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さとみ

         さとみ


榊枝さとみは、美空と同じ会社に勤める二歳年上の女性社員だ。地元の短大を出ているため、美空とは同期入社だった。もともと山沿いの地方にあったガス会社の出張所が、県中央部に進出する際、営業所に格上げになった時の入社組である。その年、業務拡張と本社業務の一部移転に伴い、例年よりも多くの人材を採用した。県内では中堅企業であるこの会社に、何のコネも実力もない美空がすんなり入社できたのは、そんな事情があったのだろう。そのため同期入社は彼女を含めて数多い。

さとみは二階の管理課所属。一階の営業や総務の人たちに比べると顔を合わせる機会は少なかった。そんな彼女がある日総務課に書類を持って来たついでに美空に声をかけてきた。

「今度あなたの自転車見せてくれないかな」

美空のそばに顔を寄せてストレートの長い髪をかきあげながら話しかけるさとみは、知性をも感じるやさしい目、ラインの綺麗な口元など、美人の部類に入るだろう。頬がややぽっちゃりしているが、太っているという感覚ではない。むしろ、この位のぽっちゃり系は男性受けは良いはず。事実、マークしている男性社員も多いと聞いている。

「えっと、ここには持ってきてませんけど」

「知ってるわよ、明日はお休みでしょ、時間のあいたときに見せてくれたらいいの。時間と場所はあなたの都合に合わせるから」

そういうと「都合いい日時を教えてね」と言って美空にメモを握らせて微笑んで立ち去った。手のひらを開くと、彼女の携帯のメールアドレスが丁寧な文字で書かれていた。

社内メールでもいいし、携帯の通信でもいいのにーーまるでラブレターでも貰った中学生のように美空はドキドキしながらメモを握りしめ彼女が立ち去るのを眺めていた。


連休開けくらいから、美空は社内の女子社員に声をかけられることが多くなっていた。自転車のダイエット法を教えて欲しいという人女子がほとんどだった。春からほんの数ヶ月で目覚ましい減量をなしとげた美空。みんなが気になるのも当然だろう。

自転車の効能であることはみんな知っているが「一日2~30キロ走るだけでいいの」と言うと、殆どの人が落胆してそれ以上言葉を発すること無く離れていった。自分自身、最初は3~5キロ走るだけでも限界だったことを思い出して美空は納得した。

たまに、それでもいいから、といって休日に一緒に走ることを望む人もいた。だが、たいていは三日坊主、酷いのは初日からすっぽかしなのだ。相手の自宅の近くまで出向いてすっぽかしは酷すぎる。電話すれば迷惑そうな声で「今日はいいわ」とだけ言われるだけで、それきり次の日はなかった。

今度、自転車相談持ちかけられたら「一日50キロ走るなら」と言ってやろう、と美空は考えていた。

「伝票の入力終わったのかしら?」

後ろからとげとげしい声が飛んでくる。同じ課の先輩の蕪木亜美である。この会社が出張所時代からの古株で、仕事はできる。男性社員さえ一目置いてる古参社員であった。美空が思いにふけっていて手がおろそかになっていたのを蕪木亜美は見逃さなかった。あわてて「はい」と返事をすると仕事の続きに取り掛かった。



「ちょっと怖いかも」

翌日の土曜日、連絡を受けてさっそく美空の自宅まで出向いてきた榊枝さとみ。試しに乗ってみたら、と言う美空の言葉に従って自転車にまたがるとそう言った。

「へ~こういう感じなんだ」

乗り始めこそふらついたものの、数分も乗るとかなりしなやかな動きを見せた。美空の兄でさえ初めて乗った時はふらついていて危なっかしい乗り方だったのに、どうやらカンがいいらしい。

さとみはそれから周辺を何周かまわると、激しく息をつきながら言った。

「ありがとう。もういいわ。ちょっと走っただけなのにこんなに」

すっかり紅潮した顔で、汗ばんだ胸元をハンカチで拭く仕草が妙に色っぽい。それを見つめる美空の顔が赤くなる。

「毎日どのくらい走るの」

「え、そんなには・・・10キロか20キロくらいです」

「そう、すごいのね。私もがんばってみようかな」汗を拭いて大きく息を吐くと「でもこれだけで息が上がるようじゃ駄目ね。すごい疲れちゃった」

「すぐに慣れますよ。そうだ、家でお茶します?」

「いいわね、ごちそうになるわ」

家族は全員出かけているので、居間でゆっくりできる。

「へー、手作りなんだ」

よく冷えたレアチーズケーキを出されて、さとみは思いがけないといった表情で目を丸くする。

「最近作るようになったの」

美空は照れながらフォークを動かす。

「こんな美味しいもの毎日食べてるんだ」さとみはケーキを噛みしめるように食べる。「それでそんなに痩せるなんてすごいのね。みんな驚くわけだわ」

ケーキ一切れ300kcalとか、自転車で1時間近く走るくらいの消費カロリーだ。美空は最近カロリー摂取量に気を使うようになっていた。余計に食べ過ぎたと感じた時には、夕方でも日のあるうちに余分に走る癖がついた。コンビニへ行く時ももちろん自転車だ。それも一番近い店ではなく三番目に近い店に行くだけでケーキ一切れ分のカロリーは処理できる。わずかひと切れのケーキのカロリーを消費するのは楽なことではない。その苦労を知ったせいか、あるいは自転車がストレス解消になったのか、最近は余計に食べ過ぎることは少なくなった。自転車に乗り始めた当初は、お腹が空いて以前よりも食欲が旺盛だった。それが少しづつ落ち着いてきて、間食の欲求さえもなくなってきたのは不思議な変化だった。まして寝る前に夜食として菓子類を食べることは全く無くなっていた。

食べたいものを我慢していたときは、我慢すること自体がストレスになって余計食べたくなっていたのかもしれない。食べても走れば済むーーそう思うと安心して、空腹時の飢餓感を恐れなくなった。

「すごいのね、尊敬しちゃうわ」

美空が最近の変化を話しだすと感心しながら熱心に聞くさとみだった。

「あら、お友達みえてるの?」

買い物から戻った母が声をかけた。


さとみがまた声をかけてきたのは、それから二週間ほど後だった。

「この前のお礼に、今度私の家に来なさいよ。ごちそうするから」

「そんなお礼なんて・・・」と遠慮する美空に、ぜひにと言って週末行くことを約束させられた。

「自転車で来てね」

さとみは事務所を出て行く前に振り返って笑顔でそう言った。


さとみの家はS市にある。K市と美空の家の中間。

「18キロか」美空はさとみの家の近くまで来るとサイコンの距離表示を見てつぶやいた。ちょうど1時間程度の距離だ、決して遠くはない。それは今の美空にとっては、近所のコンビニへ行くくらいの感覚だった。近くまで来たら電話して、と言われたのを思い出し、携帯を取り出した時に近くでさとみの声がした。

「ここよ、早水さん」

美空の位置から三軒先に、手を振るさとみの姿が見えた。ナチュラル系というのだろうか、フリルの白いブラウスに淡い花プリントのロングスカートがかわいい。

「ごめんね。たいへんだったでしょう自転車」

美空の汗だらけの姿に気がつくと、ねぎらうように言葉をかけた。

休憩を入れれば、50km程度までは走れる体力と技術はついたものの、汗だけは押さえることが出来ない。むしろ汗腺が発達したためか、以前に増して汗の出やすい体質に変わった。今の時期、日中10kmも走ったら下着までぐっしょりと濡れる。最近流行りのドライ下着がなければ気持ち悪くて我慢できないだろう。

「すごい汗。うちでシャワー浴びる?」

「ううん。大丈夫」

しかし頭だけは我慢できないのでヘルメットを外す。

「あら、それヘルメットだったんだ」

かわいいと言いながらヘルメットをいじる彼女の後に、新しい自転車があることに美空は気づいた。

「あれ、もしかしてさとみさんの?」

「この前あなたのところへ遊びに行ったあと、自転車屋さん眺めたのね。そしたら一目惚れしちゃって」

「ああ、一目惚れですか」

「それにこの自転車なら」

「なら?」

「ないしょ」さとみはいたずらっぽく笑う。

さとみの自転車はミニベロと呼ばれる小径車であった。たしかイギリス製の有名なブランドのもので15万円くらいする折り畳みの自転車であることを美空は雑誌て見て知っていた。シンプルで上品な飽きの来ないデザインは、さとみにぴったりかもしれないと感じた。日本でもそのブランドの愛好者は多い。そして完全自社生産にこだわるメーカーの姿勢は、信頼出来るものだった。

さとみの家からサイクリング・ロードは近い。遊水地を巡る遊歩道や、川沿いにK市まで伸びている自転車道は、休日にはウォーキングからサイクリングまで楽しめる。そこを川面を眺めながら、ふたりでK市を目指すことになった。ジョギングや散歩の人も多いのため、ふたりはゆっくりと走った。走っている間は風を受けて心地よい。風は程よく熱を奪ってくれ、疲れを取り去ってくれる。

ふたりの勤める会社の近くを通り、途中からK市内に入る。普段クルマでは通らない細い路地に入ってみる。通りには、初めて見る雑貨屋、古本屋や小さな喫茶店、和菓子屋などが目につく。車で来るには不便な狭い通りも気兼ねなく入っていける。行き止まりがあっても自転車担いで隣接する通りへ抜けることだって可能だ。車と違って安心してどこへでも入っていけるのは魅力だった。

さらにS市に戻って自転車道から一般道に抜けて人気のラーメン屋に入る。駐車場は満車だったが、駐車場の隅に自転車を置いてゆっくりと食べることができた。そんな時は妙に儲かった感じがして満足する美空だった。

「楽しかったね、又来ようね」

ラーメンを食べ終えて外へ出ると、さとみが汗を拭きながら紅潮した笑顔を見せた。

「そうね、今度はもっとお店とか調べておきます」

「あら、いいのよ。行き当たりばったりのほうが楽しいじゃない」

「それもそうですね」

納得して答える美空。ふたりはラーメンの汗を軽く拭って走りだす。

遊水地まで戻った時、突然さとみの顔がこわばった。さとみの視線の先には駐車場に停めてある数台の車。そのうちの1台の車の脇に立っている若い男の姿。ジーンズとTシャツをだらしなく着こなし、泳ぐような目つきでふたりを見つめる表情に不気味さを感じた。

男は自転車を止めたまま戸惑っている美空達に近づく。ちらっと美空に一瞥をくれると、さとみに近づいていきなりその腕を掴んだ。

「なにやってんだよ。電話には出ないし会社に行っても逃げるように帰っちまうし」

そう言って怒りをあらわす男に美空は見覚えがあった。ここ数週間、夕方近くになると、会社の前の通りに数時間も駐車している男だった。怪しんだ男性社員が問い詰めようと車に向かうと、逃げるように走り去った車。その車の窓から一瞬のぞいた顔に間違いなかった。

「だからもう関係ないって言ってるでしょう。これ以上付きまとわないで」

泣きそうな顔で、激しく頭を振って叫ぶさとみ。

「そんなこと言うなよ。俺ずっと寂しくってどうしていいかわかんなくて、駄目なんだよお前がいないと」

今度は急に下手に出た男。付近にいた家族連れの視線が集まる。ひと目がなければ土下座でもしそうな雰囲気だった。

「お前、なんて言わないでよ。いこう早水さん」

さとみが美空の肩を押し出すようにして叩く。美空はあわてて自転車を走らせさとみの後に続いた。しばらくして後を振り返ると、呆然として立ちつくす男は、急に憎々しげな表情を見せてふたりを睨みつけていた。

「どうしようもない男なの。ごめんね。嫌な思いさせて、びっくりしたでしょ」

しばらく走った先の公園でベンチに腰掛けたあと、さとみは理由を話し始めた。友人の付き合いで出席したお見合いパーティー、そこで知り合った人らしい。最初は真面目そうな人に思えて、言われるままに何度か会ってはみたものの、それだけで恋人気取りになって、しつこく付きまとうようになったらしい。しつこい誘いを断っても、会社の前まで来てみたり、どうやって調べたのか自宅周辺をうろついたり、気味が悪くてほとほと困っていたらしい。当初は公務員と言っていたのもまったくの嘘だった。

「今日も家の周辺で私達が出かけるのを見ていたんだわ。あとをつけて私達が戻るまで遊水地で張りこんでたのね」

さとみの話を聞いて美空は背筋が寒くなった。本当にストーカーっているんだと思った。

「警察には?」

「う~ん、そこまでするのもちょっと。家族にも知られるの嫌なの」

「そうよね」

「そんなこともあってクサクサしてたから、気晴らしに何か新しいことでも始めようって思ったの。それには自転車がいいかなって、あなたを見て思ったの」

「私を?どうして」

「だって最近明るいし、なんか日々すごく充実してるって感じがするし」羨ましそうに美空を見て言った。「それにすごくスマートになった」

ベンチから立ち上がってスカートを軽くはたきながらさとみは笑った。

「ごめんね遅くまで付き合ってもらって」

そして、今日はありがとうと礼を言った。気がつくと日が暮れかかっている。、美空は暗くなりかけの道は苦手だった。さとみのことは気にかかったが、その日は急かされるままにそこで別れた。

その後も会社で顔を合わせるが、つとめて元気そうな笑顔を向けてくれたようだった。わりと元気そう、大丈夫なのかな?相手は諦めたのかもしれない。そう思って安心していた数日後の事だった。

「どうしたのさとみさん」

美空が朝の出勤時に、ひと目で泣きはらしたわかるさとみの顔を見て思わず叫んだ。

「自転車がね、盗まれちゃったの」

さとみが搾り出すような声で答えた。

「まさか、この前一緒に走ったアレ?」

美空の問いに、顔を伏せて小さくうなずくさとみ。

美空が警察に届けたのか尋ねると、さとみは目をそらして黙り込んだ。

「もしかして・・・あの男が、そうなんですか?」

問いただすと、さとみはゆっくりとうなずいた。

一昨日、帰宅してから家族にたのまれた買い物をするため、近所のスーパーへ自転車で行った帰り道、家の近くでその男が待ちぶせていたらしい。いきなり目の前に車を止めて進路を塞ぎ、車から降りるなり、さとみの自転車をロックすると鍵を引き抜いた。さとみはあわてずに財布に入れていたスペアの鍵を取り出してロックを外して反対方向に走り、裏道を抜けて逃げてきたのだという。

自転車が盗まれたのはその翌日。早朝なら安心と思い、遊水地を一走りして帰ってくると家の裏口の前に自転車を置いた。その時間違いなく施錠したのだという。普段は家の中に入れておくが、その時はトイレにいくため慌てていて、施錠してだけで表に置いた。用を済ませてから家の中に入れようとしたら自転車は消えていた。怪しい人間ががうろついていたという近所の人の話が男の特徴と一致した。

「鍵も盗られたし、あの人やっぱり近所を張ってたのよ」

悔しそうに話すさとみ。涙をこらえている風だった。

「それって泥棒じゃない。ストーカー行為といい許せないわよ。警察に届けたの?」

いつになく激しい剣幕でせまる美空にちょっとたじろいた様子のさとみだった。


朝のトレーニングのため早く寝る美空だったが、その夜は遅くまで居間でテレビドラマを見ていた。といっても上の空で聞いている。内容は頭に入らなかった。考えているのはさとみのことだ。美空はその日、会社の帰りしなにもう一度さとみと話しあっていた。そこで男に電話させて明日K市内のファーストフード店に来るように電話させたのだった。

美空は怒りのあまり無茶なことをしたと後悔していた。ストーカーするような男だ、ヤバい相手だったらどうしようかと。

誰か助けを借りようにも、社内の男性社員では変な噂をたてられるかもしれないし、頼りになるような友だちもいない、考えがまとまらずぼんやりテレビを見ていた。ソファーには風呂あがり、パンツ一枚でビールを飲みながらテレビを見てる兄がいるだけだった。父は先に休み、母は風呂に入っていた。

(ああ、これも一応男だったな)くだらないバラエティ番組を見ながらゲラゲラ笑ってる兄を見て美空は考えた。(まあ、カカシの代わりぐらいにはなるかな)

「ねぇお兄ちゃん」起き上がって兄の顔を見て聞いた。「ケンカ強い?」


翌日の夕方、美空とさとみはK市内のファーストフード店、二階席の4人掛けテーブルで男と対峙していた。階段そばに陣取ったのは、ふたりが危険を感じた時に逃げやすいためだ。

男は腕を組んでしかめっ面して、時折り美空の方を向き、(なんでお前がいるんだ)と威圧するように睨みつけていた。

「はっきり言いますけど」沈黙に耐え切れず美空の方から話しだした。「これ以上さとみさんに付きまとわないで欲しいの」

昨夜、兄を相手に何度も特訓したセリフ。どうやらトチらずにはっきりと言えたようだった。

それに対し、美空を憎々しげな表情で睨みつける男。美空はその目つきに一瞬目をそらしかけるが気を取り直してあわてて視線を戻す。さとみも黙って男を睨みつけていた。

「これ以上つきまとうなら警察に言いますよ」

「馬鹿かおまえ。お前には関係ないだろう。俺達の問題だ、口をだすな」

「でも、さとみさんはあなたと付き合ってるわけじゃないし、あなたが勝手にかんちがいしてるだけでしょ。何度も迷惑だって言ってるのに」

「なんだよそれ、証拠でもあるのか」

ふてくされたように斜に構えて吐きだすように言った男に、美空は水戸黄門の印籠よろしく携帯を男の前にかざした。男の顔がひきつる。携帯の画面には男が送ったメールや着信の履歴がズラリと並んで表示されていた。一日に数十回。ストーカーとして告発するには充分な要件だ。

「これを持って警察に行ってもいいんですよ」

男の体が震えた。だがそれは恐怖ではなく怒りのためだったようだ。唇をきつくかみしめていた。

「お前なんかに、お前なんかに・・・・」

男はふたりにキッと目を向けてやおら立ち上がり右腕を上げる。美空もさとみも思わず身を固くした。

「その手をどうするつもりだよお兄さん」

後ろから突然あらわれ、男の手をがっちり掴んだのは美空の兄、達海だった。つづいて階段を上がってきた二人の男もその後に立つ。

「お兄ちゃん遅い」非難の目を向ける美空。

「オレが来るまで待ってろって言っただろ」

美空を見てニヤリと笑うと、男を睨みつけて「俺の妹に文句があるのか」とゆっくりと言った。

男は青ざめて膝が揺れた。崩れ落ちるように椅子に腰を落とす。

達海は男の腕を抑えたまま、その隣に腰を下ろして静かに話した。

「今後、こっちの彼女に二度と近づかない、電話もメールもしない、約束してくれるか?」

しばらく返事を待つが、目を背けてなにも言おうとしない男に対し、達海が後ろを向いて二人の連れに合図を送った。連れの二人は男の後ろにまわるとガッチリと肩を掴んだ。

「ここじゃなんだから場所を変えて話そう」

そう聞いて、とたんにおどおどする男に続けて達海はぐっと顔を近づけた。「俺達の通うボクシングジムだ。楽しく汗を流して語ろうじゃないか」

男の肩ががっくりと落ちた。

それから昨夜準備した誓約書に名前と拇印を要求。男は青ざめた顔で言われるままにした。さとみは美空と目を合わせて笑顔で頷いた。

「それと自転車もすぐに返してください」

さとみがきっぱりと言った。

「とぼけても駄目だからね」と、美空が釘を刺す。

「あ、あれはその・・・無くなっちゃって」

ようやくぎゅうっと搾り出すような声で答える男。それを見て連れの二人に目配せする達海、達海の連れは両側から男の肩をつかむ。

「いや、あの、預けたんですよ」

あわててストーカー男が声を上げる。

「どこに?」

下を向いて答えない男。

「やっぱりジムだな」達海の合図で男の腕に手をまわし引き上げる二人の連れ。その様子を見ていた周りの客が、異様な雰囲気に動揺していた。それに対し、なんでもないからとニコニコしながら達海がとりなした。

観念した男がようやく市内のリサイクルショップの名を出した。

「なにが預けただよ。売っぱらったんじゃねぇか」達海が呆れて言った。ちらりと時計を見る。「まだ開いてるな。すぐに行くぞ」

美空とさとみに目で合図して、達海が立ち上がった。


「そいつは駄目だな。売値で引き取ってもらわなきゃ」

ファーストフード店を出たあとすぐに来たK市内のリサイクルショップ。最近流行りの明るい大型店ではなく、古い倉庫のようなところへ種種雑多な商品が乱雑に並んでいた。店内には感じの悪い臭いが蔓延していた。さとみの自転車を見つけ、店主に事情を話したが、一癖ありそうな60代の店主らしき男が、椅子に腰掛けたままそう答えた。隣に座っている年配の女とヤンキー崩れの男が、美空とさとみ、達海とストーカー男の4人を睨んでいた。達海の連れは先に帰っていた。

自転車は店の中央付近の空いている場所に置かれ、10万円の値札をつけていた。

「でも盗品なんですよ」

「そんなことこっちの知ったことじゃねぇよ。売り物なんだから黙って10万払いな」

競馬新聞を見ながらこちらをみること無く、店主はにべもなく言った。

「警察呼べよ美空。盗難届は出してあるんだ、発見したからすぐに来てくれっていうんだ」

達海が声を荒らげた。

「盗難だって? それがこの自転車だっていう証拠でもあんのか」

そう言ってせせら笑う店主。剥がされている防犯登録シール。ご丁寧に製造番号のシールも剥がされている。

「車台番号は一致するはずよ」

美空が自転車の保証書を突きつけた。念の為に持ってくるようにと昨日のうちに用意していたものだ。製造番号の他にフレーム番号が明記してある。さとみが自転車にかけより、かがんでフレームを確認すると、にっこり笑って指で丸をつくった。

「それにこいつが犯人だよ。全部聞いたんだよ」

達海が後で小さくなっていた男を引き寄せて店主のまえにつきだした。

店主は悔しそうな顔で舌打ちした・

「5万にまけてやる。持ってけ」

「なによ、5千円で買い取ったんでしょう。ちゃんと聞いたんだから」

「うるさい。半額に負けてやるっていうんだ、文句言うな」

睨み合った。

「古物営業法20条。盗品及び遺失物の回復、返還義務」

達海がとつぜん大声で話し始めた。

「古物商が買い受け、又は交換した古物のうちに盗品又は遺失物があつた場合においては、その古物商が当該盗品又は遺失物を公の市場において又は同種の物を取り扱う営業者から善意で譲り受けた場合においても、被害者又は遺失主は、古物商に対し、これを無償で回復することを求めることができる。ただし、盗難又は遺失の時から一年を経過した後においては、この限りでない」

達海の流暢な言葉に驚いて美空が目をやると、携帯の画面を見ながら読み上げていた。

チッと舌打ちして店主はドサッとテーブルに足を乗せた。

「1万置いてけ、それで勘弁してやる」

「だから5千円でしょ」

「うるさい。整備料と保管料だ、手間がかかってるんだ。いやなら警察でもどこでも行ってこい」

店主が大声で怒鳴った。中年女とヤンキーが、嫌な目つきで美空達を見ていた。

「いいの、私払うから」

さとみが前に出て財布を出して1万円札を店主に差し出した。

店主はひったくるように1万円札を掴むと「さっさと持ってけ。このブス」

その言葉に何か言おうとする美空を押しとどめ、自転車に駆け寄るさとみ。首を振って「いいから行きましょう。早く出たい。こんなとこ」

自転車を引いて全員で出ようとしていたところに、後から店主の捨て台詞が聞こえた。

「二度と来るな、このデブ」

その声に達海が反応した。振り返ると大股で店主のところへ戻った。すごい形相で店主を睨みつける。

「お兄ちゃん、いいから行こう」

美空があわてて駆け戻って達海の腕にすがりついた。美空はそのまま達海を店の外まで引っ張っていった。達海は何度も振り返り店主を睨みつけていた。

店外に出て自転車を折りたたむと急いで車に積み込んで走りだした。

「あ~びっくりした~」

緊張した空気の中、最初に声を出したのはさとみだった。

「まあだドキドキしてる~」美空は深く息を吐いて笑って言った。「でもお兄ちゃん法律詳しいんだね。びっくりした」

「あの店に行く途中に検索してたんだ」

達海はそう言って携帯を見せてくれた。どこかの法律関連サイトなのか、お固い条文が並んでいた。

「どうりで、おかしいと思った」さとみと顔を見合わせて大声で笑った。

「ああ、ところでこいつはどうするんだ?」

達海の声にふたりとも後を見た。後部座席で達海の隣で消えそうに縮こまっている男をみて、顔を見合わせくすくす笑った。


「ここからタクシーで帰れよ」

「もう悪さしちゃダメだからね」

「お前はストーカーと自転車泥棒とやったんだ。今度変な真似したら警察行くし、職場にもいられないようにしてやるからな。脅しじゃないからな」

それぞれがストーカー男に念を押す。もう絶対にしないと言って何度も頭を下げる男を国道沿いのうどん屋におろし、さとみの家に向かった。さとみの車は会社に置いたままだ。

「今日は本当に有難う。それにお兄さんにもお世話になってしまって」

自宅に送り届けてさとみは丁寧に礼を言った。

「ああ、いいのいいの兄貴は」手をブンブン振って美空がいった。

「そんな、本当に頼りになる素敵なお兄様だわ」

頭に手をやって照れる達海。

「まあ、あの調子ならもうなにも仕掛けてこないだろう。もし仕掛けてくるようだったらいつでも言ってくれ」

それににっこり頷いて答えるさとみ。

「妹をこれからもよろしく」と言って達海が車に乗り込む。

「それじゃ明日は迎えに来るね」と美空も手を振ってつづいて乗り込んだ。

「でも、今日は助かった。たまには役に立つね、お兄ちゃん」

帰りの車内で達海に話しかける美空。笑っている。

「まあな、今度なにかおごれよ」

「でも遅刻したのは減点だからね」

達海は道が混んでたから、と言い訳したあと「お前もかっこよかったぞ」と、真顔で美空を見て言った。

「あんなにしっかりと物が言えるようになってたとはな」感心したように言った達海「ちょっとは大人になったのか」と言って笑った。

美空はしきりに感心してる兄を見つめて、自分でも今日の度胸には驚いていた。そして美空をデブ呼ばわりしたリサイクルショップの店主に殴りかかろうとした兄の姿にちょっと感激していた。こんどはお友達の分も含めてケーキでも焼いてやろうか。そう考えながら国道をまっすぐ家路に向かった。


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