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事故

 「ハァハァハァ」

激しい息遣いが早朝の空気に溶け込む。

その朝、いつになくサイクルジャージで走りこむ美空の姿があった。

通常のコースとは違う新興住宅地を走っていた。山を切り開いて作られた住宅地は、閑静で環境はいいものの、坂道がきつかった。

「申し込みがギリギリセーフだったのよ」

数日前、さとみはそう言って勝手に参加申し込みしたことを弁解した。悩んでいるうちに定員締め切りになったらせっかくのチャンスを逃してしまうからと、さとみなりの配慮だ。

 美空の普段のルートは自宅近辺の十数キロ圏内。勾配も大したことはない。

 だが今日は杏奈の彼氏のアドバイスで、少し離れた新興住宅地までやってきた。住宅地の中央を抜ける通りは登りがきつい。距離は500メートルほどだが、その道を何度も行き来すれば、効果的な練習になるのだという。登っては降りての繰り返し。登りでくだくたになっても、下りで回復できる。こういったインターバルトレーニングは無理なく体力を付けられるらしい。

 早朝から何度も同じ自転車が行き来するのを付近の住民が怪しみだした頃に別の場所へ移動する。深夜ほどでは無いが早朝に住宅街をウロウロしていると警察を呼ばれることがある。以前は写真を撮っていただけなのに、パトカーに張り付かれたこともあるので、美空は程々のところで場所を変える。

そんなことを数日繰り返していたが、もっと練習時間が必要だと感じた。レースまでそう時間がない。日の出も遅くなってきていて、朝の練習時間もそうはとれない。

 方法はひとつ、通勤も自転車にすることにした。会社まで自転車道を通れば安全に行くことができるが、美空は敢て遠回りのコースを選んだ。アップダウンが多く練習にはなるし、2~5%ほどの斜度が続く道もある。距離はおおよそ30キロ。ちょっと距離はあるが早朝練習の延長だと思えばそれほどの負担にはならないだろう。帰りはレース日までの限定なら、まだ日のあるうちに帰ることが出来る。

 その翌日、さっそく弁当だけ作ると、朝食は簡単に済ませて自転車を出す。心配して見送る母に元気に挨拶して走りだした。ブラウスとスカートとパンプスは昨日のうちに会社に置いてきた。リュックの中にタオルと制汗剤に替えの下着が入っている。

 早朝はだいぶ涼しくなったとはいえ、1時間以上走れば汗だらけになる。予定したコースを自転車で走るのは始めてだが車では何度か通って道は知っている。数日間の練習は効果があったようだ。自転車は快調に進む。程よい斜度の坂道も短い距離とはいえ、アベレージ10km/hほどで駆け抜けることが出来た。そのペースで15km走ることが出来ればレースも制限時間内で完走することができる。

 優勝は無理としても最低限の目標だった。

走りながら笑みがこぼれる。いけるかも知れない。無理だとはわかっていても優勝台に登った自分の姿を夢想していた。


 「へ~これが早水さんの自転車なの」

 昼休みに会社の駐車場の1画に数人の女子社員が集まっていた。みな熱い溜息をついて美空の自転車を眺めている。80キロ近くあった美空の体重はすでに60キロを切ろうとしていた。外観の変化はそれ以上、ただ痩せただけではなく引き締まった健康体。だれしも感心するその変化に、その自転車はすでに神格化すらされていて、女子社員の多くは美空本人ではなく自転車に感心を寄せていた。

 「へ~それがあんたのなの」

 小馬鹿にしたような声で駐車場に怜子があらわれた。もちろん手下が影のようについてくる。亜美のブログ事件以来すっかりおとなしくなっていたのだが、また最近以前の鬱陶しさを取り戻してきていた。心のなかで美空は舌打ちした。自転車通勤願いを出していないことに突っ込まれるかもしれない。

 「ちょっと失礼」

 自転車を触っていた女子の間に割って入りスカートのままフレームをまたいでサドルに座った。「ひゅぅ」と二階のベランダから観ていた男性社員が口笛を吹いてニヤついている。そんなこともお構いなしに「私より身長あるのにサドル低いのね」と憎まれ口を叩く。

 「わたし。脚が短いから」

 美空はさり気なくかわそうとしたつもりでそう言ったが、怜子は馬鹿にされてるとったらしい。むっとして自転車を漕ぎだすと社の玄関に向かって走りだした。

 「ちょっと待って、どこいくの」

 慌ててそれを追いかける美空。

 「少し貸しなさいよ。大丈夫、あんたよりうまいから」

 怜子は振り返りざまに叫ぶと、左右確認もろくにせずに車道へと飛び出した。

 「もう、怜子ったら」

 冷や汗をかきながら全力で追いかける。すぐ後に手下が、少し遅れてさとみも追いかけてくる。会社の前の道りは本通りから外れてはいるためそれほど交通量は多くない。その道を怜子は軽快に加速していった。かなり必死な様子が伺えるものの、その速度はスポーツバイクを初めて乗るようには見えなかった。

 だが無理しているのは、ペダルを踏むたびに左右に大きく揺れる車体で一目瞭然だ。

怜子の脇を白いプリウスが通り過ぎる。ウインカーを出したかと思うとすぐにハンドルを切った。怜子の目の前を塞ぐ形でプリウスが左折した。怜子があわててブレーキをかける。後輪がロックして滑りだす。とっさの判断だったのだろう、怜子の手が目の前の街灯のポールをつかんだ。自転車から体が離れる。主を失った自転車はそのまま倒れながら左折しているプリウスに突っ込んでいった。プリウスの下で耳障りな音がした。

 「怜子!」

 必死に走って駆けつける美空。近くにいた人たちが集まってくる中、怜子の様子を見る。とっさに掴んだポールはすぐに離したが、勢いづいて倒れこんだため腕や足に軽い擦り傷があった。数分後、泣きわめいている怜子を、プリウスのドライバーが呼んだ救急車が運んでいった。

 車が移動した後に残された自転車を見て美空は愕然とした。言葉も出ないまま立ち尽くす美空の肩に、追い付いてきたさとみが慰めるように手をおいた。


会社に戻ると、社内では事故の連絡を受けて騒然としていた。

 怜子の怪我は軽くて済んだものの、無許可で自転車通勤したうえに、その自転車で同僚が事故を起こした。美空は上司に激しい叱責を受けた。

 さらに退社後に怜子の見舞いに行った時、「傷が残ったらどうしてくれるの」とさんざ嫌味を言われた。勝手に乗ったのは自分なのに、と言いたかったが、反論する気力さえ美空には無かった。

「気にすること無いって。怜子が悪いんだもの、いざとなったら裁判でもなんでも決着つけなさいよ」

 車で美空を自宅まで送りながら、さとみが元気づけるように声を掛けたが、美空はただ頷くだけしかできなかった。


「こいつは無理だよ美空ちゃん」

ヤシロ自転車店の店主が渋い顔付きで話すのを、ふたりは

黙って聞いていた。

 事故のあと、すぐに電話して事故車を引き取りに来てもらったのだ。現場検証の終わるのを待って引き上げた自転車は無残な姿であった。今、ふたりの目の前にある自転車は今朝まで快調に走りまくっていたものだった。それが今やフレームが折れ、ホイールは曲がり、変速機は潰れていた。車の下に滑り込んで潰されたのだからまともであるわけがない。

「手のつけようがないよ。仮に直ったとしても、どこかに歪みがでて走りに影響するし、強度が落ちてるからいつ壊れるかわからんよ」

「そんな」

「まあ、悪いことは言わない。新しいの買ったほうがいいよ」

やさしく声をかける店主の言葉にも、肩を落として何も答えられない美空であった。


「気を落とさないでね美空ちゃん」

「あの自転車はね」

さとみの運転で自宅へと向かう途中で、ようやく口を開いた美空。「あの人と一緒に走るために買った自転車だから。それから毎日の様にふたりで一緒に走ったの」

「うんうん、思い出いっぱい詰まってるよね」

 もちろん思い出は大事だ。自転車を買って以来、さとみを始めいろんな人と親しくなった。自分も変われた。体型だけでなく中身も。今の自分が気に入っていた。そう、この自転車は自分にとってのラッキーアイテムなのだと美空は思った。それを失うことはまた以前の自分に逆戻りしそうな、そんな不安もあるのだと、とぎれとぎれに話す。

「そうかそれはわかる。私にとっても今の自転車はそんな感じかも。でもね美空ちゃん。あなたが変われたのは自転車のせいかもしれないけど、それは単なるきっかけで今のあなたが本当の自分なんだと思うよ。たとえ自転車がなくなってもあなたはそのままだし、私の・・・いえ、廻りのみんなのあなたに対する気持ちも変わらないから」

「今のあたしが本当の自分?」

「そうだよ。まさに一皮むけた感じ、いや、ひと殻かな」

そう言って笑うさとみにつられてようやく美空が笑顔をみせた。

「もうレースまで間もないよ。自転車どうするの。今の時期じゃ入れるの難しいって、おじさん言ってたよ」

 自転車目メーカーの多くは秋から年明けにかけてニューモデルを出してくる。今の時期、今年のモデルは店頭在庫しか手に入らなくなるのだ。人気モデルは在庫がない場合が多い。残っているのでも色やサイズは限られてくる。美空に合うサイズはそう多くないかもしれない、ただし残っていれば安く買えるチャンスでもあるのだ。

「わかってる。明日には考えるから今日のところはちょっと落ち込ませてね」

「わかった」

せいいっぱいの笑顔を作って答える美空に頷くさとみ。美空を送り届けて帰っていくのをいつまでも見送っていた。

 「ただいま」

 美空は気丈に明るく振舞って家に入った。


その夜、トイレに起きた美空の父親が仏壇のある部屋を通るときに何か違和感を感じた。仏壇に近寄ると、不釣り合いなものが置いてあるのに気がついた。金属の塊、潰れた自転車のリヤディレーラーが仏壇の中央にあった。燃え尽きた線香の灰と金属の塊を、父親は不思議そうに見つめていた。線香の香りがほんのり室内に漂っていた。


「早水さんに合うサイズは今少ないですよ」

 事故の翌日に早速杏奈の彼の店に寄って相談したが、色よい返事は聞かれなかった。ヤシロ自転車店でも、イズミサイクルでも、納車まで2週間はかかるといわれてここまで来たのだ。ニューモデルが店頭に揃うのはまだ先の話だ。すぐに手に入れるとすれば旧モデルだがサイズは少ない。

「女性用の自転車を力入れてるメーカーもあるし、サイズも今は豊富なんですが時期が時期だけに・・・・」

彼は申し訳なさそうに説明していた。

「それでもお勧めあるんじゃないの?だしてあげてよ」

杏奈は彼に気を使わずに話す。彼が困ったような顔をして答える。

「ヒルクライム用ですよね。それほどきつい峠じゃないので普通のアルミのエントリーモデルでも十分だと思います。そうですねぇオススメは・・・」

彼は店内を見回して考えこんだ。

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