イヤホンの世界観Ⅰ
どれだけ地面を見てもただ灰色が広がっているだけで、面白味も新しい発見も無い。けれど顔を上げるよりはそうしている方が幾分かはましだ。
アレが起きて、この閉鎖空間に閉じ込められた。
ここにいるのは老若男女の入り交じる三十人程の人達。その一部が今も声を荒げて言い争っている。
もうアレが起きてから五時間ほど経っただろうか。
なんか、嫌だな。
こんなときに、人間の浅ましさは露見する。
俺は□□企業の社長なんだ。お前ら食べ物をさっさと出せ!
社長だからなによ今は皆同じ立場でしょう!?
社会に貢献もしていないクズが。こんなときくらい俺を敬え!
いつまで続くか分からないこの状況に、皆のストレスもピークに近付きつつあるらしい。ずっと黙っていた少女の母親も、今やそのいさかいに参加して、少女はそれを心苦しく思いながら見ていた。
子供がいるのよ?黙ってよ!あなた達、弱者を労る気持ちも無いわけ!?
耳馴染みの深い母親の声は、何より少女の耳に響く。母親のそんな姿を見たくなくて、母親の服の裾を引いたが母親は取り合ってくれない。
あなたは何も言わなくて良いから。あなたが大切なの。あなたの為なの。
いつもの優しい笑顔も、今は歪んで見える。
そうして母親は目線を少女から目の前でふんぞり返る男に向けた。
どこか遠退いてしまった母親に少女は何も言えず、その場に佇む。
見ようと思わなくても耳に入る声。耳を塞いでも肌を震わせる怒号。
少女は乱された感情をため息にして静かに吐き出す。
苦しいと、唯一弱音を吐ける相手も近くて遠いところに行ってしまった。
だから、ただ灰色を見下ろして時間が過ぎるのを待っていた。
何か方法は無いのかよ!お前も何か考えろ!
どこかの社長だという男の標的が、壁に寄りかかる少年に向く。
カーキ色のパンツに、白いだぼついたパーカーを着て、ファスナーを上まで締めて口許を隠している。耳にはイヤホンをしていて、その黄色が印象的だった。
話によると彼は十九歳の学生らしい。学校の帰り道にアレに巻き込まれたという。
呼び掛けられた少年はゆっくりと片目を開ける。
「何か、とは」
同じくゆっくりとした、それでいて通る声色。
声を聞いた男はその一言で逆上した。
何かじゃねーんだよ!状況見て分かるだろうが!
男の声が熱を持って少年に降りかかる。
「考え付いたら、言います」
話にならないとでも言うように忌々しげに舌打ちをして、男はまた文句の言い合いに戻る。
これだからゆとりは。普段から脳ミソ使ってないから、何にも考え付かねーんだよ!そうやって下らない音楽を聴いていつまでも現実逃避してりゃあいい!
吐き捨てた言葉は、少年に届いたのか届いてないのか。
再び少年は目を閉じる。肩が静かに上下して、大きく息を吐いたのが分かった。
あの人は、あの人ならば。
少女は地面から顔を上げ、真っ直ぐに少年の元へと歩みを進めた。
壁に体重を預け、少し上を向いてイヤホンに耳を傾ける少年。
「ねぇ、何を聴いているの?」
「……え?ごめん何か言った?」
先程と変わらず、ゆったりとした優しい声音で少年は少女に問う。
「何、聴いてるの!」
少年は壁から身体を離して、少女と同じ目線になるようにしゃがむ。
「一緒に聴く?」
柔らかく頬を弛ませて、黄色いイヤホンを少女に差し出す。
少女はそれを右耳に付けた。
意外、だ。
流れてきたのは何てことはない普通の曲。丁度サビが始まったところだった。聞き覚えがあるので、もしかしたらCMかドラマに使われていた曲なのかもしれない。
てっきり、こんなときだから落ち着くために静かな曲か、激しい曲で周りの音を聞こえないようにしているのかと思ってたのに。
聞けば、彼の好きなロックバンドなのだという。
海に漂っているようなメロディーに、ハイトーンボイスの歌詞が乗る。たゆたうような歌声は、少女の心を凪いでいく。
「この曲、好き」
そう、と少年は微笑む。少女は母親のいつもの笑顔をその顔の向こうに重ねた。
久々に、自分を取り戻せたような気がした。
「どうにかしたい思いは同じなんだけどね」
少女だけに聴こえる声で、少年は言う。
「こんなときだからこそ、自分を無くしたらいけないと思うんだ」
真っ直ぐな、はっきりとした輝きの灯る瞳。
「選択を迫られたときに、正当な判断が出来なくなりそうだから」
その言葉は、少女に言っているというよりも、自分に言い聞かせているような物言いだった。
「またいつアレが来るか分からないし」
想像しただけで、恐怖心が襲う。腕に鳥肌が立って、肌をさする。少年は少女のイヤホンを指差した。
曲を聴いて。
落ち着いて。
そう言っているのが分かった。
少年はここにいる誰よりも現実をちゃんと見据えているらしい。
いつなにが起きてもいいように、感情に揺さぶられないように、何かが起きたときに間違いを犯さないように。
現実から逃げるのではなく、現実を見るために。
いつもと同じ精神を保つために、いつもと同じ音楽を聴く。
曲が変わった。
アルバムなのだろう、先程と同じ声が聴こえた。さっきよりもふわふわとして、それでいてテンポの速い曲。
「ありがとう。もう少し聴いていてもいい?」
「いいよ。このまま半分こしていよう」
少女は少年の隣に立ち、壁に寄りかかる。
少年は少女の隣に座り、壁に寄りかかる。
少年と少女は同じ旋律に耳を傾ける。
黄色いイヤホンが、二人を繋いでいた。