イヤホンの世界観Ⅱ
店に入ると、たくさんのCDが整然と並んでいた。けれど、目指す棚は決まっている。用があるのはそこだけだ。案内を見ながら目的の棚を探す。
棚に並ぶCDを流し見て、歩いていく。所々にはCDを視聴する場所もあり、このショップおすすめのアーティストを紹介していた。
ふと、足を止める。
ヘッドフォンを付けて、視聴をする人。
爪先と頭でリズムを取り、自分の世界に迷い込む男。
本物だ。
見間違えるはずがない。
私は――奇跡だと確信した。
「あの」
後ろから声を掛けると、ハッと現実に戻ってきて、振り返った顔は驚きの表情を見せていた。
「久しぶり」
「あのときはお世話になりました」
深々と頭を下げると、頭上で微かな笑い声が落ちてきた。
「奇遇だね」
「はい、びっくりしました」
「……聴く?」
「いや、大丈夫です」
彼は画面を操作してヘッドフォンを外す。
むしろこちらが邪魔をしただろうか、と不安になっていると「今聴き終わったところだったから」と気遣われてしまった。
「最近はどう?アレが来て大変だったでしょう」
「もういつも通りです。あれから大分経ちましたし……」
彼は僅かに目を細める。
目の奥の、深いところが揺れた気がした。
「……変わり無いようでよかった。今日は何か探しに来たの?」
「はい!けど、あの、良かったらおすすめを」
絶対に買うと決めた一枚と、他に何枚か目に入ったものを買ってみようと考えていたのだ。おすすめがあるのならそれを聴いてみたいし、この人の勧めなら間違いないと思った。
「俺のおすすめでいいの?」
「はい!」
「おーけー、とっておきを選んであげよう」
嬉しそうに彼は先導し、棚の前にしゃがむ。カタカタと、人差し指でCDを順に引き出してジャケットを確認していく。
「前に聴いたCDは持ってる?」
「いえ、けどとりあえずあの曲が入っているCDを買おうとは思ってて」
「じゃあアルバムの方にしておこうか。シングルもあるしベスト版にも入っているけど、俺としてはアルバムの選曲が好きなんだ。えっと、これ」
CDを見せて彼は腕に持つ。「次はね――」と棚を移動し、同じように目当てのCDを探す。
「ここにはよく来るの?」
「いえ、たまにしか」
「そうなんだ。俺はここにはよく来るからまたおいで」
「はい。――あの、黄色いイヤホン、大事にしてます」
「本当に?それは嬉しいな」
本当に嬉しそうに彼は微笑んだ。
今も、背負ったリュックの中にプレーヤーと一緒に入っているイヤホン。ここに来る道中の電車でも、それを使って音楽を聴いていた。
「けど別にあれは良いものではないから、気に入ったのあったらちゃんとしたの買いなよ?」
「はい」
買う予定は今のところないけれど。しばらくの間、ないけれど。
彼は次々と棚からCDを出して、手に取っていく。しかし、躊躇なく何枚も取る様子に私は焦り出す。
アルバム二枚に、シングルが五枚。そんなに買うお金はない。アルバム一枚と他に数枚買えたらな、としか考えてなかったのに。
「こんなには、ちょっと……!」
慌てて止めたものの踵を返して背を向けられてしまった。何を言っても聞いてはくれなさそうで焦りが募る。そしてもう一枚、CDを取り、重ねる。
「ちょっと、あの!」
真っ黒なコートを引っ張ると、一度振り返る。その顔に張り付く表情が読めない。あえて言うのなら、その目に湛えていたのは慈しむような色だろうか。
ぽんぽん、と二回あやすように頭を叩かれて、そのままそばのレジに進んでしまった。
慌てて財布の中を確認し、なけなしのお金を出そうとするも、スッと手を前に出し制される。
「これくらいいいよ」
「これくらいっていう量じゃありません!」
「甘えなさい」
「いや、そういう問題ではなく」
「問題ない」
「ありますから!」
「いいのいいの」
と無理矢理私の手を退けて、店員に自分の財布から出した札を渡す。
そのままま背を見せて、流れるように店の外に出る。夕方の赤い日が私たちを包んだ。
立ち止まり、店を出てカバンをガサガサと漁り、一枚のCDを取り出して私に差し出した。
「はい、これ」
買ったCDの袋に重ねて渡される、知らないバンドのインディーズCD。
「丁度一枚持ってたんだ。これも貰って。何かの縁だから」
「……誰?」
「俺はボーカルじゃなくてベースなんだけどね、作詞と作曲は俺だから」
「あなた、の?」
頷く顔にはどこか照れがあるようで、笑った顔はどこか幼い。
「初めて会ったあの場所辺りでいつかライブをするから、そしたらチケットを買って聴きに来てよ。買ったCD分くらいの値段になると思うから」
CDと彼の顔を交互に見る。
反応に困っていると、彼は私の手を取って、小指を絡める。細くて骨張っている、暖かい指だった。
「約束ね」
そう、一方的に約束を取り付けられる。
「い、いいんですか……?」
「いいのいいの」
何度も何度もお礼を言うと、彼は潔く颯爽と去っていく。その後ろ姿を見えなくなるまで見送った。
コントラストの利かない灰色。
ワンルームの部屋、洗われてない一人分の食器、物の少ない冷たい空間。
きっとあの人は気付いていたに違いない。
アレがあって尚、元の生活に戻るなんて有り得ないのだ。私の強がりを分かって、それでいて受け入れて、優しくしてくれたんだ。
袋に入った7枚のCD。
プレーヤーに差しっぱなしのイヤホン。
色んな物がない交ぜになった感情を、ため息にして吐き出す。
二年前、黄色いイヤホンをつつかれたことを思い出した。
落ち着いて。
曲を聴いて。
あの人は、あのときと変わらず同じことを言う。
きっとこの場にいても同じことをするだろう。CDを出して勝手にかけることも有り得る。
優しい人なんだ。
強い人なんだ。
年期の入った銀色のCDプレーヤーに、今しがた買ってもらったCDを入れる。目当ての曲に合わせて再生を押すと、小窓からCDが回っているのが見えた。
例え世界が灰色でも、黄色いイヤホンを見失いはしない。
弾けるような黄色い音。
ここから青い世界に飛び込むのだ。
イヤホンに耳を傾けて、浸るように、漂うように、泡のように曲の中へ沈んでいく。
深く深く、底へと。