかがっていた人たちはわやわやと、慌てて持ち場に戻っていく。ここでクビになったら、たまったものではないからだ。……何しろ、このブルグリット王国の就職率というものは、あまりよろしいものではないのだ。システィも、他の家人たちと同じように持ち場に戻ろうとしていたのだが、その前にツィリに呼び止められていた。
「……ああ、システィちゃんは自分の持ち場に戻らなくてもいいわ。……ウェイリンちゃんと私とで、私の部屋でお話しでもしていましょ。」
と言って、ウェイリンとシスティを連れて、ドアを閉める。結局、ウェルティランとボルデアの口げんかは、ツィリがドアを閉めるその瞬間まで聞こえていた。……なんとか私が寝る前に終わってくれればいいんだけど……と、歩きながらウェイリンは思った。
何しろ口げんかしているところが、“飛翼鷲の間”、つまり、彼女が泊まっている部屋だからだ。
「……行ったか?」
ヴィンドリル=リンディラン前侯爵、現ヴィンドリル・リンディラン侯爵名代の、ウェルティラン・テネール・ヴィンドリルは、いとこの、教令卿、伯爵、ボルデア・テネール・ヴィンドリルに聞いた。ボルデアは、つと立ち上がって、ドアを細く開ける。そうして、廊下を見渡してから、うなずく。
「ああ、廊下には見事すぎるほどに誰もいない。……ここは壁は分厚くできているし、天井裏にも入り込めないように造ってあるから心配いらんよ。……もうそろそろで、夕食も運ばれてくるだろうから、話は食べながらにしよう。」
ボルデアが言ったとおりに、それからほどなくして夕食が運ばれてくる。運んできたのは、家人のヴィル・アラワナだった。有能な家人は、おそるおそる2人の顔を見比べながらも、素早く食器をセットすると、主の下がってよい、という合図も聞かずに、早々に退散してしまった。その様子を見て、ボルデア教令卿が苦笑する。
「……やれやれ、我がいとこよ、どうやらさっきのあれは、かなり真に迫っていたようだな。」
と、言った。ウェルティランも苦笑する。さらに、「……さてと、ウェルティラン。今日はどうしたんだ、一体?……まーさーかー、娘の謁見及第を祝うっていうためだけに、わざわざ領地のリンディラン州から何日もかけてはるばる出てきた、というわけではあるまい?」
と、深々と椅子にかけて聞いた。その口調は、先ほどまでとは全く比べものにならないほど、穏やか、冷静たるものだった。ウェルティランはうなずいた。
「ああ、まあ、それは娘のウェイリンにも言われたよ。……リンディラン侯爵で、現国璽尚書副官ともあろう私が、来られるわけがないってね。……こっちとしては、これからお前と話そうと思っていたことがなかったとしても、王府にはこの時期に行くつもりだったんだけどな。」
ボルデアがそれを聞き、いぶかしそうに顔をしかめる。
「……?……どういうことだ、ウェルティラン?元からこの時期には来るつもりだったというのは?」
彼のそんな問いに、いとこの名代はうなずいて答えた。
「ああ、もしウェイリンが謁見に及第したら――まあ、及第できなかったとしても同じことだったんだが――、ウェイリンにヴィンドリル・リンディラン侯爵位と、侯爵家の当主位を譲って、自分を、侯爵名代に任命してもらうつもりだったんだ。まあ、それはお前が帰ってくる前にしてしまったんだがね。そして、私がその侯爵名代の職をきちんと全うできるようにするために、宮城にも参上して、国璽尚書副官の職も辞めて、中央からは引退しようかと思っている。」
それを聞いたボルデアは、少しばかり驚いた。
「お、おいウェルティランよ……。それじゃあ、あんまりにもウェイリンにとって酷じゃあないのか?……だって、まだ謁見にも及第したばかりで、これからいろいろなことにぶつかっていかなくなるときなんだぞ。」
「だから、私を侯爵名代にしてもらったんじゃないか。」
教令卿は、それでもまだ難しい顔をしている。だが、ややあって納得したのか、うなずいてから、
「……うん、そうか……。そうだな、ウェイリンに、ヴィンドリル=リンディラン侯爵家の当主位、そして、侯爵位を共に継がせるには、今が一番いいときだろうな……。領地経営については、名代のお前について学べばいいことだしな。」
と、言った。ウェルティランもうなずく。
「そういうことだ、ボルデア。あ、そうだ、このことはまだ誰にも言わないでおいてくれ。」
「あ?……まあ、よくはわからんが、言わんよ。まあ、そうだよな、確かに、これはあんまり口外せん方がいいだろうな。ウェイリンの身の安全のためにも、な。」
ボルデアは、最初は分からなかったが、納得してうなずく。それからさらに続ける。
「ところで、話は変わるが、例の件のことだ。リンディラン州での動きは、どうなっている?」
と、語調を一転、厳しくして聞いた。ウェルティランは深く腰かけ直してから答える。
「ああ……。ええっとなあ、こっちでは、大体の黒幕の目星をつけているっていう程度なんだけれどな。家人や州官関係の筋で、ちょっとな。ただ、こちらとしてはほぼ心配はない。こちらに協力するようにさせているからな、いろいろと利を説いてこちらにつかせた。……というか、我々よりも早い段階で、王府、そして、州官のつながりで動いていたようだぞ。」
「……そうなのか?」
教令卿が、警戒するように言う。「ウェルティラン、そいつは、信頼できるものなのか?……俺には、今ひとつ信用できないんだが。」
「フフフ、まあそいつは俺も、完全に信用しきっているというわけではないよ。……身びいきをするわけではないが、代々リンディラン州官として仕えてきた家の出身ではないからな。……ただ、奴の背負う立場からすれば、信用いくかもしれん。」
そう言って、その“立場”を言うと、いとこもうなずく。ウェルティランはさらに聞く。
「……それで、ランゲールの方ではどうなんだ?」
「うん、そういった関係からではないが、別件の方からの関係で調べを進めているよ。」
「何だ?その“別件”っていうのは?」
今度は、ウェルティランの方が、怪訝な顔をする番だった。ボルデアはその“別件”について、かいつまんで説明した。前侯爵はうなずき、ニヤリと笑った。
「フフ……そうか……。それはいいことを聞いたな。使えるぞ。……あとは、あのこととそのこと、そして、あの件までも絡めていけば、完全なものになるな。……じゃあ、主にこれに関係していると思われる役所を、互いに言い合おうか。」
と、ウェルティランが言う。ボルデアもうなずく。それから互いにタイミングをそろえて
「――――」
と、2人同時に言った。全く同じ言葉に、ウェルティランもボルデアも、2人共に満足げに微笑さえも浮かべながら椅子の背もたれに寄りかかった。ボルデアが天井をあおびながら言う。
「いやあ……、久々にお前と、意見の一致を見たな。」
と。
「……もう大丈夫ですかね?」
一方ここは、ツィリの私室。ウェイリンが彼女に聞いたところだ。夫人は壁に掛けられた時計を見て、
「ええ、もう“口げんか”は終わっているところね。」
と、言った。そこでウェイリンとシスティは、ツィリの部屋を辞去する。そして、控えの間で寝支度を整えて部屋に戻った彼女が見たのは、出たときとはうってかわって、穏やかな様子で談笑し合う、ボルデアとウェルティランの2人だった。
……訳が分からない……、と、彼女は思ったという。