序章
思うに、生きていくということにはたくさんの出会いがあり、転機がある。私にもたくさんあったし、知り合い、友人にも全員に分け隔てなく平等に、また、たくさんあった。
けれども、この私——ウェイリン・テネール・ヴィンドリル——以上に、ぶっとんだ出会いや転機というものも、そうそうないだろうと、私の乏しい想像力の中では思えるのである。
『後々の回想、第1巻、序文』より
ウェイリン・テネール・ヴィンドリル、リンディラン侯爵著による
「……さあ、姫様、先ほどまでの稽古の実践ですぞ。」
と、いかにも歴戦の強者らしい堂々たる風格を身につけた、将軍風の50がらみの男が言った。
ここは、大陸中南部にある、ブルグリット王国。そして、王国北部に位置する州、リンディラン。その州都、ルテティアにある領主本城の庭だ。そこでは、前述の将軍らしい男と、まだ20にもなっていないような少女とが、それぞれ木刀を手に、打ち合っている。2人のいでたちは、ごくごく軽装である。なめし皮で作られた簡単な胸当て、籠手、すね当て——防具と言えそうなものはそれだけで、あとは詰め物入りの胴着、ズボンである。
少女の名は、ウェイリン・テネール・ヴィンドリル。そして、将軍らしい男の名は、リンディラン州将軍(本当に彼は将軍なのだ)ガデュール・ラッティカだ。
2人は、さっきの将軍の言葉から、木刀を持って、ずっと打ち合っている。しかし、ここで“打ち合っている”と書いたが、これは正確ではない。では、正確を期すとどうなるのかというと、ウェイリンの方は必死に打ちかかっているのだが、相手のラッティカの方は、ほとんど体は動いていないのだ。ゆえに、言い換えるならば、“経験の差”とでも言えるだろうか。彼が動く時といえばせいぜい、彼女が繰り出してくる剣を、軽く腕を動かすだけで払いのけてしまう、その時だけなのだから。そうやってしばらくすると、ウェイリンはとうとうヤケになってしまい、無謀にもラッティカ将軍の懐に突っ込んだ。と——―
「甘い!」
空気をびりりと震わせるような大音声を、将軍は発した。それから次の瞬間には、彼女の木刀をはじき飛ばしていた。彼女は一瞬、将軍の声に驚いて、つい、わずかに力を緩めてしまった。そこをラッティカは見逃さずにはじき飛ばしていたのだが、ウェイリンにすれば、何が起こったのか分からない、といってもよいものだ。ぽかんとしていると、後ろで水音がした。はじき飛ばされたウェイリンの木刀が、池に落ちたのだ。いきなり前触れもなく落ちてきた木刀に驚いたのか、魚が何匹かはねる音も続いて聞こえていた。
……まるで、その音が合図だったかのように、ウェイリンは、膝立ちになってへばってしまった。まだ暑くはないのだがかれこれ1時間ぶっ通しで稽古をやり、その後休みなしで実践をしていたのだから、それも無理からぬことである。しかし、そんな姫に対し、ラッティカには、全くそんな様子はない。そうしてニッコリと笑い、木刀を突きつけ、
「……これで姫様は、何度私の剣にかかったことになりましょうかな?ハッハッハ……。」
と、冗談めかして聞いた。このリンディラン州全軍を預かるこのトップはなかなか、楽天家というか、陰惨めいたところがなく、明朗家なところがあった。“姫様”は、まだハアハア肩で息をつきながら、
「……100回までは何とか数えていたけど……。あとはもう忘れちゃったわ。」
と、答える。ちなみにその“100回目”とは、もうかれこれ5年前の話である。ラッティカ将軍は、
「さようで。」
と、一つ微笑すると、木刀を置き、恭しく跪いて
「だんだんと、打ち合いの時間が長くなってきておいでです。まあ、そこはよろしいのですが、どうも最後でヤケを起こして突っ込んでしまわれる癖が抜けきらないようですが……。そこがなくなれば、もっとよくおなりあそばすかと存じます。」
と、丁重な口調で言った。「……以前にも申し上げましたが、剣とは、勝つことよりもむしろ、自身が負けないことを重視しますゆえ。」
とも続けた。
「そう……。」
ウェイリンは、ただそれだけを答えると、膝立ちになっているのにも耐えられなくなったのか、とうとう芝生にころんと仰向けに寝転んでしまった。ラッティカは、顔をしかめて、
「……姫様、お行儀が悪うございますぞ。」
と言ったが、実のところ、これを当の“姫様”に教えたのは、ほかならぬ将軍その人である。しかも、ウェイリンがまだ3歳の時に、である。……あの時は春真っ盛りで暖かくて、ついついうっかりと居眠りしてしまったが。それではっと気がついたら、閣下がものすごく厳しい顔をして睨まれて、奥様は口元に手を当ててクスクス笑い、そして主だった州官達には何とも言えない生暖かい目で見られたっけなあ……と、この時将軍は思い出していた。そして案の定、
「何よ、第一、これを教えたのはラッティカさんじゃない。」
と、不満顔で言った。ラッティカは、……覚えていて下さったのか……、と、赤面半分喜色半分でいたが、すぐにウェイリンが、
「あの後、父様達から聞いたし、あの時なぜかラッティカさんに近づけまいとしていたから。」
と、言ったことで喜びはもろくも崩れ去ってしまった。そこで将軍も、さらに思い出すことになった。はっとあの時目覚めた後、彼女の父である領主侯爵が、ものすごい形相で、
『こんなところに寝かせて、娘にもしものことがあったらどうするんだ!?冷えて風邪をひいて、そこから病になって死んだら、どこぞの不届き連中がさらっていってしまって、死なすようなことになったらどうしてくれる!?お前は今後1ヵ月間、私の許可なしに、娘の半径3フォルベイド(万国量衡にして450センチ)以内に近づくことを禁ずる!』
と、怒声を発したのだった。しかしこれは、彼の妻が夫以上に怒声を発して領主侯爵を叱りつけたことですぐに解かれることになったが。
ウェイリンは、さっきと変わらず寝転んでいた。茶色い目が、空を映している。数回瞬きしてから、
「……すごくよく晴れているわね……。」
と、ポツリとつぶやいた。それから、「……ねえ、ラッティカさんもこうして寝転んでよ。そうやって見上げているよりも楽に空が見えるわよ。そうやっていて、首が痛くならない?」
と、さらに続けてそう言った。ガデュール・ラッティカ、リンディラン州将軍は、……これで御年15におなりあそばしていて、将来はここの領主位と、侯爵家の当主位を継がれるお方なのだがな……、と、思いながらも、首の後ろをさすりながらウェイリンに言われたように、彼もまた、芝生に仰向けに寝転がる。彼女が言ったように、首筋が痛くなってきていた。
「ああ……、確かに、よく晴れておりますな……。」
と、相槌を打つ。ウェイリン、そしてラッティカの言葉通り、空はとてもよく晴れ渡っていた。雲ひとつない青空というのは、こういうものを言うのか、と感じさせるほどのものだ。今は、当代国王即位2年を迎えてすぐの、賀月19日である。今は、冬で寒い時期なのにも関わらず、二人は先ほどまで剣稽古をしていたために、あまりそうは感じられず、むしろ暖かい、そして、吹き抜ける冷たい風さえも心地よい……と感じていた。
「……そういえば……。姫様が初めて、ご自分の将来についておっしゃられた時も、このような晴れたお天気だったと、閣下から伺っております。」
と、ラッティカは言った。“姫様”は、えっ?と思って、それから州将軍の顔を凝視していた。髭をきれいにそっている彼は、片頬をゆっくりと笑みの形に緩ませて、言った。
「確か……、10年ほど前だったように存じます。」
と。
10年前の秋、ある晴れた昼のことだった。
『ウェイリン、』
と、彼女の父——ウェルティラン・テネール・ヴィンドリル、リンディラン侯爵——が、ルテティア城、領主侯爵の執務室の本を積んだり並べたりして遊んでいた5歳の娘を呼んだ。すぐに娘——ウェイリン——は、父の執務机のところまでトタトタと走っていく。そして、ウェルティランの掛けている椅子の脇まで来ると、ニコニコして、父を見上げた。
ウェルティランは、そんな娘の表情に相好を崩しつつ、
『ねえウェイリン、お前は大きくなったら、一体何になりたいんだい?』
と、優しい口調で聞いた。ウェイリンは、父親からのこのいきなりの問いに、しばらく考えこんでいた。首をかしげ、一人前に腕など組んで考えている娘に、ウェルティランは内心、
……な、何なんだこの可愛すぎる物体は……?
などと悶絶しかけながら思っていたことなど、夢中になって考えこんでいる娘に分かるわけもない。
数分後、ウェイリンは、とてもキラキラした笑顔で、
『この国の宰相!』
と、元気いっぱいな大きな声で答えた。普通ならば、5歳にしかならないような娘が、“宰相”などという普通使われないだろう言葉を知っている、なおかつそれになりたいということを褒め、おおいに喜ぶべきところだ。しかし、当のウェルティランはといえば、そうはしなかった。その答えを聞いた瞬間、彼の顔が悲しげになり、どころか肩まで落ちていた。その時のウェイリンは、どうして父がそんな顔をしているのか分からず、ただただキャッキャと、父親の無意識の百面相を楽しんで見ていただけだった。けれども、10年も経った今ならば、彼女にもそんな顔をした理由も分かっている。
つまり、ウェルティランは自分の次の侯爵位が気になっていたのだ。
なぜなのか?それは、ウェイリンが、56代、1300年近くも続いている、国内でも指折りの名門家である、ヴィンドリル=リンディラン=オブ・ルスティール侯爵総本家の一人娘だからだ。しかも、直系である。つまり、ウェルティランは自分の後を継いでくれる人を、娘のウェイリンにしようとしているのだ。
それは別段、構わないことである。このブルグリット王国では、家の後継が女性というのは、少しも珍しいことではない。それは、建国時より途絶えることなくずっと続いている名門家の一つである、ヴィンドリル侯爵家にしても、例外ではない。というのも、最高権力者たる国王にしたところで、今までの歴史上で2人、女王がいたのだから。
名門名門と繰り返して言っているが、どれくらいのものかというと、まず、領地を持っている、つまり、この国では領主貴族、と呼ばれているものに入っていることからして、それは分かるのだ。さらに、その中でも、摂政——国王が幼い、病気、さらに新王即位までの間、さらに諸事情により置かれる臨時の最高官(というよりも国王代行)——になることができる家なのだ。また、他にもそんな家が3家あり、この四家は“摂政四家”と言われ、とりわけ名門視されているのだ。
とまあ、こういうことがあったわけだ。しかし、肝心のウェイリン自身は、この時だけでこの話を忘れてしまっていた。彼女にしてみれば、あれは単なる、子どもの考え、言葉だった。そこまでなるには、10年という年月が、間にあったからこそできたことだろう。
10年……。それは何と、人の考えを変えるのにちょうどいいことこの上ない時間だろう。この10年の間に、ウェイリンはいろいろなことを聞き、かつ、学んでいた。まず、あの時なりたいと言っていた宰相、というのが、この国では、国王の印を預かるために、自然、そば近く仕えることになる国璽尚書、近衛軍トップである衛華軍大将軍とも並ぶ、ナンバースリーの位であること。そして、そのナンバースリーの位になるためには、毎年1度、このブルグリット王国王府であるランゲールで行われる、官吏採用希望者による国王への謁見を、非常に覚えめでたく済ませ、その後宮廷での働きが目ざましくなければならないのだ。
これだけならば、まだまだ受けようという気は起きていた。しかし、さらに大きなことが2つあったのだ。
この2つを知った時には、ウェイリンは愕然となったのだが、彼女の家に代表される、領主貴族の人は官吏になる必要はない、ということだ。要するに、わざわざ中央王府に行かずとも領地経営および、その補佐で一生を過ごしてもいいことになっているのだ。しかもウェイリン自身について言えば直系長子で将来万一のことがない限り絶対に、リンディラン領主位を継ぐはずだ。だから、中央王府まで行って官吏にならなくてもどうにかなってしまうものなのだ。しかし、ウェイリンの父である、ウェルティラン侯爵のように、領主貴族当主でありながら、中央王府に行って、国璽尚書副官という要職に就いていたりする人も、少ないがいる。……ともかく、領主貴族——特に当主——さらに直系に連なる者で、王府ランゲールにまで出る人は、かなり稀だということだ。
理由の2つ目としては、地方統治が大変、ということだ。このブルグリット王国では、とても珍しいことに、王権もある程度強いが実質的には地方分権制となっている。各州の統治を任されている領主1人1人には、防衛以外での理由による派兵権以外の各州におけるほとんどの政治的、軍事的権利が委譲されていたりする。だから、領主貴族達は、中央王府から派遣されてくる役人たちの言う通りにしていればいい……というわけにはいかず、いろいろなことができてしまったりするのだ。それにかまけるあまり忙しくなってしまい、中央にまで目を向けられなくなってしまうのだ。だから、当主で官吏になる者もいるにはいるのだが、たいていは途中で両方において忙しくなってしまい両立できず、中途退官してしまう人が多いのだ。
と、それらの理由があって、彼女は、中央への夢をほとんど諦めかけ、かつ、5歳の時に父親に言ったこともすっかり忘れ去っていた。しかし、ウェイリンの父、ウェルティランは違った。