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出会い

          出会い


1台の自転車が走っていた。フレームの青いグラフィックが朝日で輝いている。丁寧に手入れされているであろうと思われる自転車を若い男が無言で漕いでいる。男の軽い息遣いと、細い車輪の回る音とタイヤの接地音が静かな町に響く。ロードバイクと呼ばれるタイプの自転車だ。

明るい色彩をまとった自転車用の流線型のヘルメットにサングラス。上はウィンドブレーカー、これも派手な色彩だ。下はぴったりフィットした厚手のジャージのおかげで、細くてしなやかな筋肉質の鍛えられた太腿が見て取れる。それはリズミカルに流れるような動きでクランクを廻し、路上に残る朝もやを切り裂くように疾走していた。


ダイエットを決意した早水美空は、春になるのを待ってジョギングを始めた。ーー春は名のみの風の寒さやーー月が変わって3月になったばかりのその日。まだ朝日が登り切らないこの時刻、みちのくではまだまだ冬の寒さが残っていた。

そんな中、暖かくなるのを待ちきれずに早水は走りだした。標準の体重からはかなりオーバーしている。日に日に増えていく体重はもはや待ったなし。今始めなければ明日は来ない。そんな気分だった。あらゆるダイエットを試した、あるいは試そうとした美空だったが、効果が出て継続しているものは何一つなかった。高校時代から太り始めた。きっかけはありがちな失恋話だったかもしれない。それ以来、薄皮を剥ぐようにーーとは逆に、工芸士が金箔を一枚一枚貼り付けるように、徐々に美空の体は広がっていった。そして次第に動くこと自体がおっくうになってきた。朝起きて、仕事へ出かけて帰ってくる。それだけで精一杯で、旅行やショッピングなどは苦痛すら感じてきた。それに比べて食べることはなんて楽しいのか、どうしてこの世にはこんなに美味しい物が溢れているのか、すぐ近所のスーパーへ出かけたり、電話やネットへ繋ぐだけで簡単に手に入る。この世界の便利さを美空は恨んだ。

その反面、便利な世の中はダイエット情報も簡単に手に入る。わずか数分だけで痩せる。そんな文句に踊らされて買った道具もある。大きなゴムボールは、めったに使わない客間の隅に押しやられている。はじめて乗ったとたん、壁際まで転がって頭を打ち付けてからは近寄りもしない。足を左右に動かすだけの器具やエアロバイクは、買ってから一週間ほど使ったきり、あとは誰も触れること無く廊下を無駄に占領している。廊下を歩くたび迷惑そうにしている家族に気兼ねするものの、ハンドル部分は雨の日に母が洗濯物を干すために「まったく無駄というわけではない」と思い込むようにしていた。

高価なダイエット食品も手を出した。まったく効果が無いわけでもないのだろうが、財布のほうが先にやせ細ってしまって断念した。代わりにバナナやカレーなど毎日食べた。特に納豆は朝晩大量に泣きながら大量に食べた。それがまったくのデマであったことを知ってから、他のダイエット食も止めてしまった。

ダイエットのための体操、水泳教室も通ったことがある。しかし必ず仲の悪かった同級生やら口の悪い親戚やらが通っていたりするので次第に行かなくなった。ダイエットのために通っていると思われるのが妙に恥ずかしかったのだ。

もちろん、ダイエット法のいくつかは効果がでることもあった。わずかながら体重が減少することもあるが何故か長続きしない。すると必ず訪れるのがリバウンド。そのたびに美空の体は次の段階へステップアップしていった。

美空の住むあたりはこの十年で次々に家が建ち始めて、当時閑散としていた場所もすっかり振興住宅街に変貌を遂げていた。その中を美空は自宅から表通りまでの道を必死に走っていた。体が大きく見えるのはダウンジャケットや厚着のせいだけではない。標準よりかなり太めの体をどすんどすんと動かしている。当人は必死に走っているつもりなのだろうが、傍目にはドタドタと暴れているようにも見える。走り始めて僅か数分、すでに足は思うように上がらなくなってきている。脳からの司令よりも数テンポ遅れてのろのろと筋肉が動く。ようやく大通りへぶつかるT字路へと出た所で美空は突然倒れこんだ。激しく膝を地面にぶつけると、それを支点に顔が道路にぶつかろうとする。とっさに手をついて防いだものの、それだけでは体重を支えきれず、肘を激しくアスファルトにぶつけた。転倒した驚きと痛みのショックで、しばらく息もまともに出来なかった。ようやく痛みもやわらいで、転んだところを知り合いにでも見られなかったかとあたりを気にし始めた時、そばに男が立っているのに気づいた。

いつの間に来たのか、その男は自転車に乗っていた。

「それじゃ駄目だな。膝を痛めるよ」

男は転んだ女に手を差し伸べるわけでもなくそれだけ言った。

若い男だ。美空は横目で確認してから顔を伏せる。

「体重何キロ」

予期しない質問に美空の手が震えた。初対面の女性にこんな質問をする男がいるだろうか。あきれて力が抜けた。そんな美空に男はかまわず話し続けた。

「ジョギングやランニングは膝に負担がかかりすぎるんだよ。着地の際に体重の数倍の力がかかる、それをほとんど膝が受け止めるわけだ。たいして筋力もない体でそれをやったら、あっという間に膝が壊れてしまう」

男は自転車に乗ったまま足でトントンと地面を叩きながら説明した。

男の言うことはもっともだ。美空にもその程度の知識はあった。今までジョギングやウォーキングを実行しなかったのは、面倒だからという理由だけではない。でも今は他に方法がないのだ、膝に負担をかける前に痩せてしまえばいいと美空は本気で考えていた。

男に早く立ち去ってほしくて美空は無言を決め込んでいたが、効果はなかった。男は右足を大きく回して自転車を降りると美空の目の前にたった。

「自転車がいいんだ。足を痛めずに効率的な有酸素運動で脂肪を燃やしてくれる」

自分の自転車のフレームをバンバン叩きながら嬉しそうに話し続ける男。美空はあらためてもう一度男に目を向けようとする。知り合いに顔が見られないようにと深くかぶっている帽子。そのひさしの影からそっとうかがうと、細い自転車のタイヤが見えた。そして黒いタイツに包まれた細く引き締まった長い足。おそるおそる少しずつ顔を上げる。蛍光色のウインドブレーカーを着込んだ男が美空を見下ろしていた。痩身で頬骨がでてはいるが、しなやかな筋肉のおかげで、痩せ過ぎの印象はない。サングラスの奥に覗く瞳に、優しそうな雰囲気を美空は感じた。

「自転車には乗れるんだろ」

ようやく目があったので男は聞いてきた。

「え、ええ・・・・はい」

「じゃあ明日のこの時間に・・・そう、あの神社の境内に自転車乗ってきなよ。教えてあげるから」

そう言って西側の線路の向こうの交差点にある神社の方角を指さした。

バカにしないで、自転車ぐらい乗れるし、教わるまでもないから、美空はそう思ったが言葉がでなかった。

「自転車ぐらい家にあるだろ。なんでもいいから」

サングラスを外し顔の汗を拭いながら男は言った。この寒さにもかかわらず、かなり汗をかいていた。まだ二十代後半だろう、サングラスを外した顔は意外と若かった。

「じゃあ明日のこの時間、あの境内で」

それだけ言うと美空の返事も聞かず、サングラスを掛けると汗を拭ったタオルを背中のポケットに仕舞いこみ、自転車に乗って走りだした。

ーーなによ、ひとりで言いたいだけ言って、誰が行くかーー美空は心のなかで毒づいてその後ろ姿を睨みつけていると、男はすぐに止まって振り向いた。

「必ず来いよ」

右手を上げて大声で叫ぶと男は次の角を曲がって国道の方へ消えていった。


「なによ今の」

転んだ女の子に手を添えて助け起こすこともなく、言いたいことだけ言って消えていった。

「必ず来いよ」って、勝手に決めないで、誰が行くものか、と美空はいらついていた。ダイエットのためのジョギングをしているところを見られただけでも恥ずかしいのに、無様に転んだところを見られた上に、言いたいことを言わせてしまった。

美空はのろのろと立ちあがり、砂を払うとグレーチングと道路の間に数センチの段差を発見した。(こいつに足が引っかかったんだ)悔しさのあまり銀色の格子を蹴飛ばしてみるが、足がしびれただけだった。その痛みでまた涙が滲んできて、顔を伏せたまま自宅に向かって歩きはじめた。ほんの数十メートルのはずが数キロにも思えた。足を踏み出すたびに道路に突いた膝が痛んだ。

「ただいま」

ようやく自宅に着くと、つぶやくように言って二階への階段を登る。

「あら早かったのね」朝食の準備をしていた母がおタマを握ったまま台所から出てきて声をかける。「どうだったの、うまく走れた?」

階段を登りかけていた美空が足を止めた。

「ころんだ」

「え、そう。怪我はないの」

心配そうな表情で尋ねる母。

それに小さく頷いて答えてから「あのねお母さん」とつぶやくように言った。

「ん、なあに」

「明日、自転車貸してくれる?」

おタマを持ったまま、母親はきょとんとした様子で立っていた。


       トレーニング


「なんなのよ、誰もいないじゃない」

美空は翌日、男が指定した神社の境内まで自転車に乗って来てみたが、そこには犬を連れてゆっくりと散歩している年配の女性がいるだけで、男の姿はなかった。期待して来たわけではなかった。自転車ぐらい教わるまでもないし、現にこうしてきちんと乗れている。ただ、昨日はあまりにもみっともないところを見せてしまった。今朝はきっちり自転車ぐらい乗れるところを見せて「あんたの助けなんか必要ないんだから」と面と向かって言ってやろう、と意気込んできただけだ。

真冬に較べれば暖かくなったとはいえ、東北の春は、自転車で走りだすと体中に風が突き刺さって痛いぐらいだ。ウールのセーターにカーディガン、そしてダウンジャケット。インナーは流行りの保温素材を二枚重ねに着込んでいる。それでも走行中の風が襟元に特攻してきて体の熱を奪う。マフラーを忘れたのは失敗だった。ニット帽を深めにおろして手袋に息をはいた。

男はふとした気まぐれで声をかけただけなのだろうと美空は思った。だが美空の容姿を思い出して後悔したに違いない。それで約束をすっぽかしたのだ。あるいは昨日言ったことなどすっかり忘れて、今頃はまだ寝ているのかもしれない。ばかばかしい帰ろう、と思って自転車を回し戻りかけた時に、スイっと影が流れてきて美空の目の前で止まった。

「おはよう。ちゃんと来たんだな」

昨日と同じジャージに目立つ色彩のウインドブレーカーとヘルメットを着けた男がいた。年甲斐もなく派手だと美空は思った。「お早うございます」くぐもった声で挨拶をする。

「へ~こいつか」

男は自転車を下りてそばの木に立てかけると美空の自転車を値踏みするように眺めた。

母親が通勤で使う国内メーカーのシティサイクル、内装3段変速で乗りやすく、たまに美空は近所のスーパーに行く時に借りることがある。

「降りて横にたってみて」

男に言われるままに自転車のそばに立つと、男はレバーを操作してサドルを調整し、美空の腰のあたりに合わせる。次に携帯用空気入れを自分の自転車から外し、アタッチメントを取り付け、せわしなくポンプを上下し始めた。

ちゃんと入れてきたのに・・・・そう思いながら黙ってみていると、男はタイヤを押さえて満足気に笑って「ほら、乗ってみて」と命令調に言った。

よし、いいとこ見せてやろうと美空は考えたのだろう、左側に立つと足をクロスさせるように左足をペダルに乗せた。いわゆるケンケンのりの要領だ。美空の得意技のひとつである。

「だめだよ、普通に乗るんだ。自転車が痛むだろう」

言われて仕方なくフレームをまたぐが、サドルに尻が届かない。サドルに腰掛けようとすると、足が地面につかずに倒れそうになる。

「高すぎるよこれ」

「それでいんだよ。漕ぎだして安定したらサドルに尻を乗せるんだよ」

「止まった時に転んじゃう」

「降りればいいだろう」

そんな不便な自転車の乗り方があるものか、ちょと拗ねた表情になって立ち漕ぎの要領で漕ぎ始める。安定してからサドルに腰を下ろす。ペダルを下まで踏み込んでやっと足が軽く曲がるくらいだ。サドルに腰を掛けたままでは、信号などではいちいち降りなければ倒れてしまう。なんの意味があるのかと、憮然としながら漕ぎ始めたその時、

(あっ・・・軽い)

さっき乗ってきた時とはまるで違う自転車に乗っている感覚だった。それほど力を入れなくても滑るようにグングン進んだ。うさぎ跳びから立ち上がって普通に走りだした感覚に似ていた。こんなにスピードが出せるんだ、まるで下り坂のようだ。初めての体験に感動すら覚えた。太腿が痛いだけだった自転車が今はアシストでもあるように軽く回った。

サドルを高く引き上げたことによって、太腿の前側、大腿四頭筋だけでなく、その裏側のハムストリングスまで使っているため、普段よりもはるかに楽に動かすことが出来る。そんな説明を男が話しているが、美空の耳にはまったく入らなかった。ただひたすら楽しそうに自転車を漕いでいた。

「よし。いいぞ、もっと引き足に注意して」

いつの間にか男が自転車に乗って並走して叫んでいるのに美空は気づいた。

「引き出しがなんて?」

「引き足だよ。ペダルを下まで踏み込んだら後に蹴り上げるように回すんだ」

「え~わかんな~い」

「じゃあ今度は止まって。ゆっくり」

言われてブレーキをかける。止まるときによろけて、あわててサドルから腰を浮かせておりる。

「降りるときは左足着地。コケても左なら安全だから」男は言い聞かせるように話した。「よし、もう一回行こうか。ペダルは踏むんじゃなくて回すんだぞ」

「もう、難しいこと言わないで」

そう言いながらも、美空はさっき感じた感覚が楽しくてまた漕ぎ出す。今度はさっきよりスムーズに乗れた。再び神社の周辺を走りだす。クイクイッという感じでペダルが回る。景色が飛んでゆく。風は冷たいが爽快だ。不思議と疲れも感じなかった。

何度も乗り降りを繰り返しているうちに、あっという間に時間が過ぎた。「今日はこれくらいにしよう」と言われて美空はしぶしぶ自転車から降りる。その気持を察したのか「また明日来るから」と言って男はにっこり笑った。

「まだ名前も言ってなかったな。俺、近藤拓雄」

「あ、あたし早水美空」

近藤拓雄と名乗った男は「よろしく」とだけ言うと、さっさと自転車に乗ってキュンキュン速度を上げていった。その姿が小さくなっていくのにわずかな時間しかかからなかった。

私もいつかあんなふうに走れるかしら、そう思いながら美空は時計を見た。

「あ、こんな時間」

あわてて走りだす。正面の朝日がまぶしい。明日からのことを考えて心が踊った。


それから毎日、美空は突然現われた不審な男と自転車を走らせた。最初は神社の周辺から、慣れるに従って徐々に距離を伸ばし、町内の公園、町はずれの工業団地へと次第に距離を伸ばしていった。

半月も経つころには隣町まで平気で行けるようになった。1時間で15キロは走りこみができるようになり、毎日のように感じていた筋肉痛も次第に薄れていった。体重は少しずつ着実に減少していった。

最初、自動車やトラックを怖がる美空のために、拓雄は田んぼの真ん中や、川沿いの農道などの舗装路を選んで走った。なにしろ田舎のこと、自転車で10分も走れば広大な田園風景が広がっているのだから安全なルートには事欠かかない。排ガスや大型トラックの風圧を気にすること無く、見通しの良い道路を安全に走行できた。

朝日を浴びて輝く風景は、近くにこんな素晴らしい場所があったのかと、あらためて美空に感じさせてくれた。昔話を思わせるような遠くまで広がる田園風景、木立から朝日が差し込んで、朝もやが朝の光を受けて輝く。遠くでは田の草焼きか野焼きの煙がたなびいている。はるか後方には遠くの山並みがあおく霞んで見えていた。

自転車を路肩に停めて思い切り深呼吸をする。優しい空気に包まれて心が落ち着いてゆく。子供の頃に行った林間学校で感じたような清々しさだった。

もしかしていずれ結婚して子供を育てるなら、こんな場所もいいかもしれない。ふと、遠くに見える一軒家に子供を連れた自分の姿を垣間見た気がした。

「いいもんだろう」

その時、隣から拓雄の声がした。普段は無愛想な男が、同じ朝日を見ながら珍しく微笑んでいた。

美空はちょっと顔が赤くなってジャケットの襟に顔をうずめた。



桜の花がほころぶ、道に散りばめられた花びらを踏みしめながら2台の自転車が軽い息づかいとともに走り抜けていく。布団からでるのを妨げていた寒さも当分はおさらばだ。日曜日はトレーニングも休みにしているが、拓雄は休日の朝こそ車の通りも少なく、走るのには最高だと言って、土曜日には一緒に走ることになっていた。早朝から午前中だけ、それでも数時間、数十キロをゆっくりと走ることが出来た。美空に言わせれば拓雄は「水フェチ」であった。川沿いはもちろん、ダムや美味しい湧き水のある場所を拓雄は好んで走った。休日はたいていそんな場所をふたりで走った。2リットル以上入る焼酎の空きボトルを2本満杯にすると、拓雄は背中のリュックに入れて軽々と走った。美空も真似をして1リットルだけ付き合ってみるが、アップダウンの多いコースなどママチャリではかなりきつい。背中に背負ったわずか一本のボトルさえ、子泣きじじいのように徐々に重くなり背中に食い込んできた。

「スポーツバイクは軽いよ。桁違いだ。こんな道は平地と同じに感じるから」

背中の食い込みに耐えかねて歩道に入って休憩する美空に、そう話しかけた拓雄。楽しげな表情だ。

「たとえばどんなの自転車がいいの?」

「自分で気に入ったのが一番だよ。好みでいいんだ」

いつもこの調子だ。親切なのかと思えばそうでもなかったり、つかみどころがないとは、こういう男のことだろうと美空は思った。



「あら、すごいじゃない」

美空が家に戻り着替えた後で、新しく買い換えた体脂肪計に乗ると、後から数字を覗きこんだ母が驚いて声を上げた。

美空の顔が自然にほころぶ。

「なんかこのへんすっきりしたね」

母は娘のお腹まわりをさすりながら笑った。

確かに見た目にもスッキリしたようだ。もちろん平均からすればまだまだだが、後ろ指を刺されて陰口を叩かれるようなレベルではなくなった。

腰回りについた浮き輪のようなふくらみ、パンパンだったのが少し空気が抜けてしぼんだようだった。

「スイカはまだまだだけどね」娘の張り出したお腹をポンと叩いて母が笑った。

つられて笑う美空。今までなら笑う余裕などなく、いじけていたのに・・・・希望が見えてきた余裕なのか。決めた。ここしばらく考えていたことに、ようやく決心がついて、母に話した。

「新しい自転車を買おうかと思うの」

町内の会計事務所を手伝っている母は毎日自転車で通っている。そのため美空は朝トレから戻ると、自転車のサドルを下げて母のポジションに合わせなければいけない。美空と母とは身長はそう変わりない、そのままでも不都合はないはずだ。サドルが高いほうが乗りやすいことを説明しても「やっぱり危ないから」といって母はゆずらない。急いでいて美空がうっかりサドルを下げるの忘れたときは、立ち漕ぎで職場まで行かなければならなかったと苦情を言われた。

いちいちシートポジションを直すのが大変なことあるが、カモメハンドルの自転車はチョイのりーーごく近所を走るには最適だが、長距離や登り坂では力が入りづらい。この調子なら自転車も続きそうだし美空は自分専用のスポーツ車が欲しくなっていた。

「大橋さんの息子さん、知ってる?」

お気に入りのせんべいをかじりながら母が言う。

「わかんない」

「ほら、柔道部でがっちりした子よ。百キロはあるかしらね、ホームセンターで自転車買ったらしいんだけど、半年で潰れちゃって今度ので3台目だそうよ。親御さん愚痴言ってるわよ」

「いくらなんでも・・・・私は百キロもないでしょ」

「ごめん。要するに、ちゃんとしたの買いなさいってことよ」

母がしおらしい顔をして謝った。


早速、翌日の日曜に美空はK市内の自転車店へ出かけた。美空の勤務先のある大きな街だ。量販自転車店も何軒かあり、そのうちの一軒に入る。大量の自転車が店内いっぱいに並ぶ。色もデザインもカラフル。シティサイクルもマウンテンバイクも、小さい車輪のかわいいミニベロ、拓雄の乗るロードバイクまで、ところ狭しと並んでいる。天井からもフレームや、何に使うのか美空には見当もつかない部品までが大量に吊り下げられている。さらに細かな部品から用品まで、何に使うのか説明書きを読んだりしていると、一日いても飽きないくらいだ。

しかし店員に声をかけることは出来なかった。なにが欲しいのか、どんなのが自分に合うのかさえもわからない。「気に入ったのが一番」拓雄のいい加減な返事を思い出す。ちょっとぐらい選ぶのに付き合ってくれてもいいのに・・・・手をつないでとは言わないが・・・・まあ一緒に歩きたくなるような女じゃないから仕方ないか、そう考えて自嘲気味に笑うと、あきらめて店を出た。


「早水さんとこのお嬢ちゃんか」

元気に声をかけてくれたのは地元の自転車屋、ヤシロ自転車店の店主だ。ここは美空が中学に入学するときの通学用の自転車を買った店で、パンク修理などで何度か訪れていたのでよく知っていた。母の自転車もここで世話になった。K市からカラ戻りした美空に、この店に行ってみるようにと母が薦めたのだ。

「大きくなったね」

店主は愛想のつもりだろうが、美空にとっては別な意味に感じ取れて愉快な言葉ではなかった。とりあえず乗ってきた母の自転車を点検してもらう。自転車を見に来た素振りは見せない。ブレーキ周りを調整してもらってる間に店内を見て回る、といっても店頭を含めてもわずか十数坪の店には、シティサイクル数台と電動アシストや三輪自転車があるぐらいだった。

大型店とは雲泥の差だったが、美空はかえって安心できた。

ふと気が付くと壁にも自転車がかかっている。曲がりくねったドロップハンドルではないストレートなハンドルだ。ああ、かっこいいーー素直にそう感じた。白い車体にグリーンのロゴ、色分けされたフロントフォークが精悍なイメージを感じさせた。細くゆったりとカーブしたラインのチェーンステー、スポークの本数は少なめでスッキリしている、太めのハンドルの握り、シティサイクルのようなフルチェーンカバーはないが、代わりにクランク部分に樹脂製ガードがついていた。

「いいだろうそのバイク。興味あるのかい?」

壁の自転車に見とれている美空に点検を終えた店主が声をかける。

「え、ちょっとかっこいいかなって」

「こいつは乗りやすいんだ。車体はアルミだがフロントはカーボンフォークで衝撃は吸収されるし、リヤステーも特殊な形状で安定性が高く乗り心地がいい、タイヤも太いし初心者にはもってこいさね」

「これってなに?」

「まあクロスバイクってやつだよ。マウンテンバイクとロードバイクのいいとこ取りってやつだな。ちょっと乗ってみるかい」

そう言って返事も聞かずに壁から降ろす。

またがってみる。この手の自転車は初めて乗るがしっくりしてるように感じた。

「ほら、ぴったりだ。トップチューブが短くヘッドチューブが長めだから、あまり前傾気味になり過ぎず乗りやすいんだよ。女の子にはピッタリじゃないかな」

「これ丈夫なのかな」

「このブランドは問題ない。実はお客さんから、中学生の息子さん用にって頼まれて仕入れた奴なんだ。ウチの扱いじゃないんだが知り合いの店から在庫を回してもらったんだよ。ところが本格マウンテンバイクがいいとかいって他所で買われちまって・・・返品するわけにもいかないし・・・どうだい安くしとくよ」

ー安くしとくよー それだけで美空の心がぐらりと揺れた。



        新車 


数日後。いつもの場所に拓雄は先に来ていた。納車されたばかりの新車で得意気に乗り付けた美空の自転車をまじまじと見る。

「ふ~ん。こいつに決めたのか」

「安くしてもらったんだよ。20%OFFなんだから」誇らしげに話す。

「まあ去年のモデルだからな在庫処分ってとこだろ」

それを聞いてちょとふくれる美空。

「でもこいつなら安心だ。アメリカ製だから体重130kgくらいまでは耐えられる」

「ちょっと、私がそんなにあるわけないでしょ」

真剣に怒る美空をよそに拓雄はニヤつきながら背中のバックを降ろして、何やらいろいろと取り出し始めた。まだ睨んでいる美空を押しのけるようにして自転車に近づくと細いコードをハンドルあたりに取り付け始めた。

「ちょっと新車なのに」

「気にしなくっていい。俺が以前使っていたサイコンだ。ゆずってやるよ」作業しながら話す拓雄。「今日新しいのに乗ってくるって言うから持ってきてやったんだ」

そういう意味じゃないと言いたげな美空に構わず、てきぱき取り付けを済ませた。最後に大きめのデジタル腕時計みたいな物をハンドルに取りつけて満足気な表情をする。

「こいつで速度や距離がわかる。心拍計やケイデンスが表示されればなおいいんだけど」

さらにもうひとつバックから取り出したものを美空に差し出す。

「ヘルメット買ってないんだろう。この手のバイクに乗るならかぶらなきゃ駄目だ」

自転車用の派手で大きいメルメットには美空は抵抗があった。かといっておとなしいのは子供用ばかりだった。必要だとは思いながらも、気に入ったものが見つからずに買いそびれていたのだ。しかし拓雄の差し出したヘルメットは、今まで見たものとは違っていた。

「帽子?」

手にとって不思議そうに尋ねる美空。花柄プリントの帽子は固く重かった。

「りっぱなヘルメットだよ。それなら恥ずかしくないだろ」

よく見るとシンプルなデザインのヘルメットをツイード素材で覆っているようだ。さらに周りにリボンがあしらってある。ちょっと大きめだが一見普通の帽子にしか見えなかった。

「友達が使っていたものだ。貸してやるよ」

拓雄は相変わらずぶっきらぼうにそれだけ言うと、礼を言う美空の小さな声が聴こえないかのように先に走りだした。

拓雄が調整してくれた母親のシティサイクルも乗りやすいと感じたが、今度の自転車は別次元に思えた。何しろ車体重量がママチャリの半分くらいなのだ。漕ぎ出しが軽く、ペダルを踏んだだけ思い通りに進んでいく。タイヤは拓雄の自転車のようには細くないが、それがかえって安心感につながる。いつものコースーー途中息切れがして、やっと登っていた坂道を、美空はなんなく進んでいった。慣れないレバーによるシフトチェンジも、さほどする必要もなく楽々走る事ができた。

「おかしいよこれ。フラフラする」

だが途中で違和感を感じた。路面の衝撃を緩和して乗りやすいはずなのに路面のゴツゴツがダイレクトに響き、そのショックがハンドルを左右に激しく揺らす。

「力が入りすぎてるんだリラックスしろ」

「でも」

「こいつは普通のシティサイクルよりは乗りやすいけど、やはりスポーツバイクだから乗り心地が固いし、ダイレクトに路面の状況が伝わる。だけどその分操作しやすいハンドル形状なんだよ」

拓雄がスピードを落として脇に寄ってアドバイスするが「まあ、慣れるしか無い」といってまた先に走って行った。

下り坂ではスピードが出すぎて、路面の段差で一瞬宙に浮き、心臓が飛び出しそうになる。そのたびに身を縮めてハンドルにしがみつく。

神社に戻ったときは体中が痛く、全身がこわばっていた。そこへ拓雄が美空のサイコンの表示部分を指し示した。

走行距離の表示はいつもより3キロ多く走っていたことを表していた。同じ時間でこんなにもーー表示をまじまじ見つめて感心してる美空を見て

「日の出も早くなったし明日からもう30分早く出てこいよ」

そう言うと拓雄は返事も聞かずに、立ち漕ぎのまま体を左右に揺らしながら走り去っていった。


美空は翌日から5時には起床した。5時半にはもう二人で走る姿が見えた。毎日の慣れない早起きはキツかったが、その分早く家に戻れるので、出勤前の支度が慌てずにできた。ここひと月というもの、家に戻るなり急いで着替えて朝食を取り、身支度もそこそこに車に乗り込んで出発する毎日。毎朝ぎりぎりの出勤時間に上司は何も言わないが、先輩女子の目は厳しく、事あるたびに嫌味を言われるのがつらかった。

一日の仕事が終わり、家に帰って食事をとり風呂に入って夜の9時を過ぎると、もうまぶたが重くなる。早めに自分の部屋に戻って何冊か買ってある自転車関連の雑誌を読もうとしているうちに、いつの間にか眠りにについてしまう。そして目が覚めた時はもう陽の光が窓から挿していて、慌てて着替えて神社に向かう。そんな日が何日も続いていた。自転車で走るのは楽しいが、ひとりでは決して続かなかっただろう。

”今日は中止”雨の日はそんなそっけないメールが拓雄から届く。朝はゆっくりできるし、体も休められるが、一日とても損した気分で美空は落ち着かない。走っている時の体の痛みや足の痛みが懐かしくさえある。昨日苦しんだはずの坂に、ときめきに似た気持ちさえ感じてもう一度走りたいと思う。翌日雨が上がると待ちかねたように走りだす。走るコースもアップダウンの有るコースや朝から交通量の多い幹線道路も気にせずに安全に走れるようになった。

平均速度もママチャリの時に比べ三割は速くなっていた。限られた時間の中、さらに遠くへと行けるようになった。世界が近くなった気がした。

いっとき薄らいでいた慢性的な足の痛みは、太腿から裏側のハムストリングスへと移った。そして腕から肩、胸そして首へと、全体が痛み始めた。そのうち慣れるから、と拓雄の言うとおり、それも日を追うごとに薄らいでいった。

体重はハンドルとサドルそしてペダルへと3点に分散されていき、クロスバイクの固いサドルでも、短距離なら尻が痛むことはなくなった。走りながら揺れていた二の腕も締まってきて筋肉が表面からわかる。ペダルを踏むたびに腹の底で腸腰筋が躍動し、周りの脂肪を燃やしだす。眠っていた筋肉が目覚め始めた。

そうしてひと月もすると、筋力がついたおかげか、自転車をどうにか思い通りにコントロールできるようになっていた。当初のギクシャクした動きから比べると、かなりスムーズな走りに変わってきた。自転車はいまや美空にかかせない相棒となっていた。

慣れてくるとまた美空の悪い癖がでた。暖かくなって春の草花が咲き出すと、つい自転車を停めて眺めてしまう。先を走っていた拓雄が振り返り「またか」といった表情で戻ってくる。

「ハルシオンだよ」

土手のそばに屈みこんで嬉しそうに話す美空。花は多数に枝分かれして幾つもの花をつけている。中央の黄色い円形の花の周りに広がる白くて細い舌状花がほのかな美しさを醸し出している。

「どこにでも咲いてるじゃないかこんなの。貧乏草っていうんだろ。珍しくもない」

「でも今年は咲いてるのを見たのは初めて。なんかちっちゃくて健気な感じがして好きなの」

小さな白い花の群生に顔を埋めるように目を閉じている美空を、しょうがないなと言って黙って見ている拓雄の片頬が緩んだ。


美空はこのところ体重計に乗るのが楽しみの一つになっていた。乗ることが恐怖だった時期が嘘のように、朝晩に胸をどきどきさせながら乗る。日々変動はあるものの週単位では少しずつ減少している。数字を見て思わず口元がだらしなくひろがる。

そんな美空を呆れて見てる兄に気づいて、美空はあわてて顔を引き締めた。


走るごとにいろんな花の香りが鼻腔を撫でていく。日々暖かくなり、春の花が一斉に咲き始めた。香りを感じる感覚が研ぎ澄まされたように美空は感じた。あれほど行く手を遮った春の強い向い風もどこかへ旅立っていったようだ。早起きにも体が慣れたのだろう、美空は時間になると目覚まし無しでも自然に起きるようになっていた。そしてまもなく世間はゴールデンウィークをむかえる。もちろん美空も例外ではない。

日曜祝日は拓雄とのトレーニングも休みというルールだが連休はどうなるか、今日こそは確認しなきゃ、と美空は思った。もし連休に誘われたら一緒に出かけてもいい。そんな気分にはなっていた。というよりもむしろ出かけたかった。たまには違うコースをゆっくり二人で走りたい、今の自分なら往復50km以上はこなせる自信があった。拓雄にとっては全く物足りない距離だろうが、それは我慢してもらおう。

「いや、別に予定はないよ」

連休の予定を聞くと、拓雄はいつになく小さな声で答えた。次の言葉を待つがそれきり何も話さないのでしかたなく先に走りだした。

「連休中はトレーニングもお休みなの?」

途中の信号で停車した時に拓雄を振り返って聞いてみた。

「ああ、そうだな」

心ここにあらずといった風情、適当な返事に聞こえた。

「じゃあ連休明けの月曜日から再開でいいのね」

そう聞いた時だけちらりと美空に視線を流し、しばし考えてから「ああ」と短く答えた。

無愛想や無口なのはいつものことだが、その日はひときわ酷く、終始そんな様子だった。さらにいつものルートを間違えたり、後方確認を怠って車に接触しかけたり、いつもの拓雄の様子とは違っていた。

何かあったのか、仕事のこと? それとも女? 不審に思い、いつもの折り返し地点で停車した時に美空は思い切って聞いてみた。

「どうしたの今日は変だよ」

「いや、実はな・・・」何か言いかけてまた沈黙。そして再び口を開いて「なんでもない。さあ今日はこれくらいにしようか」

「そうね」

それ以上聞くのもためらわれ、美空は素直に従った。何があったかしらないが連休にゆっくり休めば元に戻るに違いない、たいしたことはない、そう考えて無言のまま帰路につき神社に到着する。なぜか寂しい感じがした。

「じゃあまた来週ね。忘れちゃだめだよ」

できるだけ明るく言ったが拓雄はやはり暗い表情のままだ。そして何か言いかける素振りで口を開きかけたが、またすぐに閉じてしまった。

「うん。じゃあ、また」

つぶやくようにそれだけ言うと走り去った。いつもと違い、ゆったりと走っていったようだ。遠ざかる姿を見ながら言い知れない不安が美空の胸をよぎる。過去の痛みを思い出させるような。

「気のせい気のせい」

そんな不安を振り払うように頭を振ってペダルを踏んだ。

明日から連休。仕事は休み、早起きの必要もない。楽しいはずなのに何故か美空の気分はうかなかった。


           消えた拓雄


「ちょっと早く来すぎたかな」

連休明けの月曜日、いつもの神社の前に着くとサイコンの時計を見る。朝5時を少し回ったばかり。ウォーキングの人さえもまだ動き出していない。

連休の間、どれだけこの日が待ちどしかったか。連休中でも美空はひとりでも走っていたが、やはり何かが物足りない。会いたい、拓雄に。

そう思うと、手を背中に回して背負ったリュックの中の感触を確かめる。連休中に専門店をいくつも回って選んだ彼へのプレゼントがそこにあるのを確認する。2ヶ月間世話になったお礼だ、他意はない・・・・そう思った。エメラルドグリーンの包装に赤いリボン。あいつどんな顔するかな。想像して美空はひとりほくそ笑んだ。

そのまま30分が過ぎた。まだ現れない。先週別れた時の拓雄の淋しげな表情が頭をよぎって不安になる。

6時を過ぎるがまだ現れない。遅い。たまらず走りだす。さっき救急車の音が聞こえたような・・・その方角に全速で飛ばす。シフトレバーを忙しげに叩く。足の力に押されて尻はサドルから浮いた。無様な下水道工事の跡に乗り上げて自転車が激しく上下する。ふらつく車体をハンドルをしっかり握って押さえる。

気のせいだったのか、どこまで走っても事故が起こった様子はない。入れ違いか。あわてて神社まで戻るがやはり拓雄の姿は見えない。しばらく息を整える間待ってみて、さらに別方向へ走りだす。左側の荒れた路面を避け、かまわず車線の真ん中を走る。後から来る車は、大きく反対車線に飛び出して美空の自転車を抜いていく。

町中の主要道路はすべてまわるが拓雄はどこにもいない。脇道を走る可能性は少ないが・・・・試しに行ってみなければ、と思ったところで町の7時の時報が鳴った。

ーーもう戻らなければーーそこで初めてメールか電話という手があることに考えがいった。なんてマヌケなーー自分を叱咤しながら家まで戻る。

家に戻るなり二階への階段を一気に上る、疲れで足が崩れそうになるのを必死でこらえ、自分の部屋に飛び込んで通勤用のバックをまさぐるーー無いーーそうだ昨日着てたジージャンの中ーー今度はドタドタ階段を降りるとお風呂の脱衣所に飛び込む。そこへ脱ぎ捨てたはずの洗濯カゴは空っぽだ。パンツ一枚でのんびりひげを剃ってる兄を突き飛ばすように洗濯機に飛びついてフタを開ける。それを感知して洗濯機は止まろうとする。完全に停止するのもの待てずに手を突っ込んで自分のジージャンを引き上げる。水が大きく跳ねて兄にかかった。何やら文句を言っている兄を無視してポケットから携帯を取りだし開く。水が滴り落ちた。液晶画面の表示は滲んでいた。

「ああ、そりゃもう駄目だな」

兄ののんびりした声が後ろから聞こえた。

思わず足が崩れて座り込んだ。


「カードの方にバックアップしておけばデータは助かったんですけどね」

会社帰りに寄ったケータイショップの店員が残念そうに話すのを美空はぼうっとした頭で聞いていた。そんなことはわかっている。美空は悔しさで唇を噛んだ。拓雄以外のデータはバックアップしてあるのだ。最近のだから? それは違う、ごく数日前に聞いたばかりの同僚の番号やアドレスはちゃんとバックアップしてあった。

学生時代、住所録を開くたびに黒く塗りつぶした行を見つたび胸が痛んだ。あこがれの先輩の電話番号を人づてに聞き出し、胸の鼓動を抑えつつ電話したあの日。数分後落胆した表情で、書いたばかりの電話番号を黒く塗りつぶしていた。あんな思いはもうたくさん。メールアドレスも覚えていない、電話番号を聞こうともしなかったのはその記憶のせいなのか。

忘れなければならないなら初めから覚えなければいい。そんな習慣がいつのまにか身についた。

その後も何度か携帯の復旧を試すが結果は芳しくなかった。電源は入るが一切の表示も操作も受け付けなかった。自然乾燥で復活することもあるーーーネットの情報を頼りに3日ほど日当たりのいい場所に干してみるが、ついには電源さえも入らなくなった。



翌日から美空は日の出を待って自転車を走らせるようになった。拓雄と走ったコースは全て覚えている。そのすべてを忠実に、毎日トレースした。どこかにいるはず・・そう考えた。南のコースを走り神社に戻ればさらに北のコースへ走る。さらに次の日は東へ西へと。連絡がない以上、それしか方法が思いつかなかった。毎朝の走行距離は3~40キロを超えていた。そうした日々がひと月も続いただろう、5月も終わりの頃、体力が続く限り走った休日。疲労に加え、ふくらはぎまで痙攣し始めた。もうこれ以上走れない・・・家からはかなり距離がある場所で、美空は心が折れそうになった。梅雨が近づいている。折しも降ってきた雨で濡れた路面、カーブを曲がるときにマンホールにタイヤが乗った瞬間自転車は美空を載せたまま一気に倒れこんだ。肘が道路にたたきつけられた。腕がじんじん傷んで血が滲んできた。自転車を端によせると、そのまま歩道へ座り込む。携帯が美空のポケットでぼやけた呼び出し音を鳴らした。帰りが遅いので心配して電話してきた母親からだ。美空は返事をしようとしても胸が潰れたように感じられ、満足に息もできず泣き声しかでなかった。通り過ぎる車が跳ねる水しぶきと強くなった雨が、美空の体を濡らしていった。


「無理しないでなにかあったら今日みたいにいつでもいいなさい」

電話のあと、すぐに車で迎えに来てくれた母が車を走らせながら言った。ずぶ濡れの体は車のシートを濡らしていた。後部座席にホイールを外して積んだ自転車が、シートを泥で汚していたが母親は気に留めなかった。家に戻って娘のためにすぐにあたたかい食事と飲み物を用意した。家にいるのは美空と母親だけだ。泣きはらした娘の顔を見せまいと、前もってうまいこと男二人を追い出したのは母の気遣いだった。美空の好きなイカ入りのお好み焼きが目の前に置かれた。子供の頃に、泣くとよく作ってくれた。昔はそれで泣き止んだが、今は逆に抑えていた涙が溢れそうだった。

「無理しないでって言ったでしょ。こらえることないの」

そう言って母親は娘のそばに座ってそっと肩を抱いてくれた。とたんに美空の口から激しい嗚咽がもれた。


梅雨入りにはちょっと早いが、それから数日の間雨が続いた。連日ムチャをした体にはいい休養だったかもしれない。美空の腕には、まだ大きな絆創膏が貼られている。

ようやく朝から晴れた日に美空はまだ薄暗いうちから家をでた。前日までの雨で、道路は乾いているものの草木はまだ濡れている。自宅から20km以上走った先のダムに続く峠道、少しきつい登りになる。そこを少し入っていく。平日なので頂上までは行く時間は無い。この辺でいいか、そう考えて美空は道幅が少し広くなった場所で自転車を降りた。ガードレールの向こうに見える斜面の草木は前日までの雨でしっとりと濡れている。さらに下の方に流れる川が見える。背中のリュックを下ろし荷物を取り出す。角の潰れた箱にくしゃくしゃになったグリーンの包装紙、ふんわり丸く型どってあったはずの赤いリボンは潰れている。ひと月近くも背負ったまま走っていたのだから仕方がない。

そいつを右手で強くつかむと美空は立ち上がり、大きく振りかぶった。父親がもっていた野球漫画の主人公のように片足を高く上げる、そのまま勢い良く足を下ろして勢いをつけて川に向かって投げ下ろした。

「さよなら」

手を放す瞬間に思わずつぶやいた。潰れたエメラルドグリーンのラッピングが空高く上がった。雲の切れ間から差し込む光にリボンのラメがキラリと光った。

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