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第2章、王府と領地との違いについて

 あれ――つまり、ウェルティランの、ウェイリンへの抱きつき騒動のことだ――から3日後のこと、彼女は、王府ランゲールに向けてリンディラン州都にあるルテティア城を出発した。そうして今は、それから1週間後だ。つまり、合計すると、あの日から10日後、賀月末日というわけだ。

 ……どうしてウェイリン達が王府へと向かっているのか?……それは、官吏となるために必要な当代国王への謁見を受けるためだ。そのためにウェイリンは、愛馬のティタニアにまたがって、他に彼女付きになっている3人の侯爵家家人を連れて、はるか王府ランゲールを目指しているのだ。

 「……あともう少し――ええっと、2日か3日くらいでしょうかね――で、王府でございますよ、お嬢様。」

 一緒に来ている3人の家人のうちの一人――システィ・ヴェルシュ―が主に言った。彼女は、今一緒にいる3人の家人達のうちで、最も主であるウェイリンに歳が近く、17歳だ。だから、他に一緒にいる2人と比べてみると、一緒にいる時間が一番長い。さらに言い換えてしまえば、ウェイリンとシスティは、一緒に育ってきたようなものなのだ。さらには、ウェイリンの母、アドレア亡き今、彼女の、横笛フラウト・トラヴェルソの師匠であったりもする。丸顔で、さしてとびっきりの美人というわけではないが、愛敬のある顔立ちをしている。しかし、それ以上にぱっと人目を引くのは、その瞳だ。ほとんど分からないくらいの、とても薄い緑色をしている。

 ウェイリンは、馬上で、寒さをこらえるように分厚い上衣の襟をかき合わせながら、うなずいてから言った。

 「そうなんだ……。……あ、そういえば私は、王府に行くのは初めてなんだけど。システィって、今まで王府に行ったことがあるの?」

 ウェイリンはそう聞いた後、はっとした。それから、……ああ、我ながら愚問だったわね……、と思った。それはもう瞬間的に、である。なぜならシスティは、生まれも育ちもリンディラン州都のルテティアだし、また、ウェルティランがウェイリンにした話によれば、彼女が2歳の時には、もう父から引き会わされていたのだそうな。しかし、そんなことを父親に言われたところで、娘の方には、そんな記憶は当然のことながら、あるわけがない。だから、ウェイリンの感覚では、物心ついた時からずうっと一緒にいる、というものだ。そんなものだから、ウェイリンと遊んだり、一緒に勉強したり、フラウト・トラヴェルソを習ったり、さらには、リンディラン州将軍である、ガデュール・ラッティカについて、剣まで習ったこともある。もっとも、それらについては、今も同じようにしているのだったが。

 しかも、そんなウェイリン自身は、さっきの自身の言葉にもあるように、王府に行ったことは一度もない。王府勤めから帰ってきたウェルティランの話を聞いて、ああだろうこうだろうと想像するだけだったのだ。仕え主のウェイリン自身でさえもそうだったのだから、この――出会ってから14年間ほとんど毎日一緒に過ごしていた――システィが王府に行った、なんていうことは、よくよく考えてみれば、全くありえないことなのだ。

 ……恥ずかしいこと聞いちゃったな……、と、ウェイリンは思った。けれども、当のシスティは、そんなことは全くおくびにも出さずに、

 「いいえ、ございません、お嬢様。私も今回が初めてですよ。」

 と、答えてくれる。その答えを聞いたウェイリンは、……何ていい人なんだろう、いや、知っていたけど。システィ、気使わせちゃってごめんね……、と、心の中でひたすら謝り続けていた。


 この4日前、リンディラン州と隣の州であるサルスヴィタット州との境の砦まで見送りに来てくれたウェルティランは、こう言っていた。

 『……王府に着いたら、とにもかくにもヴィンドリル=リンディラン侯爵家の王府屋敷に行けばいい。今は確か、ボルデアがそこの当主のはずだ。』

 それを聞いて、ウェイリンは思わず聞き返していた。

 『えっと……、“ボルデア”様っていうと……。あの、父様のいとこ様に当たられる、あの方なの?』

 ウェルティランはうなずいた。

 『ああ、その“ボルデア”だよ。あいつも官吏をしていてな、今は確か、教令卿をしているはずだ。もう王府屋敷に向けて、その旨を謁見申し込みを送ると同時に書き送っておいたから、もう文も着いているはずだ。だから、あのボルデアならば多分、ウェイリン、システィ、シミュルー、そしてジェス、お前達を何くれとなく世話してくれるだろう。』

 『でも、私って、ボルデア様にお会いしたことがないんだけど。いきなり――いくら父様が手紙を送っていてくれているとはいえ――押しかけても大丈夫なのかしら……?』

 ウェルティランは、それを聞いた時、16年前、ウェイリンが生まれた時に、はるばる王府から――初任官であった官吏局次長の仕事さえもほっぽり出して――駆けつけてきた自分のいとこを思い出していた。そうして、娘の心配があまりにも的外れなことにフフッと思わず笑ってしまう。その笑みの意味が分からないウェイリンが怪訝に首を傾げていると、彼女の茶色の髪を、右手でくしゃくしゃっとなで回しながら、彼は言う。

 『大丈夫だ。ボルデアはな、ウェイリンよ、お前のことをとても案じているしな。……まあ、それに何より、私以外ではお前に一番近い親類、ということになるからな。……あー、まあ、な、王府に行っていて、私がいない時には、あいつのことを父と思ってくれても構わない。』

 ……そこまで言うか……?と、ウェイリンは思った。しかし、そこはそう言い切った父の手前、微笑しておいた。彼女にしてみれば、……まだ会ったこともない人に、そこまでして接することができるだろうか……、と思ってしまうのだ。しかも、そのボルデアはと言えば、さっきもあったように教令卿の地位にある。一役所の長になっているわけだ。……そんなに高い位の人を、そんな風に思えるだろうか……?とも考えてしまう。しかし、ウェイリン自身は失念してしまっているが、彼女の父ウェルティランは、教令卿よりもさらに上の、国璽尚書副官を務めているのだ。ウェイリンはそれを失念しているが、他の人達はもっと単純に、見も知らぬ人――は言い過ぎだが――のところにいきなり世話になることを心配しているのだと思っていたため、ただ、微笑みを交わすだけだった。

 しかしここで、……でも、と思い直した。……ボルデア様は、父様がそこまで言い切るようなお人なのだから、できるだけそう思えるようにしよう……、と思うウェイリンだった……。


 ……と、そんな感慨に浸ったのが、もう4日も前になっている。ウェイリン達一行は、昨日のうちに、王府のあるシュライフ州に入っていた。しかし、ずっと歩きづめだというのに、その肝心の王府ランゲールが、なかなか見えてこないのだ。

 ……う~ん……、道はこれで合っているはずなんだけどな……、と、ウェイリンは不安にかられながら思った。何しろ、リンディラン州州都ルテティアから、王府ランゲールまで、直通の街道が通っているからなのだ。しかも一行は、その道を間違いなく歩いて、王府に向かって進んでいる。しかし、そうであっても不安にさせるだけのものがここにはある。いくつかの城は脇に見えたり、また通過したりしているが、それだけで1つの町も見かけないことだ。この日の朝、泊まっていたライベアットの町を出発して、そろそろ2時間くらいにはなろうとしているのに、彼女達は一つの町も見ていなかったのだ。

 もちろん、城や砦、そして街道を行き来する人達ならば、もういくつも見ているのだが。これがもしもリンディラン州だったら、これだけの時間がたっていれば、1つや2つの町なり農村なりは通過しているはずだ。

 と、そんなこんなで、最後に木陰で休憩してから、そろそろ1時間になろうとする時だった。その時ようやくウェイリン達の目の前に、城壁が見えてきた。一行の中で最初にそれを見たのは、馬上からの視線の良さからか、ウェイリンだった。ティタニアの背からそれを見て、ウェイリンは、ぱっと顔を輝かせた。しかし、それもほんの束の間のことで、すぐにこう聞いた。

 「……あれが王府?」

 語尾がかなり上がっている。そこには単純な問い、というよりもむしろ、ありありと、濃い疑いがこめられていた。23歳と、彼女に2番目に歳が近い、ジェス・カーベンという家人が振り仰ぎ、

 「いいえ、違うでしょう。」

 と、答える。その言葉に合わせるように、今のところで何も言っていなかったシミュルー・カーベン(ジェスの兄で、こちらは26歳だ)も、同調した。

 「そうですね。弟の申している通りだと思いますよ、お嬢様。あれは……えっと、そうですね、王府ランゲールの、出城か砦か……、まあ、そんなところでしょうかねえ。」

 と、のんびりとした口調で言った。このジェス、シミュルーの兄弟も、ウェイリンが幼いころから彼女付きになっている家人だ。しかし、システィとはいろいろと方針が違っており、どちらかというと、悪友めいた感じである。そのため、いろいろとウェイリンに武術であったり遊び等を教え込んだりしている。時折それが過ぎたりすると、システィに途端に睨まれてしまうのだが、2人ともそれには全く意に介していない、といった感じである。

 ともかく、シミュルーの言った通り、確かに、その城は、王府、といってしまうにはあまりにも小さかった。どちらかといえば、彼が言うように、出城や砦と言った方が合うかもしれないという大きさだった。……多分城兵は、100人くらい、かな……いやいや、ひょっとしたら5、60人くらい、というところかもしれないわね……、と、一応領主貴族令嬢であるウェイリンは目算を立てた。彼女は、父ウェルティランから、領主によっては州都の本城以外にも、3~4000人詰めさせるくらいの巨大な要塞を構えているところもある、と聞いたことがあるので、この城はさして大きな城だとは感じていなかった。

 ほどなくして、馬上のウェイリンならずとも、歩いている3人にも外観が見えてくるまでになった。ふと見ると、道端に『ガルガヴェイス砦』と、書かれている立て札があった。さらにその文字の下には、『王府ランゲールまで、あと42モンティバール』という表示まである。42モンティバールというのは、万国量衡に直せば、63キロメートル、ということになる。大体、翌々日の夕方には目的地に着ける距離だ。しかし、ここで困った問題が起きた。防衛上の理由か何かは分からないが、ここで3本に道が分かれている。しかも、その立て札には、王府へはどの道をとればいいのかという案内までは書いていない。

 けれども、王府までの道が分からなければ、当然ながら、ランゲールには行けないということになる。すると、今年度の謁見に間に合わなくなるかもしれなかったりするのだ。

 「困ったわね……。」

 と、馬から降りてウェイリンが言った。システィがうなずいて、

 「そうですね。地図にも分かれているなんて描いていなかったですし……。どの道なんでしょう?」

 「……しょうがないですね。このままここで立ち止まっていてもらちが明かないですし、私が聞いてきますよ。」

 と、シミュルーが言って、行こうとすると、ウェイリンが止めた。

 「ちょっと待って。シミュルーばかりにやらせるわけにもいかないわよ。今までだって宿の手配だの食事や馬糧の手配だとか他にも何だかんだといろいろやってくれているんだから。ここは公平にジャンケンで決めましょう。」

 とウェイリンが言った。それに3人もうなずいてジャンケンをした。こういう場合、言いだしっぺが負けるというのはよくある話である。この時もウェイリンが負けて、城兵に聞きにいくことになった。城門に近づいていくと、当然のことだが、入れるまいと彼女の前で槍がクロスされる。そうして、左に立っている兵士がすぐに彼女に聞いてくる。

 「何用か?」

 「あの……。王府ランゲールに行くには、この先、どの道を行ったらいいのかを教えてほしいのです。あのように分かれていて、そして、案内もなしでは、どの道を行ったらいいのか分からなくなってしまいまして……。」

 番兵2人は揃って、ふむ……とつぶやくと、しばらくウェイリンを上から下まで値踏みでもするように眺めまわした。そして、少し離れて立て札のところに立っている3人と1頭にも同じ視線を向ける。しばらくの間そうしていたが、すぐにうなずき、答える。

 「……あそこの3本のうちの真ん中の道がそれだ。……しかし、こちらとしても迷惑な話だ。」

 とも言った。ウェイリンが疑問の表情をするのを見てとった城兵が続けて教えてくれる。

 「ああ。この左右にのびている道はな、つい2週間くらい前にできたものなのだよ。王府の修部省の特別命令でね。目的は、防衛のための新城建設の付属施設、ということなのだが、こうもいろいろと分かれていてはね……。謁見直前で道が分からなくなった者達が聞いてくるというのに、王府の方では一体何を考えているのやらなあ、分からんよ。」

 ろくにウェイリンのことを確かめないまま、結構景気よく城の兵士はいろいろと大事な情報を教えてくれている。……見も知らないような人にこんなに教えていいものかしら……?と、ウェイリンも少し呆れてしまう。と、ふいに兵士が怪訝な顔になって言った。

 「……しかし……、王府への道も分からないでここまで来たということは……。お前はひょっとすると、どこかの地方州の出身、ではないのか?」 

 「はい、私は、リンディラン州出身です。」 

  と、何の気もなしに、ウェイリンが答えたまさにその時だった。その途端に、門番の顔色が、2段階に変化した。まず、“ええ!この人が!”という驚きの表情で、それから、職務に邁進する兵士の顔へと。ウェイリンに質問していた兵士が、怒鳴って一声、

 「捕まえろ!」

 と、言ったのだった。……え……?と思った彼女がぱっと振り返ってみると、立て札のところで待っていた3人も、ティタニアともども既に捕まっていた。彼女も、助けに行こうとしてもどうにも行ける状態ではなかった。なぜなら、ウェイリンの方にも、さっきの門番兵2人をはじめとして、城内からもたくさんの兵士が出てきて、あっという間に囲まれてしまったからだ。兵士はいずれも完全武装をしていて、かなうはずもなかった。ウェイリンは、少しずつ、圧されるように、一歩ずつ後ろに下がっていく。しかし、それに合わせるように、日の光を浴びて銀色に輝く槍が、じりっじりっと、彼女の方に迫ってくる。何度かそうしているうちに、ウェイリンは、城壁に背がついてしまった。もう、どうすることもできなかった。ウェイリンもまた、大勢の兵士に囲まれたまま、どこかの大罪人のように城内へと連れていかれるしかなかった。

 ……えー……もう、一体どうなってんのよーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!

……連れていかれながらウェイリンは、そう心の中で大絶叫していた。


 「……そうか、そうか……。ウェイリン・テネール・ヴィンドリルを……、捕まえた、か……。」

 ガルガヴェイス砦周辺に送り込んでいた部下からの早馬で、その報告を読んだ男は、ゆったりと、かつ満足げに、背もたれに背をあずけた。男は壮年~初老といった印象を抱かせる。他にも何名か、同年代くらいの人々が、それぞれ思う姿勢でいる。彼らは、いずれもいい素材の服を着ていて、ゆったりとしている。全員、高位の官吏たちであった。

 「はっ!……ガルガヴェイス砦の兵士どもは、自分たちが閣下のいいように使われているとは全く知らずに、あなた様のために一所懸命に働いているそうでございまする。」

 と、一同の前に膝まづいて報告していた者が言う。男は、また満足げに笑みを浮かべる。

 「そうかそうか……。クックックック……。あのような風聞を、ガルガヴェイス砦やその他のところに流しておいて全く正解だったわい……。あれを見てしまえば、どんな者だって捕まえざるを得まいて……。……まあ、きちんとした目撃例が城内にもあることだし、あいつらにしても、言い逃れなどすることはできんだろう。……ボルデアにしても、ウェルティランにしても、また他のヴィンドリル家、そして他家の奴らにしても、わしはいつも煮え湯を飲まされ続けてきた……。……これが報いる最初の一歩だ。しかし、あいつらといい、これ以上ヴィンドリル家、そして他の家の輩に来られてしまっては、我ら中央貴族は非常に難儀なことになってしまう。……とりわけ、官吏をたくさん輩出してきた家というのは、特に、そうであろう……?」

 「はは、おっしゃる通りでございますな、閣下。」

 “閣下”の目配せを受けて、彼と同じくらいの初老の男が答えた。「今後は、我が息子ともども、これからもどうぞ、より一層、我が家をぜひ、取り立ててくださいますように……。」

 と、さらに頼んでいる。

 「うむうむ、分かっておるわい。……クックック、今回のことでは、お前も、至極我らの役に立っていてくれているからのう……。このことが成就した暁には、わしの指示で、息子は王府のどこぞの省の局長に、そして、父親のお前は、またどこぞの省の副卿にするよう、働きかけてやろうじゃないか。」

 「これは……、……いやはや、ありがたき光栄でございます。」

 と、初老の男が言った。男は高笑いした。……なにやら、謀事が進行中である。


 ガルガヴェイス砦の兵士に捕まり、城内に連れて行かれた後、ウェイリン達一行は、ある小部屋に通されていた。とはいっても、ただの客人のための部屋、というわけではない。牢屋だったのだ。格子戸が、きしみつつ開けられると、いきなり背中を強く押された。その拍子によろめき、何歩かたたらを踏んだかと思ったら、背後で扉が閉まる音がして、兵士が出て行ってしまっていた。もう今となっては、ウェイリンは完全に諦めていた。本当は、今日はどこかの町にでも泊まって、明日中には王府に入りさらに1泊、翌々日に王府屋敷に入り、謁見に向けておさらいをするつもりだったが、こうなってしまっては無理だった。

 ……こうなったら、ギリギリまでいて、疑いを晴らそう……、と思った。ここでおさらいをしようにも、持ってきていた様々なものは一部除き兵士に没収されていて、今はないのだ。

 どうも、牢屋の数が足りないようで、ウェイリンとシスティとで1つ、ジェスとシミュルー兄弟とで1つ、というように割り当てられたのだ。……そこはよかった……と、ウェイリンは思った。

 ……いつ終わるともしれないような時間を、牢獄で1人で過ごすとなると、参っちゃうかもしれないから……、と思っていたのだ。何とも大胆なことである。

 「……うう、どうしましょう、お嬢様。」

 システィが、今にも泣き出しそうな顔で言った。「……あの時に、私だけでも逃げて、ランゲールへ行っていればよかったのですわ。……そうすれば、どんなにかかっても2日か3日くらいで王府屋敷に駆けこんで、ボルデア様に助けを請えたかもしれませんのに……。」

 そんな彼女に主は微笑んで、

 「そんなことは気にするようなことじゃないわよ、システィ。まだ謁見までは時間があるんだしさ。ここの兵士さんにしたって、きちんと話せば分かってくれるだろうしね。……あと、最終的にはこれが没収されずに済んだからそれも見せて、身の証も立てられるから。」

 そう言って、服の合わせからあるものを取りだして眺める。システィは少し目を見開く。

 「お嬢様……、あまり貴族だとか、そういう身分で測られるのはお嫌ではなかったのですか?」

 「ん?だってしょうがないじゃない。この際私の主義だとかそんなもの関係なく、使えるものはコネだって何だって使って証明してやるまでよ。なんたって、ここには私だけじゃなくて、システィ達だっているんだからさ。」

 と、ウェイリンが言って、少し意地悪な調子でこう続けた。「……それにさあ、システィって、ヴィンドリル=リンディラン侯爵家の王府屋敷がどこにあって、さらにボルデア様がどういう風体をなさっているお人か知っているの?システィは王府に行ったことがないんでしょ?それに、私だって話でしか聞いていないし、お顔だって知らないのに……。」

 と。するとシスティは、ぱっと顔を赤らめた。そして、聞き取れないくらいの小さく、かすれた声で、

 「……も、申し訳ありません、お嬢様。私も、王府屋敷がどこにあるのかも、ボルデア様のお顔も存じません。」

 と、言った。ウェイリンは、……ほら、そんな気にすることじゃないでしょう……、とでも言いたげに、2歳年上の家人を見て、少しばかり微笑した。どうもこの、ウェイリン・テネール・ヴィンドリルに幼いころからずっとついていてくれるシスティ・ヴェルシュという人は、いろいろと背負いこんでしまうタチだと、前々から気付いていたからだ。しかし、当の彼女本人もそうであるなんていうことは、全く気が付いていないのだが。

 と、そこに、とても大きな、軍靴特有の足音が響いてきた。するとほどなくして、1人の兵士がウェイリンとシスティの入っている牢の前に立った。すかさずシスティが主の前に来る。

 「おい!1人で捕まった方、出ろ!我らがガルガヴェイス城主が、お前に聞きたいことがあるそうだ!」

 と、言いながら扉を開ける。システィは、……お嬢様――というか、次期リンディラン侯爵ともなろうお方――に何ていう口のきき方を……、という顔をして、兵士を睨みつけている。そうして、今にも立ちあがって、兵士に文句を言おうとするのを、ウェイリンはさっと制した。システィは一瞬不満そうな顔をしたが、すぐに退いた。それから兵士に連れられるまま、システィを残し、牢を出た。


 このガルガヴェイス砦(いや、ウェイリンを連れている兵士が“城主”と言っていたから“ガルガヴェイス城”としよう)は、城内を歩いてみると、本当に小規模なものだった。いや、これまでのほとんどをリンディラン州州都にあるルテティア城で過ごしてきたウェイリンならずとも、誰もがこの感想を抱くことになるだろう。なぜなら、城壁もある、外堀もあるのだけれども、内堀はないし、中にある建物にしても、城壁に囲まれた中には一つだけ、天守のような城壁よりも少しばかり高い建物があるだけなのだ。

 ウェイリンは、城主の部屋ではなく、1つの簡素な小部屋に通された。まあ、それは当然なことだろう。いったいどこの世界に先ほどまで牢獄に入っていて、なおかつ、まだ疑いも晴れていないような人を、謁見の間――こんなに小規模な城であるのだ――とか、城主の私室に案内する兵士がいるだろうか。いや、いるわけがない。

 「城主閣下、捕まえた者の代表らしき者を、連れて参りました!」

 ドアの中から、うなずくような気配があった。ウェイリンは、入れと手招きする兵士に従って、入る。

 中にいたのは、40歳くらいの男1人だった。戦時ではないので、鎖帷子の上にサーコートという、平時のスタイルをしている。しかしそれでも、歴戦の強者、という印象は拭い去ることはできないようだ。それに加えて、伸ばし放題にされた髭(しかしきちんと整っている)が、今までの戦場暮らしというものが、いかに長かったかを如実に物語っていた。

 「……この椅子に。」

 しばらくの間入ってきた囚人を観察した後、それだけを、王府にほど近い砦の守りを任されている男は言った。……声はあまり高からず低からずっていうところだな……、と、ウェイリンは思った。この言葉を言っていた間であっても、ほとんど彼の頭、顔、体が動くことはなかった。“不動”、この二文字が、とてもよく似合った。ウェイリンは、優雅な所作、作法でもって示された椅子に座る。それを見た城主は、目をわずかに丸くし、

 「……お前は……、ただのどこぞの娘ではないな?」

 と、声はそのままに、いきなり聞いた。ウェイリンは、

 「私は、ウェイリン・テネール・ヴィンドリルといいます。」

 と、答える。すると、全く瞬間的に、ガルガヴェイス城主の顔色が驚きに包まれていた。それは今、彼女の後ろにいて、この部屋に連れてきてそのまま控えている城兵も同じものだった。ウェイリンは初めて、この城主の“表情”というものを見た。彼は、

 ガタリ

 と思い切りよく立ち上がると、すぐに恭しく跪いて、

 「これは、私と致しましたことが、至極無礼なことを致してしまいました。大変に申し訳のない次第でございます。あなた様が、領主貴族、さらには中でも名誉この上ない“摂政四家”の一つにも入られるヴィンドリル=リンディラン侯爵家の直系長姫とはつゆ知らず、失礼を致してしまいました。」

 と、言う。この城主の変わりようは、その当人よりもむしろ、ウェイリンの方が恐縮するほどだった。

 「あ、あの……。そんなに丁寧に跪いて、謝っていただかなくても大丈夫です。……私、さっきのことは全然気にしていませんから。」

 「とはいえ、」

 ウェイリンの言葉が終わるか終らないかのところで、城主が跪いたままで言った。そして、顔を上げ、続ける。

 「この私――申し遅れました、私は、リー・ファンブーク・ヘルベルトと申します――、先王、フィレス5世陛下より、王府ランゲールにほど近いこのガルガヴェイス砦の守りを任されました身でございますれば、おいそれとすぐに信用するわけにはゆきませぬ。さすれば、あなた様が本当に、ウェイリン・テネール・ヴィンドリル=リンディラン侯爵令嬢でいらっしゃるか、確かめさせていただく必要がございます。……ああ、お気を悪くなさらないでくださいますよう……。……何か証明するものを、拝見致したく存じます。」

 「あ、はい。」

 ウェイリンは、少しばかり城主に圧されながらもそう返事をすると、上衣の合わせから、ヴィンドリル=リンディラン侯爵家の家紋、さらに、リンディラン州で発行している通行許可証(名前は、そのままにも、“通行牌”である……)などを出して、ヘルベルト城主に見せた。

 これらのものは、リンディラン州都、ルテティアを出発する前に、父ウェルティランから渡されたものだ。そして、この通行牌というものは、その重要度に応じて、10段階に分けられている。ウェイリンが今ヘルベルト城主に見せている通行牌は、その中でも最重要を示すもので、別名を、“一の牌”と言われているものだ。まあ、当代リンディラン侯の娘の旅なのだから、出すのはこのくらいでなくてはならないのだ。さらにこの通行牌というのは、三の牌以上のものなら、一人が持っていれば、他に一緒に連れている人の身柄、安全、財産、その他諸々のことまで保証してしまえるという優れモノだ。実は、“一の牌”に限って言えば、このリンディラン侯爵令嬢であるウェイリン自身も、初めて見るものだった。まあ、領主関係の人くらいにしか使われないからめったに見ないのだが。

 ちなみに、ウェイリンの家である、ヴィンドリル家の家紋は、“正翼(せいよっ)(こう)(わし)”というものだ。これは、簡単に説明すると、正面を向いている鷲が、翼を広げている様子を図案化したものだ。ウェイリン自身はあまり信じていないのだが、この紋章にしても力があるらしい。

 すると、確かにこの2つは、ヘルベルト城主にはとても力があったようだ。さらに頭を低くして、

 「ははあ!すぐに釈放致しまする!」

 と、言ったからだ。そんなガルガヴェイス城主を見たウェイリンは、……そんなに力があるんだ……、これって……、まあ、一の牌は別にして……、と、少々冷めた目で、自分の家の家紋を見つめていた。


 その翌日のことである――。

 「ばっ、馬鹿者!どうしてウェイリン・テネール・ヴィンドリルらを捕えた時に、家紋と通行牌を没収し、ついですぐに処分しなかったんだ!ガルガヴェイスに送った奴はどうしたんだ!」

 このことを早馬で知らされた男は、途端に憤怒の形相になった。いつものこの彼であったならば、重大な決め事のある会議でも、あまり声を荒らげることもなく、終始穏やかにかつ冷静な物腰を貫いているのだが……。ここが宮城でなく、今近くに宮廷で同僚になっている廷臣達がいなくて正解だった。もしもこの場に居合わせていたならば、元より彼はこんなにがなりたてることもなかっただろうし、そこを偶然なりとも見てしまったら、すわ天変地異の前触れか、とも言われそうなことでもある。ではここはどこなのか。ここは彼の自宅であって、宮城ではないのだ。彼は、王国の行政を司るある役所の長官だ。ただ、そんな官職を務める男の住む屋敷にしては、とても大きい。領主貴族では、中くらいの家格である、ジェンティラス=ウェルディ辺境伯家の王府屋敷と比べてみても、ほとんど劣るところがないほどだ。しかも男は、古い名族の出身ではない。つまり、“十七家”と、その数から形容される、領主貴族の家柄ではない。中央貴族なのだ。

 ここから、領主貴族と中央貴族の違いについての説明になる。興味のない方は少し飛ばされることをお勧めする。

 領主貴族というのは、はるか昔、この国――ブルグリット王国――の初代国王であるウィンティップ大王と共に建国のために戦い、功のあった者達に領地と、爵位を与えられたことによってできたものだ。つまり、今の領主貴族達というのは、それぞれ功のあった者達の末裔、ということになる。そして、領地は、国土拡大につれて面積、位置は動いたりするものの、彼らの血脈は絶えることなく今まで続いてきたわけである。

 それに対して、中央貴族というのは、官吏採用のための謁見で入城し、なおかつその官吏生活中に目ざましい仕事をしたという者に爵位が与えられるものだ。なので、王府にずっといて、地方に領地は持たない。しかし、双方どちらも世襲であることは同じだ。けれども、領主貴族の方が優遇されている、ということもできる。なぜなら、領地経営、または、その補佐で一生を送ることも可能であるからだ。

 もっと簡単に説明することもできる。今度は、家格についてだ。例えば、宮城の廊下でもどこかの地方宮廷の廊下でも、その一隅で領主貴族の伯爵と、中央貴族の公爵が行き会ったとする。すると、爵位が爵位だけに、伯爵は公爵に道を空け、かつ、頭を下げる。しかし、宮城のような公的な場を離れると、今度は、公爵が伯爵に上座を譲るのだ。

 中央貴族というものが出てくるようになってから、もう500年以上にもなろうとしているのに、まだこういったことがあるのだ。このことを言い換えるとするならば、謁見が行われるようになってから、今までで、500年以上にもなる、ということなのだ。それでは、それまでの約700年間は、一体どうやって中央の政を行っていたのか?――それは、それまで通常“貴族”と言われていた者達――領主貴族だ――が、高級官職を独占して、おおまかなところを専有して決め、実務者に相当する諸省各役所の官吏には、自分達の家から家人達を送り込んで、仕事をさせていたのだ。完全に、特権政治であったが、最初のうちは、それでも反対は起きていなかった。なぜなら、きちんと政治が行われていた上に、さらにはさっきにもあったように領主貴族というのは、ブルグリット王国建国を助けた者達の子孫だからだ。しかし、そうやって月日がたっていくうちに、己の持つ権力に腐っていってしまう者達が現れるようになった。そこで、約500年前、当時の国王が、そんな貴族、家人達を武力で粛清し、新たな人材登用策として、直接人を募り、任官させるかどうかを決める“任免謁見”を始めたというわけである。もっとも、このようにして国王の肝いりで始まった謁見ではあったものの、完全にこれが実質化するまでには、さらに2、30年の歳月が必要となったのだが。

 ともかく、いかに古い中央貴族で、たとえその爵位が最高位の公爵であろうとも、さらに長く続いている700年もの伝統と、血脈の確かさは、どうあってもかなわないのだ。例えば、最古の中央貴族ともいわれている、現王国宰相を擁する一門家である、ガードナー公爵家は、その初代が謁見で覚えめでたく官吏となり、そして、受爵される以前の動向は、ほとんど分かっていなかったりするのだ。なので、中央貴族の公爵が、対等な口を利ける領主貴族は、ほとんど通例的に、伯爵であったりする。……まあ、もっとも、貴族同士の仲が良ければ、それはまた別の話になるのだが……。

 話がそれてしまった。そろそろ戻りたいと思う。

 「はは!まことに申し訳もないことでございます、閣下。よもや、ガルガヴェイス砦の者どもが、婦女子の服を改めないほど“紳士的”であったとは……。さらにはあのように手早くウェイリンら一行を釈放する方に動いてしまうとは、全く思いもしておりませんでした。そのために、対応しようとしても、それが後手に回ってしまいました。」

 と、一連の出来事を報告している男が言った。彼は、まだ30代半ばくらいであり、この邸宅の家人だ。男は、この邸宅に彼が来てからというもの、その働きぶりでこの男に目をかけているのだ。

 「ううむ……。そういえばあの城には女性兵士はいなかったか。それがこんな裏目に出ようとは。しかし、こうもすぐに釈放になってしまうとは……。もうわしのところに知らされているということは、もうボルデアのところにも伝わっているだろうな。そして、一両日中には、領地(リンディラン)にいるウェルティランの方にもな。これは時間の問題だな。……しかし、これはとても面倒なことになってしまったわい……。何とかしてあの一行が、この王府に入るまでに手を打たないと……。よし、理由をとにかく何でもつけて、王府に入れるな。」

 と、男は言った。しかし、報告者の男は、それに異を唱えた。

 「しかし……。それはできかねることでございます、閣下。……と申し上げますのも、ウェイリン一行は、まだ、あの家紋と、通行牌――それも、“一の牌”でございまして――を持っておりますので。」

 「何?“一の牌”だと?」

 男が驚いて聞き返すと、報告者はかすかにうなずいた。そしてまた男は、悔しさと憤激に顔をゆがめる。

 「くそっ!……それではこのランゲールにもまるで何の検査もされずにすんなりと入れてしまうではないか!……うぐぐ……完全に万策尽きてしもうたか……。……ん?ああ、そういえば確か……、以前にリンディラン州に派遣していた奴から来た報告には……、」

 と、何かを思い出すようにつぶやいて、それからその内容を報告者に耳打ちしてまた言う。

 「……と、いうそうではないか。フフフ……よし、お前は、このことをうまく使って、あいつら一行をこのランゲールに入れぬようにしておけ。」

 報告者は、

 は、

 とだけ言って、男のところを辞去したのだった。


 さて、ウェイリンの方に時も場所も戻すことにしよう……。

 ウェイリン達一行は、この日は結局、このガルガヴェイス城に泊まることになった。彼女達が完全に釈放された時には、夕暮れが迫っていたからだ。というのも、ウェイリンが本人と確認され、捕えられたことが濡れ衣だった、ということが分かっても、他に一緒にいたシスティ、ジェス、シミュルーの3人については王府への照会だったり調べでこれだけかかってしまったのだ。いくら彼女が、“一の牌”を持っていても、そこは一度牢に入れられていた者、調べなくてはならなかったのだ。そして、そのことでもまた、リー・ファンブーク・ヘルベルト・ガルガヴェイス城主は、さかんに謝ってくれていた。

 「王府ランゲールにご用がおありでございましたのに、このようなところで無用に御足止めを致してしまいまして、本当に、申し訳なく存じます。」

 と、彼は言って、数回手をたたいた。まだここは、さっきから城主と話している、あの小部屋である。しばらくすると、兵士が1人、何やら袋を持って現れる。それを示しながら、城主はさらに言う。

 「……もう、王府ランゲールまでは間近ではございますが、これからの、そして、お帰りの際の路銀の足しにしていただければ何よりでございます。」

 驚いたのは、ウェイリンの方だった。手をさかんに振って断っている。

 「う、受け取れません、そんなお金……。……あの、それに私、ひょっとしたら、もうリンディラン州にはそうそう帰れなくなるかもしれませんし……。」

 「?」

 城主が少し、訝しそうな顔をした。ウェイリンは続けた。

 「実は私、今年の謁見を受けるために、リンディラン州から、王府ランゲールまで行こうとしているのです。」

 「謁見……ですか?」

 それだけを言った城主の顔が、さっきよりもなお一層、訝しげになる。「……ウェイリン・テネール・ヴィンドリル嬢、失礼を承知で伺いたいのですが、それは一体どうしてでしょうか?あなた様は、かの名門領主貴族、ヴィンドリル=リンディラン侯爵家の直系の姫君でいらっしゃいます。しかも、当代ウェルティラン侯爵閣下にしてみれば、長子ともなられるお人でもいらっしゃいますな。……父侯爵閣下から爵位及び領地を受け継いで、そこをきちんと統治していくことも、十二分に考えられる生き方では、ありませんかな?」

 ヘルベルト城主が、彼女の顔をまっすぐに見据えつつ、聞いてきた。ウェイリンはこの時、彼の発しているごく静かな波動をひしひしと感じていた。そして、それに耐えるのがやっとという状態だ。彼女は答えにしばらくの間を置いてから、やがてゆっくりと

 「……もちろん、城主様のおっしゃっている通りです。確かに私は、ブルグリット建国より続く“由緒正しい”ヴィンドリル=リンディラン侯爵家の直系長子です。しかも、父ウェルティランの後の侯爵でもあります。けれども、領地を治めているだけでは、できないこともあると思うんです。」

 と、まず言った。そしてちらりと、ヘルベルト城主の顔をうかがう。城主は、何も言うことなく、ただじっと黙って聞いている。心なしか、うつむいているような気もしていた。……もしかして、父様と同じ傾向の人じゃあないでしょうね……と、内心で警戒しながらも、ウェイリンは続けて言う。

 「それは――分かりきっていることでしょうけれど――、このブルグリット王国全国の政治に、自分自ら直接参画することです。この国全体の政治ともなってくると、それぞれの領地の政治では扱わないことも出てくるでしょう。……それは例えば、自国と他国との対外関係のことであったり、自分の領地以外の国内全体のことに目を向けるとかそういったことです。領主貴族の会議もありますけど、そういうのではなく、官吏として、政に加わりたいのです。」

 「……それはまた一体、どうしてですかな?」

 落ち着き、静かな声で、リー城主が聞いた。ウェイリンもまた同じく、落ち着き、静かな声で答える。

 「……6年前のようなことを、もう二度と繰り返したくないからです。……現役の軍人の方を前にして言えるものではないことは十分に分かっています。でも、そうであったとしても、もう戦争――特に内戦――というものは嫌なのです。他国に攻められた時には、防衛のために戦うのは当然しなくはならないことですけど、こちらの方から他国を攻めていくとか、国内で同じ国の人相手にする戦争というのは嫌なんです。それらを止められるだけの力を持つには、官吏になるしかないと思ったんです。……ただの、ヴィンドリル=リンディラン侯爵ではだめなんです。恐らく、ディングリー=アンディリ公爵でもだめでしょう。……そして、官吏になるためには、謁見を受けなくてはなりません。さらに言えば、官吏をやっている父や母を見て、なりたいと思ったから、受けるんです。」

 そう言った後、少し自嘲気味に笑った。「……でも、防衛戦争は良くて、こちらから攻め込んでいくのはいけないって、かなりわがままですけど。」

 と、続けた。すると、ヘルベルト城主は首を振った。

 「いいえ、そんなことはありませんぞウェイリン嬢。私もあなた様とは同意見です。兵士というものは、このブルグリット王国を守る、ただそれだけのために存在していればいい、と、私も思っています。」

 と、まず言った。それから少し息を継いでから、再び言った。「それに、他国を攻めるには、とても大きな“義”、“理由”が必要になります。しかし、そうしたものというのは、なかなかに見つかるものではありません。古来、その“義”を見つけることを全くしないまま他国に攻め入り、負けてしまい、結果滅亡していった国家、王朝がいくつもあります。――あなた様とは多少違いますがね――その“義”がない限り、私が動くことはありません。」

 そう、長いひげをしごきつつ、言った。そこで部屋のドアが開いて、一人の兵士が入ってくる。彼は、ウェイリンの荷物袋を、大事そうに持っている。

 「……ウェイリン・テネール・ヴィンドリル嬢、こちら、お預かりしていたお荷物でございます。どうぞ、お改めくださいますよう。」

 とだけ言うと、それを渡し、深々と一礼して出ていく。受け取ったウェイリンは、礼を言うと、

 「では、失礼して、」

 そう言ってから、その兵士に言われたように袋の中身を確認した。中身が全て揃っていることを確認して、ほっとして袋の口を閉じようとした時、ぽろりと笛の入った袋が床へと転がり出た。リー城主が拾ってくれてそれから渡す。ウェイリンはまた礼を言って受け取り、入れる。しまい終わり、袋の口もきちんと閉じられたのを見て、城主は、

 「……笛を、お吹きになるのですか?」

 と、聞いた。

 「はい、母が亡くなるまでは母に、それから後は、ここにも一緒に来ているシスティに教えてもらっています。」

 と、ウェイリンは答えた。ヘルベルト城主は、とても感心した、というようにあごひげをしごいている。

 「それでは、今日の夕食後にでも、吹いていただいてもよろしいでしょうか?」

 と、城主が聞いた。ウェイリンはこくりとうなずいた。

 「もちろんです、一晩泊めてくださるお礼も兼ねて。」

 と、にっこり、茶目っ気さえもこめて答えた。


 フラウト・トラヴェルソというのは、木や竹でできた横笛のことだ。もっとも、竹製のものは輸入して作るためにとても高く、ランゲールの宮廷お抱えの楽団員か、または、最も裕福だと言われる、王家、ディングリー=アンディリ公爵家や、コルモリンベン=ヴェアストック公爵家、ジフォレイス=ティレスベール伯爵家、セシュール=リハルエ辺境伯家、あるいは、豪商しか持っていなかったりする。なので、ウェイリンの持っているそれは、木製だ。ヴィンドリル=リンディラン侯爵家にしても、別に、借金まみれの赤字だらけのど貧乏な家では決してないのだ。が、領主貴族中で一番慎ましやかな生活を日々送っているのは確かだ。楽器の長さは、3ベイドほどで、万国量衡にすれば、45センチほどなので、ちょうどよく高音も低音も出せるし、持ち歩きにも不便しない。

 ウェイリンの母、アドレアは、このフラウト・トラヴェルソがとても上手だった。彼女の頭の中には、母が月の良い夜に、城内のどこかの広間で、煌々と輝く月を眺めながらそれを吹いていたような記憶がある。さらに、その時の母は、何というか、とても美しかったように思うのであった。だから、ウェイリンも母のようになりたくて、アドレアについて習いだした。彼女が習いだした時には、もうシスティはアドレアについて習っていて、ある程度の簡単な曲は吹けるようになっていた。そんなこんなで吹き始めてから、もう12年くらいにはなるのだが、今でも、アドレアやシスティには遠く及ばないと思っている。しかし今では、ウェイリンもシスティも共にたいていの曲ならば吹けるようにはなっているのだ。けれども、ウェイリンの中では、記憶の中にある母の音と、どことなく違っているように思えることがあるのだ。


 ガルガヴェイス砦での、割と簡素な夕食の後、ウェイリンとシスティは、城兵全員の耳が聴き守るなかで(見張りのためにいられない兵士もいるのだ)、フラウト・トラヴェルソを吹くことになった。場所は、城の天守2階にある、大広間だ。大広間全ての窓が開け放たれている。外の見張りであったり、各所の見張りについている兵士達にも聞こえるようにするための配慮だ。演奏する曲は、2人が一番よく合わせているもので、なおかつ、ここの城兵達も全員知っているであろう有名曲、『道化師の奇想曲』になった。

 2人が城主をはじめとする城兵、ジェス、シミュルーが居並ぶ前に並んで座り、フラウト・トラヴェルソを構える。もう、この曲は今までに何万回となく2人で合わせて吹いてきている。そのため、完全に覚えてしまっているので、譜面はなしだ。そして、ウェイリンが軽く楽器を揺らして合図を送り、曲が始まった。道化師の動きや、生活を面白く、そして一抹のもの寂しさをこめて表現された曲だ。元々は、フラウト・トラヴェルソと、ラッパとの二重奏曲なのだけれども、平易な曲調のせいか、いろいろな楽器の練習曲にもなったりしているので、やはり、城兵達もこの曲を知っていたようだ。すぐに、聞いている側から、ジェス、シミュルー以外のどよめきの声が聞こえてきたのだから。けれども、そんなどよめきも、演奏しているウェイリンとシスティには聞こえていない。有名で、平易なだけあって、ちょっとでもムラ、間違いがあれば分かってしまうからだ。

 けれども、城兵達は一様に聞き惚れているのだが、ジェス、シミュルー、そして、一緒に合わせて演奏しているウェイリンは、あることに気がついていた。……システィの音が、なんだかとても……

 ……そんなことはあっても、当のシスティはきちんと自分のパートを守って演奏している。かすかに、彼女の吹いている時の癖である、額の縦しわもできている。ただし、どんな曲であれいつかは終わる。これは、わずかに5、6分ばかりの曲なのだが、吹いている側にすれば、これほどに長い5、6分はない。けれども、聞いていた側にとってはとても短い5、6分だったらしい。演奏が終わるや、すぐに拍手が起こる。あっけにとられていたのは、言うまでもなく、さっきまで演奏していたウェイリンとシスティの方だ(その中でも特にウェイリンの方である)。すると、やはり先に気を取り直せたのは、ウェイリンの方ではなく、システィの方だった。さっと立ちあがり、“お嬢様”を促した。彼女は慌てて立ち上がり、皆に礼をする。さらに拍手が大きくなっていく。

 リーが進み出て言った。

 「……いやあ、お見事でした、素晴らしかったですよ、ウェイリン殿、システィ殿。私が許します。今後、もしもまた、ここガルガヴェイス砦にご滞在なさる時には、たとえ夜中でありましても、お2人がフラウト・トラヴェルソを吹いてもよろしいこととします。」

 そう言うと、さらにまた拍手が大きくなる。照れて笑い合うウェイリンとシスティに、城主はさらに続けた。

 「……先ほどのあなた様のお話と、いまのこのフラウト・トラヴェルソの演奏と、私どもにとっては、あなた方を捕まえてよかったですな。」

 と、冗談めかした口調で。


 その夜は、めでたく嫌疑が晴れたので、牢屋から客用寝室に移った。しかし、どうもこのガルガヴェイス砦は、客室までも足りなかったようで、この夜の部屋は、先ほどまで入っていた牢と同じ割り当てになった。ついさっきまでウェイリン、システィの部屋に、ジェスとシミュルー兄弟もいたけれど、いよいよ寝る時間となり、

 『……それじゃあ、システィ。お嬢様を頼むぞ。』

 と言うと、部屋に戻っていったのだ。そして、残された2人は、寝る支度を整えている。

 「……はあ~……。まったくね、一時はどうなるかと思ったわよ。」

 ウェイリンは、部屋の椅子に馬乗りになると、大きくため息をつきながら言った。システィは、“お嬢様、お行儀が悪いですよ”と苦笑しながら寝台に座り、うなずいている。

 「ええ、いきなり『捕まえろ!』……ですからね。」

 「ああ、やっぱりあの声そっちにも聞こえていたんだ。……でも、一体どうして“私達”だったのかしら?」

 「?」

 システィは、ウェイリンの言葉に、疑問の表情をする。「……だって考えてもみてよ、ここを通って王府――ううん、このシュライフ州も通過して、さらに南部の州――に行く人達だって、私達以外にもいただろうしさ。ここは南北交通の要衝でもあるから、通る人だって少なくはなかったはずよ。それに、今は王府での謁見前だから、いつも以上にここを通る人は多くなっているはず。なのに、どうして私達だけを捕まえたんだろうね?」

 「あの……」

 おずおずといった様子で、システィが言う。「もしかして――あ、いえ、当然ないとは思うんですが――、その門番の兵士さん達に、変なことでもおっしゃったんじゃありませんか?」

 「え?」

 ウェイリンは、しばらく丸みがかったあごに手をそえて考えこんだ。「うーん……、私そんなに変なことを言ったつもりじゃなかったんだけどなあ……。ただ、門番の兵士さんが、『どこかの地方州の出身、ではないのか?』って聞いてきて、それで私が、『リンディラン州出身です』って答えたら、あんなことになっちゃって……。」

 「ひどいですね、その兵士さん。」

 いつものシスティには珍しく、声をとがらせていた。「まったく……。一体、リンディラン州のどこがいけないっていうんでしょう……。」

 そして、後半は、ぼやくように言う。ウェイリンは笑って、

 「大丈夫よ、システィ。……何といったって、まだ謁見までには、あと1カ月以上もあるんだからね。その何日か前くらいまでに王府に入れていればいいんだし。……今日1日くらいはここでゆっくりしましょ。」

 と、言った。いつもいつも彼女の謁見勉強に、日付の変わり目くらいまで付き合わされているシスティには(ちなみに、ジェスとシミュルーの兄弟はというと、勉強は一切付き合わず、武術訓練だのいろいろな遊びに引っぱり出そうとしていた。そのたびにシスティに睨まれるが、2人は意に介さないのがお決まりだ)、主の言うことが分かったようだ。さっきまでずっと曇らせっぱなしだった表情をふっと和らげると、

 「……そうですね。」

 と、言った。そして明りを消して、眠ったのだった。


 「ううう……、遅い!遅すぎる!」

 少し時は進み、ウェイリン一行の到着予定日である。宮城での勤めが終わり、王府屋敷に帰ってきた教令卿、ボルデア・テネール・ヴィンドリル伯爵は、今、とてもいらだっていた。彼のそばには家人1人と、妻がいる。いつもの彼は、とても穏やかであり、叱責する時でさえもまた同じ感じなのだが、今となってはまったく違っていた。現に、私室の中をぐるぐるぐるぐると、まるで狂った獣のように歩き回り続けているのだから。妻は、……よくこれで目を回さないわね……などと思われていたりすることは、夫は知らない。

 (……あのウェルティランからの書状の日付から考えれば、もう今日の夕方にはウェイリン達が到着していてもいいはずだ。それなのに今日は着かなかった。ううむ……一体どうしてしまったというんだ?……ハッ!まさか、どこかで道に迷っているのか、それとも山賊強盗にでも襲われているのだろうか……)。

 家人は家人で、そんな主を見て、……旦那様はどうして、まだ見ぬ従姪殿にそこまで入れこめるのだろうか……と、不思議そうにしていたりする。もちろんこれも、ボルデアは知らない。

 もちろん、この家人や妻にしても、ボルデアのこの慌てようは、理解できるところもあるのだ。まず、ウェイリンは、ヴィンドリル=リンディラン侯爵家の直系長子、だということだ。それはつまり、将来彼女、そして侯爵家に何かない限り、絶対にリンディラン侯爵位を継ぐことになる人だということも同時に意味しているわけだ。なので、彼は、そんな人の到着が遅れていることで、慌てているのだ。さらに、彼自身の性格もある。

 しかし、ボルデアとウェイリンとは、会ったことはない。……いや、これは厳密さを期すなら間違っている。前にも触れたが、彼女が産まれた時、そして、幼い時に彼は、折にふれ、会いにわざわざリンディラン州まで行っていた。しかし、それでウェイリンが覚えているはずもない。ウェイリンは、今の今まで、リンディラン州、さらには州都のルテティアの侯爵本城で過ごしてきたのだし、それから後のボルデアにしても、中央官吏として忙しい日々を送ったため、この12、3年程の間は、リンディラン州に行くこともままなっていなかったのだ。だから、そう、彼が最後にリンディラン州に行ったのは、アドレア、ウェルティラン=リンディラン侯爵夫人の葬儀の時だった。

 にしても……である。

 どちらにしても、ウェイリン本人の頭の中では、王府勤めからルテティアへと帰ってきた父ウェルティランから聞くだけの、いわば、“未知のいとこ違い”に、ボルデアは入っているのだ。しかし、対するボルデアは違う。何しろ、産まれた時、そして、幼い時にも会いに行った関係で、彼女を見知っているし、リンディラン州から王府勤めのためにやって来るウェルティランから聞かされて、それぞれの話の光景までも思い浮かべることができるまでになってしまったのだ。つまりもう、ボルデアの頭の中には、“既知の従姪”として入っている。

 ……実は、あの時ウェルティランがウェイリンに、

 『……王府に行っていて、私がいない時には、あいつのことを父と思ってもらっても構わない。』

 と言ったのは、こうしたボルデアの性格を見こんでのことだった。

 つまり、もっと簡単に言い換えると、ボルデア・テネール・ヴィンドリル伯爵という男は、ウェイリンのことを、従兄弟のウェルティランが言っていた以上に案じていて、かつ、早く会いたがっている、ということだ。

 と……

 「閣下!」

 突然ドアが開き、もう1人、別の家人の声が加わった。それを聞いたボルデアは、さっきまでの慌てぶりをものの見事に引っ込めると、

 「どうした?」

 と、とても落ち着き払った様子で聞いたのだ。さっきからずっと同じ部屋にいて、彼を見ていた妻と家人の2人は、……よくもまあ、あそこまで取り繕えるものだなあ……と思っていた。この様子だけを見る限りでは、明らかに大貴族の血を、彼の中に認めることができた。本当に、さっきまで慌てていた人と同一人物か……?とも疑えそうだ。

 しかし、家人のもたらした情報は、その落ち着きを吹っ飛ばすのに充分すぎるものだった。

 「ウェイリン・テネール・ヴィンドリル様が、王府手前のガルガヴェイス砦で捕えられた、とのことです。」

 ボルデアは卒倒した。別の意味で。


 一方、ウェルティラン・テネール・ヴィンドリル=リンディラン侯爵は、州都ルテティアにある侯爵本城の、自室にある椅子にゆったり座り、領内各方面からの報告書を読んでいた。

 ……もうウェイリン達は王府に着いて、ボルデアに会ったころだろうな……。あの時に私が言ったその通りに、“父様”か“義父様”か、もしくは、“阿父様”などとウェイリンが呼んだら……。クックック……きっとあいつは、卒倒どころか昇天するだろうな……。

 そういうふうに考えていると、読んでいるものがたとえつまらない、味気のない報告書であっても、自然にクスクスと、笑いがこみあげてくる。彼の思っている通りにちょうど今頃、ボルデア教令卿が、“違う理由”で卒倒していることも知らずに。さらに、自分の娘が、ランゲール手前のガルガヴェイス砦で捕えられていることさえも、ウェルティランには知る由もない。

 結局、ウェルティランにその知らせがもたらされたのは、この日から3日後のことだった。もうこの時には、ウェイリンはすでに、ガルガヴェイス砦を出発して1泊し(途中で馬車に同乗させてくれた親切な人がいたため、早くつけたのだ)、ランゲールにも到着していてボルデアとの“久々の”顔合わせを済ませていたのだけれども。しかし、その伝令を伝えた者は、彼女が捕えられたのと同時くらいに馬を飛ばしてきたので、その後のことまではウェイリンの父、ウェルティランに伝えることはできなかった。

 それを聞いたウェルティランは、昇天もしなければ、ボルデアのように卒倒さえもしなかった。ただ、

 「そうか、ご苦労。」

 と、言っただけだった。

 ……こりゃあ、ボルデアは聞くと同時に卒倒したな……。

 その時の従兄弟――教令卿にして伯爵、ボルデア・テネール・ヴィンドリル=オブ・フォールイ――の様子を思い浮かべることは、侯爵、ウェルティラン・テネール・ヴィンドリル=オブ・ルスティール=リンディランにとっては、えらく簡単極まりないことだった。


 彼女がはっと気がついた時には、周りのそこかしこ至る所で炎が上がっていた。そして、どこからか――いや、これもそこら中から――悲鳴、怒号が聞こえてくる。しかし今、彼女が立っているところには、彼女以外、まったく、誰1人としていないのだ。

 ……ここは一体どこなのだろう……?そう、彼女は思った。それから、ぐるりと辺りを見回してみる。見慣れた広い大通り、焼け焦げた木々、家々、それから、はるか通りの向こうに見えている堅固そのものといった雰囲気をたたえる城。……そうだ……、彼女には分かった。ここは彼女の故郷、リンディランの州都、ルテティア、である。

 それが分かると、また彼女には、新たな別の疑問がわき上がってきた。……どうしてルテティアがこんなに燃えているのだろう……?それから、……何で自分はこんなところで1人、ただ立っているのだろう……?本当だったら、あの城の中にいるはずなのに……、と。そんなことを考えながら歩いていると、不思議に、人の声はしていても、その姿までは見えてはこない。悲鳴を上げている人、そしてそれを苛むかのような、脅しつけるような敵軍の上げる怒号。けれども、彼女の方には、誰1人として来ない。矢の1本さえ飛んでこない。

 ……とにかくあの本城まで帰ろう……。と、そう思い直して彼女は歩き始めた。そうしている最中でも、全く人の姿を見ない。ちょうど今、そこで声がしている……そう思って見に行ってみても、そこにはもうその人の姿は見えず、全く別の場所で同じ声がしていたりする。時折熱い風にあおられた炎が、彼女に襲いかかってくる。反射的に腕で顔をかばって、目を閉じる。その途端、腕に炎の熱を感じて、痛みに顔をしかめる。こういう時の炎は、ただ単に熱いのではない。それだけではなくむしろ、じりじりと灼くような、痛みなのだ。

 歩き始めてからしばらくして、彼女はようやく、今の自分の目線が、いつもよりもえらく低くなっている、ということに気がついた。ふと、そばに建っている家の窓ガラスを見る。もう既にここに住んでいた人は、避難したのかはたまた殺されてしまったのか、いない。そして、そこにただ残された家は、今や炎に呑まれるのを待つばかりとなっていた。そこで、彼女の足は、完全に止まってしまったのだ。

 彼女は、目の前の自分に、すっかり目を奪われてしまっていた。それは、本城に行こうとしていたことなどしばし忘れさせてしまうほどに。ただただ驚いていた。ただし、彼女がえらく美しくなっていたとか、そういうことではない。そんな彼女の顔に、炎が、赤や朱、そしてごくまれに紫の陰影をつけていく。

驚くのも無理のないことだった。彼女の目の前に映った自分は、今の自分ではなかったのだから。背も、今よりも1フォルベイド(約15センチ)も低く、髪も、肩よりも上になっている。

 ……誰、この子?

……と、彼女が思ったのが最後だった。


 ガバッと勢いよく寝台から身を起こした。それからウェイリンは、少しの間辺りを見回して頭の中を整理し、呼吸を整えている。彼女の目の前には、寝る前に目にしていた、ガルガヴェイス砦の客用寝室の風景がある。

 ……ハアハア……、そ、そうよね、私達は今、ガルガヴェイス砦に泊まっていたんだったわよね。……そう、そうよ、あれは、夢だったのよね……。それにしてもあの夢……、最近は全然見ていなかったのに……、一体、どうしちゃったのかしら……?

 と、ウェイリンは顔をうつむけつつ、思っている。すると、思わぬ方から

 「……あの……、どうかなさったんですか、お嬢様?」

 と、聞く声がした。びっくりして小さく飛びのきながら見ると、ウェイリンの顔をのぞきこむようにして、システィがじっと見つめていたのだ。それも、とても心配そうな表情をしながら、である。ウェイリンは、そんな2歳年上の家人の様子を見てとって、

 「あ。システィ……。ごめんね、起こしちゃった……?うん、私はもう大丈夫よ。もう落ち着いたから。」

 と、後半は、安心させるように言った。しかしシスティにしても、“さようでございますか、それはようございました”と、あっさりと引き下がるわけにはいかない。さらに、

 「……しかし、さっきからかなりうなされていらっしゃったようですが。」

 と言って、さらにウェイリンの顔を心配そうにのぞきこむ。この言葉で、ウェイリンは、システィがたった今起きたばかりではないことを知った。多分、飛び起きるよりもやや少し前から見ていたのだろう。

 「ね、ねえ、システィ。もう大丈夫だからさ。……うん、ちょっと嫌な夢を見ちゃってさ。」

 と、ウェイリンは言うと、それからややたたみかけるように続ける。

 「私が謁見に失敗しちゃって、泣く泣くルテティアに帰る夢。」

 と。とっさにウェイリンは、嘘をついていた。今となってはもうウェイリンには、さっきの夢が何なのかが分かっていた。彼女はそれを、久々に見たのだが。

6年前に、先々代の国王が崩御した際に起こった王位争いで、まず内戦が起こった。先代国王とは違う王子、王族を擁立した、今現在は潰された領主貴族の軍と戦争になったのだ。さらにその混乱に乗じた北国のナルヴェンゲン帝国軍が攻め込んできた。そして、あの夢の風景は、その時、帝国軍や領主貴族軍がルテティアに攻めてきた時のものだ。そして、あの時映った姿は、6年前のウェイリン自身だ。彼女がうっかり、この夢のことを話して、システィに6年前のことを思い出させるわけにはいかなかった。なぜなら、システィはまず、実の両親を知らない。産まれてすぐに、どこか道端に捨てられ、子のいないヴェルシュ家の当主夫妻に拾われたのだ。そして、3歳になった時に、ウェイリンの家――つまり、ヴィンドリル=リンディラン侯爵家――に、家人候補(まだまだ幼かったので)として預けられた。そこでウェイリンとも出会うわけだ。そしてその後も、ヴェルシュ家にはよく帰っていたし、ウェイリンも一緒に行くこともあった。しかし、あの6年前の大内乱で、その、育ての親の家族、親せき全員は――

 ――全員殺されてしまったのだ。

 だから、今システィが名乗っている、“ヴェルシュ”という姓は、既にいない育ての親のものなのだ。そんな彼女に対し、リンディラン侯のウェルティランは、ヴィンドリルの姓をシスティに与える、と、何度打診したか分からない。別にそのことは、とりわけ珍しいことでも何でもない。その家によく、長年尽くしてくれた家人に対してごくごく普通に行われていることであるし、またウェイリンはウェイリンで、姉ができるようで喜んでもいた。けれども、当のシスティ本人が、それをずっと、頑ななまでに断り続けているのだ。

 話に戻ろう。

 ウェイリンの話した夢の内容に対して、システィが答えを返すまで、数瞬の間があった。

 「……はあ、そんな夢をご覧になってらしたんですか……。……それでは、謁見当日には、そのようなことにならないように、がんばってくださいね、お嬢様。」

 ややあって、そう言った。ウェイリンは、その間には一切気付くことなく、こくりとうなずいた。そして、

 「では、お嬢様お休みなさいまし。明日も早いですよ。」

 と続けると、寝台にもぐりこみ、目を閉じて寝入ってしまった。

 ……ウェイリンはしばらくの間、システィの様子をうかがっていた。静かな呼吸に合わせて、掛布の肩のあたりがかすかに上下している。もう既に眠りに落ちているらしい。それを見てとると、彼女は思わずつぶやいていた。

 「……6年前の夢を見ていたこと、分かっちゃったかなあ……?」

 と。それからウェイリンもまた、寝台にもぐりこんだ。そうして、数秒後には眠ってしまっていた。……今度は、朝までぐっすりである。

 なので、システィが、ウェイリンに背を向け、薄く眼を開けていたことなど、彼女には知る由もなかった。


 翌朝、ウェイリンは、すうっと目を覚ました。夜中に悪夢にうなされて飛び起き、また眠ったという割には、はっきりとした、いい目覚めだった。そして、幸いなことには、一緒に起きて話を聞いてくれていたシスティもまた、同じく良い目覚めだった、ということだ。

 身じたくをすませて、システィと一緒に城の食堂に行くと、もう、ジェスとシミュルーはそこで待っていた。

 「おはようございます、お嬢様。そして、おはようシスティ。」

 蒼い目を伏せがちにし、会釈しつつ、兄弟そろって言う。

 「うん、おはよう、ジェス、シミュルー。」

 「おはようございます、ジェスさん、シミュルーさん。」

 ウェイリンとシスティがあいさつを返す。ちょうどその時、城兵の1人が、2通の書状を持ってきた。

 「ウェイリン様、ヴィンドリル=リンディラン侯爵家の王府屋敷から、昨夜に書状が届いたのですが……。……えー、ウェイリン様が我々に誤って捕えられたことを知らされた、ボルデア教令卿閣下が卒倒なさったそうです。」

 驚いたのは、ウェイリンだった。

 「え?……それでは、ボルデア様は大丈夫なんですか?」

 すぐに聞いた。

 「はい、それはご心配には及びません。……と申しますのも、つい先ほどにもまた王府屋敷から書状が届いたのですが、それには、1晩たった時にはもう回復されまして、いつものように教令省と王城に出仕されたそうです。……あ、それらの書状がこれでございます。」

 そう城兵は答えて、最後に書状2通を手渡した。受け取ったウェイリンは、礼を言うことすらもできず、すぐ手近にある椅子にへたりこんでしまった。

 「はああ~~……。……ああどうしたらいいのかしら……。まだお目にかかってさえいないのに、私はボルデア様に卒倒させてしまうほどの心配だとか、迷惑をかけちゃったのか……。……気がつかれた後は、きっと、ボルデア様はカンカンだっただろうな……。“我がヴィンドリル=リンディラン侯爵家の直系長子でありながら、侯爵家全体の品位を汚しおって!”とか何とか言って。」

 もう、会うことにも気が重く感じられた。……ああ、もう王府にも行きたくない……、とも思った。父親のウェルティランから聞いているところでは、ボルデアはいつもはとても冷静なのだが、怒った時にはとても怖いということだ。それに、教令卿という官職についてからは、その官職柄、品位等にはとても厳しくなっているという。しかも、何度もウェルティランでさえもやり込められたそうだ。

 ……ここまで見ても分かるように、ウェルティランは、かなりたくさんの重要なことを省いてウェイリンに話していたようだ。あの時、容易に……父と思えそうにない……と思ったのには、(彼女自身があるところを失念していたこともあるのだが)官位が高いことと、もう1つには、こういったことがあったのだ。

 ……はああ……“早々に帰るがいい”って言われちゃったらどうしよう……、私達完全に路頭に迷っちゃうわよ……。もらった旅費だって、王府までの片道分しかないしさ……。

 と、ため息をついて、頭を抱えこみつつ考えこんでいる。そうしながらふと見ると、シミュルー、ジェスがくすくす笑いをこらえているのが目に入った。システィはというと、ほとんどウェイリンと考えていることは同じだったが、彼女ほど悲観的ではなかった。

 ウェイリンは、そんな2人を軽く睨むと、重い――四頭立て大型馬車一台分くらいの――沈鬱さをもって言う。

 「……ねえ、ジェスもシミュルーもさあ、笑いごとじゃないのよこれは……。……大体、考えてもみてよ。今の私達は、ここまで来たら、王府のボルデア様に頼るしかないのよ。ううう……、それなのに、聞いた第一印象からして、もう捕まった、なんていうのがお耳に入っちゃったから……。」

 そこでとうとう、ウェイリンの思考の糸が、

 プツン

 と、切れてしまった。

 「うああああああーーーー!今日だって……今日だってえええええええ!怒りを散々ぶちまけながら出仕なさったに違いないわ!あのボルデア様なんだもの、きっと、いや、絶対、ぜええっったいにそうよ。あの父様もやりこめられるほどのお人なんだもの。……うあああんねえねえシスティどうしよどうしよどうしよ!あたし一体どうしたらいいの?」

 と、システィの肩を鷲づかみにしてさらにガックンガックンと前後に揺さぶりながら言う。完全に壊れている。壊れ過ぎて、一人称が“私”から“あたし”に崩れてしまっている。いきなり言われたシスティは、どうしたものか分からなかった。というより、さっきから肩が痛かった。とりあえず、自分の肩から手を外し、にっこり笑ってウェイリンの肩をガシッと掴み返した。

 「……えっと、あ、あの、お嬢様。す、少お~し、落ち着きましょうか。……そうですよ、こんな時こそ、深呼吸です。ほら、お嬢様いいですか?はいて~……吸って~……。」

 システィも相当に慌てていた。しかし、ウェイリンは彼女以上に慌て、なおかつ、壊れて、取り乱していた。言われた通りに、“はいて~……吸って~”をやってしまった彼女は、すぐにむせてしまった。しかし、むせたおかげもあってか、何とか正気を取り戻した。

 「あ、も、申し訳ありません、お嬢様!間違って逆に言ってしまいました。」

 と、システィは謝ってから、もう一度仕切り直して正しい順序でやっていく。それを7~8回繰り返した頃、聞く。

 「はいて~……。どうですかお嬢様、落ち着きましたか?」

 「う、うん……。」

 システィは、ウェイリンの答えに安心したように一つ息をついてから、さらに続ける。

 「ああ、よかったです……、お嬢様。きっと、ボルデア様も分かって下さると思いますよ。……多分、リンディラン州出身だということだけで、1晩牢にぶちこまれていたことも、もうとっくにご存知でいらっしゃると思いますし。」

 システィは、そう言ってウェイリンをなだめながら、最後の方ではチラリと、城の兵士達の方を何気なさを装って見た。途端にギクリとする、その場にいた城主以下13名の兵士。しかも、普段の淑やかな言葉づかいから一変、“ぶちこまれていた”というように言っている。ここにいる全員は、システィ・ヴェルシュ――この、ウェイリンよりも2歳年上の家人――が、まだ彼らを許していなかったということが分かった。ウェイリンは、……そういえば……、と、思い返してみた。……昨日フラウト・トラヴェルソを合わせた時も、微妙に音が投げやりだったような気がしたな……と。彼女はこの時決心した。何が何でも、システィを怒らせないようにしよう……、と。

 しかし……。ヘルベルト城主達にしてもまた災難な話である。職務をきちんと全うするためにウェイリン一行を捕えてみれば、一緒にいた17の女にここまでズケズケ、チクチクとやられることになろうとは夢にも思っていなかったに違いない。……ウェイリン達一行を捕えてしまったばっかりに……。何とも、職務柄とはいえ、お気の毒なことだ。

 「でも、」

 と、落ち着いたウェイリンが言った。「……どうして私達だけを捕まえたのですか?私達以外にもここを通っていった人はたくさんいたはずでしょうに、牢獄には、私達と同じような人達は全然いなかったので、とても不思議に思ったんですが……。」

 と、続けて言う。城主は、少しばかり逡巡した。

 「うーん……まあ……。この情報は、昨夜調べました限りでは、事実ではありませんでしたので、もうお話ししても構いますまい。それに、こちらも誤ってあなた方を足止め致してしまいましたからな。」

 と言うと、どこかに行ってしまった。ウェイリン達が首をかしげている間に戻ってくる。その手には2通の書簡がある。

 「……お待たせを致しました。実は、王府ランゲールからは1週間前に、そして、あなた様のご出身であるルテティアからは昨日――あなたがた一行が到着される直前でした――に、これらのような書状がこの城に届いたのです。」

 と言うと、書状を開いた。「まず、最初に申し上げておきますが、この2通の書状どちらにしましても、内容としては共通しております。ですので、昨日届いたルテティア書簡の方を読むことにします。こう書かれています。――『“リンディラン州から来た”または、“リンディラン州出身である”と言う女性2人、男性2人、計4人の男女連れが来た場合、貴城内にて留め置くべし。女性2人はいずれも10代後半、そして男性2人はいずれも20代半ば前後ほど。女性1人馬に乗っており、残りの3人は歩きによる移動。男性2人は剣を帯びている。留め置く理由。騎乗する女性は』……。えー……そのう、つまり……」

 そこまでは順調に読んでいた城主だが、いきなり言葉が続かなくなってしまった。ウェイリン達は訝っている。他の城兵達は、もうその内容を読み知っているので、盛んに当惑しきった顔でうなずき合っていた。

 「……ええっと……、え~。……こ、この先は、私にとって、非常に読み上げるのが気恥ずかしく、また、憚られる内容でありますため、私の口からはとても申し上げることができません。……お手数を取らせてしまうようで申し訳ありませんが、どうか、あなたご自身でお読み下さるように、お願い申し上げます。」

 そう言いながら書状を差し出している。ウェイリンは依然として訝りながらも城主から書状を受け取ると、その続きから読むことにした。

 「ええっとお……、“留め置く理由、騎乗女性は”っていうところからだったわよね……。どれどれ……『騎乗女性――うん、これってもしかしなくても私のことよね――は』……はあっ?え?ちょ、これってどういうことなんですか?」

 と、驚きを隠さずに言った。「『父親と……不義の関係にあるために、王府全体の風紀、綱紀を乱さぬようにするため、貴城内にて留め置くものとする』……?」

 読み終わったウェイリンは、しばらくの間呆然としていた。あまりに呆然としていたため、あと少しで書簡が手からこぼれ落ちそうであった。……“不義の関係”って……、どういうことよ?……と思った。が、すぐにそんな思いは打ち消していた。少し(どころかとても)そちらの方面全般にうといウェイリンでも、何となくではあるが分かってはいる。分かってはいるのだが、そのことを今この場ではっきりと口に出してしまうのは、どうにも憚られる。

 「ねえ……これってさ、もしかして――もしかしたら、よ――父様の感動の表し方を、思いっきり誤解されてのものなのかな……?」

 と、ウェイリンがポツリとつぶやいた。ジェスが、頬を引きつらせながらも、うなずいた。

 「ええ……、多分、そういうことから、でしょうね。」

 と、シミュルーも同じく頬を引きつらせながらも何とか言い添えた。システィは、気恥ずかしかったのとウェイリンへの気遣いとで、何も言うことができないでいたのだった。

 ウェイリンの顔が、瞬間的に真っ赤になった。自分自身のことではあるけれど、身にまとっている空気、あるいは、オーラががらりと変わったのが、彼女には的確に分かった。書状を持っている手、腕が、さっきとは対照的に、ぐっと力が入り、ぶるぶる震えている。

 「父様……。私、当分許さないわ……。」

 うつむき加減で、なおかつ、低い声で、それだけをつぶやいたウェイリンに、他の人達は何も言えなかった。


 朝食の後、ウェイリンは、愛馬ティタニアにまたがって、ガルガヴェイス砦を出発した。彼女たちをヘルベルト城主も見送ってくれている。ちょうど、今は8時くらいなので、翌日夕方くらいには、王府であるランゲールに着けそうだ。

 この日はさして捕まることもなく、また、隊商の馬車に同乗させてくれたので予定の街を1つ飛ばして次の街に泊まることができ、平穏に出発した。


 翌日――

 「いやあ……、しかし、思わぬところで足止めを食っちゃいましたね。」

 と、同乗させてくれた隊商と別れた後、街道を歩きながら、ウェイリンの右手にいるジェスが言う。

 「うん、まあね。……クフフフ、父様のおかげで一時はどうなる事かと思ったわよ……。」

 ウェイリンは陰のある微笑を閃かせて静かに答えた。3人は主の黒い微笑に少し顔を引きつらせている。それから彼女は表情を180度変えてニパッと笑うと、

 「……でもまだ大丈夫よ。だってもう王府まであと少しなんだから。……多分、今日の夕方くらいには着けるでしょ。」

 と言う。3人はここでようやく安心したように顔を見合わせた。

 ガルガヴェイス砦から、ランゲールに行くまでに、さらにまた6つの城、町を通った。その時にも、あの書状が回ってきていたのか、多少、門番兵に睨まれはしたが、ウェイリンが例の家紋と一の牌、そして、砦を出発する間際にヘルベルと城主からもらった免状の3つを見せると、すんなり通してくれた、しかも、ちょうどお昼時に着いた城では、すんなりと通してくれただけではなく、食堂での昼食まで無償で用意してくれたほどの変わりようだった。しかし、ウェイリンは、あることに気がついていた。それは、どうも見ていると、あの、ガルガヴェイス砦の城主、リー・ファンブーク・ヘルベルトの姓である、“ヘルベルト”も、相当の威力があるようなのだ。ランゲールに行く道中最後の城となったシェールブルク城を通過した後、そのことをシミュルーに言ってみると、うなずいた。

 「ええ、ヘルベルト家は、古くから武門で名を轟かせてきた家ですからね。同じ武官としても、少し違うものがあるんですよ。……何でも、ヘルベルト家の初代当主といえば、建国時にまで遡れる人だそうですね。まあ、それほどまでに歴史の古い家なんですよ、お嬢様。」

 ウェイリンは、……そんなに有名な家だったんだ……、と驚いている。その様子を見たシミュルーは、呆れたように続ける。

 「お嬢様……少しは都の貴族の家系だとか、そういったことも勉強なさった方がいいと思いますが。」

 ウェイリンは少し詰まり、顔をそむける。

 「分かってるけどさ……。そういう貴族のつながりとか、そういうものは複雑で、苦手なんだもん。」

 「少なくとも、領主貴族十七家、そして中央貴族の公、侯、伯爵家の主要家くらいは把握しておいて損はないと思います。」

 「そ、そんなに……」

 ウェイリンは心底嫌そうな顔をする。ジェスは、そんな彼女の顔を見て、かすかにため息をもらしてから、

 「まあ、これから少しずつでも知っていけばいい話ですからね、今はこのくらいにしておきましょう。」

 と言う。ウェイリンはホッとする。と、1つ疑問が浮かんだ。

 「……ねえ、さっきヘルベルト家は建国時に遡れるって言ってたわよね。それじゃあ……、領主貴族としても名乗れるはずなのに。……でも、私の記憶が正しければヘルベルト家って……。」

 「ええ、ヘルベルト家の名前は、領主貴族――つまり十七家ですね――の中には入っていません。中央王府の、武官貴族の家です。何でも、ブルグリット王国建国時に、かの初代国王ウィンティップ大王陛下から、領地を与えられそうになったそうなんですが、初代当主がそれを断ってしまったんだそうです。……それなもんですから、家柄自体はとても古いのに、未だに爵位は准男爵なんです。」

 そこでシスティが、何かを思い出したように言った。

 「あの……、確か前に聞いたことがあるんですけど、准男爵でミドルネームを持っているのは、ヘルベルト家の、“ファンブーク”だけだったように思いますが、シミュルーさん、どうでしたっけ?」

 「その通りだよ、システィ。」

 シミュルーがうなずいて言う。「それから、中央貴族の中では、血筋が一番古くまで遡れる家でもあるんですよ。」

 と、続けた。しかし、まだウェイリンには、どうにも納得ができなかった。

 「うーん……。確かに、ヘルベルト家の歴史がとても古いっていうのは、さっき教えてくれたことで分かったけどね……。でも、そんなにすごいことなの?……それはさっきのシェールブルク城の門番の兵士さん達みたいな反応をさせるくらいのものなの?」

 それら3つを見せた時の門番兵の反応というのは、確かにすごいものだった。まず、ウェイリンの家紋と、一の牌を見た兵士が第1撃を見舞われて少しばかりかしこまり、ついで、ヘルベルト城主がくれた通行免状を見せられると、完全に恐れ入ってしまい、さらに跪拝していたような気さえも、ウェイリンにはした。

 「ええ……、すごい……で、しょうね。何と言ったって、あの時にヘルベルト家初代当主が、ウィンティップ大王陛下から領地を賜っていたら、今頃には、爵位も准男爵ではなくて、公、侯爵くらいにはなっていたはずですし、さらに、摂政“四家”などとは言われずに、摂政“五家”にもなっていたはずですから……。……中央貴族は、たとえどのような血縁にあろうとも、その姓を名乗る以上、何人も摂政になることはできない……、この決まりは、お嬢様もご存じかと思います。」

 “お嬢様”はうなずいた。知っているも何も、ウェイリンが生まれ育った家――ヴィンドリル=リンディラン侯爵家――もまた、摂政四家のうちの一つだからだ。さらに、シミュルーは続けて言った。

 「……まあ、つまりそれほどまでに、ヘルベルト准男爵家の、軍事面での我らが王国への貢献度は高いわけなんです。……この旧来の領土拡張戦争や、防衛戦争、反乱鎮圧での貢献にあやかっているわけでもないでしょうが、国運を左右するような大きな戦いには、必ず大将か副将には、ヘルベルト家の人間が入ったりしますからね。そして、さらにすごいことには、今までにヘルベルト家は、何千、何万という優れた将軍、そして、勇猛な兵士達を輩出してきているんですが、そういう中で官吏になった人は1人もいないそうです。……それも軍権に関わっている、軍務省の役人でもいないといいます。」

 ……それは……すごい、特に最後のところが……、と、ウェイリンは思った。家の勃興が建国の時にまで遡れる、ということは、もう、侯爵家と同じく1300年近くもの間続いている、ということだ。……そんなに長い間に、1人も官吏を出さないっていうのは……、どうなんだろうか……?……と思った。さらに同時に彼女は、……完全に“武門の家”というイメージがついて回っているに違いないな……とも思っている。

 すると、ジェスが付け加えて言う。

 「あ、そうそう、今、このヘルベルト准男爵家本家の次期当主とささやかれているギルマルク、というのが、王室軍第5騎兵隊長として働いていますね。」

 「王室軍第5騎兵隊長――第5騎士長――っていうと、官職は、少将?」

 「ええ……。確か、今は25歳とか聞いていますよ。」

 その言葉を聞いて、さらにウェイリンは驚くことになった。……そ、そんな年で“少将”なんて……。100人率いるって、どのくらいの年、成績で及第すればなれるのよ……?と、内心で思っている。すると、それを見透かしたようにジェスが続けた。

 「……確か、武官採用試験である定兵試というものを、ものすごく好成績で及第して、さらに、実際の戦闘でも目ざましく働いたそうです。ちなみに、及第したのは、10年前とか。」

 ……ということは、15歳で、か……。今の私と同じ年だ……。と、ウェイリンは思った。

 「しかも、」

 兄のシミュルーが続けざまに言った。「……お嬢様、驚かないでください。彼は、そんな若い年で、国王陛下付きの護衛官――衛軍――の一員なのですよ。……しかも、衛軍騎兵の中でもトップの、騎兵筆頭武官でもあるのです。……ああ、お嬢様、一応申し上げておきますが、“衛軍騎兵筆頭武官”というのは、“衛華軍騎兵大将”のことではありませんので、どうか誤解なさらないでください。」

 何でも、ジェス、シミュルー兄弟の話によると、近衛軍、または、衛華軍(この二つの名前は、どちらも同じものを指している。上が通称で、下が正式な名前だ)は、王室の方々の警護、そして、シュライフ州軍、王府守備軍などと協力して、王府ランゲールの警護、防衛、州内各地の警備、防衛を主な任務としている。しかし、それよりもわずかに地位が高い衛軍ともなってくると、国王ただ1人の警護、というものになるのだ。それはもう、それだけに専心して行う。なので、国内巡幸といって、国王の馬車、馬の周りにいる武官は全員、国王付きの衛軍、ということになる。もっとも、その国王自身の命令があれば、それとは違った任務を行うこともあるのだが。それはあまりないといえる。

 ウェイリンは、2人の話に感心して、ふむふむ、とうなずきつつ聞き入っていた。一方の、そんな彼女の後ろでティタニアに横座りに乗っていたシスティは、衛華軍と衛軍がどこがどう違うのかさえ、さっぱり分かっていなかった。と、そうやって進んでいくうちに、刻一刻と夕暮れも濃くなってきた。……夜までに着けるかな……?と彼女が思ったその時、行く手に、夕日の光を浴びて、薄桃色に輝く大きな、長大な城壁が見えてきた。

 「あれ?」

 ウェイリンが、ティタニアの上から、城壁を示して聞いた。今度は、全く疑いの気持ちがこもっていない。いやむしろ、完全な確信にあふれたものだった。システィが、その声に、彼女の右肩越しに顔を出す。

 「はい、あれが、ブルグリット王国王府、ランゲールです。」

 と、シミュルーは答えた。


 ブルグリット王国の王府にして、シュライフ州州都のランゲールの城門は、まだ閉じられていなかった。むしろ、大きく開け放たれている。しかしそうはいっても、何よりも目を見張るのは、城壁の高さだ。州都ルテティアよりも、また、今まで行った町のどの城壁よりも高く、堅固なものだった。ウェイリンは、……私の身長の何倍あるだろう……?と、見上げながら考えていた。はたで見ていたシスティ達は、10ベイド――1フォルベイド(つまりは、一五〇センチそこそこくらい)――のお嬢様の、優に8倍はあるだろうな……、と思っていた。そして、城門の両脇にそびえたつ2つの塔に至っては、10フォルベイド――1モンティベイド(15メートル)――はありそうに思えた。

 しばらくの間、城壁の高さに圧倒された後、ウェイリン達一行は、王府の中に入ることにした。と――

 「王府に入るには、簡単ではありますが、チェックがあります。こちらの番小屋まで、おいで下さい。」

 そう兵士に言われてしまう。その兵士についていくと、城壁に沿うようにして長々と建てられた平屋がある。どう見ても、“小屋”ではない。そこで一行は、チェックを受けた。とはいっても、それはほんの数秒で、兵士の言った通りに簡単に済んだ。そうして、いよいよ王府に入る。と、一行の後ろで、大きく太鼓が打ち鳴らされ、ラッパがけたたましく鳴り響いた。

 「え?え?な、何なの?」

 ウェイリンがおろおろしていると、兵士の1人が、

 「もう夕暮れ――日没――となりますので、城門を閉じるのですよ。これはその合図です。それ以降では、急使、特使などでない限り入ることは不可能になります。……ですから、閉じないうちにお早く。」

 その言葉を受けて、一行は城門をくぐった。してみると、あの長大な番小屋は、閉じている時に来た旅人を泊めるためのものでもあるらしい。くぐりながら見ていると、城壁も厚く、3モンティベイド――約45メートル――はありそうだと、彼らには思えた。一行がくぐり終えると同時に、鉄製の門がきしみつつ閉まり始め、少しして完全に閉まった。

 こうして城門をくぐり、ランゲールに入ったわけだが、ウェイリンにとっては、そこはまさしく別天地だった。まず、とても道幅が広い。優に1モンティベイド(約15メートル)はあるだろう。そんな道で、楽々に、四頭立て、あるいはそれ以上の大型馬車同士がすれ違えていることにとても驚いている。

 「わ、すごい。楽に大型馬車同士がすれ違えてる。」

 「お、お嬢様……。一体どういうところに感心なさっていらっしゃるんですか?……それに、そんなことだったら、リンディラン州都のルテティアだって、全ての道でできますよ。」

 と、シミュルーが呆れながらも、妙な対抗心を燃やしつつウェイリンの天然発言につっこんでいる。

 道についていうならば、広いことに加えて、さらに長かった。考えてみると、この通りの末端は、宮城、あるいは王城になるはずだが、それがここからは全く見えないのだ。見たところ、どうも整然と区画されているようだ。他の町も同じように区画をしているところはたくさんあるが、ここほど徹底したものではない。そのため、一定の間隔を空けて四つ角がある。ウェイリン達が門をくぐったそこは、市場になっていた。もう日没だというのに、売り買いの声はまるで、これからが本番だといわんばかりにあちらこちらから聞こえてくる。そして、ウェイリン達一行にも、買っていってくれるよう、また、少しでも見ていってくれるようにと、声が次々とかけられていたのだった。

 「ちょっとちょっと、そこの馬連れたお嬢ちゃん、その馬にちょうどよく合う馬具が入っているんだ。一生もんだぜ。ちょっとでいいから見てってくれや。」

 「そこの2人のお嬢ちゃんに、すっごくよく似合うような髪飾り一式があるんだ。ちょっと試していっておくれよ。そんで気に入って買ってってくれるならおかたじけ。負けさせてもらうよ。」

 「そこの兄ちゃん2人に、よく合う剣飾りだよ。ちょっと見ていってくれよ。」

 「どうだいこのきらめき!これ以上の宝玉はないよ。名付けて、“ロベロンの蒼”!どうよ、ちょっと見てかないかい?」

 「リハルエ州の特産、スバウオの塩漬けだよ。」

 「あら?そこのお兄さん2人は、兄弟か何かなのかい?2人ともアタシ好みのタイプだよ。どこから来たかは分からないけど、ちょっと休んでお行きよ。……あ、もちろん、一緒にいるうらやましいお嬢ちゃん2人も、歓迎するよ。」

 「いやあ~。王府っていうのは、本っ当に、いいもんですね。」

 一部、男性専用、そして、呼び声ではないものまで混ざっていた。ウェイリンは、最後に聞いたセリフを言っていた、やたらと幸せそうな耳をしている、でっぷり太ったにこやかな男に目を奪われている。しかし、一方では……どれも面白そうよね……と思いながらも、この呼び声の多さにはかなわない。彼女は、相も変わらずおろおろしながら、……どうしよう……、というように、ジェス達を見た。ジェスは聞き取りやすいように、彼女に耳元で囁いた。

 「……今日はもう遅いですから、また今度、ということにしましょう。……まあ、合間の気分転換に、市場をぶらぶらなさるのはよろしいことですから、その時に中を見るとしましょう。」

 ウェイリンはうなずいた。一方のシミュルーは、……もし今の呼び声を言っていた人達が、お嬢様の正体を知ったら……、そう思って、1人くすくすと笑っていた。ともあれ、こうして何とかウェイリン一行は、市場から抜け出すことに成功したわけだ。市場を抜けるとすぐに、住宅街が広がっている。とはいっても、いくつかの中規模以上の店はあったりする。

 「はあ~、すごいわ……。」

 ティタニアの手綱をとって歩きながら、ウェイリンはあごに伝い落ちる汗をぬぐいながら言った。市を出て数分後のことだ。ジェスが言う。

 「このランゲールというのは、前――というか、建国されてからの、ですね――の王府だった、ボニティト州のマデューイから、467年にここらあたりを支配していた大部族、ウェルキンジュットゥスを滅ぼし、遷都されてからですから、もう1000年近くもの間、ずっと王府なんですよ。ちなみに、東西5モンティバール、南北4モンティバールです。……どこぞの万国量衡に直せば、東西7.5キロメートル、南北が6キロメートル、ということになりますね。」

 ……これは確かに大きい。ウェイリンは、王府は最初からある程度の大きさだろうとは予想をしていたのだが、どうも、考えていた以上だったらしい。驚いて、口をポカンと開けてしまっている。ちなみに、彼女が生まれ育ったリンディラン州都、ルテティアは、東西1モンティバール、南北1.2モンティバールだ。さらにシミュルーが続けて言う。

 「……人口は大体ここだけで80万人です。……いや、さすがはこの国随一の大都市ですよね。住民は、商人がまず大多数を占めています。その次に役人、家人といった人達、そして近隣のうちを持つ農民。それらに続くようにして貴族、さらに少なくなって、各教会、神殿に詰めている聖職者、神官達、そして王族となります。なので、一番人口比率が少ないのは、王族の方々、ということになりますね。」

 「2人ともよく知っているわね……。あ、そうか。」

 ウェイリンは、ある可能性に気がついた。「……ねえ、ひょっとしてさ、ジェスさんもシミュルーさんも、この王府に来たことがあるんじゃないの?」

 「いえ……。私にしてもジェスにしても、王府に来たことはありませんよ。今日が初めてです。」

 「そうです。兄が申しましたように、私達も今日が初めてです。まあ、ちょっとばかり、来る前に下調べをしておいたものですからこれだけ……ね。」

 と、シミュルー、ジェス兄弟が答える。彼らの仕え主である、“お嬢様”は、“へえ~”と感心して言ってから、さらにジェスに聞いた。

 「それじゃあさ……。教わりついでに聞くんだけど、ヴィンドリル=リンディラン侯爵家の王府屋敷って、一体どこにあるのか教えてよ。」

 すると、ここにきて急に、ジェスの口が重くなった。

 「……ええとですねえ……。ヴィンドリル=リンディラン侯爵家の王府屋敷上京区にあるんですけどね……。それで、その中でも、宮城側から見て左側ですから、進行方向右の……つまり、東側のどこかの区画の中ですね。……ま、まあ、まだまだここは下京区ですからね、まだかなりかかってしまいますね。」

 と、言った。つまりは、そこまで調べていなかった、というわけだ。けれども、そんなことで、“まあいいか、んも~ジェスさんもシミュルーさんもしょうがないわねウフフ”とは言っていられそうもなかった。何しろもう、夕日の残光は城壁の向こうに消えようとしているのだから。市場を通った時に、かなりの時間をかけてしまっていたのだ。

 この間に、ウェイリンが分かったことをまとめると、こうなる。

 まず、王府ランゲールは、宮城から近い順に、上京区(かみぎょうく)中京区(なかぎょうく)下京区(しもぎょうく)の3つに分けられているということ。そして、それぞれの区は、今ウェイリン達が歩いている中央大通り(カラハン1世通り)で、東、西に分けられている。さらに、それぞれの区の間にも3本、東西に大きな通りがあり(北からスウェイン1世通り、コルエーリン1世通り、フィレス1世通り)、それが境となっている。そして、カラハン1世通りを基点として、上京区では8本、中京区では13本、そして下京区では23本の通りが延びている。ちなみに、先の3本の通りは、単に境を示しているだけなので、この数には入らない。

 上京区には、まず領主貴族の王府屋敷であったりとか、大方の中央貴族の邸宅になっているのだ。また、ごく一部の高級役人――要は、受爵されていない(中央貴族に列されていない)が、地位の高い役人のことだ――の邸宅もここにはある。つまり、この中央王府、さらには、ブルグリット王国の中枢を占める人が住んでいる、といってもよい。さらに、一部の役所、大商人の邸宅もある。

 中京区は、中~下級の役人が住む家であったり、集合住宅(ところによっては、そこに役人しか住んでいないので、半ば官舎化してしまっているものもある)がほとんどだ。さらに、ここ100~200年ほどで受爵されて進出してきた、新興の中央貴族の家もここにある。そして、そこそこ成功している商人の家、店があったりと、ここが一番交通の便がよかったりする。

 下京区は、ごくごく一般的な商人、職人が住む家、あるいは集合住宅、工房だったり、完全に下級の官人達の住宅、そして、作られたものを売る市で、そのほとんどが占められているのだ。さらに、一部の農民がここに土地を持っていて、耕作もしているそうだ。

 ……とまあ、あんなことやそんなことを思い返しながらウェイリンは、冬服の合わせをまさぐって、何度も出てきている、一の牌を出した。そうして、何の気もなく裏にしてみた。すると……

 彼女は、恐ろしく恥ずかしいことに気がついてしまった。というのも、目指す場所の位置が、一の牌の裏側にきちんと書いてあったのだから。“ヴィンドリル=リンディラン侯爵・王府伯爵家王府本邸:ランゲール、上京区東4号通り(フランツ2世・ヴァールブルク・ガードナー通り)2番”と。ウェイリンは、いかにしてこれを3人に見られず、なおかつ、いかに自然な素振りで合わせにしまいこもうか……、ということを考えることに夢中になっている。なので、いつの間にやらジェス、シミュルー、そして、システィの3人に後ろからのぞきこまれていたことなど、気付きもしていなかったのだ。

 「……お、お嬢様……。そ、その一の牌をもっと早くに見せていただけたらよかったのに……。」

 と言う、ジェスの呆れた声がした時に、ウェイリンはようやくそのことに気がついたのだ。今まで気づかなかったのはどうしてかという疑問は、もう出す気もなくなったのだろう。それが、ウェイリンのウェイリンたるところでもあるのだろう。彼女は、白々しく頬に手をあてて、“オホホホー”とごまかし笑いをすると、一の牌を慌てて元の合わせにしまいこんだ。そして、

 「3人とも、そんな細かいことは気にしないで!さあ!上京区東4号通り2番まで急ぐわよ!」

 なんてのたまったのだった。そして、シミュルーからティタニアの手綱を奪い取ると、さっさと1人で歩いていってしまう。そんな彼女の後ろで、3人の家人が顔を見合わせてため息をつき合っているのが気配で分かった。……3人とも、後で覚悟しておきなさいよ……、とウェイリンは言いたかったができなかった。これは元より、彼女自身の自業自得だったのだから。


 上京区東4号通り2番に建つ、ヴィンドリル=リンディラン侯爵家の王府屋敷に、ウェイリン達一行が到着したのは、もう、8時近いころだった。もちろん、夜の、である。中京区の真ん中まで来たあたりで、さっきまでは射しこんでいた残光までもが城壁の向こうに完全に没してしまい、その代わりに、街灯や、家々の門灯が、日暮れて夜を迎えた街路を照らすようになった。しかし、昼間に世界を照らしていた、あの大いなる光に比べると、どうにも心もとないものがある。そんな中で、ウェイリンは、宮城から帰る官吏とたくさんすれ違ったのだった。彼女は、そんな官吏たちを1人見るごとに、また一つ、自分もこうなるんだと、決意を新たにするのだった。

 そんなこんなで、ヴィンドリル=リンディラン侯爵家の王府屋敷に着いたわけだが……。

 「大き……、」

 その正門前に立ったウェイリンは、ここに入れてもらわなければ即野宿決定な状況下であるにも関わらず、そう言ってぼんやりと見上げるだけだ。3人の家人も、しばらくの間、彼女に同意するように黙り込んでいる。

 どうも、この上京区、とりわけ東地区というのは、様々な名門貴族達がこぞって邸宅を構えるところのようだ。対する西地区の方には、大商人の邸宅が多かったので、余計にそう思えたのだ。ウェイリン一行は、この上京区に入ってから、一体どのくらいの豪壮極まる邸宅を見てきたのか、ついには分からなくなってしまったくらいだ。そして、いわゆる、“お隣さん”、“ご近所”の人々も、ものすごく家格の高い人々だった。まず、1番に建っているのは、南部ヴェアストック州を治めるコルモリンベン=ヴェアストック公爵家の王府屋敷、3番には、北東部ボニティト州を治めるボナティウス=ボニティト侯爵家の王府屋敷が建っている。ちなみに、もう1つの摂政家である、中北部を治めるディングリー=アンディリ公爵家の王府屋敷は、上京区、東2号(オルフィス1世・レッフワード・シュレヴィレン)通りの1番にある。そして正面には、現ブルグリット王国宰相、チェアネイ・ヴァールブルク・ガードナー公爵の自宅となっている。ウェイリンは、自分が憧れている官職にある人が、自分の家の王府屋敷の真正面に住んでいる、ということが信じられず、かつ嬉しさを感じていた。

 しばらくウェイリンが、ご近所のそうそうたるメンバーについてぼんやりしていると、システィが言う。

 「お嬢様、早いところノッカーをたたくなり、声をかけるなりしてくださいませ。このまま黙りこんでいても、門はずっと閉じたままですよ。」

 「あ、……う、うん。」

 ウェイリンは少し驚いた後、大きな門扉に近寄り、家紋にもなっている鷲が図案化されている重厚なノッカーを、扉に数回打ちつけた。ゴンゴン、という、重々しい音が辺りに響いた。と、やがて、ごくゆっくりと門扉が開いていく。中に立っていたのは、20代半ばをやや過ぎたくらいの若い男だった。左手に持ったたいまつをこちらに掲げている。

 「……どちら様にございましょうか?」

 その男は、たいまつで照らしながら素早く一行の様子を上から下までうかがってから聞いてきた。4人を代表して、ウェイリンが答える。それぞれを示して彼に紹介していく。

 「私は、ウェイリン・テネール・ヴィンドリルと申します。……ヴィンドリル=リンディラン侯爵家王府屋敷当主、ボルデア・テネール・ヴィンドリル伯爵のいとこ、ウェルティラン・テネール・ヴィンドリル、現リンディラン侯爵の娘です。こちらは、私付きになってくれている、シミュルー・カーベンと、ジェス・カーベンの兄弟、そして、システィ・ヴェルシュです。」

 家紋、通行牌を示しながら言った。“ウェイリン・テネール・ヴィンドリル”という名前を聞いたその途端、男は、“この人か!”という表情を浮かべた。何となく、会心の笑み、といったようなものである。しかし、それを不審に思った一行の誰かが聞くよりも前に、それをきれいに打ち消してしまった。ただし、ウェイリン達にしたところでも、多少の、あくまでも“多少の”心当たりがあったので、聞くことはなかったのだが。……彼はというと、元通りの柔和な微笑を浮かべ、

 「これは……、失礼をいたしました。……ささ、どうぞ中へ。リンディラン州都のルテティアからここまで、長い距離を移動されてお疲れでございましょう。どうぞ中でごゆっくりおくつろぎください。……もう皆様のお部屋は、用意が整っておりますので、まずはそれぞれのお部屋へ、皆様のお荷物を運ばせていただきましょう。……申し遅れました。私は、ここで家人として働いております、ヴィル・アラワナと申します。」

 と言った。そんな丁重極まるあいさつに、自然とウェイリン達にしても、頭を下げてしまう。

 「ど、どうも……。あのう、ボルデア様はお帰りになっていますか?」

 と、ウェイリンが聞くと、ヴィル家人は首を振った。

 「いいえ。今日はあいにく、宮城宿直に当たっておりますので、旦那様は今日はお帰りにはなりません。」

 家人の話が一通り終わると、一行は邸内に入ることにした。

 中に入っても、王府屋敷はやはりそれぞれが大きなものだった。ティタニアを預けた門にほど近い馬小屋も同じことだった。その後、持っていた荷物を数人の家人に任せて、用意されているという部屋まで運んでもらう。そうしてウェイリン達は、ヴィル家人の案内で簡単に邸内を見せてもらっていた。

 馬小屋については、さっきも書いたとおりだが、その隣に建っている馬車庫もまた、大きいものだった。中を通り過ぎざまに見ると、装飾も豪華な馬車が何10台とも分からない数でずらりと並んでいる。

 「……まだ慣れていないうちは、何度も迷ったものですよ。」

 と、案内しながらヴィルはそう言ってにこりと笑った。聞くと、広さは1バール(約150メートル)四方、だということだ。これを聞いたウェイリンは、驚いたのと衝撃だったのとで、あいた口がふさがらなかった。何といっても、リンディラン州都ルテティア城の、侯爵宮殿よりも大きいのだから。ちなみにそこは、東西八モンティベイド、南北五モンティベイド(約120メートル、約75メートル)だ。ただし、“屋敷”とはいっても、守りはとても堅固にできているのは分かった。他の屋敷でも見たような、重厚な邸宅作りの技術がふんだんに、とことんにまで使われているのだった。

 何でもウェイリン達が聞いたところでは、領主貴族の王府屋敷というのは、中央貴族がそれぞれに構える邸宅とは違って、国王から下賜された土地に建っている、ということだ。だから、王府屋敷を移転することは、全く許されないのだそうだ。もっとも、その敷地内での増改築は許されているのだが。この、ヴィンドリル=リンディラン侯爵家の王府屋敷は、建物が17棟、木が20本、池が1つ、そして水路が10本ある、という。さらに、17棟ある建物のうち、馬小屋、馬車庫、倉庫のような建物――つまり、あまり人が立ち入らないようなところ――が8棟あり、残りの9棟が、本館だったり客間棟だったり、趣味のための建物だったりする。ちなみに、これら17棟の建物は、馬小屋、馬車庫、望楼以外、全て2階建てになっている。馬小屋や馬車庫は1階、望楼は4階建てになっていて、表の通りからも、邸内各所から屹立する塔が見えたりする。

 「ジェス・カーベン殿、シミュルー・カーベン殿、そして、システィ・ヴェルシュ殿御三方のお部屋は、それぞれ、本館2階の第1、第2、第3客間でございます。それから、ウェイリン様のお部屋は、ウェルティラン侯爵閣下がいつもお使いになっている、“()(よく)(じゅ)の間”でございます。」

 と、ヴィルが言う。この“飛翼鷲の間”というのは、“鷲四連の間”の中の一つの部屋である。この、“鷲四連の間”とは、ヴィンドリル=リンディラン侯爵家の王府屋敷の中では、最上級の部屋なのだ。それもそのはずである。というのも、ヴィンドリル侯爵家の家紋たる鷲が冠されている部屋なのだから。それが4部屋連なっているので、“鷲四連の間”というわけだ。

 「……あの……それは、ボルデア様もご存じのことなんですか?」

 もう完全に、ボルデア・テネール・ヴィンドリル伯爵という人が、とても恐ろしい人だということを、父親によって植え付けられてしまっているウェイリンが聞いた。ヴィル・アラワナ家人はあの、柔和な笑顔で数回、うなずいて言う。

 「ええ。ウェルティラン侯爵閣下からのお手紙で、あなた様がここにいらっしゃることをお知りになった数秒後には、その部屋に泊まらせるようにと、おっしゃっておりましたから。」

 その答えを聞いたウェイリンは、ますます申し訳ない気持ちになってしまっていた。あまりにもそんな気持ちになっていたせいで数日前の自分に嫌悪感すらも抱いていた。……そんなになさってまで、自分のことを待っていて下さった人に、捕まってしまったことで卒倒なさるほど失望させてしまったんだわ……と、思っていた。しかし実際のところは、それは彼女の全くの勘違いではあったのだが。ここで働いて結構になるこの家人は、急にどんよりと沈んだ表情をしてしまったウェイリンを、ちらりと見た。そして、考えていることを見透かしたように、

 「……大丈夫ですよ、ウェイリン様。ボルデア様は、そんなようなことで失望なさったり、見限ったりなさるような狭量な方ではありませんよ。……ましてや、お身内でいらっしゃるあなた様に対してはなおさらです。……まあ、実を申しますと私にしましても、官吏をしていた頃には、ちっとも、そういう認識はありませんでしたけどね。」

 と、言った。

 「え?……官吏をなさっていたんですか、ヴィルさん?」

 「はい、ここで働く以前は。私はなってから退官するまで、ずっと王府省の総務部の官吏だったんですよ。大体の仕事は、各省、役所間の連絡官でしたね。そうしたら当然ですが、教令省にも出入りするわけです。そんな時には、教令卿――つまり、ボルデア様です――が、部下の官吏たちを叱責している場面にも行き合うことがよくあったものですよ。あの穏やか極まる顔、声で叱責してから、何10枚ともしれない書類をドカッと手渡して、『この中のお前の間違いを、自分で全て見つけ出し、かつ、明後日までにその間違いを全て直してこい』――と、言っていたものですよ。……まあこれが、一番良く聞いていた手直し命令ですね。」

 ……うわあ……、ウェイリンは、心の中で何かが引いていく思いがした。身内ながら、いや、むしろボルデアが身内だからこそ、その官吏には申し訳ない気持ちになってしまった。システィもジェスも、またシミュルーも、口をあんぐりさせている。……それにしても、ボルデア様は何を考えていらっしゃるのかしら?そんなに官吏さん達をこき使うものじゃないのに……。……それにしても、官吏の扱い方は、父様とはえらい違いよね。……もしかして、リンディラン州が緩すぎているだけで、王府だったり、他州ではやっぱりそのくらいなものなのかしら……?と、ウェイリンが思っていると、さらに家人の話は続いていた。

 「……まあ、その時は私も、『ひどいことをなさるもんだな』とか思っていたんですよ。それで、その日の仕事が終わると、卿は、さっき叱責していた官吏を連れて、どこかに行ってしまったんですよ。……また別の場所に行ってまでさらに叱責するのか……と思ったのと、ちょっとした好奇心も手伝って、後をつけていったのですよ。すると、ご自分のお屋敷――つまり、ここですね――に連れていったのです。私が見たのはここまでだったのですが、後々、知り合いの家人に聞いてみたら、卿は、その官吏にご自分手ずから料理を振る舞われたのだそうです。しかも、こうもおっしゃっていたそうです。『……今夜はここに泊まって行け。ここでお前は手直しをするんだ。もちろん私も見ていてやる。』と。」

 それを聞いたら、今度は、ボルデアがものすごくいい人に思えてきてしまったウェイリンだった。まあ、彼女は、ボルデアについては、父ウェルティランから聞かされていただけで、今まで全然あったこともなかった人だから、しかたのないことではある。前から――ランゲールに行くことになってから――ウェイリンには、何があっても1つだけ、ボルデアに確認しておきたいことがあるのだ。それは、ウェルティランが、ウェイリン自身のことについてどう言っていたのか、ということだ。あのウェルティランのことだ、きっとあることないことをいろいろと、ボルデアに吹き込んでいるに違いない、という確信があったのだ。

 「あの、ヴィルさん、」

 ウェイリンは、先に立って歩く家人を呼びとめた。彼は、すぐに柔和な笑顔で振り向いた。

 「ボルデア様は、明日のいつ頃、お戻りになるでしょうか?」

 「……そうですね、翌朝早く、ということになりますが、詳しい時間になりますと、私にも分かりかねます。ただ、明日は宿直明け、ということで、1日休みがあります。ですので、明日は1日中屋敷にいらっしゃるかと思いますので、あいさつ等のことは、その時になさいませ。」

 さらに彼女が聞きたかったことにも、ヴィルに先んじて答えられてしまった。……う~ん、この人はかなり有能だよな、何で官吏を辞めちゃったんだろ?……と、立場をかなり無視してウェイリンは思った。

 「さあ、もう夕食の用意はできております。食堂にいらしてください。案内致します。」

 と、有能なる家人は言った。



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