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博子


夏の暑さも本格的になってきた。早朝でも走りだすとすぐに汗だくになる。ついこの前まで子供の背丈しか無かったはずのとうもろこしや庭のひまわりも、今は美空の背丈をはるかに超えていた。例年なら梅雨明けはまだだが、この年は空梅雨のようだった。連日のうだるような暑さのなか、自転車では走るのはかなりの苦行だ。休日には早朝から走って午前中に切り上げるのが、美空の最近のスタイルだった。それでも自転車を降りると一気に汗が吹き出して、頭の中は沸騰しているかのように感じた。

日曜日、美空は駅前の肉屋でコロッケが揚がるのを待っていた。早朝からさとみと待ち合わせて、遊水地を一周りして帰ってきたばかり。朝出かける前に軽い食事を採っただけなので、猛烈にお腹が空いていた。自宅まで我慢できずに、駅前にある肉屋から流れるコロッケの匂いにつられて、ふらりと入ってしまった。

以前なら間食は我慢するところだが自転車乗りには『補給食』という便利な言葉がある。ちゃんと食事を取らないと、体内のグリコーゲンや糖質が不足して突然体が動かなくなるハンガーノック現象が起きることがある。そうなっては大変。それを防ぐために、自転車乗りは、バックの中などに、羊羹やらどら焼きやら甘いモノを携行している人が多い。補給の一言で、道沿いのこってりラーメンでもステーキでもスイーツでも、お構いなしの免罪符となる。一日数十キロを走りながら立派なお腹をしているロードバイク乗りも少なくない。補給食のとりこになってしまったのかもしれない。

「おまちどお。おまけしておいたからね」

肉屋の店主が元気な声で揚げたてのコロッケを差し出す。財布を出す美空に「あれ、あんたの自転車だよね」代金を受け取りながら、美空の背後の道路側を見て声をかけた。その声に美空が振り返ると、美空の自転車にフラフラ乗っている女の姿が目に入った。一瞬、見間違いではないか、よく似た他人の自転車ではないか思った。だが、あたりに自分の自転車はないーー泥棒だ。ようやく理解すると美空はとっさに大声を上げた。

「ちょっとそれ私の自転車よ」

掴んだコロッケも財布も放って走りだす。

「待ちなさいよー」さらに大声を上げる。ちらりと振り返った横顔で若い女だとわかる、自分とそう年齢は違わないようだ、ビビることはないと美空は思った。しかしゆったり走るポタリングとはいえ、遊水地の往復は応えいていたようで全力で走っても足がついていかずにもつれてしまう。自転車はその距離を一気に開けてあっという間に先の交差点まで到達した。その時、警ら中の警官が自転車にのって交差点の左側から出てきた。それを見て間髪をいれずに美空は声を限りに叫ぶ。

「おまわありさん泥棒よ、捕まえてー。泥棒よ、自転車ドロボー!」

商店街に響き渡る声に反応して、警官が目の前を走り抜けようとする自転車を静止しようと手を上げる。驚いた自転車泥棒はあわててブレーキをかける。車体がふらついた。制止する警官の右側を抜けようとしたところで泥棒はバランスを崩し、そのまま横倒しになって転ぶ。それでもすぐに立ち上がって、自転車をおいて走って逃げようとしたところを、警官がその肩を掴んだ。泥棒は観念してひざをついた。

そこへようやく美空が息も絶え絶えになり駆け寄ってきて泥棒の顔を正面から見すえた。

「ちょっと、あなたは・・・・」

見覚えのある顔に美空は驚いて立ちすくんだ。


駅前通りの交番。郵便局が近いせいで田舎町とはいえそれなりに人通りがある。前を通る通行人が興味深げに中を覗いていく。若い女が二人、警官の前でうなだれている。ひとりは美空。もう一人は美空とそう年の変わらない女だ。ヨレヨレのTシャツに履き古したジーンズ。汚れたままのスニーカーは買ってから洗濯したことないように見える。髪型や化粧もそれほど手を入れてるとは思えない、年齢の割りには粗雑であった。口を結んで下を向いたきり一言も口をきいていない。

警官はイライラした様子で、ペン先で机を叩いている。

「それじゃ、君の勘違いということでいいのかね本当に」

警官がペンで机を叩くのを止めて二人を睨みつけるように見て聞いた。

「はい。そうなんです。彼女は私を驚かそうとして自転車を盗むふりをしたっていうか、そう、知り合いなんです本当に・・・あの、サプライズっていうかドッキリっていうか・・・」

自分でもうまい言い訳と思った美空だが、警官は全く信用していないようだった。

「じゃあ、そのきみの友だちの名前は?どこに住んでるの?」

「え~と名前は確か・・・」

警官が美空を睨んだ。

 自転車泥棒は、美空の勤務先の印刷物を請け負っている印刷会社の社員だった。原稿や資料などを届けるときに何度か顔を合せてたことがある。見知った顔に驚いた美空は、とっさに嘘をついて彼女をかばおうとしたのだ。

「ああ、いえ、松田・・・・博子さんです」

美空はやっと記憶の底をたぐり、大きく息を吐いた。

「そうなのかね?」警官が今度は博子に向かって威圧するように尋ねた。

博子はうつむいたまま、警官に目を向けただけで頷いた。

「本当に申し訳ありません。勘違いとはいえお手間取らせてしまって」

立ち上がって深々と頭を下げる美空。座ったままの博子に目配せをする。博子はしぶしぶ立ち上がって、しおれるように頭を下げた。

しばらくその様子を眺めていたが、耐え切れずに口を開きかけた警官。それをもう一人の年配の警官が、肩をたたいて、もういいからという風に黙って首を振った。若い警官はしかたなく口を閉じた。


「なんとかうまくいったね」

交番からの帰り道、美空が楽しそうに話しかけた。返事のない博子に続けて話しかける。

「営業の先輩が教えてくれたの。謝るときには相手がなにか言うまで頭を下げ続けろって。そのうち相手が根負けして、もういいから頭をあげてくださいって必ず言うんだって」

思いの外の成功に気を良くして美空は上機嫌だったが博子は押し黙ったままだ。美空の笑顔が一気に冷めて暗い顔になる。何を話せばいいのかわからず、二人黙々と歩き続けるだけだった。

「ごめんね」

「え、いいのよ別に。自転車はちゃんとあるし・・・・まあちょっとは傷がついたけど・・・」

後半小さめな声で話す。サドルに少し擦り傷が残ったのが気になっていた。

「パチンコしてたの・・・・」

うつむきながらようやく博子は話し始めた。

 何もない街だがパチンコ屋だけは大型店が数軒ある。今週もカラフルな大きなチラシが何枚も入っていた。

「もしかして負けちゃったの」

「持ってきたお金を全部使っちゃって、細かいお金もジュース飲んだりして・・・」

「い、いくら使ったの」

「8万円かな」

そう答えた途端、博子は涙を流し嗚咽をもらした。か細い体が小刻みに震えていた。

美空は声も出ないほど驚いた。自分の手取りの半分近いのだから。そう、今乗っている自転車よりも高い。エントリークラスのロードバイクさえ買える金額なのだから。

「馬鹿だと思うでしょう。やめたほうがいいってわかってる。でも自分でもどうしようもないの」

そう言ってせきを切ったように話しだした。友達に誘われて始めてパチンコ屋に行って何万円も勝ったこと。夢中になって通い出したこと。一日に30万も勝ったこと。最初のうちは少しづつだったのに徐々につぎ込む金額が増えて、今では給料の殆どを使ってしまうようになって借金までしていること。

「最近は全然勝てないの・・・廻りのみんなもそうで、やめていくひともいるんだけど、私は・・・・もうなんか、電車賃も無いし、どうにでもなれって気持ちで歩いていたら、あなたの自転車が目にとまって、つい・・・・・」

ひと通り話し終えて少し落ち着いた様子の博子だった。今まで誰にも話せずひとりで悩んでいたのだろう。美空の胸が痛んだ。

「でも、お金大丈夫?今日はまだ10日だよね。お給料日までまだまだ先でしょ」

「実家によれば少しは・・・ああ、ダメ。この前も借りたばっかりだし、何やってるのかって心配かけちゃう」

「会社に借りれば。社長さんってやさしそうだし」

美空は何度か話したこともある印刷屋の社長の快活な笑顔を思い浮かべ言った。

「そうね、本当のことは言えないけど、なにか理由つければ大丈夫かな」

 その後も公園に寄って、ふたりで他にも問題点を話し合った。美空が買っておいたコロッケは博子があっという間に5つもたいらげた。

「パチンコしてるとお腹が空かないの。脳内麻薬のせいなんだって」

「ああ、そういえば自転車もやみつきになるのは脳内麻薬のせいなんだって」

「やみつきなの?」

美空はうなずいてそれに答えると、杏奈のことを思い出して、

「そういえば私の先輩もバス通勤から自転車に変えたの。あなたもそうすれば」

博子の会社の規則は知らないが、いくらかでも交通費がでればそれを借金返済に回せるはずだ。

美空は自分の考えを話したが「自転車を持っていない」と答える博子に「まかしといて」と胸にてあてて笑った。

ウォーキング中の老夫婦がそんな二人を微笑ましそうにみて通り過ぎていった。


「おじさん、それ高いわよ」

 ヤシロ自転車屋で美空が店主にねだるように言っていた。中古車らしいシティサイクルを撫でながら、やれやれといった表情の店主。

「近所のオバサンが言ってたわよ。ここで新車買ったとき下取りが3千円だったって。それを中古で一万円で売るなんて酷いボッタクリだって」

「おいおい、下取りったって、ほとんどサービス、値引きなんだよ。中古としても売り物にならないのが多いんだ、逆に処分料欲しいくらいなんだよ」

「でもこれは一万円よね」

「あのね、美空ちゃん。そのまま売るわけじゃないんだよ。ちゃんと整備して安全に乗れるようにして渡さなきゃいけないんだから手間かかるの。売りっぱなしってわけにいかないし、うちは中古とはいえちゃんとアフターも見るしね」身振りを交えて必死で話す店主。「それにこいつは程度もいいしチェーンやタイヤも新品に交換してるから部品代だってそのくらいにはなるんだよ」

「でも今回だけは5千円でお願い。わたしの友達が大変なの」

頭を深く下げる。交番でうまくいったのに気をよくして同じ手を使う美空だった。

「いや、そう言われてもこればっかりは・・・」

店主はきっぱり断りかけようとするが博子と目があった瞬間、博子も九十度に頭をさげ、そのまま微動だにしない。店主は深い溜息をついてからゆっくり口を開いた。

「しょうがないな今回だけだよ」

それを聞いて頭を上げた二人の顔がぱっと明るくなった。

「ありがとう、おじさん。お金が溜まったら、今度はデローザでもコルナゴでも買うからね」

「うちじゃ扱えないっての」

店主が苦笑いした。

 値切った上に支払いは月末まで待ってもらうという虫のいい願いも了解してもらい、すぐ乗っていけるようにその場で調整までしてもらった。もう夕方、なるべくなら日のあるうちに帰してあげたいと美空は考えていた。

幹線道路を通って帰るという博子に対し、美空は自転車道を通ることをすすめた。普段自転車に乗り付けない人が、交通量の多い道路を通るのを心配していた。自転車道入り口までのアップダウンのある道のりも決して楽ではないが、いざ走りだすと博子は美空よりも速く安定した走りをみせた。

「高校時代は自転車通学だったの」

そう言って自転車道に入っても快調に飛ばす博子に対し、歩行者に注意するように何度か進言しなければならないほどだった。川沿いを走る道は自転車専用道とはいえ、道が狭い上に散歩中の歩行者もいる。さらにこの時期は、雑草が両側から覆いかぶさるように迫り、むき出しの腕を叩く。農道も兼ねているため東側は田畑だ。そのため路面はカエルの横断帯になっていて、蛙の団体が通ると気味が悪くてついスピードを落とす。目の前を飛び回るハグロトンボにぶつかりそうになるのを頭を振って避ける。さらに何箇所か一般道と交わる箇所もあり、ぼんやり走っていると道を外れてしまう。自分ひとりだったら幹線遠路を通るのに、と美空は思った。

「意外と楽しいのね」頬を染めて自転車を漕ぐ博子の顔は、さっきまでの打ちひしがれた様子と違って、快活な笑顔に変わっていた。自転車屋から走り始めて20キロ以上は走っている。並の女の子ならとっくにへばっているはずなのに、彼女の顔は激しい息切れこそしているが、実に楽しそうな表情だ。

「ああ、あのへんよ私のアパート」

さらに10キロも走っただろうか、さすがに疲れたのか言葉少なになり、ふたりの荒い息づかいしか聞こえなくなったころ、博子が嬉しそうに指さした。その先には住宅街が見えた。K市の北にあたる町。ほとんど自転車道の終点に来ていた。

「ここでいいわ。今日は本当にありがとう。いろいろ話聞いてくれて。それにこの自転車」

博子はそう言うと嬉しそうに自転車のハンドルをなでる。

「じゃあ、私も暗くなる前に戻りたいからここでね」

「今日のこと会社の人とか内緒にしてくれる」

「わかった」

美空は博子の表情を見ると、安心して自転車をターンさせ走りはじめた。家まで足がもつかな、と心配しながら車輪を回し続けた。


「へ~昨日はあれからM町まで往復したの」

さとみが呆れたような感心したような表情で美空に言った。「あたしなんか午前中いっしょに走っただけで足が痛かったのよ」

お昼休み。男性社員が出払っているので、外出せずに事務所でお弁当を食べている。昼休みはエアコンを切るのが規則のため、室内は少し蒸し暑い。美空はそこで内緒の話だと断ってから、さとみに昨日の出来事を話したのだ。事務所には先輩の亜美もいるので声のトーンを落し気味に話している。もっともパチンコや自転車泥棒の件は、約束なのでぼかして伝えた。

「それじゃ随分痩せたんじゃない?」

さとみがいたずらっぽく笑う。

「そうね、昨日だけで7時間は走ったから、少なくとも500グラムは脂肪が燃えたはずなんだけど・・・なんと帰って測ってみたら3キロ減!」

「あらま」と、おどけてみるさとみ。

「でもね、のどが渇いて渇いて・・・寝るまでひたすら水を飲んでたら、そこから4キロ増えたのよ」

「なにそれ、差し引き増えてるじゃない」

さとみは吹き出した。

ーーー人間どのくらい短期間に痩せられるものなのかーーー美空は思った。ふと以前聞いた話を思い出す。

「ガッツ石松いるでしょ」

美空は唐突に言った。

「OK牧場の人?」

「うん。3ヶ月後に試合を控えていたのにリミットから20キロ近く太ってたんだって。80キロから61キロくらいまで体重を落とさなきゃいけなかったんだけどーー」

「できたの」

「うん、きっちり落として、試合にも勝てたみたいですよ」

「ひと月7キロ近くも落とせるんだね」

「でも、試合後たらふく飲んで食べたら次の日はそこから11キロも増えたらしいです」

「やだぁなにそれ」ケラケラ笑うさとみ「11キロもお肉食べたのかしら」

「う~ん。ほとんど水だったみたいですね。ボクサーって減量の最終段階はほとんど水分取らないんですよ。だから乾燥ワカメが戻るみたいに水分吸収して太ったんじゃないかな」

「塩をかけたナメクジに水をかけるみたいな」

「そうそう、きくらげとか」

「昨日のクウちゃんみたいに」

ふたりで笑い合ってから、声が大きすぎたかと背後の亜美を気にして振り返る。しかし静かに本を読んでいて、美空たちを気にかけている様子はなかった。

「でも面白いわね~」

さとみが食後のお茶の缶をくるくる回しながら言った。

「え?ガッツ?」

「ううん、あなたの彼氏。受け売りでしょ今の話、タクヲ君だっけ」

「彼氏ってわけじゃないけど・・・面白くないですよ、無愛想であんまり話さないし」

「でも、ミクちゃんのこと好きだったんでしょ」

「ありえないです、それは」

「でも2ヶ月もの間、好きでもない子に毎日付き合うかしら」

「だからそれは・・・もしそうだとしたら黙って消えるなんてありえない」

ちょっと不機嫌な表情で答える美空。

「なにか事情があったのよ。ほら、急病で入院してるかもしれないでしょ」

「3ヶ月近くもたつのに?」

さとみはそれに答えようとしたが、最悪のケースを考えたのか、そのまま押し黙って顔を曇らせた。

「でもそのうち、ふと顔を出すかもしれないでしょ。なんでもない顔をして。それにこれだけは間違いないから。彼氏が消えたのは絶対あなたのせいじゃないの」

さとみが言い聞かせるように美空に話した時、昼食を終えてきた男性社員がどやどやと入ってきた。

あなたのせいじゃない、さとみはもう一度念を捺すように美空に目配せして事務所を出て行った。



「あれ、ひと月でこんなに・・・」

退社後、会社の駐輪場で杏奈の自転車をじっくり眺める美空。フレームやハンドル、クランク部分などじっくり見ると細かい傷がついている。明らかに倒れて付いた傷だと想像できた。

ーーそんなに乗りにくい自転車だったのかな、じっくり考えて選んだのに・・・こんなことってーー

「いったいあなた相沢さんにどんな自転車薦めたのよ」

その少し前、退社しようと社の玄関を出たとたん、影山怜子に呼び止められ、いきなり怒鳴りつけるように問われた。

聞けば杏奈が自転車通勤を始めて、しばらくは何事もなかったが、最近生傷が絶えないのだという。自転車で転んだに違いない、今度が始めてじゃなくしょっちゅう怪我してるという話だった。つたない知識で高価なスポーツ車を薦めた美空に責任があると、批判するような口ぶりだった。知識が浅いのは否めないが、そんな酷い自転車じゃない、そう思って、急いで駐輪場へ杏奈の自転車を確認しにきたところだった。

「あら、早水さん」

美空の背後で声がした。振り返ると杏奈がにこやかに笑っていた。頬の廻りに大きな絆創膏が張ってある。どれほどの傷なのか想像してひやりとした。

「なんですかそれ」

怖いものを見るように、絆創膏を指差して美空が聞いた。

「ああこれ、大げさに見えるけど大したことないの。このくらいの傷ならこうしたほうが治りがいいのよ。湿潤療法っていうの、傷が残りにくいから。一応私も女だし」

そう明るく笑って答える杏奈。

「そうじゃなくって、転んだんですかこの自転車で・・・私、なんか間違ってましたか」

美空の声が少し震えている。

「ああ、違うのよこれはね・・・あ、違ってないわね。転んだには違いないけど」

泣きそうな美空の表情に気付いて説明に戸惑う杏奈だが、ふと思いたって「そうだ、今日は送ってくれない?」

そう言って返事も待たずにホイールを外し始めた杏奈。その手慣れた様子を美空は感心して眺める。さっくり外したホイールを美空に差し出して「手伝ってよ」と楽しそうに笑う。

 後部座席を倒すと美空の軽自動車に積み込む。美空はそこで始めて泥除けが無いことに気づく。最初は付いていたのにーーーそしてタイヤも標準でついていたのとは違うことにも。

 車を走らせてすぐその疑問を口にした。

「泥除けね、車輪の取り外しに邪魔だから外しちゃったの、どうせ雨の日は乗らないしね」

それに応え杏奈は話し始めた「この怪我もね、通勤じゃないのよ。ちょっとした走行会でね落車したの」

 ーー走行会、いつの間にそんなーーしかも「落車」って、すっかり自転車通みたい。美空は楽しそうに話す杏奈の横顔を怪訝な顔で眺めた。

 よくみると半そでのブラウスやスカートから伸びた手足にも、治りかけているものの、小さな擦り傷らしきのが見れる。

「あの、サイコンってあるでしょ、あれを買いに行った時なのよ。その時この自転車を買った時の店員さんがいて、いろいろ話してたの。そのうちに今度一緒に走りましょってことになって」

ああ、あの人か、と一緒に行った時の、わりとイケメン店員の顔を思い出した。

そしていきなり思い出し笑いをする杏奈。

「おかしいのよ。熱心に誘うから行ってみたけど、み~んなバリバリのロードバイクばっかり。ペースは合わせるからって言われて、なんとか必死についていったんだけど、ちょっとした坂道でとうとうついていけなくなって『先に行ってください』ってお願いしたの、そしたら・・・」

「まさか置いていかれちゃったんですか」

目をむいて聞く美空に小さく笑いながら頭を振った。

「そこであの人がね、あの店員さん。自分が誘ったんだから自分が最後まで面倒見ますって言って、私と一緒に残ってくれたの」

「それって、もしかして二人っきりになったってことですよね」

それを聞くと、杏奈は下を向いて、めずらしくはにかんだような笑顔を見せた。

「それ以来、彼がね、ロードバイクじゃペースが合わないからMTBに参加しないかって、それから林道とか河原とか山道とかをゆっくり走るようなコースばっかり走るようになったの」

「でもそういう所って、やっぱり本格的なMTBが必要じゃないんですか? 相沢さんのはそこまで本格的のじゃないし」

「ああ、でも彼が私の自転車に合わせてコース選んでくれるから」

「でも他の人達はそれでいいんですか」

「心配ないわよ。彼とあたしだけだから」

さも当然そうにサラリと答える杏奈。

「他の人はいないんですか」

「さあ、みんな都合悪いみたい」

ありえない。走行会とかは詳しくないけど、それは単なるデートだろう。美空はそう思ったが言葉にはしなかった。そんなことに気づかないほど鈍感な人でもないだろう。女である限り・・・・

「そういえばこのタイヤ買ったんですか」

後部座席に積み込んだタイヤを振り返って美空が聞いた。最初から装着されてる凸凹のあるブロックパターンと違って、溝があっさり掘られたセミスリックタイヤだ。舗装路を走るには、こちらのほうが都合がいい。

「ああ、あの人が使いなさいって。余ってるんだって。通勤はこっちのほうが楽だから。そして週末は凸凹の方を履いていくの」

「でも林道とか遠いんでしょう毎週行くんですか」

「ん~彼が土日どちらか休めるのは月に3日程度なの。だから月に2回ほどね。あの人が車で迎えに来てくれるから、積み込んで現地まで行くわよ」さも当然というように、しらっと話す。「帰りもクタクタになるまで走っても平気なんだから」

「やっぱりデートなんだ」

つい、ぼそっと言葉に出てしまった杏奈の声に

「あら、そうなの?」と、笑みを浮かべた。


次の日の夕方、K市内の大型自転車店。美空がキョロキョロしながら店内を歩いている。予備のチューブを買いに来たのだが、本当の目的は別にある。

「ああ、あの人だ」

さっそく見つけたらしく店員のひとりをマークした。それは杏奈の自転車を買うときに対応してくれた店員だった。

ーー何のためにここにーー美空は自分でも説明できない衝動で店に来てしまった。なぜか杏奈のことが気にかかる。男に会ってどうするつもりか、自分でもわからない。

「何かお探しですか」

その店員が近づいて声をかけてきた。

「ええと、あの、チューブをください」

しっかり話したつもりだが、思わず声が裏返ってしまって店員は苦笑した。

サイズを伝えるとすぐに持ってきて、チューブを手渡すときに「たしか相田さんのお友達でしたよね」と、さわやかな笑顔で聞いてきた。仕事のミスを見つかった時のように美空の顔がちょっと赤らんだようだ。


ーーやっぱり来なきゃよかったーーどう考えても余計なことをしちゃった、今日のことを知ったら相田さんは怒るに違いないーーー

なんてことをしたのかと、思い出しては恥ずかしくなり、このまま帰ってしまおうかと考えているうちに、さっきの店員が駐車場に止めた美空の車に近寄ってきた。さっき、話があるから駐車場で待っているようにと言われたのだ。

「ごめんね。ちょっとこっちに座っていいかな」

「どうぞ」と言い終わらないうちに滑りこむように助手席に座った。家族以外の男性を隣に座らせるのは始めてのことで、美空は緊張していた。しかも先輩の男だ。胸を抑えてゆっくり息を吸った。

「すみません待たせちゃって。ただ相田さんの怪我がちょっと気になって・・・・」

「あ、これ良かったら飲んで」自販機で買ってきた乳酸飲料を手渡しながら「ボクも彼女の怪我は気になってはいたんです。電話じゃなんともないって言ってたけど、実際どうなの?」

「いえ、まあ、元気にはしてたんですけど・・・ほら・・・顔だし、女の子だから」

「そうか・・・心配かけて済みませんでした。それほど危険な場所ではなかったけど、ボクも注意が足りなかった」

「どうして・・・相田さんなんですか」

あなたならもっと素敵な人がいくらでもーーと、言いかけた言葉をまたも飲み込んだ。

「どうしてって、素敵な人だし、誰だって一緒に走りたいと思うでしょ」あたり前のことだと言わんばかりに片頬で笑いながら「クロスバイクじゃロードに付いて行くのは大変だし、うちの連中飛ばし屋だから・・・・彼女には林道をゆっくり走るほうが合ってるかなと思って誘ったんですよ」

「でも、二人っきりってどういうことですか」

これだけは聞いておこうと決めていたので言葉がすっと出た。

「それは、基本的にロードバイクのほうが好きな人が多いだけで、ボクは両方好きだけど、今のメンバーじゃMTB組がいないんですよ。ボクはゆっくり自然のなかを走るのが好きだから、彼女にもそのほうがいいだろうと思って」

悪い人では無さそう、弁解する男の声を聞いて美空はそう感じた。

「好きなの?彼女のこと」

「そりゃぁかわいいし魅力的だし、それに・・・」クスっと笑ってから「足もきれいだ」

ーーやっぱり見てたんだーーまったく男ってのは。

ふと拓雄のことを考えた。自分がミニスカでも履いて行ったらどうなったか、あの頃のぶっとい足にミニスカ、象の足みたいなーーを想像して美空は吹き出したーーー逆効果だったに違いないーー

「ちょっと補給食獲っていいかな」

美空の笑いに安堵したのか、男がポケットからおにぎりを取り出した。「今日も夜10時までかかりそうなんだ。今食べとかないと夜までもたないんですよ」

そう言って、あっというまに持ってきたオニギリを平らげてしまった男に、美空は弁当のサンドイッチの残りがあったのを思い出してバックから取り出し差し出した。

「よかったらこれもどうぞ」

男は遠慮なく手を伸ばすと、二口か三口でたいらげた。慌てて食べたせいで咳き込む男にお茶も差し出した。

 年中無休の自転車店、土日に休みをとるのは大変なことらしい。他人より多めに土日休みをとるため、男は開店から閉店まで通しで勤務してるのだと説明した。

今度からは怪我させないように十分注意するから、と咳き込みながら話す男に美空は好感をもった。悪い人ではないみたい、安心していいのかも。

「あ、かわいいヘルメットだね」

食べ終わって店に戻ろうとする男がバックシートのヘルメットに気付いた。日曜日に輪行した時のまま置きっぱなしになっていたものだ。

「ああ、これね、友達にもらったっていうか・・・お古を借りてるの」

そう言うと美空は身をよじってヘルメットを手にとった。表面の生地が多少色あせてはいるが傷一つない、大事に使ってきたものだ。

「お古って・・・これ春の新作じゃないか」

男は美空から取り上げるように手に取ると、間違いないなというように頷いていた。

「え、たしか友達が使わなくなったって」

「4月に発売されたばかりだよ。アウターだけじゃなくって中身も新品だね」

外側のプリント地をめくって確認して言った。

「うそ」

美空は合点がいかずに思わず口に出た。

「やだなぁ。うちの店でも扱ってるし間違いないですよ。これけっこう人気あるから」

いい友だちがいるんだね、と言ってヘルメットを美空に戻すと店に戻っていった。白い歯がキラリと光った気がした。

 4月発売の商品を中古だと言われて受け取ったのが4月半ば・・・・美空はしばらくヘルメットを抱えて考えこんでいた。たしかにまだ新しい。それから顔をくずしてヘルメットをぎゅっと抱きしめた。


数日後の土曜日。美空がいつもの神社の脇を抜けて国道に出た時、前方に見覚えのある姿があった。杏奈が自転車に乗ったまま美空の方を見ていた。


「ごめんなさい。余計な真似をして」

 杏奈に出会った場所から数キロ先の川面に降りる階段。そこにふたり並んで腰を下ろしたところで美空は謝った。男と話した後は罪悪感を感じて、杏奈と顔を合わせることを極力避けていたのだ。

「いいのよ別に」少し先の川辺に群れているシロサギを眺めながら答える杏奈。「でも正直嬉しかったの。ホントよ」

嬉しかっと言われ、戸惑う美空に杏奈は続ける。

「あなたいつかあたしの家の前まで走ってきたでしょ」

杏奈の自転車は何がいいか、答えを出すために杏奈の家から会社まで試走した時のことだとすぐ気がついた。

「あたしのためにそこまでやってくれるんだってちょっと感激したの。それであなたのすすめる自転車なら何も言わずに買うつもりでいたのよ。他人のために、そこまでやってくれるあんたのことだもの、悪気のあろうはずがないわ」

「そういってもらえると・・・・」

「それに正直助かったの。あたしって、こういうサバけた性格だから、いや、人にはそう見えるみたいだから、ちょっと遊んでやろうって気持ちで変な男が寄ってくるのよ。だからあの人もそうなのかなぁって思ってて、あまり本気にしちゃいけないと考えていたんだけど・・・昨日あの人から電話があったの」

「あの、彼からですか、なんて言ってたんですか」

「その・・・」杏奈は言い淀んでいたが大きく頷いてから「要するに、本気で付き合って欲しいみたいなことを言われたの」声を高めに言い切った。

思わず両手で口を抑える美空。杏奈の顔が赤らんでいるのは差し込む朝日のせいだけではないだろう。杏奈は口元を緩ませて流れる川面を見つめていた。

「さあ、いつもどこ走ってるの。素敵なコースを案内してよ」

しばらくして杏奈は立ち上がって照れ隠しのように大声で言った。

「そうね、じゃあ、こっちかな」

胸のつかえがすっかり取れた美空は、明るく答えて北の方角を指さす。きついアップダウンのある道だが、それを抜けた高台から眺める田園風景は今の時間がもっとも美しい。

「じゃあ案内してね」

 杏奈の声に頷いて自転車にまたがる美空。ふたりの自転車が土手の砂利を噛みながら進む。 

 川辺のシロサギ達が、その音に驚いていっせいに羽ばたいた。



ホイップクリームが銀色に輝くボウルに注がれる。ハンドミキサーのスイッチを入れる。安物のハンドミキサーはうるさい音を立てながらホイップを撹拌していく。この暑さだと時間がかかるかなと美空は心配した。リビングのエアコンが効いているとはいえ、キッチンまではなかなか冷気が届かない。安物のハンドミキサーは、夏場モーターが熱くなると途中で勝手に止まってしまうからだ。

 お盆休みは母の実家に行ったくらいで、その後は自宅でのんびりとしていた美空。時間と体力はあるものの、日中の暑さは自転車ではもう耐え切れるレベルではなかった。無理をしちゃいけない。それが長続きさせるコツなのだ。美空はそう考え、今しばらくの間は、休日でも早朝だけのトレーニングにして、日中は自宅でおとなしくしていることにしていた。

真夏によく冷えたレアチーズケーキを食べるのは至福の時間だ。運良くハンドミキサーは途中で止まることなくホイップをきれいに泡立ててくれた。手際よく材料を混ぜ合わせたものを型に入れ、クリームの表面を丹念にならして冷蔵庫に入れた時、美空の携帯が鳴った。


「ごめんね、呼びだしちゃって」

「ううん、いいよ暇だったから。少し走らなきゃって思ってたとこ」

電話をくれたのは思いがけない松田博子だった。自転車道を通って来たらしい。自宅の場所がわからないからと、以前二人で寄った街の公園で待ち合わせた。蓮の花が広がる水面を見つめながら二人でベンチに座っている。博子の汚れのない自転車は丁寧に手を入れられているのがわかる。

「遅くなったけど自転車のお金を払いに来たの。でも今日はお店が休みらしくって」困った顔で話す博子「それでよかったらあなたに渡してもらおうかなって」

「なんだそんなことか。いいよ」

「ごめんね。なんか自転車屋さんに顔合わすのも恥ずかしくって。でも振込みで済ますのもなんか愛想がない気がしたの」

「気にしなくっていいよ」美空は現金の封筒を受け取りながら答えると「そういえばその後どうなの、あれ」手のひらで虚空をつかむ仕草をして聞いた。

「行ってないの、あれから全然」

「へー、やったじゃん。止められたんだ」

「ん~まだひと月ぐらいだからなんとも言えないけど」照れたように笑ってから「でもね、なんかそれほど行きたくなくなったの。前は仕事中でもパチンコしたくってたまらなかったのに」

「もしかして今は自転車で走りたくってしょうがないとかじゃないの」

「あ~そう、そうなの。このまえ、あなたが自転車中毒みたいなこと言ったでしょ、わたしもそうなっちゃったかなって」

自転車で走ることはランナーズ・ハイと同じような感覚におちいるのだと雑誌に書イてあった記事を美空は思い出した。さながら自分はジャンキーなのかと、ちょっと複雑な思いだった。

「最初はね、パチンコ行きたくなると、自転車に乗ってガ~って走りだしてたの。そうするとスッキリするの。不思議に食欲もおさまるのよね。仕事中もパチンコの事ばかり考えていたのに今はほとんど考えないの。でもその代わり、最近じゃ仕事をほっぽり出して自転車で走り回りたいってムズムズするの」

「へぇ」

「このまえボーナス入ったんで溜まった家賃とかやっと払えて、借金も少し払って、そうそう、あなたの言うとおりバスから自転車に変えたの。一応最低限の交通費は出るから。そのお金は交通費からでたのよ」美空の預かった封筒を指し示して言った。「まあ、交通費と言っても五千円なんだけどね、それでも今のあたしには助かる。自転車代払ったからこれから毎月その分プラスだからね。なにしろこれから借金いっぱい返していかなきゃならないんだから」

そう楽しそうに話す博子を羨ましそうに見た。

「そうだ。うちに美味しいケーキあるんだ、これから寄って食べて行かない」

「ああ、ごめん。じつはこれから実家によらなきゃいけないの」

「ああそうかお盆だものね。近いの?」

「A町よ」とK市の手前の町名を言った。

「わりと近くなのね。会社からも」

「そう、だから実家に戻ろうかと思うの。そこから会社にも通おうかなって。もともと実家から通っていたけど、兄が結婚してからお嫁さんと合わなくって・・・兄はお嫁さんの味方ばっかりだし・・・それでアパート借りて一人暮らししてたの。一度ひとり暮らしもしてみたかったしね。でも失敗だったみたい」

「でもそんな状態でいまさら戻ったら大変じゃないの」

「だけどそうも言ってられないでしょ。家賃や光熱費の分をすこしでも返済に当てて、早く今の状況から抜け出したいの。ギャンブルに夢中になって無くしたもの、お金だけじゃないけど・・・・早く前の生活に戻って取り戻したいの。もちろん兄嫁はいい顔しないしだろうけど2~3年は我慢する。自分のまいたタネだし、しょうがないって」

「ふ~ん、すごい決心したんだ」

「ああ、でもこういう考え方ができるようになったのも、あんたと会ってからね。自転車に乗ってからかな。ちょっとだけ先が見えたきがしてきた」残りのジュースを一息に飲み干すと、美空の顔を見て「ありがとう。感謝してる」と言った。

水面からそっと涼しい風が吹いてきてふたりの間を抜けていった。そろそろ夏も終わりかと思わせるような涼しい風だった。


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