おケイ
朝起きて窓をあけたとたん美空は思い切り顔をしかめた。お盆休みも最終日なのにと。昨夜から降り続いていた雨は、今なお降り続いていた。
ここ2日ほどの雨で自転車には乗っていない。それでも毎朝5時には目が覚める。一日でも習慣を崩すとそのまま自堕落な生活に舞い戻りそうで怖かった。夜更かししても,
翌日土砂降りが決まっていても起床時間は変えなかった。今や早起きという感覚すら無かった。この時間に起きることは普通のことなのだと思うようになった。むしろ遅く起きていた時の無駄な時間の過ごし方に腹が立つほどだ。
とりあえず階下のエアロバイクを漕いでみる。ホコリだらけのエアロバイクだったが、最近はたまに使うようになった。だが安物ゆえ30分が限度、ようやく調子が出てきた所で中止するのが嫌いだった。なによりも爽快感が無い。ただ暑いだけのエアロバイクに比べて自転車は走ってさえいれば涼しく快適だ。流れる景色、花の香り、遠くの山々を眺める開放感。長続きするのもそのせいだろう。
それでも20分ばかり乗って心拍数を確認する。脂肪を効果的に燃やすための最適な心拍数に運動強度を調整する。最適な心拍数を体で覚えて、自転車で走るときも息の上がり具合を調整していた。上がりすぎた時は休憩を入れ、少なめの時は思い切り漕いでみる。そして限られた時間とコースで最大限に脂肪を燃焼させるために。
汗を拭いた後、鏡で全身を眺める。まだまだスマートとは言えない体だが、かなり締まってきて健康的な肉体であることは鏡を通してわかる。流行のアイドルを見て美空は感じる。太ってはいないけれど、たるんだボディの子が多いと。ウエストはくびれがなく弾力のない肌が見て取れる。食事だけを減らして運動を疎かにした結果だろう。仮に運動をしても、制限された食事内容は必要な筋肉を作ることが出来ずに、結果的に太りやすい体質を作ってしまう。何一つ運動もせず、食事制限ばかりに頼っていた昔の自分を思い出しておかしくなる。ぷよぷよしたボディが好きだったのは昔の話、昔は嫌いだったハリのある鍛えられたボディが最近好きになっていた。
エアロバイクを降りると美空は朝食の下ごしらえにかかる。このまえネットで見てプリントしていたレシピを引っ張りだして、手際よく調味料を揃え、食材をさばき、念入りに味付けをする。オーブンレンジを使用するものが多い。自然と油を使わないような調理法がメインになっていた。
数カ月前までは高いびきとまではいかないが、ぐっすり眠っていた時間だ。ギリギリに起きて母の作ったご飯をかきこむだけの生活が今では一変、自分なりにカロリー計算をして、料理にもあれこれ口を出し手を出しの毎日。
そんな美空をうれしさ反面、自分のテリトリーを荒らされたような複雑な心境の母。最初は料理をつくる美空に恐れさえ感じていた父や兄、無理して作らなくてもいい、慣れないことはするなとまで言っていた二人だが、安心して食べられることを知ると、娘が母の手伝いをするのはさも当然という反応に変わっていった。
母親もこの時間、すでに目は覚めているのだろうが、雨が降っている日は娘の邪魔をしないようにと考えて、ゆっくりと起きて来るのが習慣となっていた。
さとみから電話があったのは朝食も済んでゆっくりとテレビを見ている時だった。雨続きで腐っているであろう美空を気遣い、気晴らしに遊びに来るというのだった。
「あら、すごいのね。まるでプロのメカニックみたい」
さとみが家についた時はすでに雨が上がっていた。そうなれば自転車で出かけない手はない、そう考えてトランクから折りたたみ自転車を取り出して広げ始めたさとみに母が声をかけた。
「そんなぁ簡単なんですよ。だれでも出来ます」
さとみは笑いながらあっという間に乗れる状態にした。
「そうなの。でも可愛い自転車よね、美空もこれにすればよかったのに。女の子らしいし」
そう言って美空に目を移す母に
「あたしはこれがいいの、それじゃ出かけてくるね」そう答えながら走りだした。
「車に気をつけるのよ」何十年と聞いたであろう母の言葉に後ろ手で答えて、二人は公園に向かった。
「こうやると効率がいいんだって」
公園に着くと、さとみが大きく腕を振って、足を腰より高く上げて大股で歩いて行く。
真似して歩く美空。雨上がりの公園は休日にもかかわらず人がまばらだ。少し照れながら足を高く上げて大股でのしのし歩く。太腿を高く上げるのは重労働だ。何分も続かない。
「こりゃ自転車よりきついわ」
ほんの数分歩いただけで美空が叫ぶ。
「でしょ。それだけにダイエット効果は抜群らしいの」
「いつもこうして歩いてるの?さとみさん」
「まさか。恥ずかしくって一人じゃできないって」
確かにウォーキングしてる人でもそんな格好で歩いている人は見たことがない。あまり色っぽい歩き方じゃあないなと美空は思った。ただてくてく歩くだけなら1~2時間歩いても自分の場合は体重は現状維持が精一杯だろう。実際二人で足を高く上げて歩いている様子は可笑しいのか微笑ましいのか、散歩中の人がにやにやしながら通り過ぎてゆく。
「ちょっと休もうか。さすがに足がダメみたい」
さとみが息を上げて公園中央にかかる橋のそばのベンチに腰を下ろす。続いて美空もとなりに座るとさとみがバックから取り出したペットボトルを手渡す。軽い果汁と塩味がしてさっぱりとして一気に汗が引いていった。
「そういえば蕪木さんっていつも何してるの。ほら、お昼休みとか」
美空は蕪木亜美とは仕事以外ではほとんど口をきくことはなかった。常に後ろから監視されているようで、一時は視線に怯えて胃が痛くなったものだった。
「どうって、ひとりでお弁当食べてる。あたしも外や更衣室で食べることが多いからよくわかんないですよ。ああ、でも食事しながらパソコン見てますね。一度、急ぎの仕事でお昼も食べずにやっていた時なんだけど、必要な書類をとりにキャビネットに向かったの、それで蕪木さんの傍を通りかかった時になにげにパソコンを見たら・・・・」
「見たら?」
「それがいきなりすごい顔でキッと睨むんですよ。だからあわててキャビネットへ行って書類探して知らないふりしたんですよ」
「何を見てたのかな」
「う~ん、ちらっとだから・・・仕事じゃないのは確かだけど通販サイトじゃないし、ブログみたいのだったかも」
「そうなの・・・」
「はっきりしないけどなんとなく。でもどうしてですか」
「ううん、なんでもないわ。ちょっと気になっただけ。それよりこれからなにか食べに行かない?」
家から自転車で10分、公園内のウォーキングが20分。ケーキとお茶ぐらいのカロリーは消費してるはず、と計算すると美空は喜んで賛成した。
「いつもお母さんが行くケーキ屋さん行きますか。マフィンが美味しいの」
「じゃあマフィンの分も歩かなくっちゃね」
さとみはそう言うと立ち上がって、腿を高く上げて自転車を止めた場所まで大股で歩き始めた。美空もちょっと照れながら同じ動作で後に続いていく。その足音に驚いたのか岸辺を歩いていたカモの群れが、跳ねるように離岸していった。
「あら美味しい」
さとみはお勧めマフィンをひと口食べると目を見開いて声を上げた。何度も咀嚼してじっくり味を確かめている。
公園から南に3キロほどのケーキ屋。ほとんど町外れにあるその店はマフィンの評判が良く、町外れにもかかわらず、休日の客は絶えない。そんな中、ふたりは店内の喫茶スペースに運良く空きを見つけて座ることが出来たのだ。
「あらよかった。お友達は気に入ってくれたみたいね。ゆっくりしていってね」
馴染みの店員が声をかけた。店長のいとこで開店当初から店を手伝っている三十代なかばの主婦である。皆親しみを込めて「おケイさん」と呼んでいた。
「そうだ美空ちゃん。あとで相談に乗って欲しいの」隣のテーブルの片付けをしながら去り際におケイが小さく声をかけた。
「二人ともかわいい自転車乗ってるのね」
しばらくして店内がすいてから、おケイが店長の奥さんに軽く挨拶をしてから近寄って来て表に止めた自転車を羨ましそうに見る。「それにすごい痩せたのね」美空のお腹のあたりを見ながら軽く笑う。
「高いんでしょ」と自転車を指さして尋ねるおケイに
「わたしのはそんなでも・・・さとみさんのは結構する」と答える美空。さらに値段を聞かれ、正直に答えるとおケイは口をあんぐりと開けた。
「実はね、このお店近々改装するの」
店内イートが評判よくて時間帯によっては席が足りないのだという。だが問題はむしろ駐車場、ほとんどのお客さんが車で来店する。店内で長居するために駐車場は満杯になり、持ち帰りのお客さんが車を停めるスペースが足りないのだそうだ。
自宅兼店舗のケーキ屋は、裏手に十分な空きスペースがあるため、そこを利用して家と店の増築、ついでに駐車場スペースも広げる予定なのだという。
「それで私も車で通っているけど、増築が済んだらどこか別なところに置いてくれっていうの。近所をあたったけど、なかなか置いてくれそうなところがないのよ」
ケイの奢りであるプリンを食べながら黙って聞いている美空達に困った表情を向ける。
「それで自転車で通えたらと思ったの。今あなたたち見たらそんな考えが浮かんで。どうかしら?」
聞けばケイの家は隣町とはいえ、店から7キロも離れていない。ママチャリでさえ余裕であろうと美空は思った。
美空はいまや自宅から半径10キロ程度は細かい裏道まで把握している。交通量や道の勾配さえ即答できるまでになっていた。おケイの住む隣町のニュータウンからは安全で勾配の少ないいくつかの裏道がある。話を聞いて一瞬でケイのベストであろう通勤ルートが頭のなかに描けた。
問題は雨の日、雪の日の通勤と、9月だというのにしつこく居座るこの暑さだ。それをケイに伝えるとあっさりと返答が返ってきた。
「雨の日とかは大変だし、雪の日もあぶないから旦那に送ってもらおうかと思うの。旦那の職場はこの先だし、出勤時間が少し合わないから別々に通勤してるけど、毎日じゃないなら少しぐらいは調整できるわ。それに店長の自宅のシャワー使わせてもらえるから多少汗をかいても着替えを持ってくれば平気なの。親戚だからそのへんは気兼ねなくできるのよ。雨の日とか店長が送り迎えもしてくれるって言うけど、そこまで甘えられないでしょ」
「それじゃあ、家の近所の自転車さんで買ったほうがいいですよ。何かあったとき、やっぱり近所の方が便利だし、毎日乗るものだからちゃんとしたお店で買ったほうがいいと思いますよ」
自転車はめったに壊れないが、時折点検整備してもらうためにも、近所の信頼出来る自転車で購入したほうが何かと得なのを美空は経験で知っていた。
「あ、それなら大丈夫。途中にしゃれた自転車さんがあるの。通り道だから都合がいいわ。今日これから予定なければ一緒に付き合ってよ。改装まで日にちもないし、もう決めなきゃならないのよ」拝むように両手を合わせて頼みこむおケイ。「そうだコーヒーもう一杯どう?私の奢り」そう言ってカウンターに向かうおケイのペースにふたりはのせられていた。
「いったん家に帰ってから車で来ればよかったかな」
おケイの話す自転車屋まで先に行くことにして出かけたふたり。途中のなだらかな坂道で苦しげな表情を見せるさとみを見て美空がつぶやくいた。
「大丈夫。それにその先で坂は終わりでしょ」さとみの視線の先には坂の終わりがあった。「それに奢ってもらったプリンの分も走らなきゃでしょ」
息を切らしながら無理に笑うさとみ。確かに坂はもうすぐ終わる。そのあとはなだらかな下り坂が続くのだ。だが帰り道はまた逆になるわけだ。だがそれは言わずに「そうだね」とだけ美空は答えた。さとみなら帰りも大丈夫。そう感じた。
登り終えて下り坂を快調に走る。左手に見えるゴルフ場を過ぎると隣町の中学校が見える。そこを左に折れてと、おケイの説明通りに行くと美空は不安を感じた。「もしかしてその自転車屋さんって・・・・」
中学校のある交差点をを左に折れてしばらく走ると道路の左側は高い土手になっていた。土手の上にいかにも素人が自分で立てたらしい看板が見えた。「各種メーカー取り扱い・自転車販売」「自転車修理・制作承ります・イズミサイクル」ペンキで手書きらしき看板が土手の上に二つ並んでいる。先の方で低くなっている土手の終わりから店の敷地に入ると、目の前の光景にふたりとも声がでなかった。
「しゃれた自転車屋さんがあるの」おケイの言葉を思い出して、間違いでなかろうかと不安になったところへ後方で車が土を噛む音がした。
「ごめんね。おまたせ」
おケイが車の窓から声をかけてふたりを通りすぎて広い敷地の奥まで入っていった。
「すぐわかったでしょ。ここなのよ」
車を降りて手をひろげるケイ。その先にはこれも素人仕事なのか、簡単な造りのログハウスといえば聞こえはいいが、掘っ立て小屋といったほうがわかりやすい建物が建っていた。そして西側には、これも中古のプレハブをそのまま持ってきたような建物が鎮座している。中にはほこりが積もったような自転車が十数台あるのが見えた。倉庫なのだろうか、決して新しそうには見えない各種様々な自転車を不思議そうに眺めた。
「ほうら、かわった店でしょう」と言って笑うおケイ。
入りづらい店って必ずある。内部が見づらい造りになっていて、ドアを開けて入ると店内には常連がたむろしていて、不意の闖入者を咎めるような目つきをする。そんなイメージが浮かんだ。
表の甘い雰囲気のディスプレイに惹かれて入ったらオバサマ向けの高級ブティックだったり、普通の本屋かと思ったら怪しげなマニアックな本ばかりの店だったり、匂いに惹かれて入ってみれば品数が少なく近所のオバサンの溜まり場的なお菓子屋さんだったり・・・・普通ならさっと出てくれば済む話だが、美空にはそれがひと苦労なのだった。自転車で心肺機能は鍛えられても、心はそうそう強くなれない。年とともにそんな店も表から中の雰囲気を察知できるようにはなったし、うっかり入っても「また今度・・・」的な挨拶をして切り抜けられるようにはなった。
しかし自転車屋だけは別だ。街のおじさんおばさんの自転車屋はともかく、ここは無理・・・多少なりとも自転車の知識がついただけに余計にそう感じて足がすくむ美空だった。
「何してるの、早くはいりましょう」
おケイがたじろいでいる美空を促した。さとみは心配そうな顔をしている。
ずんずん先を歩いて行くおケイを見て美空は覚悟を決めた。獲って食われるわけじゃなし、ちょっと恥ずかしい想いをするだけだ。お店なんだから、もし買わずに帰りづらいなら虫ゴムのひとつも買ってやろう。とにかく事情を知らないおケイさんは守らねば。
スポーツバイクの専門店。たいていはレーパンと呼ばれるピチピチのタイツみたいのを履いている人がたむろしている。まして日曜、常連がたむろしている可能性は高い。ドアを開けたとたん、そんな男たちが「何しにきたんだよネーチャン」といった風情で取り囲む。汗臭い体臭が近寄る。脛毛は無くツルツルの脛に筋張った太腿の筋肉、さらに上に視線をやると男性の股間の形がくっきり浮かび上がっている。そう、彼らは自転車のウェアに身を包むときに下着は付けないのだ。思わず視線をずらす。髭面やスキンヘッドの男たちの顔が近づく、百二十キロはありそうな巨漢の腹がくっつきそうになる。熱い息がかかる・・・ダメ!みんな逃げて・・・・
「どうしたの」
ケイがドアの取手を握ったまま動かない美空に声をかける。美空は妄想からさめてハッとして少し顔が赤らんだ。あわててドアを思い切って開ける。
「こんにちは・・・」
消え入るような声をだして中に入ると意外と明るい室内に少し安堵した。壁際にいくつかのフレームがかかっている。そして使い込まれたおびただしい工具の数々も、奥の壁の一面に並んでいた。その他、ホイールやらクランクやら、美空の見たこともない部品やらが乱雑に中央付近の作業台の上に置かれていた。車輪のついた、いわゆる完成車は1台もない。みんな直線のパイプをつないで菱形になったものだけだ。最近流行りのカラフルなエアロフレームなど欠片もなかった。しいていえば隅の作業場らしき台のあるところに組み立て中のMTBらしきのが、これは普通の自転車らしい、のがあるだけだった。
奥の窓際の日当たりの良い場所に、数人の男たちがいるのがに気づいた。5人の男たちが美空を見た。予想通り派手なジャージにレーパン姿。奥にいた髭面の男がゆっくりと立ち上がって「いらっしゃい」と低い声でつぶやく。その声に促されたように右のスキンヘッドと百二十キロがほとんど同時に立ち上がった。
なんとかしなければ、何かないか、と廻りを見渡した美空は壁のポスターに気づく。取り扱いメーカーのロゴマークが並んでいる。その中の1つに見覚えがあった。覚えがないのはすなわち自分に関係のないマニアックな自転車メーカーなのだから、これは安全だ。
「あの、これください」
美空はひとつのロゴマークを指さすと出来る限り大きな声で叫んだ。
男たちの動きが止まった。
午後の日差しがやわらかい。午前中の雨が少し暑さを和らげたようだ。店の裏手の山から草の匂いが漂ってくる。広い敷地の中で男たちは自転車の整備をしたり、自転車談義に講じたり、さとみの自転車を眺めては話しかけたりしていた。
「ちょっと・・・」
男たちに囲まれているさとみを心配そうに見ている美空の腕をケイがつつく。表のデッキに置いたテーブルの上には、さっき指し示したメーカーのカタログが開いてある。髭面の店長が振り向いた美空の顔を見て「いいかな?」と声をかけ、説明を続けた。
高級車ばかりの取り扱いメーカーの中で唯一見つけた見覚えのあるメーカーロゴ。4万円台のクロスバイクを扱っている。今、店長が説明しているのがそれだ。しっかりしたメーカーのはずだから問題無いだろう。通勤にもいいんじゃないかなと思ってケイを見るが、ケイはさっぱりノリ気でない様子だ。気に入らないのか。店長もその辺を感じ取ってか説明に熱が入らないようだ。
「どうだろう。カタログは差し上げますから検討なさっては」
「あの、それじゃぁそうします」ケイは気のない返事をして「すみません」と付け加えて席をたった。
失敗しちゃったかなと美空はケイの顔を見たが、ケイは気に留める風もなく「いこう」と美空を促して車にむかって歩き出した。
「ねぇクウちゃん。わたし自転車褒められちゃった」
さとみが明るい顔で近づいてきた。今までもさとみの自転車はいろんな人に興味をもたれたが、自転車マニアの人達に褒められたのは本当に嬉しかったのだろう。普段見せないさとみのおどけた様子が新鮮だった。さとみはさらに調子にのり、男たちのリクエストに応えて自転車をてきぱきと折りたたみ始めた。
美空以外は始めて見たのだろう、その手際の良さに皆喝采の声を上げた。
「ほんと可愛いよね。私もこんなの欲しいけど・・・・高いんだよね」
ケイが残念そうに言った。ため息が見えるようだ。
「そいつはいい自転車だけど、ほかにもいいのがありますよ」
いつのまにか後に来ていた髭面が叫んだ。「しかも安い」
美空とおケイはふたたびテーブルに戻って話をしていた。今度はさとみも一緒だ。
「カタログはないんだ」と言って雑誌のページを捲る店長。「でもモノは入る。知り合いの店から調達できますよ」と言って目当てのページを見つけて開いた。「ほうら、結構かっこいいでしょう」
店長が自慢げにひらいた頁にはシンプルだがすっきりとしたデザインの折り畳み自転車が載っていた。16と20インチの小径車。直線的なシンプルなもの、ややカーブを描いたおしゃれっぽいもの、パイプの細いもの、さとみの自転車にも負けないくらいデザインはかわいいのが揃っていた。
「あ~この色キレイ」
ケイが嬉しそうに声を上げる。「あ~ホントだ」といって三人で雑誌を覗きこんで価格を確認する。「高~い、十九万八千円だって」と、美空はそう叫んでは店長を睨むように視線を向けた。
「ああ、それは特別だよ。とても軽くできてる。まあ一部のマニア向けかな。軽いのがよけりればこっちの9万円のあるが、オススメはほら、こっちは4万3千円。これが5万円。ギヤ比がちょっと違うから走り方で選べるよ。このへんの通勤ならこっちで十分かな。ほら、普段乗りのご近所用と書いてある。外装6段だから山道でなければほぼ大丈夫だし、重量もクロスバイクと変わらないくらいだ」
と言って一番安いのを指し示した。意外と親切な店長さんだと美空は感じた。
「でもこっちのほうがカッコイイよね」と言ってケイはフレームがゆったりカーブしたデザインのほうを指す。
「16インチだがそれもいいよ。小径車でもひと漕ぎで進む距離はそう変わらないんだ。なにしろ折りたたみ自転車では30年の歴史があるメーカーだからどれを選んでも損はないよ」
それからああでもない、こうでもないと皆で騒いだ。店長はそんな3人を見てうれしそうだった。そして携帯を取り出して席を立つと何処かへ電話していた。
なかなか決まらないところへ店長が戻ってきて「これだったら知り合いの店に試乗車があるらしい。借りることができるけどどうします?」と雑誌に載っている自転車を指して言った。
ケイの顔がほころんだ。
数日後に試乗してから決めることになったものの、ケイの心はほとんど決まっていたようだ。少し予算オーバーかな、と嬉しそうに話すケイを、羨ましそうに見る美空とさとみだった。
「もし決まったらみんなで走行会でもしませんか」
車のそばまで見送りにきていた店長が話しかけた。
「走行会って?」
不安げにつぶやく美空。ロードバイクとは巡航速度も走行距離も違う。さらにきつい坂道を高速で走ったりするのだ。一緒についていけるわけがない、断らなければと考えた。
「あ~それいい。あたし行きたい」
その時、少しハイになっている様子のさとみが間髪入れずに叫んだ。後で聞いていた常連達の顔が輝く。
「あ、でも私達じゃとてもついていけないです」
美空はあわてて言ってさとみに目配せする。
「なに、堅苦しく考えなくっていいよ。サイクリングみたいなものだ。近場の景色のいいところをぐるぐる廻るだけ。距離や速度も参加者にあわせるんだよ」
「いつもそんな感じなんですか」
「それぞれの趣味やペースにあわせていろいろなんだよ。峠を目指すのもいれば、ひたすら距離を稼ごうとする人もいるし、まあ速度重視の人もいる。目的によってメンバーも違ったりもする」
「今日のメンバーはどちらかというとのんびり派かな」
後で聞いていた常連の一人が続けて言った。その言葉に他の常連が笑った。
「今月はヒルクライムへの練習走行会が控えてるから、来月ならいいんじゃないの店長」他の常連が言った。
「そうだな。じゃあ来月初めの日曜日。どう?」
店長や常連達が3人の女性たちを見て答えを待つ。
3人とも顔を見合わせながら思案していた。
「結局行くことになったね、走行会」
帰り道でさとみがうれしそうに話す。
みんなにつめよられ、ことわれる雰囲気でないように感じ、思わず承諾してしまったのだ。なによりも、さとみの期待に膨らむ目で見つめれてはなおさらだ。ケイは自転車が決まったら考えておく、と返答を保留してるので、現時点で参加者はふたりっきりである。気さくな人達だとは思ったもののやはり女性二人では不安だ。誰か知り合いを誘わなきゃと考えると少し憂鬱な気持ちになった。
「遅いぞ~クウちゃん」
気がつくとさとみはずっと先を走っていた。中学校の角までのゆるい下りをさとみは快調に飛ばしていた。
「もう、危ないよ。それに角曲がったら登りが続くんだから、あんまり張り切らないで」
「大丈夫だって。最近けっこう体力ついたし、それに走行会まで鍛えなきゃ。みんなについて行けるようにね」
すっかり走行会を楽しみにしているさとみの態度に心が和んだ美空。「まあ、なんとかなるか」と、不安をとりあえず流すことにした。
さとみのあとを追ってペダルに力を込める。速度を上げると夕方の風が腕をなでて心地よかった。
道路脇の田に目をやると、わずかに稲穂が出ているのが見えた。実りの秋が近づいていた。
数週間後、よく晴れた日曜日。さとみと共に美空の軽自動車でR市へ向かって南に走っていた。バックシート倒した上には、折り畳んださとみの自転車と、ホイールを外した美空の自転車が載っていた。
走行会当日だ。期待で息が荒くなっている様子のさとみに比べて不安な表情の美空。
「昨日ね、ネットで見たんだけど」さとみの言うのはインターネットの自転車関連サイトの事だ。最近色々な自転車関連のサイトを片っ端から覗くのが、さとみの最近の日課であった。
「走行会って女の子が少ないでしょう。だからね自転車乗りの人が余っているイロイロな部品をくれるんだって」
「へ~タダで?」
「もちろんよ。それでね、うまく行けば貰ったもので自転車1台組み上がっちゃうんだって」
美空は想像して笑った。自転車の部品は共通している物が多い。慣れるにつれ、よりスペックの高いものや重量の軽いものに部品を交換していく。不要になった部品はどんどん溜まっていくことがほとんどだ。一人づつ部品を融通してもらえばあながちありえない話ではない。
それで少し緊張がとけたのか「じゃあ今日は軽く2台分ぐらい手にいれちゃおうか」と美空は軽口をたたいた。
「そうね。目標2台」さとみもノリノリであった。
集合場所のR市内の公園にはすでに店長と女性が一人待っていた。店長の奥さんだと紹介され、その優しそうな笑顔にふたりは安堵した。「他のお友達は?」と訊く奥さんに対し答えに窮している時、後でクラクションが鳴った。
「おはよう」
SUVの大きな車が駐車場に入ってきた。開いた窓から杏奈が声を掛けてきた。車の後部のサイクルキャリアには2台の自転車が取り付けてあった。
「彼を連れてきたの、かまわないでしょう」
紹介されてピョコンと頭を下げる彼。
「ちょっとかわいいじゃない。やるね彼女も」
それを見てさとみが美空に耳打ちする。
「ああ全然かまいませんよ。多いほうが楽しいし、ひとりも来ないんじゃないかって心配してたんですよ」店長が喜んで返事をして、ふと入り口に目を向けた「ああ、白石さんじゃないかな。あの車」
店長が駐車場に入ってきた普通車を指さしてうれしそうに言った。
白石ケイ。一緒に店長のイズミ自転車店に行ったのが先月、数日後に見せられた試乗車をひと目で気に入って契約し、納車されるやいなや、毎日乗り回していたらしい。2週間でかなり慣れたようだ。
旦那と二人、みんなに挨拶するとトランクから自転車を引っ張りだした。2台あったのには美空とさとみも驚いて顔を見合わせた。
「あたしが乗ってるのを見たら、この人どうしても自分専用のが欲しいってきかないの」
旦那は頭をかいて恥ずかしそうに笑っていた。
「なんてことないのよ。この体だから動くの億劫がって旅行先でも車から降りようとしないの。自転車なら楽に動けるからって欲しがっただけなのよ」
旦那の恰幅の良い体を指して自嘲気味に話す。「まあ、これで痩せてくれれば安心なんだけど」
「これで全員かな」
店長が周りを見渡しながら聞いた。ロードバイクに乗る常連は全員揃っているようだ。店長と目があって美空が頷きかけたときに1台のママチャリが入ってくるのが見えた。博子である。かなり息を切らせている様子に心配して美空が駆け寄った。
「ごめんねちょっと遅れちゃったね」
「まさかM町から来たの?」
「まさか・・・と言ってもA町からなの。今実家から通ってるから。この前話したでしょ。実家から自転車道が近いのよ。そこから終点まで走ってそこから国道通ってここまで」
4~50キロはあるのに・・・多分国道を走って来たほうが近いだろうと美空は思った。
「自転車道はいいけど、国道はキツかった」
「そりゃきついわよ。変速機ついていても所詮ママチャリだもの。少し休む?」
毎日の通勤で慣れているから大丈夫、それに皆を待たせたくなからと博子はすぐに出発することを望んだ。店長も様子を見ながら走ることにして、すぐ出発した。
先日店で会ったロードバイクの常連たちとは、国道に出る前の道で別れた。彼らは峠を目指すらしい。
「ああ自転車セットが逃げていくね」
常連のロードバイク組を見て、さとみがくすくす笑いながら言った。美空もさっきの話を思い出して笑った。
R市は城下町だ。城は改修中で、近くで見ることは出来なかったが、市内の史跡や名所めぐりだけでも十分楽しめた。集合時からヘトヘトだった博子の様子を見て、市内散策コースを選んだのは店長の正しい判断であった。道幅が狭く、一方通行の多い市内の道路は車で来るには不便で、美空は苦手だった。たまに来ることがあっても、郊外のショッピングセンターを回るだけのことがほとんどだ。
店長の選んだコースはR市になんども訪れている美空にとっても初めて通る道が多かった。城跡から遊歩道へと川の流れに沿って走る。自転車だとこんなにも自由に移動できるのかとつくづく感心したのは美空だけではなかっただろう。
市内の湖のある公園での食事、女性が多いので、持ち寄ったお弁当やお菓子は食べきれないくらいだった。ロードバイクからクロス、MTB、ミニベロ、ママチャリまでさまざまな自転車が通り過ぎていく、その光景はめずらしいのか結構人目を引くことが多かった。関所跡までの行くときには何人かのロードバイクともすれ違った。軽い会釈を交わすのも楽しい気分。仲間意識を感じてほっこりしていた。
美空はゆっくりと半日の間、あちこち回って満足していた。それでも全行程で30キロにも満たなかった。
「みんなで走ると楽しいね。来てよかった」
出発地に戻ると、博子はそう言ってから誘ってくれてありがとうと付け加えた。
礼を言う博子に美空は気になって近況を尋ねた。
「あたしもね、仕事から帰って暇だから義姉さんの手伝いをするようにしたの。食事の仕度とか。最初は嫌がってた義姉さんだけどそのうちになんか、受け入れられたっていうか・・・今ではずいぶん仲良しなの」
「へー、うまくいってるんだ」
「最初の頃はもう邪魔者扱いで、ほら、針の筵っての?まさにあんな感じで、どうしようかと思っちゃった。今は一緒に買物行ったりとかするの。姪っ子もなついてくれたし、むしろ一人暮らしよりずっと楽しい」
「なんかうらやましいかも」
「あんたに会ってから物事がうまく行ってる。ホントにありがとね」
「そんなことないよ」
自分の心の持ちようだよ。義姉に自分で歩み寄ったからうまく行ったんだよ。そう言いたかったが美空だが、説教臭いような気がして言葉を飲み込んだ。
「今日はホントに楽しかった。また誘ってね」
そう言って帰ろうとする博子の足元はおぼつかなかった。かなり足に来ているのが誰の目にもわかった。
「送ってあげるわよ」
そう声をかけたのは杏奈だった。「どのみちK市にも行くから、ついでに送ってあげる」
そう言って了解を求める目を彼に向ける。彼も快く頷いた。
それでも遠慮する博子の自転車をバックドアのアタッチメントにつけると、自分たちのは車内に収めた。
「いいな。いつもこれで輪行するんですね」
美空がうらやましそうに車を眺めた。
「これなら日暮れまでくたくたになるまで走りこんでも大丈夫だから。あなたもバックシートに積んできたじゃない」
「でもどこへでも送ってくれる優しい運転手がいないもの」
美空の言葉に皆笑った。彼氏は苦笑している。
杏奈の車を見送ると続いてケイ夫妻も帰っていった。旦那の満足気な顔が印象的だった。
「君もだいぶ走りこんでるようだね」
店長は美空のサイコンの数字を見ながら話しかけた。
「そんなでもないですよ。ほとんど近所だけだし。いつか途中で足が痛み出して走れなくなってからは遠乗り怖いんです」
「じゃあ今度ロードに乗ってみなよ。ぐっと楽になって遠くまでより早くいける」
その言葉に、ロードバイクで遥か遠くまで走っていく自分を想像して美空の胸がときめいた。でも今の自転車に乗り始めて数ヶ月、まだ自信がないからとだけ答えた。
「まあ、その気になったらいつでも相談に乗るから」
そのときはよろしく、と挨拶して美空も自転車を積み込んで店長たちに別れを告げた。