三年目・一
高く澄み渡る薄青の空は、秋の深まりを感じさせる。部屋にいるのがもったいない、絶好の外出日和。
今日はダーシー地区に来ている。目的は新たな重点育成産業の候補、木工業の視察だ。
期限の三年まであと一年を切っている。今から新しい産業の育成に取りかかっても、恐らく今の絹織物や養蚕業のレベルまでは育てられない。
利益だけを考えるなら、重点育成産業は新たに増やすべきではないのだろう。しかし、そう言っていられない事情があった。
領内には七つの行政地区がある。うち六地区は、絹織物、養蚕、小麦いずれかの産業で支援を受けている。唯一の例外がダーシー地区だった。
他地区とダーシー地区の経済格差は徐々に大きくなっていて、このまま放置していてはいずれダーシー地区の領民の不満が爆発する。
これは『カレリョー』をプレイしていれば予測できた事態だ。早急に手を打たねばならないとわかっていながら、十日熱の余波ですっかり後手に回ってしまった。明らかに私の失態だった。
「当地区の家具製作は、規模は決して大きくはありませんが、技術には自信があります」
この視察で重点育成産業に選ばれるかどうかが決まるため、工房を案内する職人代表の説明にも熱がこもっていた。
ダーシー地区には他にも有望な産業がいくつかある。木工業の規模はその中でも中程度。地区長やジーンは規模の大きな陶磁器を推していたけれど……
それぞれの職人の話を聞き、工房を見て、私の中でほぼ答えは出ていた。
「もし重点支援産業となれば、どのような支援を求めますか?」
「私達の武器は技術です。例えばこの椅子に施された装飾。これほど繊細なものは、他では決して見られません。この技を国内のみならず広く知らしめたい。その助力を願えればと思っています」
代表の考えは、概ね私と一致していた。
ダーシー地区の木工製品、特に家具は彫りも塗りも美しい。まさに芸術品だ。当家の家具も殆どがダーシー地区製作のものだが、百年近く使っているものもある。使えば使うほど良さを感じられる。質、技術の高さは国内でも一、二を争うレベルと言っていいだろう。
しかし残念ながら現状、知名度は低い。
大量生産できない高価な家具は、今まで貴族にしか需要がなかったが、産業の発展で少しづつ平民にも豊かな層が増えている。
育てるなら今がチャンスだ。
決めた。帰ったら、すぐジーンに話そう。
当主になってから、常に影のように私に従っていたジーンは、今日はいない。
正確に言えば今日だけでなく、別行動が多くなっている。
言い出したのは私だ。私も領主としての経験を積み、一人で判断できることも増えてきた。ならばいつもジーンと一緒に行動する必要はない。それぞれで仕事をこなせば、倍の量が片付く。
王太子殿下に示された期限まで、もう一年を切っている。時間は有効に活用したかった。
ジーンと距離を置いてみて、わかったことがある。
私は自分で思っていた以上に、ジーンに依存していた。自分から別行動を提案しておきながら、少しでも判断に迷うと、ついジーンの姿を探してしまう。
今まで自信を持って決められたのは、ジーンがいてくれたから。いつまでもそれではいけないのだ。
「今日は筆頭執事のスタイン様は、ご一緒ではないのですね」
視察先で言われたのも、一度や二度じゃない。皆、私の側にはジーンがいて当たり前だと思っている。
そして誰より私自身が、ジーンが側にいることに慣れ、甘え過ぎていた。
従兄殿の一件で、ジーンが筆頭執事らしからぬ気遣いを見せたのも、私の中途半端な甘えのせいなのかもしれない。
一日も早く立派な領主にならなければ。王太子殿下に認めていただくためにも。ジーンに心配されないためにも。叔父様や従兄殿につけいる隙を与えないためにも。そして、こんな私を領主と認め、慕ってくれる人たちのためにも。
今はそれだけを考えて、日々の務めに励んでいる。
***
「おかえりなさいませ、ご主人様」
帰宅した私を、ジーンを筆頭にずらりと並んだ屋敷の者たちが迎えてくれる。見送りや出迎えは強制ではないのに、手が空いている者は、ほぼ全て集まってくれる。
私が当主となった後も残ってくれた人たち。お父様の代と変わらず、否、それ以上に熱心に勤めてくれている。人が減っても屋敷や庭が変わらず美しく保たれているのは、この人たちのおかげだ。
当主として正式に認められた暁には、改めてきちんと報いなければならない。
謝意を込めてぐるりと皆に視線を向けて、最後にジーンに目を留める。
「ユージン、後で執務室に」
「かしこまりました」
恭しく礼をするジーンを残し、一旦自室へ戻る。同行するのは、さっきジーンと並んで私を出迎えてくれたエミリアだ。
以前は帰宅後、執務室へ直行していたんだけど。
「埃っぽいお姿のままお仕事なんて、とんでもない! 貴婦人たる者、常に身なりには気を遣わねばなりません」
エミリアに厳しくお説教されて以来、一旦部屋に戻って身支度を整えるようにしている。
部屋に戻ると、エミリアの手を借りてドレスを替え、ほつれた髪も直してもらう。手を動かしながら、待ちかねたようにエミリアが口を開いた。
「今日はお茶をお淹れする時、いつもより長くお話できましたの。といっても、私が色々とお聞きしてしまったからなのですけど」
胸に刺さる小さな痛みを押し隠して、鏡越しに微笑み返す。
「だからそんなにご機嫌なのね」
「からかわないでください!」
頬を染めて目を伏せるエミリアは、しっかり者のお姉さんじゃない。どこから見ても恋する乙女だ。
複雑な感情に気づかれないよう、そっと目を伏せた。
私が視察に出ている間、ジーンは大抵、屋敷で事務処理をしている。エミリアはお茶を淹れたり、伝言を取り次いだりと、積極的にジーンと関わるようになった。
はじめは必要最低限の返事しかしなかったジーンも、近頃は徐々にエミリアに心を許しつつあるようだ。エミリアは嬉しそうに報告してくれる。
もちろん、心穏やかではいられないけれど……
一方で、主として二人の仲を応援すべきだと考えてもいる。
私では、ジーンの家族にはなれない。ジーンを支えることも、癒すこともできない。もしエミリアがその役を担えるのなら、祝福すべきなのだろう。大切な人たちの幸せを願うのならば。
そう遠くない未来、その日は訪れるのかもしれない。
「クローディア様、終わりましたわ」
ゆっくり目を開いて、鏡に映る自分の姿を確かめる。短い時間で、髪もお化粧も衣装も完璧に整えられてた。
「ありがとう、エミリア」
鏡越しに目が合うと、エミリアが優しく微笑んでくれる。
私も、心の準備をしておかなければいけないわね。
無理に作った笑顔は少し、強張っていた。
***
身支度を整えた後、改めて執務室でジーンと向かい合う。視察の結果、私が出した結論を告げた。
「新たな重点育成産業は、ダーシー地区の木工業に決めるわ」
私の言葉に、ジーンはあまり驚いてはいないようだった。
「理由をお聞きしてもよろしいですか?」
「ええ。まず一番の候補に挙がっていた陶磁器について。生産規模と価格は申し分ないわ。あの質に見合った価格で、大量生産ができている」
「そうですね。ですから私も第一候補として挙げさせていただきました」
真剣な眼差しが、まっすぐ私に向けられている。まるで「自分を納得させてみろ」と言わんばかりに。
「でもそれだけなの。価格だけならもっと安い品はあるし、質だけならもっといい物がある。良くも悪くもダーシーの陶磁器は、特徴がなさすぎるのよ。ギルドの代表に、重点育成産業に指定されたら、どのような支援を求めるか聞いても、明確な答えもない。今のまま予算をつけて生産量を増やしたところで、近いうちに売り上げが頭打ちになるのは目に見えているわ。その点、木工業には、ダーシーにしかない技術があり、今後の明確な未来像があった。あの家具を見れば当領地のものとわかるし、それは将来、当領地にとっても大きな価値になると思ったの」
「高価な家具は、市場が限られるのではありませんか?」
「近頃は平民にも富裕層が増えているわ。幸い、領地には国内有数の貿易商、クアーク商会もある。国外への市場も広がるでしょう」
しばしの沈黙の後、ジーンは小さく息を吐いて、微笑んだ。それはもう優しい笑顔で。不意打ちでそんなものを見せられたら、普段は固く蓋をしてある恋心が溢れそうになる……
「本当にご立派になられましたね。お一人でそこまで完璧な答えを導かれるとは、私の予想以上でした」
その言葉で現実に引き戻された。やけに上機嫌なジーンを見て、あっと声を上げる。
「もしかして、私を試したの?」
「試したとは少々言葉が悪いですが、そうですね。私と意見が違った場合、ご主人様は私を説得できるのか、興味はありました」
私が一度の視察で気付くようなことをジーンが気付かないなんて、おかしいと思った!
くすくす笑うジーンを見て、私は思いっきりむくれる。わかってもらおうと、一生懸命考えたのに!
「ユージンって、いつからそんな意地悪な性格になったのかしら?」
「申し訳ございません。お詫びにご主人様の好きなお茶をお淹れしましょう。ご一緒させていただいて、よろしいですか?」
「ただのお茶でごまかされると思ったら、大間違いよ! とびっきりおいしくないと……同席も、許さないから」
「かしこまりました」
余裕たっぷりに執事の礼を取るジーン。結局私は、彼の手のひらの上でころころ転がされてしまうのだ。
優しい笑顔を見ると、少しだけ胸が苦しくなった。
私がジーンと共に過ごしたのは、八歳の夏までだ。距離が離れてしまったと同時にジーンの態度も急によそよそしくなり、十六歳の秋、両親とリチャードが亡くなってジーンが領地に戻ってくるまでの間に、会ったのは一度だけ。
その一度は、ジーンと私の関係を決定的に変えてしまった。私がジーンに想いをぶつけ、ジーンははっきりと拒絶したから。
領地に戻ってきてからも、ジーンは私とは一定の距離を置いて接していた。ここは『カレリョー』の世界で、ユージンと主人公が結ばれるエンディングがないのだからそれも仕方ないと、気持ちを抑えようとしているのに。
最近、ジーンはかなり打ち解けて話してくれるようになった。一度きりだと思っていたお茶も、何度か一緒に飲んでくれているし、軽口をたたいたりもする。
そんなジーンの変化は、想いを押さえつけている蓋を容赦なく揺らす。もちろん、そのたびにさらなる重石をのせて押さえてはいるけれど。
「もし私がユージンの望む答えを出せなかったら、どうするつもりだったの?」
「そうですね、オニール先生をお呼びして、再度ご指導をお願いしたかもしれませんね」
子供の頃、私が一番苦手だった家庭教師の名を出され、思わずジーンを睨み付ける。
「本当にユージンは意地悪ね」
「申し訳ございません。でももう、今のご主人様ならオニール先生の課題も難なくこなせるでしょう。あまりご立派になられるのも、少し寂しい気がしますが」
え? 寂しいなんて、ジーンらしからぬ感傷的な言葉に、その意味を問おうとする。しかし、機先を制するかのように「お茶の準備をしてきます」と、ジーンは部屋を出ていってしまった。
筆頭執事らしからぬ、甘い微笑みを残して。
応えられないのなら、中途半端に優しさなんて見せないでほしい。
そう思う一方で、昔に戻ったかのように錯覚してしまうこの時を、幸せに感じている。
***
三年目の秋、再び予算の不正使用が発覚した。
今回はチェスター地区の絹織物ギルド。職人からの内部告発があり、調査によって事実だと判明した。
主たる使用者は今回もギルドの代表で、不正使用された予算の多くは、賭博に使われていた。
アルマの時とは違う。正真正銘、私的な不正使用だった。
ジーンの調査報告書に目を通して、私は深いため息をついた。
チェスター地区のギルドは、領内では二番目に大きい。地区の生活水準も高く、ギルドの代表も地区の名家の出身で、裕福だったはず。経済的に困っているとは思えないのに、なぜ。
とにかく関係者から直接話を聞かなければ。チェスターにも何度も視察に訪れていて、代表とももちろん面識がある。少し世辞が過ぎるが物腰は柔らかく、悪い人だとは思えなかった。
もしかするとアルマの時のように、何か私の知らない事情があるのかもしれない。
「ご主人様、今回は私も同行させていただきます」
強硬に主張するジーンをむりやり屋敷に残し、一人でチェスターに向かった。
アルマの時とは違う。私はもう、一人でも問題を収拾できる。それを証明したかった。
肌寒い雨の日だった。
チェスターの絹織物ギルドの代表は、ビル・ハンセンという。四十代半ばの恰幅のいい男性だ。工場の一室で私と向き合った彼は、はじめは不正使用を否定したが、証拠を突きつけられると、あっさり罪を認めた。
ジーンの調査に誤りはないとわかっていたものの、はっきり認められるとやはり堪えた。
なぜ、と理由を問うと、代表は完全に開き直った。
「そもそもなぜ私が、領主様に責められなくてはならないのでしょうか? こちらは支援に見合った税は収めています。その上で、余った予算をどう使おうが私の自由でしょう?」
「ギルドに下ろした予算は、ギルドのものです。私的な流用など認められません」
「ではなぜ、理由をお尋ねになるのですか? 私的な流用を認めないとおっしゃるなら、理由を尋ねる必要はないでしょう」
言葉に詰まる私を見て、ハンセン代表は今まで見せたことのないような侮蔑のこもった笑みを浮かべた。
「それとも理由によっては無罪放免、となるわけですか? ジェイクのように」
彼の言葉は、見事に私の急所を突いた。
アルマの件は表には出ないよう、秘密裏に処理したはず。なぜ彼が知っているの?
「アルマみたいな弱小ギルドが、近頃は飛ぶ鳥を落とす勢いだ。下手をすれば今期、うちは売上を抜かれる。何があったんだと、調べてみて驚きましたよ。まさかあの頑固者のジェイクが、横領を見逃してもらって女伯爵サマに懐柔されたとはね。だったら私にも寛大な処分をお願いしますよ。今まで女伯爵サマのご命令にはおとなしく従ってきたでしょう?」
投げつけられた言葉の数々は、どれも悪意に満ちていた。
彼は、私を領主と認めて接していたわけではなく、ただ不正を見逃してもらえるよう、媚びへつらっていただけなの?
表面だけを見て悪い人ではないと思っていた、自分の単純さを呪った。机の下でぎゅっと拳を握りしめ、必死に感情を抑える。
侮蔑と誤解に満ちた発言であっても、ただ一点に関してだけは、私に反論の余地はない。私の急所であり、今もなお、自分の戒めとなっている苦い記憶。
確かに私はボットさんの罪を見逃した。その判断に後悔はないけれど、領主として正しい判断だったのかと問われれば、即答はできない。
事実、ジーンには「秩序の崩壊につながる」と反対された。いくら秘密裏に処理をしたといっても、人の口に戸は立てられない。恐らくジーンは想定していたのだろう。
こんな風に『罪を見逃した』という事実だけが独り歩きして、悪しき前例となってしまうことを。
小さく息を吸って、真っすぐハンセン代表を見据える。
私のせいで招いた事態ならば、私の責任で収束させなければならない。
「もしあなたの罪に相応の理由があるのなら、考慮しましょう。何かありますか? 設備投資のために下ろした予算を、賭博に流用せざるを得なかった相応の理由が」
「若いヤツらとの親睦を深めるためです。仕事をうまくやってくには、そういうことも必要なんですよ」
見え透いた嘘に、失望を禁じ得ない。
報告書には、代表が誰と賭博場に出入りしていたかまで詳細に記してあった。少なくとも彼の言う『若い者』ではない。それにもし、彼の言う通り若者との親睦を深めるためだったとしても、それが不正使用の『相応の理由』になるとは思えなかった。
「あなたはそんなことで、本当に仲間との親睦が深まり、信頼関係を築けると思っているのですか?」
「もちろんですよ。女伯爵サマには『そんなこと』でも、オレたちには数少ない楽しみですからね。若いヤツらもみんな、喜んでましたよ」
悪びれもせず嘘をつき、開き直る。人をまとめる立場に立つ者の態度ではない。なぜ彼のような人物が、長くギルドの代表を務められたのだろう?
問題は予算の不正流用ではなく、別のところにあるのかもしれない。
テーブルの上の書類をまとめて立ち上がり、まっすぐ代表を見つめる。
「当面は自宅で謹慎を。正式な処分は追って通達します。軽いものではないと、覚悟しておいてください」
当然のように『寛大な処分』が下ると思っていた代表は、さっと顔色を変えた。
「待ってください! ジェイクがお咎めなしなのに、オレだけ処分されるってのは、おかしいでしょう!」
私に掴みかからんばかりの勢いで立ち上がったハンセン代表を、扉の前に控えていた護衛の騎士が素早く拘束する。
護衛が優秀なのはありがたいが、さすがにハンセン代表もここで私に危害は加えないだろう。目で合図すると、騎士はすぐに拘束を解いた。
すると代表は今度は泣き落としで処分の撤回を訴える。それでも私が譲らないと悟ると、暴言の限りを尽くして出ていった。
残された部屋で、私はしばし立ち尽くしていた。
育成も順調に進み、領主としての自信を持ちつつあった。でもそれは、単なるうぬぼれだったのかもしれない。
ハンセン代表が最後に残して言った言葉が、いつまでも私の耳に残って離れなかった。