二年目・後
よく晴れた穏やかな春の午後。従兄殿は何の前触れもなく、やって来た。
執務室で翌日の視察の打ち合わせをしていた私は、門番からその名を聞いた時、一瞬誰? と首を傾げてしまいそうになった。その位、従兄殿の存在はすっかり頭から抜け落ちていた。
何で今さら? なんて考えるまでもない。目的は明白だ。
応接室で待たせておくよう指示をして、手早く仕事を片付けた。
「話をして、すぐに帰ってもらうわ」
「私も同席させていただいてよろしいですか?」
ジーンは私がうまく従兄殿をあしらえず、困っているところを散々見ている。きっと心配してくれているのだろう。でも私だって少しは成長している。もう従兄の対応ごときに、ジーンの手を煩わせたりしない。
それでもジーンは同席すると言って譲らず、結局折れたのは私の方。
三十分後、書類の束を抱えたジーンと一緒に、私は応接室に向かった。
「お待たせいたしました、アークライト様」
反射的に立ち上がった従兄殿は、私の後ろにいたジーンに目を留め、眉をひそめた。わかりやすい反応だ。いつも絶妙なタイミングで“邪魔”するジーンは、従兄殿から見れば敵だよね。
それでもすぐに満面の笑みを浮かべ、先ほどの歯の浮くようなセリフを吐いた。
簡単に挨拶を済ませ、テーブルを挟んで従兄と向かい合う。ジーンは私の少し後ろに控えた。
「しばらく任務で王都を離れていてね。なかなか会いにこられなかったんだ。寂しい思いをさせてしまったね」
「いいえ、こちらは毎日充実していて、アークライト様を思い出す暇もございませんでしたわ」
「拗ねてるの? そんな素直じゃないところも、かわいいよ」
陽気に笑う従兄殿。誤ったポジティブ思考は健在らしい。
「任地での慰めは、クローディアからの手紙だけだったよ。でもそれもここ最近途切れていたから心配になってね。無理矢理休みを取って、会いにきたんだ」
従兄殿はとても筆まめな人で、顔を見せない間も欠かさず手紙を送ってきていた。まるっきり無視するわけにもいかず、私もニ、三通に一度の割合で返事を書いていた。もちろん儀礼的で、内容は全くない! 慰めどころか、暇つぶしにもならなかっただろうに。
十日熱の発生以降は、返事はおろか届いた手紙を読んですらいなかったのだが……まさか乗りこんでくるとは。従兄殿だって、こちらの事情はわかっていただろうに。
いや、手紙の件は単なる口実か。従兄と叔父様が、まだこの家を諦めていないことはわかっていた。今度こそ決着をつけにきたのだろう。
望むところだ。私としても、これ以上この問題に時間を取られるわけにはいかない。
「しばらく滞在させてもらうよ」
従兄殿の言葉に、私より先に反応したのはジーンだった。
「では前回の宿に至急部屋を用意させましょう」
「今回はここに泊まらせてもらう。いいだろう? どうせ部屋は余ってるんだし。オレはクローディアとゆっくり話がしたいんだ。オレたちの、将来についてね」
「ご主人様は多忙で、ゆっくりお相手する時間はないと存じます。こちらに滞在されても、アークライト様が退屈なさるだけかと」
「あー、もう、うるさいんだよ! たかが召使いごときが、いちいちオレに指図するな! オレがここにいたいと言ってるんだから、お前は黙って部屋を用意すればいいんだ!」
従兄殿は顔を真っ赤にして、ジーンを怒鳴りつけた。ジーンは申し訳ございませんと謝罪したが、その非の打ちどころのない態度が逆に従兄殿の癇に障ったらしい。ますます激昂してしまった。
「だいたい、召使いがなんでここにいる? 邪魔だ。オレはクローディアと二人で話がしたいんだよ。わかったらさっさと出ていけ!」
この発言で、僅かに残っていた叔父様や従兄殿に対する遠慮はきれいさっぱりなくなった。大切なジーンを『たかが召使い』呼ばわりされて、黙っているわけにはいかない。
何か言いかけたジーンを目で制して、真っすぐ従兄殿を見据えた。
「ユージンは当家の筆頭執事です。アークライト様も子爵家のご子息なら、筆頭執事がどういう存在かはご存知のはず。ユージンの言葉は当主である私の言葉。ユージンを侮辱することは私、引いては当伯爵家を侮辱することと同じです」
冷静な中に怒りを滲ませた私の言葉に、従兄殿の顔はみるみる青くなる。
「そんなつもりじゃ……! オレはただ、クローディアと二人で話したかっただけなんだ。ごめん、クローディア。不愉快にさせたなら謝るよ」
謝るのは私にではなく、ジーンにだ。とはいえ従兄殿にそれを指摘したとで理解してもらえないだろうし、ジーンも形だけの謝罪など望まないだろう。
甘い香りのハーブティを一口含む。お母様のお気に入りだったお茶。これを飲むと心が落ち着くのだと、おっしゃっていた。
カップを置いて、改めて従兄殿に向き直った。
「謝罪は結構です。謝罪だけではなく、私は今後一切アークライト様からのいかなる言葉も望みません」
従兄殿はすごい勢いで身を乗り出す。そのせいで、テーブルの上の茶器がガチャンと音を立てて揺れた。
「そんなに怒らないで。本当に悪気はなかったんだ。ちゃんと話をしよう。きっとすぐに誤解は解ける」
「誤解? 私はちゃんと理解していますわ。アークライト様とベイリー子爵の目的は、伯爵家の乗っ取りなのでしょう?」
さすがに直球すぎたか。従兄殿は引きつった笑顔のまま固まっている。それでもまだ取り繕おうとするのだから、往生際が悪い。
「そ……それこそ誤解だよ! 父上は心からクローディアの将来を心配しているし、オレも……出会った瞬間、君に心奪われてしまったんだ。君を愛してるんだ」
「まだわかっていただけませんか? だから私のような小娘に、軽蔑されてしまいますのよ」
ぽかんと口を開けた間抜けな従兄殿に、とどめの一撃を放った。
「私はあなた方の傀儡になるつもりはありません。この家と領地はこれからもずっと私が……私とユージンが、守っていきます。帰ってベイリー子爵に、そうお伝えください」
日が陰り、薄暗くなった室内に沈黙が落ちる。先に口を開いたのは、従兄殿だった。
「なるほどな。父上がおっしゃるような、世間知らずの箱入りじゃなかった、ってわけだ」
いつもより低い声、怒りと屈辱に満ちた目。こんな顔もできたのか。今まで感じられなかった従兄殿の意志を、強く感じる。
どうやらただの道化ではなかったらしい。
「アークライト様こそ、迫真の演技でしたわ。ここまで見事に喜劇の主役を演じられるとは。騎士などお辞めになって、舞台役者に転向なさってはいかがですか?」
「……言いたい放題だな」
「これ以上時間を無駄にしても、お互い益はないでしょう?」
「確かに」
従兄殿は口元を僅かに歪め、静かに立ち上がる。
「君が素直にオレに落ちてくれたら、全て丸く収まったんだけどな。残念だよ、クローディア」
冷めた目で言い捨てると、挨拶もそこそこに去っていった。あれだけしつこかった割に、意外とあっさり引いてくれた。これで叔父様の問題も解決だ。
しかし、執務室に戻ってもジーンの表情は厳しかった。
「言いすぎです。あれではご主人様がいらぬ恨みを買ってしまいます」
「あのくらい言わなければ、わかってもらえなかったわ」
「だとしても、ご主人様が口にすべきことではありません。誰かに憎まれたり恨まれたりする役は、私がお引き受けいたします」
何よそれ。ジーンに嫌なことは全部押しつけろって言ってるの? そんなのただの責任放棄だ。それに。
「大切な……筆頭執事を侮辱されて、黙っている主はいないわ」
ジーンは少しだけ目を見開き、言葉に詰まる。それは本当に一瞬のこと。すぐにまた厳しい表情で私を見つめた。
「確かに当家が侮辱されたとお怒りになるのも仕方ありませんが、そんな時こそ冷静さを失うべきではありません」
違う。私は当家を侮辱されたから腹を立てたんじゃない。私は……さすがに口にはできない。ジーンの言ってることは、確かに正しいのだ。
「私も何も策を講じていなかったわけではないのです。ベイリー子爵とアークライト様に当家から円満に手を引いていただけるよう、取引材料を用意していました」
……え?
机に置かれたのは、ジーンがずっと小脇に抱えていた書類の束。何気なく読み進めて、目を見張った。
それはベイリー子爵と子爵領に関する調査報告書だったのだが、問題はその内容だった。
「これは本当なの?」
「はい。不審な点があれば、再度調査させますが」
無言でかぶりを振る。証拠も揃ったその報告書に、疑念を挟む余地はない。
改めて報告書に目を落とす。叔父たちが必死になるわけだ。目当ては爵位でも領地でもなく、お金だったのか。
巧妙に隠されていたが、子爵家は多額の借金を抱え、財政状態は火の車だった。
ベイリー地方は昔、良質なワインの産地として有名だったが、婿入りした叔父様が当主となった頃から領地の経営は悪化。ワインの質も下がり始める。直接の原因は、新種のワインの開発に失敗したことらしいが、叔父様自身の浪費も少なからず関係している。
叔父様は噂通り、無類の博打好きだった。一度は領地を破産寸前まで追い込んでいる。その時、借金の一部を肩代わりしたのが、ウォルコット伯爵――
私のお父様だった。私が知らなかったのも当然だ。生まれる直前の話なのだから。
「先代のご当主……ご主人様のお父上は、それまでにも何度かベイリー子爵の借金を肩代わりされています。さすがに限界だったのでしょう。これを最後に、兄弟の縁を切ると決められたようです。このことは父の日記にも書いてありました」
お父様に借金を肩代わりしてもらって以降、子爵領の経営は多少持ち直したものの、借金は一向に減っていない。税を上げ続け何とかごまかしているものの、領民の不満は年々高まっているのだという。
この状況が陛下の知るところとなれば、叔父様もお咎めは免れない。領地の発展は、国の発展。健全な領地経営は、貴族に課せられた義務だ。だから私も、今こうして試されているわけで。
最悪の場合、代々守ってきた領地を追われることもある。
確かにこの報告書を突きつけられれば、従兄殿や叔父様は当家から手を引かざるを得ないだろう。
そうなると、いくつか納得できない点がある。
報告書を脇に置いて、ジーンを見上げた。
「この報告書はアークライト様との交渉じゃなく、王都への報告のために使うべきじゃないかしら?」
「そんなことをしても、当家には何の益もありません。それどころか、下手をすればベイリー子爵から要らぬ恨みを買うだけです」
「恨みを買うって……さっきもそんなこと言ってたけど、大袈裟よ。それに子爵領の人たちのことを考えれば、報告するべきだと思うわ。益があるとかないとか、そういう問題じゃない。苦しんでいる人がいると知っているのに見て見ぬふりをするなんて、間違ってる」
「大袈裟ではありません。追い詰められたものは、時に思わぬ反撃に出ることがあります。ましてベイリー子爵は……」
ジーンは何かを言いかけて止め、私が脇に置いていた調査報告書を手にとった。
「私にとって何より優先すべきは、ご主人様の身の安全です。それが完全に保障されるまで、これは交渉材料の一つとして、とっておきます」
「だから、私はそういう裏取引みたいなことはしたくないって言ってるの! そもそもアークライト様はもう、当家から手を引くと言ったでしょう? もう交渉材料は必要ないはずよ」
ジーンは小さくため息をつく。
「アークライト様がいつ、当家から手を引くとおっしゃいましたか?」
「席を立った時に言ったじゃない」
素直に落ちてくれれば丸く収まったのに残念だとか、何とか。あれはそういう意味でしょう? ジーンは一旦口を開きかけて止め、またため息をついた。
「この報告書の件は、もうお忘れください」
「答えになってない! そもそもこんな重大なこと、見て見ぬふりできるわけないでしょう?」
「できます。現にご主人様は一度、見逃されたではありませんか。アルマの不正を」
鋭い視線に射抜かれ、動けなくなる。
そうだ。私は偉そうに言える立場じゃない。理由はどうあれ、一度不正を見逃しているのだ。あの選択を後悔してはいないけれど……領主として正しい判断だったのかは、未だに自信がない。
ジーンはずるい。このタイミングでそれを持ちだされたら、私は何も言えなくなる。
「申し訳ございませんが、この件に関して私は譲歩するつもりはありません。もしどうしてもご主人様がこの件を王都に報告されるとおっしゃるなら、私は筆頭執事の職を辞するつもりです」
……な! とっさに椅子から立ち上がっていた。
「冗談でしょう?」
「進言を受け入れていただけないのなら、お側にいる意味はありませんから」
意味がわからない。でもジーンが本気なのは、表情や態度から伝わってきた。
不本意だが、私が折れるしかなかった。もしかしてジーンが異常に警備の強化にこだわっていたのも、叔父や従兄を警戒していたからだろうか?
だとすれば、もう一つ納得できないのはここだ。
「ユージンは、はじめから叔父様のことを信用していなかったの? 警備の強化を譲らなかったのも、そのため?」
「……はい」
「だったらなぜ、アークライト様がここに通ってこられるのは黙認していたの? 前に言ってた『学生時代のお友達』の力を借りれば、いつでも止められたんでしょう?」
警備を強化しつつ、警戒している当の本人を家に入れるなんて、どう考えても矛盾してる。考えをまとめるようにしばし目を伏せた後、ジーンは再び私を見つめた。
「父と子は違うかもしれないと、期待してしまったのです。残念ながら、期待外れに終わりましたが。少しでもご両親を亡くされたご主人様の寂しさを慰めていただきたかった。血筋の近い方は、ベイリー子爵とそのご子息だけになってしまいましたから」
それは“ウォルコット女伯爵”ではなく、“クローディア”としての私を心配してくれたと思っていいの? じわっと胸が熱くなる。嬉しくて、つい口にしてしまった。
「寂しくなんてない。ユージンが側にいてくれるから」
しばしの沈黙の後、ジーンは私から目を逸らした。
「私ではいけないのです。私では、ご主人様の慰めとなる近しい存在……家族には、なれないのですから」
その言葉に、今度は心臓を一突きにされたような気がした。それだけでも十分だったのに、ジーンはさらに止めを刺す。
「私にできるのは、領地経営の補佐のみ。この家と領地を守っていくのは、ご主人様と……いずれご主人様の伴侶となられる方、そしてお二人のお子様なのですから」
この想いが叶わないことはわかっている。だから多くは望まない。領地を守りながら、密かに想い続けていくつもりだった。
でも、それすらも許されないの?
そんなささやかな願いすら許されないなら、私はいったい何のためにこの世界に生まれ変わってきたのだろうか?
***
「領主様?」
その声で我に返った。いけない、昨日のジーンとのやり取りを思い出して、ぼんやりするなんて。仮にも今は視察中だ。
隣に並ぶ青年に、慌てて笑顔を見せた。
「ごめんなさい、少し考え事をしていて」
今日は絹織物工場の整備を提案するため、アルマに来ている。
アルマでは現在、親方が仕事を請け負い、数人の職人を抱え自宅の一部で作業を行っている。それぞれが全工程を一人でこなすため、作業効率が悪い。
完全分業制にすれば、効率は飛躍的に上がる。そのために工場を整備し、職人を一か所に集めようと考えたのだが……
「すみません。領主様が俺たちのことを考えてくださってることは、ちゃんとわかってるんです。ただ親方には、頑固なヤツらも多くて」
私の提案はギルドの会議で大反対にあった。予想はしていたんだけどね。
アルマの職人は、私を快く思っていない。あの騒動の時のように、表立って敵意を向けられることはさすがにないが、迷惑そうな空気は視察のたびに感じている。
特に代表のボットさんは、私と挨拶以上の言葉を交わそうとはしない。私の案内役は、専ら副代表のこの青年だ。ジーンとは、割と打ち解けて話をしてるのに。
今も会議が紛糾するや否や、私と副代表だけが部屋を追い出されてしまった。今はこうして、外でぼうっと場が落ちつくのを待っている。
自分では、少しづつ成長しているつもりなんだけどな。ここに来るたび自信を失いそうになる。
「ジェイクのアニキだって……領主様には感謝してるんですよ。ただなんつーか、あの人は特別頑固なんです」
まだ二十代後半だという若い副代表は、気の荒い職人が集うアルマのギルドには珍しい、穏やかな人だ。こうして私にも、度々優しい言葉をかけてくれる。
「そんなに気を遣わなくても大丈夫ですよ。代表の私への感情と、この地区の支援は別の話ですから」
「ホントですって! こないだもヘンな男が領主様のことを嗅ぎまわってた時、ジェイクのアニキは怒鳴りつけて追い返したんですから!」
私のことを嗅ぎまわっている? それは聞き捨てならない。
副代表の話によると、その男が現れたのはつい先日。地区の人たちに、私とジーンについて聞き回っていた。不審に思った職人がボットさんに報告し、ボットさんがその男を問い詰めると、男はこう言ったそうだ。
『私は決して怪しい者ではない。ある方の依頼で、ウォルコット女伯爵とその筆頭執事の評判を調べているのだ』
と。口調や身なりから、王都からきたそれなりの立場の者ではないか、というのが皆の一致した意見だという。
……記憶の隅に追いやられていたダリル村の話と重なった。
村にいたという怪しい男と同一人物だろうか? そして“ある方”っていったい誰? 心当たりがないわけではないけれど。
どのくらい考え込んでいたのだろう。頭の上からジーンが呼ぶ声がして。顔を上げると、彼は涼しい顔でこう言った。
「ギルドの賛成を得ました。屋敷に戻り、すぐに予算を下ろす準備にかかりましょう」
えっ、まさか! あれだけ皆、反対していたのに。こんな短い時間でどうやって説得したの!?
「説得したのは私ではありません。代表のジェイク・ボットです」
その言葉に二度驚いた。ボットさんが? 確かにさっきの会議でははっきり反対の立場はとっていなかったけど、賛成してるようにも見えなかったのに。
「だから言ったでしょう? ジェイクのアニキも、領主様には感謝してるんです。頑固だから、こういうやり方でしか伝えられないだけで」
さすがに副代表の言葉を鵜呑みにするほど、厚かましくはなれない。でも、嫌われてはいないと思っていいのだろうか?
帰る前にボットさんにお礼を言おうとしたのだけど、うまく逃げられてしまった。
それでももう、落ち込んだりはしなかった。
屋敷に戻ってすぐ、ジーンに副代表から聞いた、怪しい男の話をした。
私とジーンのことを調べている“ある方”とは誰なのか。私の心当たりはただ一人。私の当主としての資質を検めるとおっしゃったあの方――
「やっぱり王太子殿下かしら? だとすれば、なぜユージンのことまで調べるのかわからないけど」
「そうですね……申し訳ありませんが、私ではわかりかねます」
ジーンにしては珍しく、ぼんやりとした返答で。結局、明確な結論が出ないまま、この話は棚上げになった。
***
夏は“水不足”が領地を襲い、一部の野菜や果物の生育に影響が出た。幸い小麦が前年比二倍以上の売り上げを計上し、その穴を十分すぎるほど埋めてくれた。
一方で重点育成産業の絹織物と養蚕は、後半伸びたものの前半の落ち込みが響き、目標としていた売り上げには届かなかった。
そして迎えた二年目の終わり。王太子殿下からの書状は、去年とほぼ同じ内容だった。
『現時点では、ウォルコット女伯爵に領主として一定の評価を与える。今後もさらなる努力を以て領地経営に励むように』
可もなく不可もない内容。このままいけば、ゲームならランクAというところか。
残り一年でどこまでやれるだろう? 秋には工場の整備が終わる。そうすれば産業は飛躍的に伸びる。インフラも七割は整備が終わっている。どんなアクシデントが来ても、深刻な被害は避けられる……はずだ。
とはいえ、これはゲームに基づく予測にすぎない。後一年、絶対に気は抜けない。
そんなわけで、今年はワインを開けるのは止めておいた。するとジーンが珍しことを言い出したのだ。
「ご主人様、お茶をお淹れしましょうか?」
筆頭執事はあくまで領地経営の補佐役。主の身の回りの世話は、基本的にはしない。だからジーンにお茶を淹れてもらうという発想自体、なかったのだけど……
「そうね、ユージンも一緒に飲んでくれるなら」
せっかくめったにない提案をしてくれたのだ。断られるのを覚悟で言ってみると、予想外の答えが!
「ではお言葉に甘えて、ご一緒させていただきます」
これはワインを我慢した私への、一種のご褒美イベント的なアレだろうか?
そうして執務室のソファで向かい合って、二人でお茶を飲んだ。話す内容は、一から十まで仕事のことだったけどね。そんなことはどうだっていい。こうしてジーンとゆったりした時間を過ごせることが、本当に嬉しかった。
お母様がお気に入りだったお茶は、ジーンが淹れてくれたというだけで、いつもより甘く感じた。
そして三年目、最後の年――
私の領主としての自信を根底から突き崩す事件が起こった。