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第4章 謁見、父来訪

いよいよ謁見――第1予備試験――の日となった。その日の朝、ウェイリンは、いつもよりもかなり早くに起きてしまった。そして、身支度を整えた後に、謁見を受けるにあたって必要なものがきちんとあるかどうか、もう一度確かめていた。

 あの時――そう、システィに頬を張られた夜――から、ウェイリンは、ルテティアを出てから度々見続けていた、あの6年前の夢を見なくなっていた。とはいってもたかだか数週間前のことなのだが。今となっては、あの夢は、新しい世界に飛び込んでいこうとする時に特有の、自分の中にある無意識の不安だとか、焦りといったものが見せていたのだろうと思っている。なので、もう、謁見に絶対に及第してこの宮廷に入るんだ、という気持ちをもったら、自然と見ないようになっていたのだ。それでようやく安心することができたのか、システィも、元々彼女に割り当てられていた部屋で眠るようになっていた。それを見て、表には出さないながらも心の中では心配していた、ジェスとシミュルーも、よかったと互いにうなずき合っていた。

 謁見当日までの間、ボルデアも、教令卿として忙しい中であっても暇を見つけては、熱心に教えてくれた。ウェイリンは、たとえ不合格になっても後悔するまい、というところまで勉強していた。なので、その当日の朝にしたところで、いつもと何ら変わりのない目覚めだった。つまり、緊張で金縛り状態になっていたとか、腹痛がひどくなっているとか、そういったことは、これっぽっちもなかったのだ。

 朝食の際に、ボルデアが言った。

 「……いよいよ今日だな、ウェイリン。お前は、今までに領地や、ここで培ってきたものを、出せる限り出し尽くしてくればいいんだ。決して、出し惜しみなんかするんじゃないぞ。……及第できても、また、そうはならなくても、後悔なんてしないようにして来い。……あー……、もしも及第して、そして、晴れてこの中央王府での官吏になれたなら……、その時には、私は、王府で早く、私と同列か、上になって働いているウェイリンを見ることを、楽しみに待っていることにしよう。」

 「……ありがとうございます、おじ様。」

 と、ウェイリン。そんな中、ふと、……もし落ちちゃったらどうしよう……、と思った。しかしすぐに、……そんなことを今更考えていても始まらないわね。もし落ちてしまったら、もうすっぱりきっぱりと中央官吏になるのは諦めて、リンディラン州に帰ろうかしらね……等と思っていた。

 その後彼女は、王府屋敷の人達に見送られて、謁見第1試験が行われる王府省に向かったのだった。


 王府省――そこは、ブルグリット王国における内政関係のほとんどを司っていると言ってもいい役所である。文官吏の採用、任免官、そしてたいていの官職の昇進、左遷等は、一括してここで行われ、さらに、王府巡察のための部署もある(これは、主に王府の治安維持が目的のもので、文官の役所では唯一、武官が入っているのだ)。そして、宮城召使い――または、王城召使い――を管轄しているのもここだ。さらにいうと、文官吏の給与の計算や支給もおこなわれている。そして、宮城と王城(この2つは、宮城が、王城も含んだ役所も含めた国王の居城全てを含んでいて、王城は、国王が居住するところだけを指している)の備品管理等々々と、挙げていこうとすれば枚挙にいとまがないほどに業務が多い役所だ。なので、中央役所の中でも、一番役人の数が多くなっているのだ。末端の一召使い、一侍女等までも入れると、その数は、5万人に迫るとも言われているのだ。

 このように、中央行政、そして、国王関係の大部分を扱っている役所なので、平の官僚よりも上の官以上の官位は、他の省や役所よりも一階級高くなっている。つまり、王府省の副卿は他省の卿と同じ官位、ということになる。もっとも王府卿の場合は、それより上の官職となると副宰相となっている。そのためにそこは同じ官位とするわけにもいかないので、べつになっているが。

 そんなふうな巨大役所だから、建物の規模も当然ながら大きく、他の省の中でも、ここのように大堂を備えているのは、同じ今日に武官採用試験を行っている、軍務省だけだ。

 「はあ~あ……。今までの17年間に、いろいろな人ごみを見てきたけどね……、さすがに、“謁見”ともなると違うわね……。」

 ウェイリンは、王府省の大堂に集まっている、たくさんの謁見希望者を見て、ふとそうつぶやいた。そんな彼女には今、システィなどは付き添ってはいない。王府屋敷からここまで1人で来たからだ。そのつぶやきに気付いて彼女を見た謁見希望者達は、さわさわと、

 「おい……、あんなところに嬢ちゃんがいるぜ。」

 「ああ……。まったく、全然市井のこともなんにも知らなさそうな感じだがなあ……、あんなのが謁見を受けて、官吏になろうっていうんかなあ……?」

 「あんなに若くてなあ……。官吏っていうのは、若ければ何でもいいっていうわけじゃないだろう。」

 と、言い合っている声がしていた。彼女は、顔をくっと上げて、中へと入ろうとしていたが、この人ごみのおかげで、彼女の小柄な体は、なかなか前へと進めない。

 それでも、何とかかんとか、彼女は人ごみを抜けることに成功すると、正面入口のところで第1試験を受ける部屋をチェックすると、建物の中へと入る。ウェイリンが受ける部屋は、大堂3階にある大部屋だった。

 ウェイリンは、入った正面に階段を上がって、その部屋へと入る。そこは、楽に100名は入れそうな、とても大きな部屋だった。おそらく、普段であれば、王府省の幹部連の会議でも行っているのだろう。そこにはもう既に、まばらに20人ほどが席についていて、本番に向けて最後のおさらいをしていた。彼女にしてみれば、もうこの時点で雰囲気に呑まれてしまいそうだった。そこで彼女は、気を取り直した。……私は、謁見の予備試験を受けに来た、のではない。謁見を受け、及第し、官吏となって、更にその先に行くためにここにいるのだ……と、考え直したのだ。ふと、席へと向かいながら見回してみると、どの人も20代以上の人達ばかりで、ウェイリンと同年代くらいの人は、全然見当たらなかった。そんなことをしながら席を見つけると、荷物を置き、一旦ついて、本をめくる。時間を確かめてみると、まだ第1試験開始には間があるようなので、手洗いへと行っておくことにした。

 手洗いから戻ると……

 ドン

 部屋の入口のところで、誰かにぶつかられた。思わずよろけて入口の柱で体を支える。振り向くと、20代半ばくらいの、見るからにどこかの町の才子、といったふうの男だった。

 「どけ、邪魔なんだよ。」

 男はそれだけを言うと、周りの視線を気にすることなく、席まで行こうとする。ウェイリンはいきなりのことで何も言うことはできないでいた。と――

 「ちょっと待ちなさいよ。」

 もちろんウェイリンではない。別の女の人の声がした。ぱっと振り返ってみると、短い金髪をした、20ちょっと前といった感じの若い女が立っている。つり気味の青い目をさらにつり上がらせている。腕組みをし、男をじっと睨みつけている。

 「あんた今のやり方は、人として恥ずかしいって思わないの?“すみません、ちょっとどいていただけませんか?”って言うならともかく、いきなり、“どけ、邪魔なんだよ”?ふざけんじゃないわよ。あんたって、この娘よりも立場が上なわけ?そんなことを平然として言えるほど?……私もそうだけど、この娘も王府は初めてかもしれないでしょ?それなら、この雰囲気に呑まれてしまっているかもしれないのも当然、考えてもよさそうじゃない。」

 次から次へと言葉が出てくる。……まるで小さい頃に読んだ物語の中に出てくる機械砲のようだな……、とウェイリンは思った。続けて、その女はとどめの一言を放ってきた。

 「……あんた、そんなに他人のことを考えられないで、この王国の政治に関わる官吏なんてできるって思っているの?」

 男はぐっと詰まる。そして、何事か言い返そうとして、女の服の肩に縫いとられている紋章に目が止まる。一瞬驚き、

 「……が、“丸秤羽筆”だって?……くそ、相手が悪い。」

 と、呻くように言うと、そそくさと出ていってしまった。ウェイリンはさっきの言葉の意味が分からず、女の肩を見ようとすると、

 「あっ!いつの間に覆いの布が取れちゃっていたのかしら?」

 と、慌てたように女が言って、代わりの布を出して、肩を巻いてその紋章を隠してしまった。それから、ウェイリンに向き直り、

 「大丈夫?どっか痛くしたとか、ない?」

 と、そっけない口調であったが、そう聞いてきた。ウェイリンはそういうことはない、と答えると、更に言う。

 「……あんたは誰なのかはまだ分からないけど、気をつけなさいよ。ともすれば、ああいう奴ばっかりだから。」

 そう言うと、礼を言う言葉も聞かないで、さっさと席についてしまった。ウェイリンも、そのまま立ちつくしているわけにもいかず、席に戻った。そうして、さっきまでのおさらいの続きをしている。すると、どこかから、

 カランカラン!

 というベルの音が聞こえてきて、それと同時にラッパが建物中に鳴り響いた。

 その音と、対して間を空けることもなく、5人くらいの役人が入って来た。……多分、試験の監督官なんだろうな……、と、ウェイリンは思った。その中でも、一番偉いらしい人――50代くらいだろうな、服もいいものを着ている。ベルトの官章からすると、局長の職みたいね――が、机の上に袋を置くと、静かに言った。

 「あと10分ほどで、試験――いや、失礼――今年度謁見、第1試験の口頭試問を始めます。……先ほどのベル及びラッパの後の、この部屋への入室は、一切、どのような理由があろうとも認められませんので、今、この場にいない者は即失格ということになります。」

 ……うっわ……、こりゃ厳しいわね……。と、ウェイリンは思った。彼女はこっそりと、周りを見回してみた。席の空き具合から見て、もうこの部屋だけで40人くらい失格になっていそうだわね……、とも思った。さらに、さっきウェイリンに罵声を浴びせた男もいなかったようだ。彼女はこの時ばかりは内心で舌を出していた。試験監督官の話はそうしている間にも続いている。

 「これからの試験の間、第2回謁見試験、そして、国王陛下との本謁見の時も同様に、今のようにベル及び、ラッパが鳴り終わった後の入室はいかなる理由があろうとも認められません。また、終了するまでの間での退室も認められません、もしした場合には、失格となります。」

 ……さらに厳しい……、とまた思った。他の受験者にしても、口にこそ出していなくても、ウェイリンと同じことを感じていたのだった。彼女は密かに――いや、1人だけは例外だが――運悪くも遅刻してしまった人達がかわいそうに思えた。

 ……と、そういうことをしている間に、受験者の各部屋への割り当てが発表された。といっても失格者が出ているので、1人ずつ名前を呼んで割り当てることになったのだが。小部屋に入ると、あの金髪の女もいた。さっきのことでお礼を言う間もなく、試験官が入って来た。そして、10数日に及ぶ謁見が始まった。


 第1試験は、昼を挟んで、ほぼ1日中にわたって行われた。終わった時には、昼勤を終えて帰宅する官吏たちと重なったため、王城の道は、馬車と徒歩でいく官吏たちでいっぱいとなっていた。ウェイリンはそんな混雑する道を何とか歩いた。そして、五時を過ぎた頃に王府屋敷に帰って来た。結局、終わった後も、あの人と話すことはできなかった。というのも、終わると同時にさっさとその人が帰ってしまったからだ。どこかで会ったら、もう1度礼を言おうと思っている。そして、屋敷の正門まで来てみると、そこで、システィが待っていてくれていた。そして、通りの向こうから歩いてくるウェイリンを認めるや、すぐに彼女の方へかけてくる。

 「お嬢様、お帰りなさいませ。もう夕食の用意は整っております。……あの第1試験の方はどうでしたか?」

 それから、そう聞いてくる。ウェイリンは、まだよくは分からないけど……、と、前置きしてから、ゆっくりと答える。

 「……うん……。まあ、私個人としては、やれる限りのことを出し尽くしてきた、と思うわ。……その後は、3日後にある結果発表を待つだけね。」

 ウェイリンが言ったように、この第1試験の結果それぞれが泊まっているところへ、3日後の朝一番に送られることになっているのだ。謁見期間中の受験者たちは、不合格、失格となった場合を除いて、ずっとこの王府から出ることを禁じられているのだ。謁見を始めた当時の第26代目国王、法制大王こと、フェレーズ2世の勅令なのだ。こういったことは、このような勅令があったからこそできることなのだ。

 「そして、受かれば、その発表日から1週間後にある、第2試験、になるわけですね?」

 「……うん。」

 と、ウェイリンはうなずいて答えたが、彼女自身には、やや自信が無かったのだ。すこし顔をくもらせつつ、言葉を続ける。

 「……でも、大丈夫かしらね?……いや、システィ、やりきった、という感じはあったのよ。だけど……」

 システィは、そんな“お嬢様”を、元気づけるかのように言った。

 「さあさあ、今日はもうごゆっくりとお休み下さい。夕食をきちんと取って、これからに備えてちゃんとお眠りください。……今日はお嬢様の好きなバターをたっぷり塗って焼きあげたパンと、ヒッコリーで燻製にした豚肉を厨房の方に用意してもらったんですよ。」

 ウェイリンはそれに少し顔を明るくさせるとこくりとうなずき、門をシスティに続いてくぐった。


 一方、王府省では――

 1500人ほどの今回の受験者の中で、遅刻、欠席、途中退室等によって失格にされてしまった者たちは、そのうちの半数近くに及ぶ、612名にのぼった。なので、口頭試験での各試験官の890名分の受験者への所感を書いた採点用紙を1枚1枚見ながら合否を決めていくことになった。そんな大人数の所感用紙を見ながら話し合うものだから、当然、長い時間がかかってしまう。この時期の王府省官吏局の職員達は、この作業にかかりっきりになる。この部署の全職員は、75人いるのだが、それでも時間がかかる。いや、むしろ、この方式だとこの人数のせいで時間がかかると言うべきかもしれない。そんな人数の合否を、遅くとも3日後の未明か朝までに行わなくてはならないのだ。所感を見て、使えなさそうな人だったらさっさと放り捨てることもできるが、やはり、このブルグリット王国の官僚になり、将来の国を支えていこうとする者たちを試問した官吏たちの所感用紙である。なかなか切り捨てることができないものだった。しかし、期限に遅らせてしまうのは、王府最多忙――または、『ここに配属されれば、肉体、精神、体力全てが改善されて、全く家族サービスができなくなり、家庭内不和を引き起こしかねない代わり、何でもお任せ期待の敏腕、スーパー官吏になれる』という噂(というか全くの事実だが)のある王府省に勤務しているものとして、その期日に遅れてしまうことは、彼らの王府省官吏としてのプライドに反し、かつ、許せないことだった。

 「おっ!」

 ちょうど、彼女の所感用紙を読むことになっていたのは、その官吏局のトップである、子爵、サラディール・マストニー―局長だ。彼は、彼女の所感用紙を見つけた時、ふと思うことがあった。

 ……確か、指導権による“勧告、指導、命令”では、このウェイリン・テネール・ヴィンドリルなるこのものを、何が何でも理由をつけて及第させるな、ということだったが……、さて……、そういうものがたとえ出ているとしても、この所感用紙を記入した官吏も、この謁見の大原則を知っているはずだから、それに左右されることはしていないだろう。そして、それを見て、人品などもみないといけないからな。

 と、考えながら、ペンを手に、所感を読んでいった。そして、問答の模範解答集も傍ら返答を読んで、彼の所感も記入していく。そうしていくうちに、次第に官吏局長の顔に驚きが生まれてきた。

 ……ん?……ふむ、彼の問いにこう答えてきたのか……。なるほど、こういう考え方もあるな。……ふむ、そうだな、まずは民の鎮撫が初めだろうな、そうでないと、国として政策を実行していくこともままならなくなるものな。うんうん、なるほど、これなら一緒に政策も立案できよう。

 そんなことを頭の片隅で思いながらも、サラディール・マストニー局長は、ものすごいスピードでウェイリンの答えを添削していく。前にもどこかで書いたかと思うが、彼は、37歳である。16年前の謁見で及第し、任官してからずっと、王府省勤めで、ちょうど5年前に官吏局の局長に就任した。だから、この手の作業には、もう慣れっこになっている。だから、他の官吏たちの手を止めてはいけないことも、十分に分かっていた。しかし、あの指導権による勧告、指導、命令のことがあるので、彼は、ウェイリンの答えに所感を書き終えた後、他の職員達の仕事を一時、止めさせた。

 「ちょっといいか?」

 そういってから、「みんな、作業を止めてしまってすまない。少しばかり、この所感用紙を見てほしい。」

 と、続けた。他の官吏たちは、誰もかれも、少しばかり顔をしかめていた。中には、数人で、マストニーに聞こえないように悪態をつく者もいた。しかし、自分たちの直属の上司の言葉だからと、全員一時作業を止めて、官吏局局長が手にしている所感用紙を皆で細かく見ていくのだった。

 「……この所感用紙に何かあるんですか?……みたところ、また随分と、試験官や、局長の評価は高いようですが……。」

 局長よりも一つ下の官職である、官吏局次長の任についている1人である、ラヒアン・マルケが、低い声で聞いた。彼もまた、他のほとんどの官吏たちの例にもれず、少しばかりイラついていた。……ただでさえ今は、謁見第一試験受験者達の馬鹿にならない数の所感用紙を、3日後の朝までに読み込み、合否を決めていかなければならないのだ。そうであるのに、たとえ上司とはいえ、局長の単なる気まぐれのために止めさせられた、と思ったからだ。局長はなおも見せながらも言う。

 「これはな、あの例の、“指導権”で名指しされていて、“何が何でも理由をつけて落とせ”とされていた、ウェイリン・テネール・ヴィンドリル令嬢の所感用紙なのさ。……ちなみに、現リンディラン侯爵兼、国璽尚書副官閣下でいらっしゃる、ウェルティラン・テネール・ヴィンドリル閣下の長子ということにもなるな。」

 皆は、少しばかりどよめいていた。それは主に前半の言葉によって、だったが。……どちらにしても、官吏局の局長が、ただの個人的な気まぐれで、皆の仕事を中断させたわけではないことが分かったからだ。官吏達は、さっきよりも子細に所感用紙を見ている。

 「……歴史、対外関係の諮問では、なかなかよい評点なんだ。総合でも、かなりの高評価になっている。」

 「……」

 全員黙って局長の話を聞いている。と、ここでなぜかマストニーは頭を抱え込んでから、こう続けた。

 「しかしな……、ここで困ってしまったんだ。……というのもな、まだもちろん全員分の所感用紙はチェックしきれていないが、この分では、相当評点、それから成績だって、高いものになるはずだ。どう低く見積もったって、1500位の中に入ってくるのは確実だろう。……問題は、だ。評点、順位ともに高くなるであろう人を、たかだか指導権のために不合格にしてしまってもいいものだろうか?……というものなのだよ。……まあ、受験者本人には、所感用紙の詳細までは伝えられないから、そこをうまく使って不合格にすることもできるんだが。」

 官吏達も困ってしまったようだ。互いに顔を見合わせ、ひそひそと何事か話しこんでいる。しかし、それもわずかの間のことだった。とりあえずは、全員分の所感用紙のチェックをすることにしたのだ。マストニー官吏局局長にしても、そこのところはよく分かっていたので、何も言わなかった。

 結局……、

 第1試験である、第1予備試験合格者は、512名。そして、その中には、ウェイリン・テネール・ヴィンドリルの名前も入ることになった。しかも、15位、という高い順位で、だ。しかし、このように決まるまでには、官吏達による、すさまじいとしか言いようがないほどの大舌戦があったのだ。それは、

 『……指導権による勧告、指導、命令といったものは、絶対的なものです。ですから、いくら評点や、順位が高かろうと、及第させるわけにはいきません。不合格にするべきです。』

 と、主張する人と、

 『いやいや、いくら指導権というものがあったにしたところで、評点、順位共に高く、全く申し分がない以上は、及第させて、なおかつ、その次の試験を受けさせるべきだと思います。』

 と、主張する人達とで対立したのだ。どちらの派が優勢ということではなく、五分五分の人数だった。

 このため、この大舌戦は、かれこれ10分以上にわたって行われた。その間、子爵、サラディール・マストニー官吏局局長は、それぞれが主張していることをじっと黙って聞いていた。そして、双方ともあらかた言いたいことを言い終わったと見るや、数回手を叩いて、全員を完全に黙らせた。そして、完全にシンとしたのをみてとって、マストニーは、自身の決断を言った。

 『……皆、全員の言いたいことはよく分かった。皆それぞれの言うことを聞き、吟味した、私の考えを言おう。……私は、ウェイリン・テネール・ヴィンドリル令嬢を、第1予備試験に合格させようと思っている。(反駁しようとして身を乗り出した官吏達をとどめると)……待ってくれ、もう少しだけ、私に話させてくれ。……今回の謁見では、どういうことかあったのかはさっぱり分からないことだが、ウェイリン嬢を何が何でも、理由をつけて及第させるな、という、妙な命令が、“指導権”という形で届いた。しかし、皆には思い出して欲しい。この謁見がどういうものなのかを。元々謁見というものは、厳密極まる判断力、知識、教養、雅心、そして、人品の試験であるはずだ。このような試験に、一個人――まあ、このようなものを出せるのだから、卿のうちの誰かだとは思うのだが――には、受験者の合否結果など、どうにもできないものであるはずだ。……何といったって、国王陛下すらも口出しをできないのだからな。

 ゆえに、たとえ、“指導権”という形での命令があったとしても、評点、順位共に高く、申し分のないような者を不合格にする、ということは、とてもその人にとって、不当極まりないものであろう。……心配するな。全責任は、私が持とう。……件の指導権で名指しされていた、ウェイリン・テネール・ヴィンドリル令嬢は、第1予備試験合格とし、次の第2試験に進ませるものとする。』

 マストニー官吏局局長の話は、きちんと筋が通っているうえに、いわば、伝家の宝刀のような言葉――“全責任は、私が持とう”――が出てこられては、さすがにもう、“及第させるべきではない”と主張していた官吏達も、反対する理由がなくなってしまった。サラディール・マストニー子爵は、官吏達が何も反論してこないのを見てとると、1つうなずき、ウェイリン・テネール・ヴィンドリルの所感用紙に、大きく合格のサインを書きこんだのだった。


 3日後――

 この日――第1予備試験合格発表の日である――までの日々を、ウェイリンは、ドキドキ、ハラハラ、悶々としながら過ごしていた。この3日間に、……もしかしたら及第しているかもしれない……、ということで、第2試験の勉強もしてはいたのだが、あまり身が入らなかった。そんな中で、結果が送付される日を迎えた。

 その日の早朝、まだうすぼんやりとして暗い、ヴィンドリル・リンディラン侯爵家の王府屋敷の庭には、正門までまだ誰も起きだしていないうちから駆けていく人影があった。その正体は、無論、ウェイリンであった。門について、書状受けの中を覗いてみると、厳重に封をされた書簡がただ1通だけ入っている。取り出してみると、彼女宛てになっていて、差出人は、“王府省官吏部”という文字だけが書かれていた。裏を見ても、その2つ以外に書いてあるものはなかった。官吏部、または王府省での責任ある者の確認印すらない。

 ウェイリンは素早くあたりを見回して、周りに誰もいないことを確認する。その後、緊張のためか、あるいは他の理由によるものなのか、わなわなと震える指を何とか使いながら、恐る恐る開く。

 中には……

 『合格通知書ならびに、第2試験受験許可証』

 と、あった。


 ウェイリンは、それを見た瞬間、へなへなとくずおれて、ぺたんと、地面に座り込んでしまっていた。……ああ~……、よかった……、とりあえずは……、と思った。……これで第2試験を受けられる。とも。彼女が、この及第の可否をめぐって、王府省官吏部の官吏同士で、物凄く激しい舌戦が繰り広げられていたことを知るまでには、あとまだ1年――そう、来年の今頃くらい――になる。

 「お嬢様!」

 その時、突然に声が聞こえてきた。ウェイリンがぼんやりと声のした方を向くと、システィが、彼女の方へ走ってくるのが見えた。……全く……どうしてシスティには、私のいるところが分かってしまうんだろう……?それに対して私はといえば、時々、システィがどこにいるのか、全然分からないことがあるっていうのに……、と、ウェイリンは思った。システィは、ウェイリンのところまで来ると、

 「お嬢様……。一体どうなさったのですかこんな早朝に、こんなところでぼうっと座り込んだりなさって……?……こんなことをしていますと、お風邪をひいてしまいますよ。……もう花月になっているとはいっても、まだまだ朝の早い時間帯は冷え込んでいるんですから……。」

 と、叱りつけるような口調で言った。ウェイリンは1つこくりとうなずくと、のろのろと立ち上がる。

 「うん……ごめん。」

 「いえいえ、分かって下されば。……?あの、それは?」

 と聞く。ウェイリンが答えようとすると、システィははっとして、

 「あ、あの!ええっと……。その、……も、もしもお嬢様の期待なさっていたような結果にならなかったとしても、お嬢様には、リンディラン州があるじゃないですか。……そうして何も悲観してへたり込まなくっても、お嬢様には、あなた様にはきちんと継ぐべき、守るべきものがありますから。」

 と、慌てて付け加えるような口調で言った。

 「?」

 ウェイリンには、システィが言わんとしていることが、まったくもって分からなかった。少し考えた後、はっと思い当った。今の自分の格好、そして今自分が持っているもの……そして、その紙を見せながら、

 「ね、ねえシスティ……、……なにかちょおっと、勘違いをしているんじゃなあい?……ほら、これをちゃんと見て。」

 と、少しばかり語尾を伸ばし加減にしていった。そして、その通知書を、2歳年上の家人に渡した。それを見た途端にシスティは、真っ赤になってしまった。

 「……!も、申し訳ありませんお嬢様!……わ、私ったら、……何っていうひどい勘違いをしてしまっていたのでしょう!」

 「いいわよ、システィ。……そんなに言わなくても、ね……。そう思われるようなことをしていた私だって悪かったんだから。……さあ、システィ、次は1週間後よ。……ボルデア様がおっしゃっていたみたいに、全てを出し惜しみせずにやらなくちゃならないからね!」

 と、ウェイリンが快活に言った。


 「……な、なああんだとお!ウェイリン・テネール・ヴィンドリルが、謁見第1試験に合格しただと?」

 男は、前回、前々回よりもさらに激怒し、その階全体に響き渡るような大声で怒鳴り散らしていた。

 「……あの“指導権”を発動させたのに……か?一体、あやつを合格させよったのは、どこのどいつだ?」

 「は」

 毎度おなじみになりつつある報告者が答える。

 「ウェイリン・テネール・ヴィンドリルを第一試験に合格させましたのは、王府省官吏局局長、サラディール・マストニー子爵でございます、閣下。彼が、閣下が発動させなさいました“指導権”がございますことを知っておりながら、独断専行で、所感が高得点、高評価なことを理由に及第させたのでございます。……何でもその時に、『全責任は、私が持とう』と言ったそうで。」

 ここで、男は身を乗り出した。

 「何?……“全責任”だと?……クックック……。そうかそうか、それはいいな。……しかし、とても便利な言葉だな、“全責任は私が持つ”というのは。よしマストニーの奴を即刻捕えろ。罪状は、絶対的な指導権を無視したことによる執行妨害罪とでもしておけ。そして、それは密かに行え!明日いきなりいなくならせ、理由不明な失踪ということにするのだ。そしてそうすることで、他に残っている奴らに、無視すればこうなることを思い知らせてやるのだ。」

 「ははあっ!」

 すぐに報告者は、主の命令を実行するため、部屋から出ていった。ちなみに、この“報告者”という男は、この場面になるとしょっちゅう出てくるが、この家に勤めだしてから、そろそろ半年になろうかという男である。彼は、以前にもいろいろな貴族の邸宅で働いていたということで、この屋敷の主は、すぐに雇い入れたのであった。そして、家にいる時には、外との連絡役をこの報告者に任せている、というわけなのだ。

 ふと、男はほくそ笑んだ。……フフフ……、これで、マストニーの奴がいなくなってしまった後となっては、官吏どもは指導権に怯えきってしまうことだろう。そうなれば、次の第2試験においては、ウェイリン・テネール・ヴィンドリルを、落とさざるを得なくなるだろう。そうなった後で、とっておきのあの情報を王府に流しさえすれば――これも、わしがこんなことをやっていることの動機のひとつなのだが――、ウェルティラン・テネール・ヴィンドリルの奴にも、恥をかかせることができるというものよ。ひいては、ボルデアにもな……。

 ……まあ、指導権がなくても、次の第2試験においては、合格することはないだろう。……まあ、念のため、指導権は出しておくが、な。さらには……、第2試験というのは、第1試験よりもはるかに難しい……。


 ……それから1週間後……。今度は、謁見第2試験の日を迎えた。ウェイリンは、緊張のゆえからかは分からないが、またも朝早くに起き、ボルデアやツィリ、さらには、システィ、シミュルー、ジェス、ヴィル達の励ましに後押しされて、第1試験の時と同じ、王府省の大堂に向かった。今回はさまざまな問題について、みっちりと考えを聞いたりするため、1日がかりとなる。王府屋敷を出る時に、ボルデアが、

 『……終わるくらいの時間になったら、王府省まで馬車を送ろう。』

 と、言ってくれたので、ウェイリンも、喜んでそれを受けることにした。……何といっても、まだまだ、この王府ランゲールは、どこがどうなっているのか分からないからである。ましてや、夜の王府など、もっと分からなくなってしまう。

 第2試験もまた、第1試験のときと同じく、遅刻や途中退席によってたくさんの失格者が続出していた。それでも、第2試験は次々と、粛々と行われていった。今回は第1試験と違い、もっと難しい質問が用意されていた。ただの知識を問うような質問はなく、ある知識を下敷きにしての、実践的な問題が多かった。そう言ったところも大変だったのだが、彼女にとって1番大変だったのは、最後に行われた実技試験、すなわち、音楽だった。選んだフラウト・トラヴェルソで、試験官が言う曲を吹かなくてはならないのだ。楽器は他にも、たて笛(こちらはただ単に、フラウト、という)、各種弦楽器(ヴィオラ・ダ・ガンバ等)、竪琴、ラッパ等だ。そこから1つを選ぶことができる。

 部屋割は、同じ楽器を選んだ受験者が3、4人ごとに集まるようになっている。そして、各々言われた曲を1人ずつ演奏する、という形式で行われる。ウェイリンと同じ部屋になったのは、1人だけだった。恐らく、他の受験者は遅刻等で既に失格になってしまったのだろう。その人は、短い金髪をした、二十くらいといった女の人だった。その人とは、第1試験において助けてくれた人であったので、互いに少し頭を下げあった。そこで彼女が、10日前の礼を言うと、何でもないことよ、とそっけなく返された。

 それから少しして、例のごとくベルとラッパが鳴り渡った。鳴りやむとすぐに、試験官らしき役人が2人、入ってくる。名前を言った後、試験官はウェイリンに、いきなり言った。

 「ハンス・ハルヴェイン作曲の、『エヴァリー軍奏曲第1番』と、ヴェルハルト・エルーグ・デュグハルト作曲の、『プリレアのためのフラウト・トラヴェルソ小品集、第257番』を吹いてもらおう。」

 と。そして、譜面が渡される。今彼が言ったこの2曲というのは、どちらもこの宮廷、どころか、各州の宮廷でも好まれて演奏される曲だということで、ウェイリンももちろん、知ってはいた。というよりも実際に練習で何度か吹いてもいた。けれども、彼女は同時にこの2曲、というのが、どちらもとてつもなく難しい曲だということも知っている。まず、エヴァリー軍奏曲の方は、軍隊行進曲であり、テンポが速いし、また、リズムが細かくできている。そして、小品集――特に今指定してきた257番――の方は、フラウト・トラヴェルソの技術の粋が詰まりきったような曲なのだ。ウェイリンの母アドレアでさえ、満足に吹けたのは稀だと、娘ウェイリンによく言っていた曲なのだ。それらのことを思い出した後、……でも、それでもやらなければ、不合格間違いなしだ……、そう思い直して彼女は、フラウト・トラヴェルソを構えた。吹き始めると、短髪の女や試験官が、ピクリと眉を上げた。

 しかし、ウェイリンはそれには構わず軍奏曲を、ついで小品集も吹いていく。曲が終わると、試験官は、ポツリとこうつぶやいた。

 「……ウェイリン・テネール・ヴィンドリル嬢……。もうここらで官吏になるのをやめて、どうか、宮廷楽団に入ってはくれまいか?」

 と。ウェイリンは、その言葉を聞いて、とりあえずはほっと、胸をなでおろしたのだった。しかし、試験官の言葉には、首を振っておいた。……ここには、官吏になるために来たのであって、演奏者になるために来たのではないからだ。因みにもう1人だが、こちらもまたうまく、試験官に同じセリフを言われていた(また、それに首を振ったのも同じだった)。


 この音楽の試験が終わったことで、謁見第2試験が終わったわけだ。この時には、同じ楽器を同じ試験で使っていたことで互いに壁がとれたのか、ウェイリンとその女とは、友達になっていた。そして、その女(名前をクレイといった)の迎えが来て帰るまで、互いのことについて話していた。

 後は、結果を待ち、及第できていれば宮城での最終試験、国王との謁見となるわけだ。そしてその試験は、10日後であった。

 クレイと別れた後、ウェイリンは1人で迎えの馬車が来ているところまで歩いていく。もう辺りは真っ暗になっていて、街路にはぽつぽつと、ある程度の間隔をもって灯りがついている。しかし、まだこの宮城、そして王府に慣れていない者にしてみれば、とてもではないが心もとないな、と彼女は思った。と、ちょうど宮城正門近くに、大きめの一頭立て馬車が停まっていた。ドアのところにヴィンドリル侯爵家の紋章が描かれているので、ボルデアが、“寄越す”と言っていた車だと知れた。ウェイリンはすぐに乗り込んだ。すると、御者席から、思いもしなかった人の声がした。

 「ウェイリン……。この前と今日とで疲れただろう?」

 という、低く囁くような静かな声……、ボルデア本人だった。

 「ボッ、ボルデ……、あ、い、いやいや、あの、おじ様。……あ、ありがとうございます、わざわざ。」

 驚きのあまり混乱してしまい、以前の呼び方――とはいっても、まだほんの十数日前までのことだったが――で呼びそうになってしまった。しかし、それを何とかすんでのところで飲み込むと、なんとか礼を言った。ボルデアは、何でもないように言った。

 「いや……、まあ……、あいつ――ウェルティラン――の娘だからな、ウェイリンは。だから、家人の者に任せておけなくてな。」

 と。それから、乗り込み、座席に座っているのを確認し、ドアを閉め、馬車を走らせる。……あ、あれ?何だか、目がかすんできた……、と思う間もなく、ウェイリンは、馬車の窓に頭を預けると、そのまま眠ってしまった。


 ボルデアはというと、しばらくの間、馬車を走らせていることにだけ、集中していた。そのため、ウェイリンが寝入ってしまったことにも全然気づいていなかった。ただ、走らせながらいろいろ話しかけても返事がなく、無言のままなので、……うん?やたらと無口だな、ウェイリンは……。……何か試験中に悪いことでもあったのか……と、思うだけだった。

 「なあウェイリン……。……?……ウェイリン?」

 何度か呼んでみても、全く返事がないのでとうとう、道路の端に上手く馬車を誘導させると、停めた。それから、馬車の中を振り返り、覗きこむ。さすがに、走らせたまま振り返る、というような、無謀極まりない真似はしない。そうして見てみると、馬車の窓に、茶色い頭を預けたままですうすう寝息をたてているウェイリンが目に入った。

 彼は一つ微苦笑を浮かべると、御者席においてある防寒用の上衣を取って、従姪にかけてやる。しっかりと、肩から、ひざ下までを覆うように。すると、

 「ううーん……、父様……。」

 と、彼女は、ムニャムニャしながら寝言を言った。教令卿は、今度はたまらずに小さく噴き出してしまった。それから、

 ……おっといかんいかん、ウェイリンを起こしてしまう……。

 と、思い、口元に手をやって、なおもクスクスと笑いをもらしながら御者席へと戻る。そして、まだ眠っている従姪へごく小さくつぶやいた。

 「……屋敷に着いたら起こすから、それまで寝てろ。」

 1つ、軽く鞭を入れ、また馬車を走らせた。


 「……リン……、ウェイリン。」

 ……深い暗闇の向こう側から、自分の名前を呼ぶ、ウェイリンの聞き知った声がする。ただ、ウェイリンは、この闇を抜けだしたくはなかった。基本的には、暗闇を苦手とする彼女なのだが、この闇だけは、何とはなしに違うような気がしていたからだ。……目の前のたゆたうような闇が、心地よく彼女にまとわりついているのだ。

 「……起きろ、もう王府屋敷に着いたぞ。」

 その言葉を聞いて、ウェイリンは、さすがにその闇から抜け出した。目を開けてみると、ボルデアの顔が、ごく間近に見えた。それに一瞬驚く。さらに、いつの間にやら長い上衣が、肩から膝くらいの間にきちんとかけられていることにも気づく。すると、もう1度驚いた。

 「……ウェイリン……。ようやく起きたか。それにしても、随分と良く寝入っていたなあ。……これでも、王府屋敷についてからはざっと、2~30分くらいはたっているんだが。」

 と、ボルデアが薄く笑みを浮かべながら言った。ウェイリンはここで、一番の驚きを見せた。……私って、そんなに寝ていたのかしら……?……と、顔で聞いた。それには、ボルデアをはじめとして、周りにいるシスティ、シミュルー、ジェス、ツィリ、ヴィル達は全員そろって、うんうん、とうなずいていた。ともかくウェイリンは、すぐに馬車から降りて、屋敷へ入った。そしてその日は、おいしい夕食をとり、入浴で疲れを洗い落とすと、またすぐに眠ってしまったのだった。


 「しかし……」

 所変わって、ここは王府省官吏局である。謁見受験者にとっては、ここでひとまず終わりである。ぐっすりと眠っていても、採点する彼らは、うかうかと眠ってはいられないのだ。今日は、受験者こそ少なくなってはいるものの、問題の質が第一試験とは全く違っていること、実技が選択制ということもあり、総務局の官吏達もかりだしての採点作業となっている。総務局の官吏数も、官吏局のそれと同じ、75名。今日は、1人欠けているので、計149名での採点作業、ということになる。そんな中で、官吏局、官吏任免審議部長を拝命している、ヴェヌシア・アルデシールが言う。

 「今日は、マストニー局長はいらっしゃいませんでしたね……。」

 と。そう、今日欠けている1人、というのは、他でもない、ヴェヌシア部長の言う通り、サラディール・マストニー官吏局局長のことなのだ。彼はいつもならば、毎日毎日、特に何もない限り――何かあったらすぐに連絡してくるのだ――無遅刻無欠勤無早退を貫き、時には出勤日ではない日にもかかわらず出てきて仕事をしているような人である。そして、その精勤ぶりは、国王からも称えられるほどなのだが、今日はというと、どういうわけか来ていないのだ。マストニーの屋敷からも何の連絡もないので、今朝から、官吏達の話のタネとなっていたのだ。

 「そうですね……。やはり、あの“指導権による勧告、指導、命令”を無視なさったからでしょうか?」

 と、同じく官吏任免審議部の職員である、フランナル・ヨウ准男爵が言う。その言葉を受けるようにして、

 「それにしても……。……あのような指導権を、一体、どこの省の卿閣下が出されたんでしょうねえ?」

 というように、誰かが、その場にいる全員に問いを投げかけて言う。それには、全員うなずいている。

 ……何しろ、第一試験の採点の時にも、今日は来ていないサラディール・マストニー子爵、官吏局局長が言っていたように、謁見の合否結果というものは、各役所の長官である卿が持つ特権、指導権など反映されないのだ。それどころか、最高権力者たる国王の意向でさえも、特に成績優秀な者に課される最終試験である宮廷謁見でしか反映されないほどにシビアなものなのだ。そのくらいのことは、自分達平官吏でも知っているというのに、その謁見を好成績を取って及第し、任官されてきたような卿クラスのような人達が知らないわけでもあるまいに……。……どうして、そんな人が、謁見を左右するようなもの(まあ、実際にはほとんど左右されないのだが)を出したのだろうか……?……と、皆が思っていたのだ。しかし、指導権は極秘のものとして扱われる以上は、局長よりも下の官吏である自分達どころか、監察局長官閣下、さらには、国王陛下であろうとも無理なのだ。この、“指導権”が、誰によって、そして、何のために出されたのかを知ることは。

 「それじゃあ……。今日は誰がウェイリン・テネール・ヴィンドリル嬢の所感用紙を担当しているんですか?」

 「俺だ。」

 男爵、ラヒアン・マルケ官吏局次長が答えて言った。そうして、……いや、ほとほと感心したよ……、とでもいうように、彼女の第二試験での所感用紙をヒラヒラと皆に振ってみせる。そして、

 「いやいや……、全く、本当にすごいもんだよ……。何といっても、第1、第2試験ともに、試験官の所感は好評なのだから。……普通、第二試験の方が所感の感触としては低くなるものなのですがね。……こういうところはさすがに、ウェルティラン=リンディラン侯爵閣下の御令嬢なだけのことはあるかと思いますね。しかし、驚くべきは音楽の試験ですよ。あの厳しいこと、担当した受験者をたいてい落としてしまうことでは有名な宮廷楽団長殿が、満点を与えた上に、『宮廷楽団に入ってはくれまいか?』……っておっしゃったそうですからね。」

 他の官吏たちは、一斉にどよめいた。今日の場合は、第1試験の採点時と違って、全受験者の所感用紙をチェックし終えていたのだ。何しろ、今回もまた、遅刻、途中退室などによって失格者が続出し、バッサバッサと切り捨てられ、

 「来年また顔洗って出直してまいれフハハハ!」

 なんていう事態になっていたのだ。なので、結局のところ、512名の受験者がいたのだが、150名ほど試験が終了するまでに減って、379名になっていたのだ。そんな、379名の所感用紙のチェックを、総務局協力のもと、149人体制で行っていれば、自然とスピードも上がる。だから今は、第一試験の時に子爵、マストニー官吏局局長が途中で止めさせたような、いらだちを巧妙に押し隠した官吏というのは、1人もいなかった。

 「さて……この者を及第させるか、否か、だな。」

 総務局のトップである、局長、クラウス・タンケント子爵が、穏やかな口調で皆に問うた。謁見は官吏局の主催なのだが、局長不在のため、今は代理で彼がかじ取りをしているのだ。ラヒアン・マルケ官吏局次長、男爵が答えた。

 「……これほどの高得点をたたき出しているんですからねえ……。まさか、及第させない、というわけにはいかないでしょう。それに、評価の順位にしましても、申し分のないものですしね。第2試験の場合で考えれば、総合6位での及第になりますからね。……ちなみに今回の女性受験者の中では、クレイ・プリンシェッド・セシュール嬢――彼女もまた、セシュール=リハルエ辺境伯家の直系長子です――と並んで、1位ですし。しかも領主貴族のみでみると、謁見が始まってから、史上最年少、最高の評価ですね。」

 「それほどとは……。……ううむ……、合格に“否”をつける理由は、どこにもないな……。と、いうよりもむしろ、何が何でも、たとえ指導権があろうとも、及第させたいものだ。」

 と、タンケント子爵は重々しくうなずいてつぶやいた。他の官吏も、一様にうなずいている。これらのことを見、聞きしたマルケ官吏部次長は、大きく合格のサインを書きこんだのだった。その様子を見ていた総務局局長は、ふと、思いつくものがあった。

 「おお、そうだ。今度もまた、“指導権”を無視した形になってしまったから、今日のマストニー子爵、官吏局局長のように、明日は、理由不明な欠勤になってしまうやもしれん。そこで、ここは1つ、ここにいる全員で、ウェイリン・テネール・ヴィンドリル令嬢の第二試験合格に同意した、という書簡でも作っておこうじゃないか。そうすれば、明日、官吏局、総務局という、王府省2大多忙――まあ、王府省自体忙しい役所ではあるんだがな――な部署の者たち全員が、理由不明の欠勤でいなくなる、なんていう事態にはならんだろう。」

それから、にやりと不敵に笑い、こう続けた。「……クックック……それこそ、そんなことをしてしまったら、大変なことになるからな。」

 余談だが、彼はもともと、今のウェイリンに匹敵するくらいの成績で謁見に及第していたのだ。しかし、もしも受かれば、末は卿も霞んでしまうくらいの中央高位顕官に就任することも夢ではないと言われる宮廷謁見を辞退したのだ。だから、ずっと、地方、中央の中級、下級官吏としてすごしてきた男だ。及第時で27歳、そして、55歳になろうとしている今では、局長どころか、卿、さらには王府長官くらいにはなれているはずだ。しかし、タンケント自身はずっとそれを拒み続けているのだ。ちなみに、子爵という爵位は、彼が働いて得たものであることからして、国王からの覚えもめでたいことがうかがえる。タンケント家も、彼の代で中央貴族に列せられたのであった。

 「……そうですね……。第一、今考え直してみれば、謁見の予備試験というものは、たとえ国王陛下の勅令であろうとも、そういったことは、全く反映されないし、反映されてはいけない……、という、大原則があったのでしたね。」

 「そうだ、そうだ!……そんな“大原則”が今まであったってえのに、どうして俺達は、“指導権”なんていうものを恐れていたんだ?……もしもこれに背いたとして、捕まるか何かして、全員出仕できなくさせるっつうんなら、そうやりゃいいってもんだ!このいい機会に、官吏がいなけりゃあ、役所どころか、国、政府が全く動かなくなっちまうってえことを、どこぞのクソバカ卿に分からせてやろうじゃねえか!」

 と、ある官吏がべらんめえ調で、が成り立てるように言う。と、その隣で、やたらと落ち着き払ったような口調で言う者もいる。……非常に面白い組み合わせである。

 「……それに、好成績、高順位な者を何かと理由をつけて不合格にする、というのは、非常に不当極まりないものだし、自分たちとしてもまた、後ろめたいものがあります。また、後味が悪いし、その人に対しても、申し訳ない気持ちになってしまいます。……ここは、自分達のため、また、不当な手段で落とされそうになっていた者のためにも、是が非でも、受からせるべきでしょう。」

 「所感用紙の中で、政治に関する問いへの答えは、とても素晴らしいと思いましたね。あれをリンディラン州のみにとどめてしまうのは、もったいない。全国的にやっていってほしいですね。」

 「……俺はウェイリン嬢の、フラウト・トラヴェルソが聞きたいですね。何しろ、あのフラウト・トラヴェルソで音楽実技に臨んだ受験者に対して厳しいことで有名な、宮廷楽団長閣下がお認めなさったほどの腕前なんですからね。……あの娘が中央王府の官吏になって、どこぞの貴族邸宅の宴席に招待された様が今から浮かぶようですよ。きっと、主がこう言うんですよ。『……おお、ウェイリン・テネール・ヴィンドリル殿がいらした。では、宮廷楽団長閣下がお認めになられたフラウト・トラヴェルソを、とっくりと聞こうではないか。』とね。」

 口々に言い合っている官吏たちを、子爵、クラウス・タンケント総務局局長は、微笑みつつ、しばらくその様子を見つめていた。そうして、そういった言葉の嵐が収まっていくと、急に、キッと顔を厳しくして、一同をぐるりと見回すと、問うた。

 「……では、御前(おんまえ)にいる諸君、ウェイリン・テネール・ヴィンドリル嬢を、第2予備試験及第させるか否か、“応”か“否”かのどちらかで答えてくれ。」

 「応!!!!」

 局長が聞き終わるか終らないかのうちに、官吏たちが全員、大声で、そろって答えていた。こうして、半ば劇的ではあるが、ウェイリン・テネール・ヴィンドリルの第2予備試験及第が決まったのだ。残るは、国王との直接口頭試験である、“宮廷謁見”だけだ。こうなってしまうともう、指導権は届かない。及第させるか否かは、すべて、国王その人たった1人に一任されてしまうからだ。王の判断に反することは、この国の者には全くできない。そうすることはすなわち、謀反人である、とされてしまっても文句がいえないことだからだ。特に、“謁見”、さらに宮廷謁見に関しては、そうなのである。子爵は、ふと笑った。

 ……私は資格があっても受けなかったのだが……。“宮廷謁見だ、宮廷謁見だ”などとわいわいやってはいるが、その実態ときたら……フフフ……。


 第2予備試験の結果発表の通知書が送付されてきたのは、試験の日から2日後のことだった。またしてもこの日、ウェイリンは朝早くに起きだして、門に作られている書簡受けに向かう。そして、中をのぞいてみる。すると、第1予備試験の結果発表の時と同じように、彼女あての封書が、1通だけ入っている。すぐに焦る気をおさえつつ取り出し、中を見る。

 『ウェイリン・テネール・ヴィンドリル、東大国王陛下御即位2年目謁見、第2予備試験合格通知書並びに、宮廷謁見許可証および証明書』

 と、紙には書いてあった。特に後半の13文字に、ウェイリンの目は吸い寄せられていた。……“宮廷謁見許可証および証明書”……。……と、いうことは、私はかなり上で及第出来たっていうことなんだ、と思った。すると、第1予備試験の合格通知の時とは違うところが1つだけあるのを見つけた。順位が書いてあるのだ。

 『ウェイリン・テネール・ヴィンドリル、第2予備試験6位及第』

 と。

 ……ろ……6位……。私が……、6位?嘘、そんなに高かったの?……と、ウェイリンは思った。もっとも、後々いろいろな人に聞いたところでは、もっと様々なところで大変だったことが分かるのだが、今の彼女には、全く知るよしもないことであった。

 屋敷の中に戻ってみると、玄関のところでボルデアやツィリ、システィにジェスにシミュルーと、全員が勢揃いして待っていたのだ。中にはヴィル・アラワナ家人や、ちょうどそのとき手が空いていたと思われる、まだ名前の分からない人たちもいた。全員が全員一様に、緊張したような、張り詰めたような顔をしている。ウェイリンは、中に入ると同時に、いきなりそのような顔、顔、顔を見せつけられ、思わず一歩引いてしまった。

 「お……お嬢様……。」

 「……ウ……ウェイリン……。」

 シミュルーとボルデアが、おそるおそる、という調子で聞いた。ウェイリンはニッコリ笑って、ずっと持っている通知書を頭上に掲げて皆に見せる。一斉に、そこにいる彼女以外の全員の目が、彼女の手にする一枚の紙の上に吸い寄せられていく。……ちょうど、何分か前のウェイリン自身と同じような感じだった。最初に、ぱっと顔を輝かせたのは、やはりというか何というか、二歳上のシスティだった。

 「お嬢様!」

 と、それだけを言う。ウェイリンには、もうその言葉だけで充分だな……と思わせるくらいの喜びにあふれた調子だった。そしてこの言葉は、その場にいる全員の気持ちを完璧に代弁したものになっていた。この夜は、まだ最終試験の宮廷謁見が残っているとはいえ、一応の謁見及第が果たせたということで、宴となったのであった。


 「どっ、こ、こここれは一体どういうことだ!……あの絶対的なはずの“指導権”を発動させておきながら、あのウェイリン・テネール・ヴィンドリルが第二試験に合格するとは!」

 男が怒鳴った。彼は、この知らせがもたらされてからここ十分ほど、ずっと怒鳴り通しだった。

 『マストニー子爵、官吏局局長を捕らえました。』

 という報告が例の報告者からもたらされたときには、“そうかそうか……ハッハッハ……。”などと上機嫌に笑っていたのだが、この報告になった途端、このようになってしまったのだ。さらに今回は、今までのものとは違い、彼の怒りを増幅するものがあった。

 「おまけに、王府省の管理局と総務局の2部署が、あの古狸のクラウス・タンケント総務局長に扇動され、所属官吏全員で、ウェイリン・テネール・ヴィンドリルの第二試験及第を決めたと……?しかも高順位、高得点でか……。もう次は宮廷謁見になってしまうではないか……。そうなってしまえば、わしにはもう手がだせん。」

 ここで、さらに怒りがこみ上げてくる。「さらにはそのとき、何人かの官吏どもは、わしのことを“クソバカ卿”などと呼ばわったとは……。ううぬ……。許せん!省のトップであり、なおかつ行政の一端を統括する立場である卿の指導権を拒み、さらにはその卿を愚弄するとは……。ええい!くそっ!こうなったら、こういうときのために用意していたものを使うときが来たようだわい。」

 そうして、控えていた家人にすぐに持ってくるように命じる。家人が隣室から大きな袋を持ってくる。

 「すぐにこの中に入っている金をすべて使っても、傭兵なりそこらにいる破落戸どもを雇い入れろ!多ければ多いほどいい!そうして、あの憎たらしく、忌々しい局長2人を亡き者にしてしまえ!そうすればもう、うるさくわしにたてつく輩はいなくなるだろう。さらには、他の者への見せしめともなり、釘刺しにもなるだろう。」

 ドチャッ!……と、大きな金属音をたてて机におかれた袋の中には、かなりの大金が入っているようだ。ともすれば、この音からすると、この袋だけで、下京区、あるいは中京区あたりの土地であれば、かなり広く買うことができるだろう音だ。

 その袋は、遠い異国東方大国で作られた絹でできており、何やら金糸で秤のようなものが縫い取られている。この袋1つをとっても、かなりの金をかけているようだ。

 報告者は、はっ!と一言だけ返し、袋を持って出ていった。


 宮廷謁見の日が近づくにつれて、だんだんと、ヴィンドリル侯爵家王府屋敷当主、教令卿、ボルデア・テネール・ヴィンドリル伯爵の様子が、ぴりぴりしたものになってきた。ともすると神経質そうに、どこかをぐるぐると歩き回ったりしている。ウェイリンやシスティ、シミュルーそしてジェスといったリンディラン州組は、別にこの宮廷謁見に落ちたからといって、官吏への道は閉ざされたわけではあるまいに……、と思い怪訝な顔をしている。そして、いつもならば、そんなボルデアを茶化しつつもなだめているはずのツィリ、さらにはヴィルたち家人たちまでが、いつもの様子と違っているのだ。

 そうしている中で、とうとう宮廷謁見当日を迎えた。身支度を調え、いよいよ宮城に行こうとしていたウェイリンに、ボルデアが言った。

 「ウェイリン……、お前にお客様がいらしているよ。」

 彼女は驚き、かつ、迷惑そうな顔をした。

 「あ、あの……、おじ様、私はこれから、宮廷謁見を受けに宮城まで行かなければなりませんので、せっかくいらしていただいたのに申し訳ないのですが、宮廷謁見が終わって、帰ってきた頃にもう1度いらしてほしいと、お客様にお伝えいただけませんか?」

 と、言った。するとボルデアは首を振りながら、

 「いやいや、今会いたいそうだ。」

 そういった。ウェイリンは、いよいよ困った顔をする。

 「……まあ……、会って損はない相手だと思うよ。……“宮城で行われる”宮廷謁見に、もしも遅れたとしても、充分に埋め合わせのできる人だからね。」

 さらに言われた。ここでウェイリンは、ボルデアに、昨日まであったぴりぴりした感じがなくなっているのに気がついた。そこに不思議な感じを抱いたものの、遅刻するかどうかという瀬戸際の彼女には、そんなことを気にしている余裕は少しもなかった。そこまで言われてしまっては、会わないわけにもいかない。ウェイリンは、しばらく考えた末に、しぶしぶその人に会うことにしたのだった。

 ……ふうー、遅刻は必至よね……、と、あきらめたように思いながら、飲み物を用意してもらって、持っていく。

 その客が案内されていたのは、第1応接間である、ディレネの間だ。それを聞いたとき、ウェイリンは、……相当大切なお客様のようね……と思った。というのは、この部屋は、この屋敷の客間の中で最上のものだからだ。そして、入った彼女を待っていた客人は、まだ、やっと20歳という感じの若い男だった。彼は、入ってきたウェイリンの所作を、まぶしそうに眺めていた。見た感じの年齢にふさわしく、ひげはきれいに剃っている。……茶色、というよりもむしろトビ色、と言った感じの長い髪を、宮廷風に後ろで結っている。

 ……この人……、明らかに私と同じか、それよりも上の階級だわ……、と、すぐにウェイリンには察しがついた。……宮廷謁見遅刻の埋め合わせができる……、そう、おじ様はおっしゃっていたけれど、それができるってことは、この人、年齢にしては官位、職が相当上ってことよね……。そう彼女は思いながら、大きめの茶色の瞳を、さっさ、と客の上をさまよわせていく。……この服も相当いいものだわ、それに、服や剣に玉石がつけてある。こういうことができるのは、少数の勅許を受けている高位顕官か、貴族の人だけだと聞いたことがあるわ。まあ、あとは王族なら勅許だとかそういうのなしにできるみたいだけど……。……まさか、王族の方々がわざわざこんなところまでいらしてくださるわけもないだろうし……。……え?あれ?……この剣の柄って……、もしかして……。とここまで考えて、少しの間考えにふける。

 しかし、こんなことばかりもしていられない。ともかくウェイリンは、飲み物をテーブルの上に置くと、跪拝の礼をとった。またも男は、目を細めて見つめている。

 「……ウェイリン・テネール・ヴィンドリルでございます。……お客様におかれましては、私に会いたい、とおっしゃっていらしたとか……。」

 若い客は、しばらくしてうなずく。

 「楽にされよ。」

 柔らかく、低い声で、ささやくように言った。……む!……これを聞いて、ウェイリンは内心、ムカッときていた。……私とそういくつも違わない(だろう)くせに、ずいぶんと偉そうだ。しかも、他人の屋敷の中なのにも関わらず――まあ、私だって、住み始めてそんなにたっていないんだけど……、などと思いながらも顔を上げる。すると、彼女の気も知らないのか、変わらず柔らかく微笑みつつ、彼の正面の椅子に座るよう、手で示した。……もうここまできたら、とことんまで付き合おうじゃないの……。宮廷謁見遅刻の責任、絶っ対にとってもらうんだから……。あの剣の持ち主に対して、そんなことを思いながらも彼の正面に座る。

 飲み物を勧めてから、聞く。

 「お客様……、ご用とは何でございましょうか?」

 しかし、ウェイリンは、その言葉とは全く逆に、相手が答えようとするのを制してしまっていた。客は、出鼻をくじかれたような感じで、不思議そうな顔をした。もちろん、彼女はそのような不作法を好んでするような性格ではない。あの剣の柄を見たときから、確かめたいことをぶつけてみることにした。

 「お止め致しまして、申し訳ございません。……しかし私には、何よりもまず、確かめておきたいことがございます。もしかして、お客様は、この、ブルグリット王国国王にして、シュライフ大公、ジェイラー3世・レッフワード・シュレヴィレン陛下ではございませんか?」

 客は、少しばかり目絵を見開いた。こうして改めてみてみると、とりたてて美形というわけではないが、端正な面立ちだ。……まあ、これはウェイリンにしても同じことではあるのだが。そして、目もはしばみ色をしている。どうも客は、ウェイリンの言葉を予想だにしていなかったらしい。ややあって、うなずいた。

 「……その通りだ。いかにも、余がこのブルグリット王国国王兼、シュライフ大公、ジェイラー3世・レッフワード・シュレヴィレンだ。そして、これより行われる、今年度謁見最終試験である、宮廷謁見の出題者、監督官、試験官、採点者、発表者でもある。」

 宮廷謁見における自分の役割をいろいろと説明しているところが、ウェイリンには内心面白いものがあった。しかし国王自身は至極まじめたるものだったので、笑うに笑えなかったが。さらに続けて言う。

 「……さて、宮廷謁見を始める前に聞かせてほしいのだが……。どうしてウェイリン・テネール・ヴィンドリルそなたは、余が名乗るよりも前に、この国の国王であるとわかったのだ?」

 王は、半ば困惑しているようだった。少しばかり眉がよっている。こうしてみると、かなりすねたような顔になる。実際に内心で、……どうして分かったのだ……、つまらんな……などと思っているのかも知れなかった。そういうことだとすると、どうも、他の宮廷謁見受験者には分からなかったらしい。ウェイリンは説明した。

 「……まず、陛下の服装を拝見しまして、とても位の高い貴族の方であろうと、拝察しておりました。しかし、この剣の柄……薔薇ですね、を拝見して、それは違うと思い始めたわけでございます。この家紋はまず、王家である、シュレヴィレン王家のものでございます。それに現在では、臣下の者が薔薇を、どんな形であれ、家紋や紋章に用いることは禁止されておりますので、必然的に、王家のみ、ということになります。なので、まずお客様は、王族のうちのどなたか……、そう、思っておりました。」

 「ふむ……、では、なぜ余が国王だと分かったのだ?」

 ジェイラー3世が問うた。

 「はい、この家紋をよく見てみますと、薔薇に、冠がついております。このような家紋は、シュレヴィレン王家に賊する方々のなかでも、当主にのみ許されたものだと聞いたことがございます。それらのことから、お客様は、王家のお方であり、同時に、御当主でもいらっしゃる。……つまり、ブルグリット国王兼、シュライフ大公、ジェイラー3世・レッフワード・シュレヴィレン陛下だと、思ったわけでございます。」

 ブルグリット国王にして、シュライフ大公の、ジェイラー3世・レッフワード・シュレヴィレンは、感心したような顔をして聞いている。さらに、ウェイリンは、言わなくてもいいことを言ってしまう。

 「……それに、陛下ほどのお若いお方が、いくら年下と言っても固く緊張しているような人に向かっていきなり、『楽にされよ。』とは普通、王城や宮城でもないのにおっしゃいませんからね。」

 国王は、感心したような顔から、一瞬のうちにぽかんとした顔になった。ウェイリンはすぐに、……しまった……、失敗したか……と思った。ここで即、不合格か、もしかしたら……と、冷や汗もので思ったその時、いきなりジェイラーは声をたてて笑いだした。ウェイリンには、何が何だか分からなかった。数秒笑って、

 「ハハハハ……、そうか。そうなのか……。余と同じくらいの年齢の者は、そうした場では、余のように言わぬものなのか……。……ふう、王城、宮城にこもりっきりでは、やはり、どうにもいけないな。あ、そうだ、時にウェイリン、……それでは、こういう時には、一体何と言うものなのだ?」

 と、いきなり聞いてきた。……う……こ、これも宮廷謁見の一部に入っているのかしら……?と、ウェイリンは思った。そうして、少し考えてから、

 「そうでございますね、“どうぞお楽に”とか、単純に“どうぞ”……でしょうか。」

 と、答えた、ジェイラー3世は、ゆっくりと、口の中で、その言葉をかみしめ、転がしているようだった。

 「うむ……、そうか……。どうぞお楽に、どうぞ、か……。そうだな、確かに、“楽にされよ”と言うよりもずいぶんと親切だな。」

 と、言った。ウェイリンは、少し慌てたように言う。

 「あ、あの陛下。どうぞお楽に、とか、どうぞ、というのは、あくまでも私的なときとか、割と親しい間柄の人と一対一で向かい合っているときに限って使った方がよいかと存じます。……朝議ですとか、年中行事といった公の場では、今まで通り、“楽にされよ”がよろしいかと。」

 すると、彼女の言葉を聞いた国王は、ふいに、ニッコリと、それはよい笑みをみせる。

 「ほう……、ではウェイリン、今は私的なとき、そして、あるいは、互いに親しいのだと……そう言うのだな?」 

……痛いところを突かれた……、と、ウェイリンは思った。ぐうっと押し黙ってしまう。それを見た国王は、さらに笑っていた。


 「……さて……。これより本年度謁見最終試験、宮廷謁見を始める。」

 そういった国王は、あの笑顔をもう引っ込めている。

  「宮廷謁見のやり方はとても簡単だ。……まず、余が口頭で質問し、それにウェイリン、そなたもまた口頭で答える、というものだ。……質問の内容については、あまり難しいものはしないので、そこのところは安心してほしい。……では、始める。まず、そなたの名前と年は?」

 ……いきなり何を聞いているんだこの国王は?と、ウェイリンは思ったが、答える。

 「……私は、ウェイリン・テネール・ヴィンドリルと申します。年は、15でございます。」

 「ほう……。余よりも4つ下でしかないのか……。いや、しかし、余が言ってもどうしようもないことだとは分かっているのだが、年の割にしっかりしているな。」

 と、いうことは、今国王陛下は19歳なんだな、と、ウェイリンは心の中で思っていた。

 「光栄にございます。」 

 とだけ答える。

 「そなたの出身と、父と母の名は?」

 「リンディラン州州都、ルテティアの出身です。父の名はウェルティラン、母の名は、アドレアと申します。」

 ここで王は、目をわずかばかり見開いた。

 「ほう……。そなたはウェルティランの娘だったのか……。では、よくウェルティランが話していた、“娘”というのは、そなたのことだったのか。」

 とも言った。……父様……、陛下にまで話していたの……?とは、ウェイリンの心の中のつぶやき。

 「あの……、試験中だということは承知しておりますが、どのように父が申していたのかを、伺ってもよろしいでしょうか?」

 王はうなずいた。

 「うむ、よいぞ。ウェルティランはな、そなたのことをものすごく案じておってな。勉強の具合がよかった、とか、たいていの州都兵相手なら、剣で勝てるようになった……とかいろいろだな。……もうそれはそれは嬉しそうに話すのでな、こちらも思わず嬉しくなってしまうものだ。」

 ウェイリンは、気恥ずかしさで真っ赤だ。それからまた王による質問が続く。

 「今までのところを見ている限り、領主貴族係累にしては礼儀作法がしっかりしている。……誰ぞから習ったのか?」

 「……大体のところは、母アドレアからでございます。ただ、10年前に母が亡くなりました後は、父ウェルティランや、侯佐のイーヴェル・アラテドールなどから習いました。」

 それを聞いたジェイラーの顔に、たとえようのない哀しみの色がよぎった。

 「……な、亡くなっておったのか。そなたの母上は。……あ、いや、弁解めいて聞こえてしまうかもしれんが、このことは、ウェルティランも話さなかったことゆえな。悪いことを聞いてしまったな、許してくれ。」

 「な、なにも、陛下がお謝りになることではございません。」

 内心の動揺、どうして陛下はこのようなことをおっしゃられるのだろう……?それを押し隠しつつ、ウェイリンは早口に言った。


 「……では最後に、これを問うて終わりにする。ウェイリン・テネール・ヴィンドリル、そなたはなぜ、官吏になろうとするのだ?」

 30分ほど口頭試問は続いて、最後の質問になった。ウェイリンは、しばらく頭の中で言葉を探していた。それから、ゆっくりと答える。

 「……私は、この国が、もうあの“大内乱”の様な状態にしたくないと思い、この謁見を受け、そして、官吏になろうと思ったのです。一州の領主としてではなく、国としての政に関わる官吏となることで、あのような、国内での争いをもう生み出したくない、そう思ったのです。そしてそれには、地方の領主位だけでは、できないことだと思うのです。……だから、私は、官吏になろうと思ったのです。」

 「……」

 ジェイラー3世は、じっと黙っている。そして、ウェイリンからもう言葉が出てこないとみて、一つうなずいた。

 「……では、これで宮廷謁見を終わる。長いこと邪魔をしてしまい、迷惑をかけたな。飲み物はもらっていこう。」

 そう言って、ジェイラーは、すっかり存在が忘れ去られていた飲み物に、無造作に手を伸ばした。そうして一気に飲み干す。……どうもこういうところに来ると、日頃の窮屈なものから一気に解放されるようね……、と、その様子を見ていたウェイリンは思っていた。それから彼女はまた、数10分前のように跪いて、

 「あの、陛下。この結果はいつごろ届くのでしょうか?」

 と、聞いた。王は答えた。

 「今までの第一試験、第二試験とは違って、この宮廷謁見では、試験の終了後直ちに、受験者本人へ合否が伝えられることになっている。」

 ウェイリンはそれを聞いて、さらに姿勢低く、跪拝した。ジェイラー3世は、跪いているウェイリンに向き直る。……もう彼は、笑ってなんかはいなかった。そこにいるのは、純然たる第56代、シュライフ大公兼、ブルグリット王国国王、ジェイラー3世・レッフワード・シュレヴィレンその人だった。

 「……それでは、、結果を申し渡す。……ウェイリン・テネール・ヴィンドリル、そなたを、宮廷謁見合格とし、合わせて今年度謁見もまた、合格とする。……正式な証明書類などは、10日のうちに、王府省官吏局を通じて、王府屋敷宛に送ることとする。」

 ウェイリンは、国王の言葉に思わず顔を上げ、王の顔をまじまじと見つめていた。……え?……私、謁見にも、宮廷謁見にも合格しちゃったの……?などと、ぽかんとしながら考え込んでいる。国王は片膝立ちになると、そんなウェイリンと同じ目線になり、さらに言う。

 「……いつか、余の左右の人となる日を待っている。」

 こうして、ジェイラー3世は、次の宮廷謁見受験者のところへと向かっていった。ウェイリンは、王府屋敷を出る国王を見送ることもできず、ただ、第1応接間の、ディレネの間床にぺたんと、呆けて座り込んでいるだけだったのだ。まだ、いきなりの事実に、順応できないでいたのだ。……と、とりあえずは、夢への第一歩はちゃんと踏み出せたのよね……、と1人考えている。ちなみに、帰り際にジェイラー3世が言った言葉の正確な意味を、彼女が知るのは、もう少し後のことになる。

 「……リン、……ウェイリン。」

 後ろの方から、かすかに声がした。彼女はぼんやりと声のした方を向く。第2試験の合否如何のことを今か今かと待っていた、あのときと同じように、ボルデアやツィリをはじめ、家人たちも手の空いていた限り全員で待っていたのだ。ウェイリンが自分たちのことを見ているのに気がつくと、すぐに部屋の中に入ってくる。

 「……ウェイリン……、一体どうしたと言うんだ?そんなにぼおっとしていて……。陛下は一体、なんとおっしゃっていたんだ?」

 ボルデアが聞いてきた。ああ……そうだったのか……、と、ウェイリンは心の中で納得していた。……おじ様……、ううん、王府屋敷にいる、私たちを除いた全員は、最初っから知っていたんだ……。今までここにいらしていたのが国王陛下だってことも、宮廷謁見が宮城ではなくてここ、というか、受験者の家、あるいは泊まっているところで行われる、ということも。

 ウェイリンはそんなことを思いながらも、まだぼんやりしているような声で、座り込んだまま答える、

 「……合格……ですって、宮廷謁見……。」

 それから数秒後までは、その言葉を聞いた人たちに、何の反応もなかった。しかし、その直後、ウェイリンはその場にいた人たち全員に喜びのあまりにもみくちゃにされていた。……ちなみに、その筆頭はボルデアだった。……お、おじ様もさすがに父様のいとこっていうだけのことはあるわね……とこのとき遠い瞳をしながら実感したのだった。


 「まったくさあ……、ひどい目に遭ったわよ。」

 その日の午後だ。ウェイリンたちは、王府ランゲールの下京区をほとんどうめつくしている市を散歩している。ここに着いたときに彼女付きの家人ジェス・カーベンが言っていた、“気分転換”というわけだ。彼女は一緒に歩いているシスティ、ジェス、シミュルーに文句を言っている。そして、その3人は、いずれもばつが悪そうに笑っていた。この3人の家人もまた、“お嬢様”をもみくちゃにしていたのだ。

 「……ぼんやりしていたから、うっかり全員をぶん投げちゃうところだったわ。」

 ウェイリンは、あまり貴族令嬢らしからぬ言葉を放った。それを聞いたシスティは、……またジェスさんとシミュルーさんは、お嬢様に変な言葉を吹き込んで……と言わんばかりに睨みつけている。しかし2人は全く気にもとめていない。むしろ、

 「さて、お嬢様、システィはともかくとして、私たちは果たしてぶん投げられましたか?」

 と、兄弟そろって聞いた。システィは、……ま、またこの2人は変な言葉を……、ていうか、“私はともかくとして”って何よ……と言いたげな顔で、さらにキツイ目をして2人を睨みつけている。元の瞳の色もあいまって、“白眼視”とは、まさにこのことだった。しかし、さっきと同じように、この兄弟は全く気にもしていない。

 「う……、た、確かに、システィはともかくとして、ジェスとシミュルーの2人は……。」

 ウェイリンまであごに手をやって考え込んでしまう。それにシスティは、……お、お嬢様まで……と少々愕然とする。けれども、それも無理のないことだ。ウェイリンは今、体術だとか剣術を、主にこの兄弟に習っているのだ。

 ……彼女の母親が亡くなるまでは、体術はアドレアに習っていた(しかし、そのアドレアが、どうやって体術を学んでいたのかは、謎である)。そして剣術はというと、州都ルテティアにいたときは、主にガデュール・ラッティカ、リンディラン州将軍に教わっていた。もっとも、そのラッティカ将軍の手が空かないときには、シミュルー、ジェスの兄弟に教わっていたのだが。

 さらには、ウェイリンと彼らとの実力の差もある。彼女の趣味、フラウト・トラヴェルソはもう、システィと合わせられる、また、1人でもそつなく演奏できるくらいにまで上達しているのだが、体術や剣術では、この兄弟や州都兵相手にして、ようやく何回か勝てるようになった、というほどしかないのだ。さらに、ラッティカ将軍に勝ったこととなると……、1回もない。だから、もしウェイリンがぶん投げようとしても、逆に制されていただろう。

 「ま、どちらにしましても、及第おめでとうございます。」

 と、ジェスが言った。これにはウェイリンも、素直にうなずいた。システィはさっきの白眼視が嘘のように、穏やかに微笑みながら主を見ている。

 この日もまた、王府ランゲールはよく晴れている。この時期はあまり雨が降らず、連日のように晴れが続くのだ。そのためか市は、ものすごい賑わいを見せていた。その様子は、彼女たち一行が初めてここに来たとき以上のものに感じられるのが分かる。家財道具に食料品、楽器にはては、真偽が分からないような、どうにもうさんくさそうな骨董品まである。近くの食べ物屋では、外に置かれた椅子に座り、パンとワインを楽しみつつ、何やら議論し合っている人もいた。その会話が、少しばかりウェイリンにも聞こえてきた。

 「……いや、今年も謁見はすごい競争率だったらしいな。」

 「ああ。最終的に200位までに入ったものが合格で、志願者の数は1500人を超えていたんだってな。」

 「そうだっていうな。仮にそれだけをとるとして、7倍だろう。そんな狭い門を抜けて官吏になろうっていうのは、一体、どういう人なんだろうなあ……?まあ、6年前の“大内乱”のようにしなければ、別に誰がなったっていいがねえ……。」

 ……ウェイリンは、笑いをこらえようか、沈んだ顔をしようか迷ってしまった。なんと言っても、その“門”を抜けて、来月1日から官吏になろうというものが、彼らのすぐ近くにいるのだから。そして、この2人が、官吏には何の期待もしていないことが分かってしまったから。……それも、仕方のないことなのかなあ……。と、彼女は歩きながら思った。何しろ、その2人を見た感じからするに、6年前の“大内乱”どころか、そのまえにあったという戦乱も経験しているはずだから。それに、ウェイリン自身、その当時、官吏に対して失望していたのだから。そして乱が終わった後、官吏になりたいと思い始めたのだ。

 そんなことを思って、少しため息をつきかけたとき、雑踏の向こう側に、見覚えのある人影を見つけた。

 「ちょっと待ってて。」

 と、3人に言うと、すぐにその人へ走り寄る。

 「クレイ」

 ウェイリンは、その人を呼んだ。彼女の声にその人は、ぎくりと肩をふるわせた後、なんだか諦めたようなため息とともに振り返った。短い金髪で、青い吊り気味の目をしている、若い女だ。あの、第一試験に彼女を助けてくれて、第二試験の音楽で一緒だった人だ。クレイ・プリンシェッド・セシュール。彼女は、王国南部に位置する、リハルエ州を治めるセシュール=リハルエ辺境伯家の直系長姫なのだが、謁見を受け、官吏となるべくこの王府に来ていたのだ。歳は、ウェイリンよりも3つ上の、18歳だ。……この時にランゲールにいるということは、クレイも無事に及第できた、ということなんだな……、と彼女は思った。

 そんなウェイリンに相対して、一方のクレイの反応は違っていた。一目彼女の姿を見るや否や、げっ!という顔になって、

 「……ウ、ウェイリン……、ったく、どーしてこんなところでまで、あんたとこうも都合よく会うわけ?第一試験、第二試験にとどまらず。」

 と、言った。ウェイリンは、そんなことをぶつくさとぼやいているクレイには一切構わず、さっさと手を引っ張って、何も言わないでシスティたちのところへ連れて行ってしまう。

 「あっ!ちょ、ちょっと、ねえウェイリン、ねえってば!」

 文句をろくろく言わせない間に、ウェイリンは早くも、クレイを待っていたシスティ、ジェス、シミュルーたちのところに連れて行った。

 「あ、あの……、お嬢様。……その方は?」

 システィが、……わけわからん……という顔で聞いた。

 「うん、3人にはまだきちんと話していなかったわよね。……ほら、謁見第一試験のときにお世話になった人がいたって言ってたでしょ。それが、ここにいるクレイ・プリンシェッド・セシュールなのよ。……しかも、私と同じ音楽を受けて、同じような評価を受けたのよ。それで、セシュール=リハルエ辺境伯家の直系長姫でもあるわ。……そうよね?」

 「え?……そ、そうよ。うん。……ていうかさウェイリン……。あんたあんなことをほかの人に言っていたの?あと、あんたもう知っているくせにどうしてまたわざわざ確認するのよ、いくら、ほかの人への紹介だからと言って。」

 それから、3人に「あ、自己紹介が遅れて、すまなかったわね。私は、さっきウェイリンからもあったように、クレイ・プリンシェッド・セシュール。リハルエ州都、エネチアート出身よ。……ま、とりあえずこんなところかしらね。よろしくね。」

 クレイの自己紹介は、簡単で、そっけないものだった。3人の家人も、それぞれ自己紹介を返した。それからクレイも加わって5人で市をぶらつくことになったのだった。

 ウェイリンとクレイとは、第二試験が終わってからぽつぽつと話すようになっていた。そして、第二試験終了後、宮廷謁見の前に、少しばかりの用があって今日と同じように王府下京区に出かけたときにちょくちょくと会うようになっていたのだ。ウェイリンは、ここ数日というもの、クレイのジト目顔しか見たことがなかったので、他の表情も見てみたいと思っていろいろとやってはみたのだが、あまり変わる気配がなかった。それどころか、1度など、さらにジト目度合いを強められたことさえあった。なので、このことについては少し諦め気味である。しかし、第二試験で全て同じ試験官で、音楽の実技でも同じ楽器、さらに同じ領主貴族直系長姫ということ、そして――これは知るのはまだ先のことだが――、同順位の及第ということで友達になったのだった。

 「……リハルエ州の、エネチアートからですか。」

 「え?ええ、そうよ。……私も、他の領主貴族の子女の例に漏れず、こうして謁見を受けるまで、領地からほとんど出たこともなかったからね。たまに、隣接する領主に招かれて、父と一緒に行ったくらいだもの。……王府に来たのはは初めてなのよ。あと、あんたの出身地も含めた、北側の州にも行ったことはないわね。」

 これには、ウェイリンもうなずく。彼女にしても、この歳までほとんどリンディラン州を出ることはなかったのだ。せいぜい、隣のウェルディ州、サルスヴィタット州、ウィスパール州くらいなものだった。

 4人は、さらにクレイが言った言葉に絶句する。

 「……やっぱり、エネチアートとは違うわね。まあ、それも当然だけど。やっぱり、中に運河の1つや2つないと、どうにもしっくりこないのよね。」

 彼女たちはしばらく黙り込んでしまう。彼女たち山側の州出身組からすれば、町の中に自然の川が流れていることはあっても、人工の川が流れていることが想像できなかったりするのだ。と、クレイは、

 「何もそういうところはエネチアートだけじゃないわよ。海側の州の州都で言えば、マラカッシェ州都のアラハンブルとか、シャンベリオン州都のハランヴァルが有名よ。内陸で言えば、ツァズーム州都のメルッセバールとか、クッペンシュトゥフ州都のベラウィックも、中に大規模な運河を造っているわ。」

 と言う。

 「それでは、ここまでは船と馬でいらしたんですか?」

 シミュルーが聞いた。クレイは首を振った。

 「いいえ、ずっと馬だったわよ。それで、大体20日というところだったかしら。」

 ウェイリンが言う。

 「私たちは9日かかったわ。……だけど、1日捕まっていたからね……。あれがなければ8日でランゲールに着いていたのに。」

 と。次期リハルエ領主は、思い当たったようだ。

 「ああ……。それ、王府に着いてっから聞いたわ。……なんか、変な書状が王府とルテティアの両方から出されていたとか、……ええっと……省トップの卿だけが持ってる特権の、“指導権”って言うんだったっけ?……まあ、そういうものが発動されて追い落とそうとしていたらしいけど、あんた、“正翼広の鷲”の家紋と“一の牌”と、謁見成績で乗り切ったそうね。」

 と、続けて言う。ちなみに家紋に関係して言うと、クレイの家、セシュール=リハルエ辺境伯家の家紋は、“丸秤羽(がんびんう)(ひつ)”である。これはどういうものかというと、丸があって、その中の天秤を中心にして、その前で羽ペンが2本、クロスしているというものである。……いかにも、海上交易、そして、商業で栄えるリハルエ州の領主家にふさわしいものだ。

 「……ウェイリン、あんた、大変だったわね。」

 と、しみじみした調子でクレイが続けて言えば、

 「うん……おっしゃっているとおり、全く大変だったわよ……。」

 と、ウェイリンが答える。それから、「……あ、そうだクレイ……。今日は一体どうしたの?わざわざ下京区まで来たりして?」

 聞かれたクレイは、ぽかんとしている。ついで、

 「へ?そりゃ私の方が聞きたいわよ。あんただって。」

 「私はただの、気分転換を兼ねた散歩よ。」

 「私の方は、ちょうど買いたい本があったから、ついさっき店に行ってきて、買ってきたところだったのよ。それで、あんたと同じように気分転換代わりに少しあたりをぶらぶらしていようかなあ……って思っていたら、あんたに会ったってわけよ。」

 ウェイリンは、その本を見たくなってきた。

 「ちょっと見せて。」

 と、彼女は思わず言っていた。クレイは、すんなり見せる。……あれ?どうしたんだろう……?と、このときウェイリンは思った。いつものクレイだったら、こういう時には、あのジト目顔になって、皮肉の1つや2つも出てきそうなものだけど……と。だが、ともかく、1つも皮肉を言われなかったのはやはり、彼女にとって、さらにクレイと打ち解けることができたということで、嬉しくもあった。

 そうして、クレイが見せてくれたのは、かなり分厚い本だった。タイトルを見ると、ほとんど黒と言ってもいいほどの深い菫色の革張り表紙に金文字で、『社会通念成立史』とあった。

 ……クレイって……、こんな本を読んでいるんだ……、と、ウェイリンは、なやら取り残されたような思いがしていた。彼女にしても、そういったテーマを扱った本を持っていないわけではない。ただ、リンディラン州都にあるルテティア城の彼女の本棚には、優に1000冊を超える本が収まっているのだが、そのうちの8割ほどは物語とか、神話関係の本なのだ。

 「……すごいですね……。クレイ様、お嬢様とは、全然違うものをお読みでいらっしゃる。」

 システィが、あまりにも素直に、何の皮肉も裏もこめないで言った。ジェスとシミュルーが途端に小さく吹き出して笑い出す。ウェイリンはばつが悪くなり、すいと視線を横へずらしていた。すると、その視界の隅で、クレイ・プリンシェッド・セシュールが、小さく口元に手を当てて、クスクス笑っているのが見えた。ようやく念願叶ったウェイリンだったが、そのきっかけの話が話だけに、ますます複雑な気持ちになった。


 「……あのお方は、大切になさった方がよろしいかと思います。」

 クレイと別れた後、同期及第者の背を見ながら、ジェスが言った。ウェイリンは、もちろんよ、というようにうなずいている。

 「そりゃあそうよ。なんと言ったって、私と同期の及第で、同じ領主貴族直系長姫なんだもの。」

 「え、ええ……、そういうこともありましょうが、まあ、いろいろと。」

 “いろいろと”ってどういうこと?……そう、ウェイリンが聞こうとした。しかし、もう王府屋敷の門のすぐ近くまで戻ってきてしまっていたので、一旦、この話はそこで終わりになった。門には、ヴィル・アラワナ家人が立っているのが見える。ヴィルは、どうやらウェイリンたちを待っていたらしく、彼女たちがこちらにやってくるのに気がつくと、走ってきて、あることを告げた。ウェイリンたちが驚き、そうして屋敷に駆け込んだ。と、そこにいたのは――

 「やあ、ウェイリン。」

 ウェイリンの父、ウェルティラン・テネール・ヴィンドリル国璽尚書副官兼、リンディラン侯爵だった……。


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