杏奈
杏奈
美空は典型的な地図を読めない女だったかもしれない。細かい道路や線路、等高線、標識を見ているだけで頭が痛くなってくる。
もちろん方向感覚も無いに等しかった。見知った道以外、いつも通るルートから一本でも外れればもうパニック状態だ。完璧に自分がどのあたりにいるのか、方角さえもわからなくなる。目印や目標を見失ったり、一歩間違えて違う道に入ると、もう自分がどこへいるのかわからなくなってしまう。当てもなくさまよい、見覚えのある通りへ出ることを祈るしかなかった。
方向音痴、それはごく当たり前のことーー他の人達が地磁気を察知して方向を感知しているのではない、ということに美空が気づいたのはつい最近だった。方角を知ることができるのは、先天的な感覚じゃない。常に意識することで自然に身につくものなのだと始めて知ることが出来た。
「頭のなかに地図を描け」拓雄がよく言っていた言葉だ。ひとりで走るようになって、ようやくその意味がわかった。毎日、走った道を地図で復習して、少しづつ頭に入れた。頭の中におおまかな地図がダンロードされる。新たな道を通るたびに、頭の中の地図に描き加えられ、更新されていく。頭のなかのカーナビで常に自分の走っている位置さえ把握していれば、初めて通る道でも大体の見当はついた。うっかり見知らぬ場所へ迷い込んで方角さえもわからなくなったとしても、太陽の方角、遠くに見える山並み、建物、高速道路や新幹線。さまざまな目標から、現在地をほぼ正確に割り出すことができるようになった。
自慢げに話すと笑われるくらいあたり前のことだった。しかし美空はそれを知らなかった。いや、覚えようとしなかっただけか、忘れていたのかもしれない。自転車でいったん道を間違えれば、そのつけは自分に跳ね返ってくる。必死に自転車を漕いで自分の力だけで正しい道に戻らなければいけないのだから。いきあたりばったりでなく、常に一歩先を考えながら走る習慣が身についた。
空間を把握し、先を読む習慣は仕事の上でも役立った。
今までは、ただ言われただけの仕事をこなしていただけ。マニュアル通りにファイルや数字を右のものを左へ、左のものを右へと移すだけのような単純な作業、一日が無限に感じる刑務作業のような日々。何のためにしているのかの意味すらわからず、暗闇の中をただ手探りで歩いているようなそんな仕事。何事もなければ、暗闇の中でも覚えている角々を曲がり、ゆっくりと段差にもつまづかずに歩くことができる。だが仕事にトラブルはつきもの、突発的事故で道が塞がっていればもはや立ち尽くすしかできなかった。誰か助けが来るまで真っ暗な中で一歩も動けなかった。急ぎの時は道順を間違ってしまうこともある。先が見えるのはほんの少し、手探りで進めば転ぶことも怪我もしないが時間がかかる。どんな仕事にも流れがある。意味がある。なんのためにこの作業が必要か知った時に暗闇に光が射して、細い路地や遠くの道筋まではっきりと見ることができ、自分の進むべき道が、仕事の段取りが見えてくるようになった。
会社での仕事はおおまかな地図。仕事の大きな流れの中、自分の仕事の位置を知る。なんのためにやるのか、どこから来てどこへ行くのか、目的地はどこ? ミスをしても慌てることはない。目的地には幾つもの道があるのだから、迂回してもちょっと急げばなんとかなるのだ。仕事の期限も優先順位も把握した。新たな仕事を言いつけられても内容さえ理解すればそう時間はかからない。常に何のために誰のためにするのか意識するだけで、5年もかかってわからなかった、いや、わかろうとしなかった仕事の関わり、全体図がフローチャート図式のように頭に入り、数週間で理解できるようになったのだった。たかがーーと馬鹿にしていた伝票整理、数字羅列の打ち込み、請求書、納品書の作成、いろんな部署への提出書類の作成。どんな仕事も流れを把握して、先を見ながらこなすようになった。仕事の意味さえわかればミスもなくなる。暗闇から抜け出せた美空は、仕事をスムーズに段取り良く、手早くノーミスでこなすようになり、心に余裕もできた。心の変化は表情やをも明るくさせる。
人は自分の心を映す鏡だ。そんな美空を見る周りの人達の態度も変化した。「ありがとう。よくやったね」と笑顔で声をかけられ、愛想の悪いと思っていた上司さえ気さくでイイ人だったんだと思えるように周囲の反応が変わってきた。
ほぼ真後ろで監視している大先輩の蕪木亜美の視線さえ和らいだように感じられた。
「ああ、これも頼む」「ちょっとこれお願い」通常以外の業務さえ信頼して任されるようになった。だがそれは全く苦でなく、むしろ信頼されることがうれしくて嬉々として仕事に取り組んだ。
美空は毎日の出勤が楽しくなっていた。
相沢杏奈が美空に声をかけてきたのはそんな時期だった。
「ねえ、ちょっと自転車のことで相談があるんだけど。教えてよ」
相沢杏奈はこの会社で美空の3年先輩である。所属は工事部。髪をひっつめにして、化粧っ気は少ない。肌は荒れてるわけではなく歳相応であろうが、塗りの少なさでポイントが低い。身だしなみに金をかけない主義でもっぱらのケチであると評判。女性にしては背は高く、出るところは出てメリハリの有るホディをしている。美空にしてみたら羨ましい限りのスタイルである。歳相応にちょっと着飾ればかなりいいセンいってるのにと思わないでもない。彼女は制服姿で通勤しているため、私服姿は会社の慰安旅行でみるだけだが、かなり地味である。そんな彼女に対して、他の女子社員は一歩引いてる気配があった。
「ジテツーっていうの?自転車通勤したいのよ」
もっぱら市民権を得たジテツーと言う言葉だが、電車やバスの本数が少ない地方都市ではよっぽどの近距離でない限りほとんどがマイカー通勤だ。そのためか、いまひとつ馴染みがない。そのなかにおいて杏奈はバス通勤を頑なに続けている珍しい女だった。
車社会の田舎においては、マイカー通勤しないのは、車の免許がないのか、運転が下手なのかと妙に勘ぐられてしまう。または貧乏で車が持てないのだろうとか、事故を起こして免許を失効したのだとか変な噂が立つこともあるくらいだ。
「ああ、でも私そんなに詳しくないですよ、相沢さん」
「なに言ってるの、いい自転車持ってるって評判よ。それにさとみさんにも良いの選んであげたそうじゃない」
さとみの自転車は自分が選んであげたわけじゃないのに・・・・と思ったが、杏奈はそう思い込んでいて、美空をかなり信頼しているようだった。
よりによってこの暑い時期に・・・と美空は心で眉をひそめる。早朝でさえ1時間も走ってくると、体中汗でびしょ濡れだ。シャワーを浴びて下着まで替えるというのに、会社でどうやって汗を流すというのだろう。工事部といっても杏奈は事務職。女子社員にはロッカーと長机だけの更衣室があるだけだった。汗を流すのは不可能だ。まして杏奈の家から会社へは20キロ近くあるだろう、それを毎日往復。たいていの人は聞いただけで尻込みする距離だ。自転車に乗った経験がないのだろうか。美空でさえ夕方の幹線道路など、通勤ラッシュの時間は車の列が怖くて走る気になれない。そして雨や雪の日はもちろん、風だってある。春の嵐、向かい風にはどれだけ挫けそうになったか。
それら自転車通勤の欠点をぽつりぽつりと伝える美空に対して杏奈は言った。
「高校時代にあたしは陸上部で毎日かなりの距離を走ってたの。体力は自信あるわ。それに高校生でさえ、自転車で雨や雪の日、夕方の暗い道だって走るわよ。しかも無灯火、携帯片手なんだから」
相沢杏奈の意志は固いらしく、そう言って意に介さない。
高校時代の若さが今でもあるのかと、それに恐れを知らない高校生といっしょにされても・・・と美空は言いかけてやめた。
「それに、さすがに雨や冬季はバスにするわ」
「ああ、それなら・・・いいかも」自信なさげに話す美空。
「じゃあ、まずどんなの選べばいいの?」
杏奈は体を乗り出して美空に詰め寄った。
その日の帰り、杏奈を美空は車で自宅まで送っていった。「悪いわね」と言いながら会社の制服のままで乗り込む杏奈。長い足をコンソールにぶつけそうにしながら席に座る。その形のよさにちょっと見とれる美空。車のトリップメーターをリセットし走りだす。この時期は残業がなければ日のあるうちに帰れて安全だし、主要幹線道路を避け、脇道を通れば、安全に早く到着できるだろう。美空が自分の考えを話すと、杏奈は交通量の少ない旧道を通ったらどうかと言った。
「ああ、意外といけるかも」
杏奈の指定した通りを走りながら美空は思った。旧道とはいえ、最近整備し直したのだろう、道幅も広く、歩道にも十分な広さが有り、いざというときは車の流れから避難できそうだ。
「雨の日や冬期間、年間の3分の1くらいをバスで通うとするでしょう。冬の3ヶ月くらいは定期を買うとしてよ。残り9ヶ月を自転車、雨の日はバスのチケット買ったとしても年間16万は浮く計算なのよ。5年で80万。うまくすれば100万浮くかもなのよ」
工事部の積算も任されているくらいだから杏奈は計算は得意のようだ。関西風のドスのきいた話し方もあって、なんとなく納得させられてしまう。
「そうか、うちの会社は通勤はキロあたりいくらの支給だから、バス通勤じゃ定期を買っても足が出ますよね」
「そうなの。でも、自家用車で通勤したらもっとかかるのよ。車の維持費ってものがあるでしょ。軽自動車でも税金やら保険料やら、車両代やガソリン代も含めると、どうしても月に3~4万はかかるのよ。そのうえ、事故でも起こしたらその分余計にかかるしね。通勤手当はその半分にしかならないもの」
それを聞いて美空はあらためて自分が大金を払って車に乗っていることに気づいた。けっこう自分ってセレブだなと、変に感心した。
「それに自動車の無駄なところはね、税金やガソリン代だけじゃないのよ。たとえば今、会社からここまで2人以上乗っていた対向車が何台あったと思う?」
「ああ、ごめんなさい、見てなかった」
イキナリの質問に戸惑う美空。
「二割にも満たないわね」
「へぇそんなものですか」
「特に少ないわけじゃないの。朝はバスの中で退屈しのぎにカウントしてるけど、通勤時は精々1割かな。たったひとりの人間を運ぶのに2トン近い鉄の塊を動かすのって資源の無駄じゃないかしら」
「それでバスにのるんですか」
「そういうわけじゃないけど・・・・でもバスだってあの巨体で普段5人くらいしか乗客がいないわよ。昼間なんかほとんど無人なのにガスをまき散らして走ってるんだから、しかもディーゼルでしょ。マイカーより無駄かもね」
美空は地元のバス会社が数年前に会社更生法の適用を受けて再建したとの記事を見たことを思い出した。自家用車通勤が多いこの地方でバスの利用者は少ない。かといって少なからず必要とする人もいるのだ。
「マイカー通勤の人の2割でも3割でもいいからバスや自転車で通えば、だいぶ違うと思うんだけどね。」杏奈は調子が出てきたのか持論をまくしたて始めた。「そうすれば日本のインフラ整備も変わってくるし、自転車で健康になれば病院へ行くことも減って医療費削減にもなって余計な税金もつかわずに済むの。それに・・・・」
いきなり政治的な展開になって美空は言葉を失った。美空が黙っているのに気を良くしてか、杏奈のエコ談義はさらに続いた。
美空はいつか見たテレビ番組で見た、自転車先進国といわれるスウェーデンやドイツの景色を思い出していた。整備された自転車専用レーンを軽快に走る自転車の群れ。電車にもそのまま持ち込める。坂道に自転車を載せて歩ける動くスロープが有ったり、当時自転車に興味のなかった美空でさえ、いちど住んでみたい思わせるような社会だった。このあたりも自転車専用レーンができて、老若男女、多くの人が自転車で行き来するようになれば、自動車の渋滞も緩和され、交通事故も減少し、空気も綺麗になるかも・・・雨の日も滑りにくい路面に、融雪装置もあって街灯も増えれば快適に自転車通勤通学ができるのに。休日は種種雑多な自転車で家族連れや友達同士でのポタリングに・・・・」
「それで自転車はなにがいいと思うの?」
杏奈の声に美空は妄想から引き戻された。いつの間にか、エコ談義は終わっていたらしい。美空はあわてて答える。
「えーとですね、まず予算はいくらぐらいなんですか?」
1万とかは勘弁して、と美空は思った。せめて3万くらいならちゃんとしたママチャリが買えるからーー
「そうね。10万くらいかしら」
「えぇ、そんなに」
「だって毎日乗るものだし、命預けるのよ。簡単に壊れてしまうのじゃダメよ、ちゃんとしたのなら5年は持つでしょう。それに年間16万円節約できるなら8ヶ月で元が取れるでし安いものよ」
美空は杏奈の計算に舌を巻いた。なるほど金の使いかたを知ってるなと感心した。あまり聞いていなかったが、エコ談義といい、たんなるケチンボってわけじゃなく、論理的な思考の持ち主らしいと杏奈に対する認識を改めた。
「おまけに運動不足も解消できて健康と体力も手に入るってわけ。それにーー」杏奈は美空の脇腹を軽く叩いて「スリムな体もね」と言って笑った。
痩せたとはいえ、まだまだぷよぷよしたお腹を叩かれて美空は首筋が熱くなった。とりあえず予算的には十分、というより十分すぎて逆に車種が限定できずに困る。ママチャリはもちろん、ロードバイクのエントリークラスまで手に入る金額なのだから。じっくり考えてみますと言って即答を避けると、杏奈は拍子抜けしたような表情をした。
「悪いわね家まで送ってもらっちゃって」
「いいえ、わりと近いですからどうってことありません」
杏奈の自宅の前で車を降りた。確かに距離的には近かったが、県道から脇道に入ってからが少しめんどうな場所だった。古い住宅街は農家が多く、道が入り組んでいた。杏奈の家に入るには大きく迂回して、さらに車幅ギリギリくらいの細い道を入らなければいけないややこしい場所だった。戻る時はバックで先の通りまで戻らなければいけない。
「自転車にしたいのはこの地形のせいもあるの」
杏奈は目を細めて不満そうに言った。
たしかに表通りまでは、すぐそこに見えるにもかかわらず、歩いても10分以上はかかりそうだ。せめてこちら側に通りがあれば、と、東側に目をやった時に美空は広い道路に目が止まった。砂利道ではあるが、一車線分ぐらいの幅の道路が東に向かって伸びている。
「あれは?」
「ああ、地下に灌漑用水のパイプが入ってるの。このへん田畑がおおいでしょ」
「どこに続いているんですか」
「県道まで続いているわよ。もっともパイプ保護のために通行禁止となってるけど」と言ってから笑い「でも自動車で通行しちゃう人もたまにいるわ」
「自転車なら構わないのかな」
「そうね、自転車ならいいと思うけど・・・・おしり痛いわよ」
美空は話を聞きながら何か頭のなかでひらめきかけていた。
翌朝、美空はバックの中に会社の制服を詰めて自転車に乗った。パンパンに膨らんだバックの中には制服の他、タオルや換えの下着、汗ふきシートにデオドラントスプレーまで入っている。朝の5時をまわったばかり。「まっすぐ会社に行くから」とだけ母親にいうと、理由も言わずに走りだした。心配そうに見送る母の顔がチラリと見えた。
一時間後には杏奈の自宅付近に到着していた。昨日見た砂利道の上にたって、ずっと先を眺める。そして振り返って杏奈の家を見てから、自転車に乗り込んで走りだした。道はわりと新しいようだ。最近敷き詰め直したのだろう、角ばった砂利がガシガシいいながらタイヤを飲み込む。わりと太めのタイヤにもかかわらず、推進力が吸い取られて走りにくい。砂利に負けじと漕いでゆくと、まわりに新しい住宅が建っていた。あたりの住人が自家用車で通るのだろう、そのあたりから地面が慣らされ、砂利が踏み固められていて、いくらか走りやすくなった。そのかわり車が削った凸凹道で手に尻に衝撃が伝わる。我慢して腰を浮かして抜重しながら2キロほど走ると、ようやく前方に舗装道路が見えてきた。大きくカーブした県道との交差点だ。この道路を通れば会社へ通勤するには少しばかりショートカットできる。県道はそれなりに交通が多い。県道を横切って、その一本先の旧道に入る。道幅は狭くなるが交通量はグッと減ってくる。
古い住宅街のため、車じゃ飛ばせないが、自転車なら安心して走れると美空は思った。
前日に地図で調べた通りの脇道を通りながら会社へ向かった。国道に入ってからは、さらに注意深く走り会社へ到着した。
「おばちゃん。自転車置かせてね」
会社の近くの知り合いの家に自転車をおいてから会社に向かおうとして、ふと後を振り替える。
「ああ、ここまで自転車で来れたんだ」
自宅を出てから杏奈の家まで20キロ少々、そこから会社まで砂利道、脇道を走りぬけて18キロ、の計38キロ。美空は自分の後に今来た道が続いているのが実感できた。目を閉じると自分の家がすぐ近くにあるように感じられた。すべての道は地続きで繋がっている、それが妙に不思議な感覚となって心に染みた。南に目を向けると川にかかる大橋が見える。自転車道はその脇にある。帰りはあそこから帰ろうーー帰り道に自転車道を走る自分を想像すると、ふと嬉しくなってウキウキしながら会社のドアを開けた。
7時を少しまわったばかり、女子更衣室は誰もいないが早い人はまもなく出社する。美空は慌てて着替えを出す。下着だけになってエアコンを最大にしても汗はなかなか引かない。何度汗を拭いても体の中から燃えているようで次々に汗が吹き出す。ようやく汗も引いて落ち着いた頃には更衣室の外に足音がした。
「あら、早いのね早水さん」
経理の蕪木亜美がはいってきて声を掛けた。最近は怒られることが減ったとはいえ、美空にとっては大先輩、話すのは苦手だ。「ええ、ちょっと」と言って慌ててスカートとブラウスを着込んで更衣室を出る。
「やっぱり下着まで替えないと気持ち悪なぁ」ブラウスの襟をつまんで匂いを確認するように鼻を寄せた。「あっ、そうだ、お弁当」
着替えたあとで会社で食べる予定だった朝の弁当を買い忘れたことをようやく思い出した。
「へ~、それで今朝は朝食抜きだったの」
昼休みに近くの公園で朝昼兼用の弁当にかぶりつく美空を見ながらさとみが笑った。
「でも1食抜いた分、またやせるんじゃない」
「ダメです。朝食は抜いちゃいけないんです。昨日の夜から何も食べてないから、ここぞとばかりに栄養を吸収しようと胃袋が頑張るから余計に太るって本に書いてありました」
箸をくるくる回しながら美空が説明する。
「へ~詳しいのね」
さとみが感心して美空を見つめた。その視線が妙に恥ずかしくて、ますます弁当に集中する美空。
「それで自転車の候補は決まったの?」
「それがさっぱり・・・ううん、なんとなくおぼろげながら見えてきたってとこかもーーでも・・・」
美空の自信の無さそうな顔を見てさとみが微笑む。
「何をすすめていいかわかんないんだ」
「だって10万円だもの、気に入らなかったら大変。責任取れないもの」
「そっか~、そりゃあそうよね。気持ちはわかる」大きく息をついてから美空に視線を戻して「でもクウちゃんを信じて頼んだんだからいいんじゃない。それに最終的に決定するのは彼女だし」さとみはそれでも煮え切らない美空を見て、ため息をついてから言った。
「大丈夫。クウちゃんの考えたことなら間違いないから。もっと自分を信じなさいよ」
そして美空の手をとって「あのね、10万円あなたが払うと考えればいいの」
「え、わたしが払うんですか」
「例えばの話しよ。つまり自分のお金だったらどれにするかわかるでしょ。そうねプレゼント選ぶように考えて。相手に気に入ってもらえるような」
さとみの言ったことに得心がいったのか。美空はうんうん頷いた。とりあえず自分のわかる範囲で教えてあげようと心に決めた。
「そうなの、そんなにむづかしいの」
就業後の駐車場で、美空の説明とも言い訳ともつかない長い話を聞いてから、相沢杏奈は残念そうに言った。それでも諦めきれないように美空をみる杏奈の視線にたえられず、美空はせきを切ったように話しだした。
「でもね、私なりに考えたんですよ。もしかしたらこんなのがいいかなって」トートバックから自転車雑誌を取り出し、ちょっとあたりを眺めてから、自分の車のエンジンフードの上に広げる。
「たとえばこんなのです」
付箋の貼ってあるページを広げて指差す先には、真っ赤な車体のクロスバイクが大きく写っている。エンジンフードから滑り落ちそうになる雑誌を必死に押さえながら美空は説明する。
「ドイツの歴史ある会社の自転車なんです。特徴は・・・・・」
美空はやや緊張しているのか、少し早口で説明し始めた。他の社員が好奇の目で二人を眺めて挨拶していくが、その声も耳に届かないようだった。
「これはいいですよ。ドイツの老舗ブランドですし、ゆったり乗れる前傾ポジションは初心者でも楽ですし、50mmトラベルのフロントサスや35mmの太めのタイヤは路面のショックを吸収して安定して乗ることが出来て、長時間のライドでもつかれません。さらにーーー」
駐車場での説明半ば、どうせなら現物見たいという杏奈に押し切られ、市内の大型自転車店へやって来た。声を掛けてきた若い店員に説明すると、在庫がありますからと、すぐに目当ての自転車に案内してくれた。その若い店員の流暢な説明をふたりは黙って聞いていた。
「衝撃を吸収するということは自転車をこぐ力もロスすると言われますが、これはロックアップ機構がついていて、このレバーを操作することでフロントサスをロックすることができるんです。これで無駄なパワーロスもなく快適にーー」
自転車の各部を指さしながら丁寧に説明する店員。この場で決めなければならないかと気になって不安そうな美空。杏奈は完全に理解できているのか、熱心に店員の説明を聞いている。ひととおり説明が終わったとき、店員が二人の顔をみて「いかがですか」と聞いた。
これがお薦めの機種なのかと、確認を求めるような視線を送る杏奈。美空はゆっくりと一回頷く。しかしその目は99,750円と書かれた大きいプライスタグを心配そうに眺めていた。
「この機種で良ければ今ならヘルメットやグローブ等をサービスでお付けできますよ」
二人よりは少し歳上であろう男の店員は感じがよく、相田も気に入ってるようだった
雑誌で見たのと同じ、赤にグレーのグラフィックが女の子には渋すぎるように思えたが「目立ったほうが安全なんでしょ」と杏奈は意に介さなかった。
「ちょっと乗ってみていいかしら」
そう尋ねる杏奈のスカート姿が気になったのか、店員は困ったような顔をしつつも「どうぞ」とだけ答えた。
スポーツバイクだ。シティサイクルのようにちょっと足を上げて前からは乗ることは出来ない。いきなり大きく右足を後にあげて回す、ーー制服のスカートのままーーあわてて後を振り返るが誰もいなかったのにほっとする美空。
「これでいいのかしら」
杏奈はサドルに腰掛けて爪先立ちで立っている。スカートがサドルに引かれてミニスカートのようにずり上がって、ハリのある足が長く伸びているのが見えた。陸上部出身は伊達じゃないようだ。脂肪の少ない美脚であった。それを見る店員の頬が赤くなっているようにも見えた。
「サドルから降りてみてください」
トップチューブはいくらか傾斜しているデザインだが、サドルから降りると、自転車のフレームはスカートを押上げてかなりセクシー過ぎる状態になってしまった。それは店内の何人かの男性の視線を集めた。それに気づいた美空が睨むような目つきで見返すと、男たちはあわてて目をそらした。
「高さはいいみたいですが、ハンドルが少し遠くて窮屈のようですね。やっぱりこちらよりワンサイズ下のほうが、あなたにはぴったりするはずです」
杏奈の痴態を人目に晒すまいと前に回ってガードする美空の姿が微笑ましいのだろう、店員が頬をゆるめて説明していた。
「じゃあそのサイズをひとつください。色はこれでいいわよね早水さん」
スイっと自転車から降りて店員に話しかける杏奈。コロッケでも買うような気軽な言い方に美空は耳を疑った。店員も一瞬戸惑っったようで間をおいて内容を確認した。
「え、ちょっと待って、他のもよく見てみたほうが良くないですか」
「いいのよ。私が見てもよく分からないし、あなたがこれがいいと決めたならそれで間違いないわ」
そう言って今度はヘルメットや備品の相談を店員と始めた。ひとつひとつ亜美に確認してはいるが、店員の説明は美空の乏しい知識よりも正確で親切であった。美空は杏奈のそばでただ頷いているだけだった。
「ありがとうね付き合ってくれて」
注文書を書いて、納車日も決まった。値引きを入れても備品をいくつか揃えたので、支払額は予算を少しオーバーしてしまった。申し訳なさそうにする美空に気にしないで、と明るく言った杏奈。夜8時過ぎ。終バスはとっくに出ているので美空は杏奈の自宅まで送っていった。杏奈は車を降りると、もう一度美空に礼を言うのを忘れなかった。
礼を言いたいのは自分のほうだと美空は思った。
ーーー役に立てたかなーーーー
少し窓を開けて走るとここち良い風が入ってくる。カエルの泣き声が風とともに一斉に車内になだれ込んできた。
翌週からヘルメットに半袖ジャージの上下で出勤する杏奈の姿は社内で噂となった。更衣室で下着姿になり豪快に汗を拭く姿はインパクトあり過ぎで、社内ではちょっと話題になった。だがそれもほんのいっときで、翌週には誰も騒ぐことはなくなった。
ただ、システム課の影山怜子だけは、美空に文句とも苦情ともとれる嫌味を言ってきた。
「あなたが選んであげたの、あのセンス何? ウェアもあれじゃ学校ジャージじゃなくって? まったく、あなたに任せるとこの程度ね」と、さんざんな言いようだった。
さすがに美空も杏奈の様子が気になって、出勤してきた杏奈と鉢合わせた時に調子はどうかと尋ねた。自分の助言は正しかったのか、役に立てたのか気になっていたことを尋ねた。それに対し、親指を立てて「なかなかいいわ」とだけ答えて階段を登っていく杏奈。それを少し不安げな表情で見送っていた。