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ヒメジョオン

ベットから降りてスニーカーを履き、2,3歩跳ねるように歩いてみる。痛みを感じたのか少し顔を歪めるが、そのまま病室を出て廊下を早足で歩く。途端に激痛が走って転びそうになるのをなんとか立て直す。

「ちょっと拓雄くん。どこいくの」

呼ばれて立ち止まった拓雄。振り向くと会社の年配の女性事務員、石原直子がいた。

「石原さん。こんにちは。いや、ちょっと歩く練習を・・・・」

頭を掻きながら答える拓雄、それほどマズイ場面を見られたわけでもないだろうに、妙におどおどした様子だ。

「退院の許可は出たけど、まだ当分はおとなしくするように言われたでしょう。だから社長は心配して迎えに行けってうるさく言ったのよ」

 石原はゆっくりと近づいて我が子を叱るように話しかけた。

「社長が?」

「そうよ。大事な社員を出向中に怪我させてしまったって凄い気にしてて、むこうの工場長にも謝ってたんだから」

話しながら病室に向かう石原。拓雄も後に続いていく。

「準備はできてるようね。ああ、いいわ荷物持ってあげるから、けが人はおとなしくしてなさい」

そう言うと石原は手際よく荷物をまとめるとひょいと背中にまわした。拓雄は母に連れられた幼い子どものように後についていく。松葉杖をついて。

「だいぶいいようね」拓雄の足取りを見ながら桜木が言った「もっともあの事故で腰のヒビや足の骨折程度で済んだのは運が良かったよ。近くのお店の人が、君の事故をたまたま見てたんだけど、絶対ダメだと思って腰抜かしたって」

「はあ、そうですか」

「言ってたわよ。10メートルぐらい空に跳ね上がったんだって」

車に荷物を詰めながら面白そうに話す。いくらなんでも大げさだろうといった表情の拓雄。しかし跳ね上がった瞬間は、自分でも終わりの予感がしただけに黙っていた。

 普段なら前方の車の挙動など読むのは習慣づいている。危険を避け、注意深く走るのには慣れていた。普段なら携帯で通話中のドライバーなど五台先を走っていても気づくはずだ。ーーまさか目前まで気づかないなんてーーどこか浮かれていた。そう思った。そしてその原因が何かってこともーー

 「ほぅら、さっさと乗る」

 石原はすでに荷物を積み込み乗車していた。あわてて乗り込む拓雄。

「でも社長には感謝しなさいよ。あなたの事故は労災扱いにしてくれたんだから。帰り道、アパートと反対側に行ったでしょ。本当はダメなのよ。だけど社長が労災扱いにしろってうるさかったのよ」

「すみません」入院中にそれは聞いていた。自分の勝手で事故にあったのだからと辞退したものの、社長は引かなかった。拓雄は社長の温情に心から感謝した。

 「まあいいのよ。そういう社長だし」

 車は市内の高台にある病院からまっすぐアパートへ向かう。近道をしようと細い抜け道に入る。

 「当分はこっちで内勤でもしてなさいって。怪我が治らないまま向こうへ戻すのが心苦しいのよ社長は」

「いえ、ぼくはそんな気にしませんよ」

「ダメよ。なんか使うだけ使って、ポンコツになったから戻すみたいな感じじゃない。本社の人間は鬼かって、思われそうじゃない。あたし達もそんな思われるのいやだから。とにかく年内はこっちにいなさいよ」真顔で答える石原。「とにかく社長命令だから」と、付け加えてたあと、あらいやだ、声をあげた。

 対向車が来ていた。石原の運転するのは会社の軽自動車だが、むこうは大きなミニバンである。道幅は狭く、すれ違いは厳しい。じゃまだと言わんばかりの目で睨むミニバンの運転手に、むっとした顔を見せてから、石原は道幅ギリギリに車を寄せて停車する。ミニバンが通り過ぎるときに睨みをきかせるのを忘れない。

そんな石原の様子を見て忍び笑う拓雄。車を寄せすぎて土手から落ちないかと気になって窓の下を見てハッとする。

 「ちょっと待って下さい」

 車を発進させてようとした石原があわててブレーキを踏み直す。

「ちょっとなに?」

その言葉に答えず、拓雄はドアを開けて車を降りようとしていた。路肩ギリギリに寄せたため、不安げな足取りで車にへばりつくようにして降りた。土手の向こう側に降りて道端の花を見つめていた。

黄色に白のコントラストが映える小さな花だった。

「なあんだ。ヒメジョオンじゃない。その花がどうかしたの」

「え?ハルシオンでしょ」

「似てるけど違うわ。春に咲くから春紫苑。これは夏から秋まで咲く姫女苑なの」

車の窓を開けて説明する。ハルジオンのほうが花びらが細いの。男の人は知らないよね、と少し呆れた顔をした。

「でも春紫苑って名前を知ってただけ偉いかな。誰に教わったの?」

「ああ、むこうの友達が・・・」

「さては向こうに置いてきた彼女かな」

「ああ、いやそんなんじゃないですけど」

「やっぱり女の人なのね」

それには答えず黙りこむ拓雄を見て石原は確信したようだ。

「それを春紫苑だと思いこんで、見かけるたびに彼女のことを思い出していたわけね」

「まさか。こっちへ来てから初めて見たんですよ」

あわてて否定する拓雄。

「そうか男の子だからいちいち花なんか気に留めないものね」石原はぼんやりと花を眺める拓雄を見て「でも大変ね、この花、この辺じゃ秋・・・いや11月くらいまで咲いてるのよ。毎年毎年、春から初冬まで彼女のこと思い出しちゃうんじゃないの。なにがあったか知らないけど、戻ったら真っ先に会いに行きなさいよ。早く向こうに戻れるように私から社長に言ってあげるから」

窓から首を出して慰めるように話す。その言葉に答えず拓雄は花を眺めていた。ふたつの違いを見定めるかのように。


郊外の拓雄のアパートに着くと出迎えてくれたのは拓雄の新しい自転車だった。部屋の中央に綺麗に磨かれてスタンドに立てかけてあった。

 石原は拓雄を降ろすと、今週いっぱいは自宅で静養するように、と社長の伝言だけ伝えてさっさと社に戻っていった。ひとりになった拓雄は自転車の前に腰を下ろすとフレームを撫でる。真新しい自転車は傷ひとつ無い。カーボンフレームは衝撃に弱い。救急車で運ばれるときに見た限りでは、フロントフォークやホイールを交換すれば済むかと思っていたが、自転車屋に言わせれば全損なのだ。保険も効くから、この際に上のクラスに買い換えるように勧められた。より軽量のフルカーボン車。新型の試乗記も雑誌で見る限りなかなかのものらしかった。

 だが今、目の前にあるのはクロモリフレームの自転車だ。フレーム接合部のラグのメッキが美しい。羽を象った”C”のロゴマークが魅惑的だ。一時期の勢いこそないもののイタリアの有名ブランドの名品だ。


 ーークロモリもいいよね。いちど乗ってみたいねーー

 そんなことを何かの折に引っ越して来てから世話になっている自転車屋の店員に話したことがあった。

「大阪に完成車が一台ある」

事故の知らせを聞いて見舞いに来た店員がその話を思い出して話してくれた。運良くサイズも合っていた。オーダーしても数ヶ月かかるため、いい機会かと購入する流れになった。

すぐにでも走り出したい拓雄だったがさすがに松葉杖がいるようでは無理があった。数週間も自転車に乗れないもどかしさ。組み上げられたばかりの自転車を前におとなしくしているとは拷問に近い。

 自転車の主要部分であるブレーキからクランク、変速機のコンボも今度はイタリア製だ。その性能差をすぐにも体感したかった。せめて仕事をしていれば気が紛れるのに拓雄は思った。

 しかたなく、持ってきた荷物の整理を簡単にすませてから、自転車関係の雑誌を眺め始めた。何度も読んだ雑誌だ。すぐに飽きて放り出す。パソコンの電源を入れてメールをチェックする。ほとんどが携帯でのやり取りで済んでいる。PCのメーラーにはDMかスパムのたぐいしか入っていない。

 電源を切りかけてから、ふと思いついて時折覗いていたブログを開く。自転車関係のブログだ。岡山に引っ越してきた当初は知り合いのいない寂しさから自転車関連や地元のブログをよく見たものであった。自分でもブログを始めてみたが性に合わないのか続くことはなかった。そのうち仕事も忙しくなり、時間があれば見知らぬ道を自転車で走り回る日が続いて、そんなブログを覗くこともなくなっていた。

 久しぶりに自分のブログでも更新しようかと思ったがパスワードさえ忘れていてログインすら出来なかった。パスワードの確認もめんどうなので、自分のは放っておいて、他の人のブログを見はじめた。

 いろんな人達の自転車日記。新車の乗り心地、走った場所、出会った人達、新しい部品の感想、トラブルや事故、そしてダイエット。それぞれの人が様々な場所でいろんな自転車に乗っている。

いくつか眺めているうちにふと目が止まったブログが有った。アクセスが異様に多く、上位にランクされて注目されていた。興味を持って開いてみる。

「ああ、これは」

 拓雄は少なからず驚いてしばらくそのブログに見入った。



 「あら、会社の人なの」

 休日、気になって亜美の自宅を尋ねた美空に、母親であろう、少しおっとりした感じの女性が玄関口に出てきて言った。

「あら、ごめんなさいね。あの子ったら何日も休んじゃってね。今呼んでくるわね」

そう恥ずかしげに言って奥に行きかけたところへ亜美が出てきて母親の前に立ちふさがった。

 そしてゆっくりと美空に視線を移した。美空は思い切り体を縮めて「こんにちは」と消え入りそうな声で挨拶した。


 普段着らしいロングスカートにTシャツ、その上にストールだけ羽織って足早に歩く亜美。そのやや後をついていく美空。ふたりとも押し黙ったままだった。美空は話しかけるきっかけをつかめないでいた。

「メールをくれたのはあなた?」

亜美がようやく口を開いた。

「あの、あれはさとみ・・・いえ、榊枝さんが」

美空を一瞥して「そう」と言ったきり亜美は歩みを止めなかった。

「あの、違いますよ。榊枝さんは誰がいたずらしたか突き止めて、パスワードを聞き出してあなたに教えてあげたんです。すごかったんです本当に」

「わかってるわよ。どうせあいつの仕業でしょう。あたしを嫌ってるから」

うつむいて自虐的に笑ってから「でもありがとう」と付け加えた。

「会社、行かないんですか」

「みんなに知られちゃったんでしょ」

「いいえ、私と榊枝さん、それに怜子と彼女の部署の女の子だけ・・・・・だと思います」

亜美はそれを聞いて、ちょっと安心したような表情を見せた後、静かに話しだした

「あなたがうらやましかったのよ」

「え、私がですか」

「いい男に出会って、自転車を始めてどんどん痩せていって、性格も明るくなって、仕事もできるようになり、自信もつけてきた。自分でもそんな経験したくて、ついブログで自分の体験のように書いてみたの」

 亜美の告白に驚いて美空は何と言っていいのかわからず首をこくこくして頷くだけだった

「そしたらね、意外と反響があって、いろんな人がアクセスしてきて応援のコメントくれるようになったの。それで、ついつい続けることになってしまったってわけ」吐き出すように話し続ける亜美。「それまでは仕事の愚痴とか、つまらないことしか書いてなかったからアクセスもコメントも殆ど無かったのに・・・・バカみたいだけどうれしくて」

「なんか、それわかります。私のブログも似たようなものでした。やめちゃったけど」

「それからあなたの言動には注意したわ。ネタを拾わなきゃってね。直接聞くわけに行かないから大変だった」亜美は自嘲気味に笑うと「ここしばらく何も聞けなかったでしょう。それで書くことがなくって困ってたの。そこへ怜子が来てあなたのことを連中と話してたの。ちょっとおかしいなと感じないでもなかったけど、ネタが無かったし飛びついちゃった。馬鹿だよねぇあたし」

「でも、あれは怜子が悪いんですよ。もともとブログを荒らすように煽ったのも彼女だし」

「それ、どういうこと?」と訊く亜美に事の顛末を話した。

「なるほど。そこまでするんだ。いつかシステム課に怒鳴り込んだ時のことがよほど悔しかったようね。他の社員がいる前でメソメソ泣く振りまでするんだから、余計に頭にきちゃって怒鳴りつけてやったから。まあ、今から思うとちょっと言いすぎだったかもね」

「そういえばブログは閉鎖しないんですか?パスワードが間違っていたとか」

「教えてもらったパスワードは合ってた。すぐに閉鎖しようとしたけど思いとどまったの」

「どうして」

「一人だけ応援してくれる人がいたの。事情はわからないけど、こんなことにめげないで頑張ってって書いてあったの」

亜美は急に朗らかな表情になってそう言った。

「やさしい人ですね」

「自転車は楽しい乗り物だから続けてくださいって、そんなことも書いてあったわ。私は自転車に乗ったこともないのにね。それまではいっそ会社も辞めようかと考えてたりしたけど」

「ええ、駄目ですよそんな」

「安心して辞めないから。あんた一人じゃ心配だし。明日からちゃんと行くから。たとえ誰かに何か言われたとしても気にしないことにしたわ」

美空はホッとした。その様子を見て「戻りましょ」と亜美は声をかけて踵を返した。

亜美の家に戻り、止めておいた自転車にまたがると亜美は真剣な顔つきで自転車を眺めていた。

「これがあなたの相棒ってわけなのね」

 亜美は遠慮がちにハンドルに触れ、感心したように言った。

その時、美空はふと軒下に駐めてある自転車に目を留めた。ホームセンターの廉価シティサイクルであることはすぐにわかった。

「弟のなの、通学用」美空の視線に気づいて話す亜美。

「そうだちょっとサイクリングしませんか」

 美空の突然の提案に、亜美は戸惑うような顔をした。


亜美の自宅から西に少し行ったところ。分譲地になるのか建売にするのか、整地と道路整備はできているものの、ひっそりして人気のない場所があった。

「自転車に乗ったこと無いの」という亜美を練習するため無理に連れだした美空。汚れてもいいようなパンツに着替えさせて、亜美の弟の自転車を引っ張りだしてきた。

サドルを低くしてペダルは漕がずに足で蹴りながら進んでバランス感覚をつかむという、初心者のためのオーソドックスな方法を試すのだった。

「本当はペダル取り外しちゃうとやりやすいんだけど」

 足で蹴って進むたびに、回転したペダルが足に当たって乗りづらそうであるが、美空は工具を持っていないし、外した経験も無かった。

 なかなか真っ直ぐに進めず、右に左によろけながら音を上げそうになる亜美を何度も励まして練習は続いた。1時間ほどでかなり乗れるようになった。亜美に笑顔が浮かぶ。軽い下り勾配を利用してハンドルやブレーキを操作する。いつのまにか亜美がペダルに足を乗せているのに美空は気づいた。

「回してみて、ペダル」

 美空の声に亜美は一瞬躊躇したようだが、次の瞬間思ペダルを踏みこんだ。自転車が速度を上げて進んでいく。亜美の顔が紅潮する。

「あは、進んだよ。乗れたよ私」

亜美の高ぶった声があたりに響く。近所の小学生がふたり、その様子を遠巻きに不思議そうな顔で見ていた。


「慣れたらサドルは上げたほうが乗りやすいですから」

 美空は理想の高さを簡単に説明した。亜美の表情は弾んでいた。乗れないと決めてかかっていた自転車に、ほんの小一時間ほどの練習で乗りこなすことができたのだから。

 行くときは引いていった自転車を、帰りはゆっくりながらも乗りこなしてきたのだから。その興奮はまだ冷めず、自宅に戻ると亜美の母親が表で草花の手入れをしていた。怪我もせず自転車に乗って帰ってきた娘を見て驚いていた。

「私、自転車乗れたよ」と明るい顔で報告する娘に母親は笑顔でよかったねとだけ答えた。久しぶりに見る娘の明るい笑顔に喜んでいた。

会社では絶対に見かけたことのない亜美の様子に美空は驚いた。

「じゃあお祝いにあなたの自転車を買ってあげようかね」

そう言って喜ぶ母親に「自分で好きなの買うわよ」と答える亜美。さらに美空の方を振り向き、

「ありがとう早水さん。もしかしたら私、本当に自転車ブログ始めるかも」

と息を弾ませて話す。

「はい、その時は教えて下さい。コメント入れますね」

 庭先が明るい笑いで包まれた。


 翌日、少し早めに出社した美空はそっと総務課のドアを開けて亜美の姿を認めて胸をなでおろし、ゆっくりと息を吐いた。亜美はすでに出社していた。

「おはよう。昨日は世話になったわね。迷惑かけたけど今日から頑張るから」

 すでに未決の書類をチェックして、その日の準備をしていた亜美はにっこり笑って美空に声を掛けた。

 休んでる間の仕事の進行について聞かれて、そばに寄って書類を見ながら説明する美空。以前なら1メートルは距離をとらなければ話も出来なかったが、今はピッタリと寄り添うようにして説明していた。

「あら、ブログ見てたんですか」

 パソコンの画面に気付いて美空が訊いた。

「ああ、そうなの。書類をチェックする前にちょっと・・・・・勤務時間外だから見逃してね」

そう答える亜美のひとひとつの言い方が柔らかくなっていた。

「昨夜ね、今まで嘘ついていた事をブログで正直に書いたの。そして今まで自転車乗れなかったけど、練習して初めて乗れたことも。それでどんなコメントが入ってるか気になってさっき覗いたの。ほら、これが昨日話した人よ」

 亜美はカーソルを移動させて一人のコメントを指した。

「へ~これがあのやさしい人」

 興味をもって画面を見た美空の顔が突然固まった。

 

『正直に書いたのはすごく勇気がいったと思います。尊敬します。はじめて乗れた自転車は気持ちよかったでしょう。自転車は楽しいから、これからもどんどん乗ってください。世界が広がりますよ。応援してます。 TAKUO』

 

つたない文章だ。美空が気になったのは最後の文字列だ。TAKUOーー拓雄?

 声を失ってる美空を不思議そうな顔で亜美は眺めていた。


「なにそれ、自分で書いたのその文字」

 4月の中頃だったか、新しい自転車にも慣れて、そこそこの坂も上れるようになった美空を拓雄が近くのダムまで連れだした時のことだった。ようやくダムまで登りきり一休みしたあと、拓雄の自転車を眺めながら美空が聞いたのだった。

拓雄の自転車のダウンチューブには大きな文字でアルファベットが並んでいた。

「何言ってんだよ。これはメーカーのロゴ。KUOTA、クォータ。俺の名はTAKUO、タクオだ」

「ああ、そうか並びが違うんだアナグラムになるわけだ。だからこの自転車買ったの?」

「そういうわけじゃないけど」

口角を曲げて不服そうに話す。

「そうね、あんたに合うとすればO・TA・KUーーーオタクとかね」

うまいことを言ったつもりでケタケタ笑う美空になにか言いかけて押し黙る拓雄。機嫌をそこねたわけではない、言い返す言葉が見つからなくて黙っただけであることは美空にはわかっていた。

「あのな、このバイクはな・・・・」

 ようやく拓雄が口を開いた時には美空はすでに自転車にまたがっていた。また自転車のウンチクが始まるのを見越して逃げるように走りはじめた。またか、と言った表情で拓雄が舌打ちしながらすぐに追ってきた。

全国に同じメーカーの自転車に乗る人はどのぐらい居るのだろう。そしてその中にタクオって名前の人は・・・・

 ぼんやり考えていた美空の顔をみて「ちょっとどうしたの、大丈夫?」と亜美が不審げな顔で声を掛けた。

 「よう、今日は来たのか。体はいいのか」

 その時、男性社員が数人はいってきて亜美に声を掛けた。

明るく挨拶をかえす亜美。美空はあわてて自分の席に戻った。


「あるかもね」

 さとみは昼食のサンドイッチを頬張り、頷きながら言った。

亜美にはごまかしたものの、書き込みが拓雄のものではないかとの疑念が消えず、美空はさとみに顛末を話した。

「でも同じ名前ってだけかも。自転車も人気あるメーカーだし」

「確証がほしいわね」

 宙を見ながらつぶやくさとみ。何事か考えているようだ。と、いきなり残りのサンドイッチを口に放り込むように一気にたいらげた。自転車を始めてから、さとみの仕草のひとつひとつがオヤジ臭くなったと美空は感じた。それをちょっと残念に思う反面、頼り甲斐も感じられて嫌いではなかった。   

 さとみは携帯を取り出すと検索を始める。指の動きが早い。瞬きもせずに画面をタッチしては次々と画面を開いていく。

 これよ」突然なにかを見つけて勝ち誇ったように言った。

  

   【TAKUOのポタリング日記】

  先月F県から引っ越してきました。

  こちらは自転車で巡るのに最適なコースがたくさんあるようです。

  こちらの仕事にも慣れたのでこれからどんどん走っていきます。


 日付を確認する。今年の6月の日記だ。消えたのが5月の連休明けなので時期的には合いそうだ。しかもF県からの引越しとある。ふたりは目を合わせて頷いて次の日記を見る。


  これが僕の愛車です。


 そして貼られた画像を確認して美空の心が踊った。

「間違いない。色もデザインも一緒」

思わず声を張り上げた美空をさとみが目で制して次の日記を見る。


  せっかくの休日なのに雨で走れません。

  来週は峠まで行こうかと思います。


 あまりの短さに、がっかりしながらも逸る気持ちを抑えて次の日記を見ようとするふたり。

「あ、これで終わりだわ」

さとみが拍子抜けした声を上げた。わずか一週間で更新は止まっていた。

「三日坊主かよ」

美空が思わず突っ込んだ。

「いるのよね、こういう人。まあ、あたしも人のこと言えないけど」すました顔で言うさとみ。「なれない土地で寂しかったんじゃないかな。それでブログ始めようとしたけどアクセスもないし、すぐ飽きちゃったってとこかな。まあこの文章じゃね」

わずか数行の作文にもならないブログを見て言った。

無口な男はブログでも話下手なんだと美空は思った。しかもあまり大人っぽい文章ではない。せめてもっと詳しいことを書けばいいのにと。

「これじゃ自分のブログも確認してないだろうし、無駄だと思うけど一応コメント入れてみる?」

「え、なんて入れるの?」

「まっかせなさ~い」さそみはおどけて言うとさっさと書き込んで「あとは待つしか無いわね」と腕組みをして言った。

美空が画面をそっと覗く。


『これを見たら連絡ください。あなたに会えない寂しさで、こわれそうなMIKUより』

 

 これはちょっと、といった表情の美空をイタズラっぽい顔で見るさとみだった。


 数日後、亜美のブログに、またTAKUOからのコメントが入った。弟の自転車で早朝練習している亜美への応援メーッセージだった。

 毎日気になって両方のブログを覗く美空。TAKUO自身のブログは3行も書けないくせに、見知らぬ女性へのコメントに5行も書いてあることが何故か釈然としなかった。自分自身のブログも覗いていないのだろう、さとみが入れたコメントに対する返信もなかった。もう私のことなど忘れて向こうでの新しい出会いにや、ブログでのナンパに夢中なのだろう。そう考えるとやりきれない気持ちで思い切りPCを閉じる。

その時、美空の携帯が鳴った。さとみがブログの新しいコメントに気付いて電話してきたのだ。

「拓雄くん盗られちゃうわよ。それでいいの?」

 さとみの言葉に美空は絶句して頭が白くなった。


「あら、おはよう。早いのね今日は」

 いつもより30分早く出社した美空に気づいて、微笑んで挨拶する亜美。日に日に明るくなっていくのはブログのせいだろうか。これから起こることは、その明るさを消してしまい、せっかく親しくなった関係を壊すかもしれない。それを考えると美空は憂鬱になり、小さな声で挨拶を返すのがやっとだった。その時さとみが事務所に入ってきて、まっすぐ亜美の席に向かった。普段と違うさとみの様子に亜美の表情が硬くなり筋肉が緊張した。

「蕪木さん。あなたのブログにコメント入れてる「TAKUO」は早水さんの恋人なの。手を出さないでくれますか」

 亜美の顔が白くなった。


さとみは事の顛末を順序立てて説明すると、亜美は少しづつ顔色を取り戻してきた。

美空と拓雄の出会いのシーンから別れまで、そして亜美のブログによってようやく消息が知れたことまで、ドラマさながらの臨場感を添えて話した。多分にさとみの想像も交えているだろう、少々事実と違うロマンチックな説明を亜美は顔を落として黙って聞いていた。小刻みに震える肩は泣いているようにも見えた。

 「ごめんなさい蕪木さん。こんなこと言いたくなかったけど美空がかわいそうで見てられなかったのよ。お願いだから協力して欲しいの」

うつむいた亜美の顔を覗き込むようにして真剣な様子で謝るさとみ。

大きく息をついて亜美が顔を上げた。涙の跡は見えなかったが目はうっすら赤いように感じられた。そしてはっきりした声で訊いてきた。

 「わかったわ。それで私はなにをすればいいの」


 亜美から美空へ連絡があったのはその三日後のことだった。さとみの不躾な言動に機嫌を損ねることもなく、さとみの希望通りのことをやってくれたのだ。

 「ありがとうございます。本当に私、変なお願いしちゃって」

「いいのよ。気にしないで。ああ、榊枝さんにはもう連絡済みだから。なんか怖いから先に連絡しといたの」

「あの、本当にごめんなさい」

 数日前のさとみの言動を思い出して謝る美空。それに対し「いいのよ」と軽く笑って亜美は電話を切った。

 さとみの提案だった。拓雄のブログにいれたコメント、それに対してなんの返信もないのは自分のブログながら存在さえも忘れているのだ。このまま何年待っても無駄だから亜美に連絡をとってもらおうと言うのだ。

 最初、ブログ上で美空の存在を知らせて、その想いを伝えてもらおうとさとみは考えた。それに反対したのは美空だった。なりを潜めてはいるが、しっかりブログはチェックしているだろう怜子達に知られたら、今度は何をされるかわからない。それに、もしTAKUOに嫌われていたらと思うと、自分の存在を知らせるのはためらわれた。

そんなことないから、と言うさとみの説得にも応じなかった。

とりあえずブログの更新を続けて、TAKUOからコメントが入れば、さりげなく近況や住んでいるところでも聞き出すようなコメントを返すようにと亜美に頼んでいたのだ。それでやっと今日、拓雄の消息がわかるコメントが入ったというのだ。

 早速亜美のブログを開く。期待以下の情報でもがっかりしないように心をガードする。ブログを開いて読み始めた時にさとみから電話が入った。

「どうこれ、いけそうよ」

 さとみの明るい声に対し、ちょっと返答に戸惑う美空だった。


 実は事故にあってしばらく自転車を休んでいましたが、だいぶ回復したのでこれから本格的 に再開します。

   足慣らしに来月T市で行われるヒルクライムレースに参加します。わりとゆるやかなコースです。あなたがロードバイクに乗っていれば一緒に走りたいくらいです。


 「今調べてたの、このレースのこと。レースといっても市民レースみたいな雰囲気で、わりと気軽に参加できるみたいよ。実業団とかプロのチームが参加するようなレースじゃないから、事故のあとの足慣らしにはちょうどいいんでしょう」

 さとみの声を聞きながらそのレースの検索をかける。市のホームページからレースの詳細がわかった。

 ゆるやかな勾配の山道を走るヒルクライムレース。レース前後にもイベントもあり、楽しめそうなレースだ。城下町のたたずまいを見せる町は古い町並みも残っていて小京都といった風情がある。いろいろな映画のロケ地にもなっていて、美空にも町の名前の記憶があった。

 「出場できるわよこれ。ロードバイクとMTBのクラスがあるけど、美空の自転車ならロードの部門ね。ねぇ、参加者はレースの後にイノシシ鍋が食べられるんだって、出場したいけどあたしの自転車じゃ無理よね」

最後を残念そうな声で話すさとみ。すでに美空が参加することを想定して話している。

ヒルクライムレース。富士や乗鞍岳といった有名なものはもちろん、県内でも行われているレースもある。平均斜度が5~8%あるような上り坂を20km前後の距離を走るのだ。

そのくらいの斜度が延々20キロも続く。それをトップクラスの選手たちは時速20キロ程度で走り抜けてしまうのだ。平地での美空のアベレージ速度が18キロよりも速い。人間業ではないと美空は考えていた。

だがそれに比べると、そのレースの平均斜度は2,5%程度なのだそうだ。距離も15キロ。毎日走る距離よりも少ない。

 ーーいけるかもしれないーー

 美空の中で出場への期待感が高まり、体の中から熱くなってきた。観戦だけでも会えるかもしれない。しかし側道からの応援で気付いてくれるだろうか。出場すればコース途中で逢えるかも知れないし、レース中に会えなくても、選手同士の交流会で顔を合わせるかもしれない。「あなたも出場してたの?」と、何食わぬ顔で偶然を装って話しかけることができる。たとえ迷惑がられたとしても偶然だったらしょうがない。ストーカーにはならないだろう。美空の中でレースの妄想がどんどん膨らんでいった。

「ねえ、聞いてるの?ちょっと美空」

 気がつけば膝の上に置いた携帯からさとみの声が響く。

「ごめんね。ちょっと出場してもいいかなって考えてて」

「ああ、それよ。やっぱり聞いてなかったのね。もう参加するように申し込んでおいたから」

当然のようにさとみは言ってその後、日程や参加要項を説明し始めた。すぐには言ってる意味がわからず動揺している美空。さとみの説明を上の空で聞いていた。

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