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リビングルームへ


 「いろんな映画やドラマの舞台になってるよねあそこ。お母さんが言ってたの、いっぱい写真撮らなきゃね」

 新幹線の中でさとみがデジカメをチェックしながら楽しそうに話している。美空は緊張しているのか耳に入っていないようだ。

 デッキ側の一番端の席をとり、目の前には美空の自転車が輪行袋に入っている。さとみのは足元に小さく控えている。美空の輪行袋に比べるとかなり小さい。美空のロードバイクは十日ばかり前に納車されたホヤホヤである。

 時間がないからと急いで選ぶのはなんて損なのだろうと美空は思っていた。あれやこれやとじっくり考えるのが至福の時間だというのに、悩む暇もなく決めてしまった感じだった。

 それでも杏奈彼が幾つもの支店に確認取りながら、サイズもデザインも美空の好みに合いそうな完成車の在庫を手配してくれたのだから文句は言えない。さいわい、関西の支店から早急に取り寄せたスペイン製のエントリーモデルはデザインも色も美空の好みにしっくりいった。価格も杏奈やさとみのよりも安く済んでホッとした。

 納車された翌日から早速トレーニングが始まった。

 少々軽くてハンドルが違うだけ、という思い込みは間違っていた。わずかな踏み込みでもぐいぐい加速して推進力を損なわずどこまでも進んでいく。あまり期待していなかっただけに、その性能差に愕然とした。これでエントリークラスなのかと。今までより、坂道もはるかに楽にこなせてシフトもスムーズだ。レースへの自信がでてきた。

 しかし、レースまでは日にちがないところへ来て、日の出が遅くなったため早朝使える時間も少なくなり、練習時間は限られていた。より細くなったタイヤで路面状況がわかりづらい夜道を走るのは美空にはできなかった。さらに無理な練習で足を痛めたりしたらレースに出るまで治らないこともある。無理だけは避けた。

 結局走りこんだのは十日程度。距離は少ないし峠も攻めていないが、自分なりに感触はつかみ、なんとかスムーズな走りができるようになった。以前とは違うポジションに違和感は感じるが、これで行くしか無かった。

残る不安は心の奥に閉じ込めた。


「もう、いろいろ考えちゃ駄目。なるようにしかならないんだから」

 話しかけてもさっぱり返答のない美空をもどかしく感じて、さとみは叱るように言った。

「ああ、ごめんなさい。ついどうしても考えちゃって」

「いいじゃないの。仮に完走できなくっても、リタイヤしても、それも経験だから次の糧にすればいいの」

 うん、と答える美空。

「それに拓雄くん。レース中に会える可能性は少ないけど、レース終了後の交流会みたいのできっと会える」

 自信をもって言い切るさとみに頷く美空。少し気が楽になって笑顔を見せて「そうね」と答えた。

「あ~あたしも出場したかった。イノシシ鍋食べたい」

さとみが手を広げて大きく伸びをした。


 ひとつの考えを押しとどめると、今度は別のことが思い浮かぶ。

 「今度は住所ぐらいちゃんと聞くのよ。仕事のことでもいいし」

ーーその日駅まで送ってくれた母との会話がよみがえったーー

「でも迷惑かもしれないでしょ。それに別に興味あるわけじゃーー」

「なに言ってるの、興味がなくても訊くのよ」母が口調を荒らげていった「それも女の色気なんだから。男の人はそういうの喜ぶんだから」

「え、そんなもん?」

「そんなもんよ。あなたもそういう色気を出す年頃よ。頑張んなさい」

そう言って母親は美空の背中を叩いて送り出してくれた。

 「それも色気か・・・・」

 美空は思い出し笑いをしながらつぶやいた。

 さとみが聞きとがめて変な顔をした。


早朝に自宅を出たというのに、乗り換えを重ねると目的地に着いたのは午後遅くになってからだった。ロードバイクは軽くできているとはいえ、担いでホームを移動するのは美空には重労働だった。さとみの自転車もキャスターが付いているとはいえ、段差を引き上げるシーンでは唇をかみしめ踏ん張っていた。宅配便等で送る方法もあったが、万一トラブルがあって出走に間に合わないことを懸念して輪行を選んだのだ。

 駅前でさっそく自転車を広げるふたり。その様子を通行人が物珍しそうに眺めていく。

 翌日の出走の前に一度コースを見たかったのだが、道中の疲れを考えて市内を軽く周る程度に留めておいた。むしろコースを事前に走ったせいで、逆に自信をなくしてしまうのではないかと考えたせいもあった。

 市内を流れる川沿いを走り、武家屋敷をめぐり、松山城を眺める。途中で食べた名産の和菓子の香りとほんのりとした甘さは旅の疲れを癒してくれた。

 不思議だと美空は思った。初めて訪れた街なのに、自転車で走ると、昔から知っている街のように身近に感じられた。犬が縄張りをマーキングするように、でも犬のようにいちいち電柱で立ち止まらなくとも、銀輪を廻すだけで自分のテリトリーが広がっていった。

 見知らぬ景色、見知らぬ人ばかりなのに、ほんの数時間で、ずっと昔から知っているような感覚になった。

 自転車大国として有名なオランダの北部に自転車保有率世界一を誇ると言われるグローニンゲン。その都市は50年前、侵食する自動車による交通渋滞や排ガスでの環境破壊を憂いた若者が街の中心部への自動車乗り入れを制限する運動を始めた。

  【中心街をリビングルームに】

 街の中心街を自宅の居間にしよう、そのスローガンが功を奏して、商店街の反対も押切り自動車を制限し始めた。そして商店街の売上は伸びた。

 今では総距離、二万五千キロにも到達する自転車専用道を有する自転車大国として有名になっている。小さな都市に日本の十倍近いと言われる自転車専用道路を今日も多くの市民が楽しそうに走っている。

 そう、今やこの街は美空のリビングルームとなっていた。

新たな自分の街で、美空は充分にくつろいだ気分になっていた。


 ふたりは十分休憩を取りつつも日の暮れるまで市内を満喫し旅館に入った。

そこでふたりを杏奈が出迎えた。

「どうしてここに」

 美空はおどろいて聞いた。

「だってこの宿を紹介したのは私じゃないの」

 杏奈の母はこの地方の出身だったのだ。レースのことを話した時に出場を強く薦めたのもそのせいだった。

 「小さい頃はよく連れてきてもらったの。もう何年も来てないから懐かしくなって、あなた達が行くなら私もって、休みとって昨日から来てるの」

「言ってくれればよかったのに」

 さとみが不服そうに言う。

「それが数日前に母が急に行きたいって言い出したのよ。まあ、ちょっと驚かせようかと思って。それに応援もしたかったしね」

 毎日会っているに話しは尽きなかった。それでも明日のレースのために早く休んだほうがいいと言って杏奈は夕食前に帰っていった。

 「少し落ち着いたみたいね」

 市内を走ったり、杏奈に会えたことで緊張が解けたのだろう、ほがらかになった美空の顔を見て、さとみが安心したように言った。

「そうね、すこし落ち着いたみたい」

「本当だね。あの事故以来、ずーっと怖い顔してたよ」

事故があってから余計なことを考え過ぎたかなと美空はちょっと恥ずかしくなった。

 「それでね、一つ大事な話があるの」

 いつになく真顔になって話すさとみに美空は何事かと身構えた。

 顔を近づけ、さとみはゆっくりと念をおすように話し始めた。話を聞いた美空の顔がひきつって思わず声を上げた。

 御膳を運んでそばを通りかかった中居が美空の叫び声に肝を冷やしていた。


 翌日はよく晴れて風もなく穏やかな朝をむかえた。集合場所で美空は何度も深呼吸を繰り返していた。

  子供の頃に家族で行った夏の海岸を美空は思い出していた。

カラフルなグラフィックのの様々な自転車の大群。そして自転車に負けないくらいの艶やかなジャージやヘルメットを装着した男たち。色どり豊かなビーチパラソルや水着の大群に似たものがあった。参加者は千人と聞いていたが、美空にはその何倍もに感じられ、圧倒されて言葉も無かった。

レース前に偶然拓雄に出会ったらなんて言おうか、などとのんびり考えていたのが馬鹿げた妄想だったと、目の前の光景を見て思った。そして自転車用のウエアに身を包んだ人たちは皆、峠を走り込み、熟練しているかのように見えた。見るからに速そうだ、多分自分がこの中で一番遅いのかもしれない。そんなことを考えると足の力が抜けて今にも座り込みそうになった。

集合場所からスタート地点まで、参加者全員でゆっくりと走る。出走前の足慣らし、ウォームアップランだ。昨日さとみと走った古い町並みを抜けて峠へと向かう十数キロ。少しでも体力を温存したい美空にとっては迷惑な話だった。足の震えがそのまま走りに伝わるようで、ギクシャクした動きに見えないか気になっている。それでも沿道の観客たちの応援でレースに参加してるという実感が湧いてくる。見も知らぬ私を応援してくれてるという気持ちが心の張りを僅かながら解きほぐしてくれる。

 「頑張って美空」

 沿道からの声に目を向けると、さとみが旗を振ってあらん限りの声を出している。

それに笑顔で手を振って答え通り過ぎる。ペースを崩さないで、とさらに背後から声が掛かった。それに後ろ手で手を振りこたえる。新しい自転車に乗って手を振る余裕ができたのも、つい数日前のことだ。

 やがて出走地点に到着した。楽しそうに出走時間を待つ他の選手はいかにも自信ありげに見えて、たまらず視線を逸らす美空。

そのうち何人かの選手が美空を見ては首を傾げたり、となりの人とヒソヒソ話をしていた。なかにはあからさまに笑う人もいた。

 「あれぇもしかして美空?」

 美空の後ろのほうで声がする。振り向くと杏奈がたっていた。レース用に新調したのか、新しいジャージとヘルメットを身につけている。隣にいるのはいつもの彼氏だ。

「やだぁその格好なぁに、コスプレ?」

美空の格好を見て杏奈はにやにやしながら聞いてくる。

 杏奈がにやつくのも当然であった。他の選手はみな体にフィットしたサイクルジャージの上下を着ているが、美空ときたらジャージの上にゆったりしたウインドブレーカーを着込んで、さらに襟までジップアップしている。中にダウンジャケットでも来ているようにモコモコしている。さらにボトムはサイクルジャージの上にダボダボのハーフパンツを重ね着している。空力抵抗を気にするレースではありえない、まるで雪だるまのような出で立ちだ。おだやかな太陽に照らされて半袖の出場者も少なくない中、異様な雰囲気だ。

 さらに目を引くのは濃い目のアイウェアに口髭とアゴ髭である。さらにヘルメットが団体から浮いている元凶だろう。

 「なんでここにいるんですか?昨日はなんにも・・・・・」

 何も聞いてない、と言いかけて、ふたりの視線に恥ずかしくなって、片手で付け髭を隠し、半身にして体を隠そうとする。

「ごめん。この人はね出走する予定だったけど、あたしは観戦だけのつもりだっったの。ところが当日申し込みもOKだって言うから、朝から並んで申し込みしたの」

「ええぇ?当日申し込みって、女性の部で?」

「当たり前でしょ。なんでよ」

 昨日のさとみ告白には、美空は心底驚いた。

 さとみの話によれば9月中旬の時点で今回のレースの申込の枠が残り少なくなっていたのだ。というよりも女性枠はすでに定員締切になっていたので大慌てで男子の部にエントリーしたのだというのだ。申し込みさえしてしまえば、後からなんとでも訂正できるだろう、申し込みしなければ永遠に美空と拓雄が会えないのではないか。そんな気がして咄嗟にとった行動だったと手をついて謝るさとみに美空はなにも言えなかった。

むしろそうまでしなければ、ここまで来ることもなかったろう。結果がどうあれさとみには感謝こそすれ、怒るなどとんでもないことだった。

 気にしないでいいから、と、さとみの手をとり、礼を言ったのが昨日のことだ。

「本当に怒ってない?」

上目使いに、おずおずと尋ねるさとみの顔を見て深く頷くと、さとみは安心して胸をなでおろしていた。それからバックから包みを取り出して、きちんと正座して相対すると背筋をのばし、

「じゃあ、明日はこれをつけてね」

差し出された袋の中身をのぞき込むと黒い付け髭がふたつあった。

「てづくりなのよ」

 さとみは目を輝かせて言っていた。



 「それでその格好してるの?」

 美空の話を聞いて杏奈たちはふたり顔を見合わせて信じられないと言った表情、それから思い切り笑った。

「そんなに笑わなくても・・・・私だって当日申し込みあると知ってたらーー」

「ごめんごめん。いいえ、当日申し込みだって確実じゃないし、それにやっぱり練習にも身が入らないって。よかったと思うわ本当に」笑いをこらえながら杏奈がさらに続けて訊いてきた。「でもなんで申し込み性別を間違えたって申告しなかったの。替えてもらえたんじゃないかしら」

杏奈は男に同意を求めるようにしながら話した。

「それがね、申し込みのミスはそのまま取り消されるんじゃないかって気にして言えなかったみたいなんですよ」

「それじゃここまできたら、そのまま行くしかないわね。心配しないで。結構似合ってるわよ」

「そんなこと」

「それよりヘルメットはどうしたの。新しく買ったレース用の派手な奴、まさか壊したとか」

「ああ、いいえ。あの、やっぱりかぶり慣れてる物のほうがいいから」

 ヘルメットに手をやって美空があわてたように答える。シティサイクル用の普通の帽子に見えるヘルメット。春からずっとかぶっているものだ。外側に貼ったファブリックは少し色あせてところどころ花模様のプリントがすれていた。外側の生地を取り替えることもできるのに美空はあえてそうしなかった。ほとんどの出走者が流線型のエアーインテークを持つカラフルなヘルメットをかぶっている中、美空の花柄シティヘルメット姿はひときわ異彩を放っていた。

「それならいいけど。落車でもしたのかと心配しちゃった」

「でも、そのヘルメットのせいで彼女に気づいただろう」

男が口を挟んだ。それもそうね、と杏奈が頷く。

「それじゃ間もなく出走だから後ろのMTBクラスに戻るわね。頑張ってよ早水さん」杏奈はそう言って戻りかけてふと振り向いた。「レースはね、体重が軽いほうが有利なの。今のあなたならそのへんの男どもには負けはしないから」

「そうだよ体重差はがぜん有利だ。バイクの性能差だって登りならそれほど影響しないもんだよ」

杏奈と男はそう言って手を振ると自分たちの場所へ戻っていった。

ホイッスルが鳴って前の組が出発する。美空はウインドブレーカーを脱いで小さくたたむ。登り坂だ、それほどスピードが出るわけでもないが、少しでも空気抵抗は減らしたい。畳んだウインドブレーカーを背中のポケットにいれる。上はジャージだけの姿になっても美空の姿は不恰好のままだ。標準より小さめとはいえ、女性らしいバストや最近発掘されたウエストのくびれを隠すために大きめのタオルが何枚もジャージの内側に巻いてある。ごわごわした感触が気になったが、そのまま行くことにした。いよいよ美空の組のスタートだ。ホイッスルが鳴る。同時にペダルを思い切りふみこんでクランクを回す。

 あらゆる色が一斉に流れた。

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