一年目・中
家督を継いで二カ月が過ぎた。
近頃は朝食後、お茶を飲みながら庭を眺めるのが日課になりつつある。
庭師が丹精込めて整えていても、秋の終わりはやはり物寂しい。
この庭は、お母様のお気に入りだった。多忙な中、少しでも時間が空くと、お茶を飲みながら眺めていらっしゃった。もちろん私にとっても、幸せな想い出がたくさん詰まった場所だ。
ジーンが初めて私を「ディー」と呼んでくれたのは、あの薔薇のアーチの前だった。
……その時は、半ば無理やり呼ばせたんだけど。
二人でこっそり、あの木に上ったこともあった。結局後で見つかって。リチャードにひどく怒られたのは、私ではなくジーンだった。
『ディー、しっかり僕につかまって』
風に揺れる枝を背に、私に手を伸ばすジーンの笑顔が浮かんで……そこで唐突に、現実に引き戻された。
「やぁ、クローディア。今日も美しい朝だね」
また来たのか……声の主に目を向ければ、出るのはため息だけだ。
「ごきげんよう、アークライト様」
「いい加減、その他人行儀な呼び方は止めてほしいな。オレは将来、君の夫になるんだからさ」
冗談にしては全く笑えないことを言ってくれたのは、私の従兄、バリー=ガストン・アークライト。お父様の弟・ベイリー子爵の一人息子だ。
私の前までやってくると、気障ったらしく一礼して膝をつく。上目遣いで微笑み、私の手を取って口づけた。
叔父譲りの赤毛がかった金髪に、ブルーグレーの瞳。優男風の容姿は、客観的に見れば悪くはないのだろう。女性の扱いも、かなり慣れているように見える。女性関係が派手だという叔父の噂は、この従兄にも当てはまるのかもしれない。
家督を相続した直後から、こんな訪問が三日とおかず続いている。
確かにゲームでは、従兄はランクBのエンディングの結婚相手になっていた。とはいえ恋愛イベントはおろかスチルすらない、いわゆるモブキャラ。それがまさか、ここまで頑張るとは。
今、私を一番悩ませているのは、この従兄だった。
「そのお話なら何度もお断りしているはずです」
「独身だから仮の相続だなんて言われるんだろ? オレと結婚すれば、殿下もすぐに正式な相続を認めてくださるさ。従兄で気心も知れてるし、きっとうまくやっていけるよ」
ここまで話が通じない人と、うまくやっていけるわけがない! 取られたままだった手を引きぬいて、小さくため息をつく。
「失礼ですが、アークライト様はいつまでこちらにいらっしゃるおつもりですか? 騎士団のお役目は、こんなに長く空けていいほど軽々しいものではないでしょう?」
「構わないさ。今のオレにとって一番大事な仕事は、傷心の従妹……いや、未来の妻を慰めることだからね」
ホントやめてほしい。殺し文句のつもりかもしれないけど、別の意味で死ねる。
断っても断っても、諦めるどころかさらに熱心に口説いてくる。従兄、その後ろにいる叔父の目的は、わかっているつもりだ。
そこまでして、この家が欲しいのか。呆れるを通り越して、いっそ感心してしまう。
……こんな安いセリフで落ちると思われてるのは、ちょっと屈辱だけどね。
「クローディア、そんなに悲しそうな顔をしないで。君は一人じゃない。オレがずっと、側で君を支える」
「お気遣いなく! 私は一人でも全く支障ありません。それよりご自分の心配をなさってください。このままでは騎士団を除籍されてしまいますわよ」
「オレの心配までしてくれるなんて、クローディア、君はなんて優しい人なんだろう! ますます夢中になってしまうよ」
……ダメだ、全く話が通じない。よっぽど自分に自信があるのか、ただのバカなのか。この人と結婚なんて、“バッドエンド”以外の何ものでもない。
いい加減疲れてきた頃、見計らったようにジーンが現れた。黒の燕尾服には、今日も一分の隙もない。
「おはようございます、ご主人様」
恭しく執事の礼を取るジーンを見て、従兄は不愉快そうに顔をしかめる。
「おい、邪魔するなと言わなかったか?」
「恐れながら、本日は午前中、堤防整備の視察が入っております。ご主人様にはそろそろ支度をしていただかなくてはなりません」
さすが優秀な執事、涼しい顔でしれっと嘘の予定を口にした! この助け船に乗らないわけにはいかない。
「そうだったわね。ユージン、知らせてくれてありがとう。そういうわけですのでアークライト様、今日はこれで失礼させていただきます」
「クローディア、待って」
席を立つ私の手を、従兄がしっかりと握りしめる。やめてー! 全力で振りほどきたいのを我慢して、作り笑いを浮かべる。
「何でしょうか? 予定が詰まっていて、あまり時間がないのですが」
「今度クローディアに、領内を案内してほしいな。ここから少し遠いけど、きれいな湖があるんだって?」
「あいにく多忙で……申し訳ありませんがお約束できません」
「これから先、永遠に予定が入ってるわけじゃないだろ? いつなら空いてる? 一週間後? 一カ月後? 君のためなら、地の果てからでも駆けつけるよ」
今日の従兄殿はいつになくしつこい。納得できる答えをもらうまでは離さないと言わんばかりに、繋いだ手に力がこもる。ダメだ、もう限界。
「予定を確認して、改めてご連絡させていただきますわ」
この場を収めるためだけの出まかせを、口にした。
絶対だよ、約束だよ、と何とかの一つ覚えのように繰り返す従兄の手を振りほどいて、食堂を後にする。
そのまま無言で執務室へ。私に続いて入室したジーンが扉を閉めるのを確認して、振り返る。
えっ!? 無表情を装っていたけど、私にはわかってしまった。ジーンは必死に笑いを堪えていた! まぁ、あんな茶番を見せられたら仕方ないか。この堅物まで笑わせてしまうとは……従兄殿、恐るべし。
「アークライト様にも困ったものですね」
「わかってるなら、初めから屋敷に入れないでよ」
「事前にわかっていればお断りできるのですが、今日のように突然来られると、お通ししないわけにはいかないのです。あの方はご主人様の親戚で、子爵家のご子息ですから」
わかってる。ジーンはもう十分やってくれている。
従兄がしばらく領内に滞在したいと言い出した時、理由をつけて屋敷に泊めることを断り、少し離れた街の宿屋を手配したのはジーンだ。接触が必要最低限で済むよう、色々と気を配ってくれている。
とはいえ、貴族である従兄から強く出られれば、ジーンも全てを拒否できない。
私がきっぱり断らなければいけないのだ。でもどうやって? これ以上きっぱりとなれば、嫌いとか、二度と顔も見たくないとか、完全に礼を失してしまう。あの従兄殿には、それでも通じるかどうか怪しいところだが。
あれこれ考え込んでいると、ジーンが先に口を開いた。
「これ以上滞在が長引けば、執務に支障が出そうなのも事実。アークライト様には、そろそろ王都に戻っていただいた方がよろしいでしょう」
「それはそうだけど、無理よ。何度も戻るよう言ってるけど、いつも聞き流されてるもの」
「……わかりました。この件については、私にお任せください」
数日後――
従兄殿は挨拶もそこそこに王都へ戻っていった。それはもう、あっさりと。すごい! ジーンはいったいどんな魔法を使ったの?
「学生時代の知人に力を借りました」
つまり王都にいた頃の知り合い、ということか。
突然の別れから八年。ジーンが王都でどんな風に暮らしていたのか、私はほとんど知らない。五年前に一度領地に戻ってきた時も……聞ける状況ではなかったし。
どんな友達と、どんな学生生活を送っていたの? 聞きたかったけれど、やめておいた。
必要以上に立ち入ろうとしなければ、ジーンも私を拒まない。
『私はもう、貴女様のことは“お嬢様”としか呼べません』
私達の関係は、五年前のジーンの言葉が全てだ。当主と筆頭執事。近付き過ぎてはいけない。
ジーンも“知り合い”についてはあまり語りたがらなかったので、自然とこの話は立ち消えとなった。
そして、従兄の件が解決し、ホッとしたのも束の間。今度は領主として、難しい判断を迫られることになる。