発車ベルのその先へ
列車が走り去る時、風を残していく。
私はその風を捕まえていたくて、手繰り寄せる。でも、途中で糸が切れてしまったように手応えなく、それは毎度のことながら私の手からすり抜けてしまう。
ただひとかけらの切なさだけを残して。
朝7時27分発急行。後ろから3番目のドアにあの人がいる。いつもその時間、同じ場所に立っていて、片手に本を持ちながら、何ともなしにホームを眺めている姿があった。
そんな彼を見つけたのは文化祭の準備のためにいつもより早く家を出ていた頃で、その時にたまたま、本から顔を上げた彼と目が合ったような気がした。最初はたったそれだけのことだった。初めはこれっぽっちも興味なんてなかったのに、文化祭の間毎日見るようになって、気付いたらそれが終わっても早く家を出るようになってた。
思えばもう、それから半年が経っていた。だけど私は未だにあの人の名前も知らない。声も、好みも、どんなふうに笑うのかも。毎朝、乗りもしないのに7時27分の列車に並び、わかったことといえば本を沢山読んでいるらしいことと、制服からどっかの高校に通っているんだろうということぐらい。風のようにホームに入ってきて、そして風のように吹き抜けていくその約1分間。それが唯一にして最大の、文字通り彼と私の接点だった。
だから私はまたホームで列車を待つ。
あの人を運んでくる列車を。
「ただ見つめてるだけなんて、そんなの恋いでもなんでもないわよ」
放課後の教室で、沙奈は結衣に人差し指を突き立てながらピシャリと言った。夕日が滑り込んでくる室内にはもう私たち3人しか姿はなく、グランドから響く野球部の喚声が遠くに聞こえた。男子の汗にまみれた熱血の世界から窓を隔てた内側で、私たちは結衣の一目惚れという、ガールズトークに花を咲かせている。だけど、掴みかからんばかりに身を乗り出した沙奈からはもう、和気藹々という雰囲気は消し飛んでいた。
目がもう、真剣だ。
「だって話したこともないんでしょ? そいつが何考えてるかとか、何もわかんないわけでしょ? それってつまり、自分の勝手な理想を押し付けて勝手に憧れてるだけじゃない」
沙奈自身、過去に何か苦い思い出があったのかもしれない。世界中の全ての人がその考えを否定しても突き通すような頑なさがあった。椅子に座ったままの結衣は怯えたような、呆れたような、目で見返している。
ねぇ、美紀もそう思うでしょ――私に助けを求めるような視線をよこそうとした結衣の先手を打って、沙奈が突然そう振ってきた。私はそれに曖昧に頷くしかない。こんな状況で、私も結衣と一緒で見つめているだけの片思いをしているなんて、とても言えそうになかった。退路を絶たれた結衣は、戦場に置き去りにされた兵士みたいな顔をしていた。私も同士として助けに行ってあげたいけど、火に油を注げば際限なく広がって被害を増やすだけだから、ここは結衣に尊い犠牲になってもらおうと心の中で謝った。
「何も知らないってわけじゃないよ。名前だってわかるし、通ってる高校とか、そんなものなら……」
突破口を開こうと軽く抵抗を試みようとする結衣を、そんなの当然だと沙奈が斬って捨てる。私はそんな二人のやり取りの傍観者を決め込んでいるのに、沙奈の言葉はどうしようもなく胸の奥を突き刺した。
私は何も知らない。あの人の名前さえも。
「いい? 奇跡っていうのは突然降って来たりしないの。あれは努力した人に対して、それ相応に分け与えられるものなのよ。だから待ってるだけなんて、絶対にダメ!」
だから即行動だ――そう言って今すぐ結衣の手を掴んで引っ張っていかんばかりの沙奈が、私は羨ましかった。本人はただいつものようにからかっているだけだと思う。だけど実際に彼女が結衣と同じ状況に陥ったとしても、きっと迷わないのだろう。自分の気持ちに素直で、思ったことをすぐに実行に移せる彼女には多分、躊躇いがないのだろう。やって後悔をすることはあっても、やらないで後悔することなんてきっとない。それは凄く、素敵なことだと思う。
だけど、私はどうだろう。
中学2年の時に初めて恋をした。隣のクラスにいたサッカー部の男子がその相手で、でも勇気が持てなかった。バレンダインの日にチョコレートを渡すのと一緒に告白しようと思ったけど、そのチョコも鞄の中のまま。彼は本命の子のチョコだけを貰ったと聞いて、私は恋を諦めた。
とても、容易く。
彼のことなんてそれほど好きじゃなかったんだ。そう思うことだけが私を唯一慰めた。涙はいらないって思いながら、何度も枕を濡らしていた。決して報われはしない嘘を自分に言い聞かせながら、ただ納得したフリをしていた。
今回はどうなのだろう。今沙奈に本当にあの人のことが好きなのかって問い詰められると、わからないとはぐらかしてしまいそうな自分が嫌だ。私はあの人のことを何も知らない。でも知ってしまうともう、言い訳さえもできなくなる。どんなにただの思い過ごしだって言い張っても、この胸の痛みは本物だから。嘘をいくら積み重ねても消せない痛みを、私は多分恐れている。
相変わらず沙奈は結衣を弄って遊んでいる。結衣は真剣に相談しているつもりで、また唆されそうになっている。私は二人に気づかれないようにそっと、あの人の顔を思い浮かべて溜息を吐いた。
何の予兆もないままに、終わりというのはいつも、突然やってくるものなのかもしれない。週明けの月曜日、朝7時27分発の急行電車、その3番目のドアから、彼の姿が消えていた。他に場所を変えたのかと思って探してみても、どこにも見当たらない。
風邪をひいたりして、休んでいるだけなのかもしれない。少ししたらまた、その場所に戻っているのに違いない。だけどそんな期待を嘲笑うように次の日も、その次の日も、また次の日も、彼の姿はなかった。いつもと同じ風景の中で、あの人のいた場所だけぽっかりと穴が空いてしまったよう。それなのにその変化に気づいているのは多分私だけで、きっと私だけが不安で胸を痛めている。
これがドラマとかなら残りの放映回数なんかで物語の続きが読めるのに、私のこの物語には、続きがあるのかさえもわからなかった。
静電気よりも弱い力で繋がっていた唯一の接点が今、完全に離れて行くのを感じていた。
会いたい、会いたい、会いたい、会いたい――
一週間経ってもあの人は帰ってこなかった。一人ぼっちの自室で私は、気づけば携帯のメールを書いては消していた。行くあてもない想いは目的地も定まらなくて、結局どこにも行けやしない。発信されることのないメールは、いつも私の手の中で消えていった。家族がバラエティー番組で笑い声を上げる隣で、私は馬鹿みたいにそんなことを繰り返していた。
ただあの人に会いたい。
初めて携帯電話を持った時、魔法の小箱を手に入れたのだと思った。いつでも、誰とでも言葉を交わせる。それでいつだって私は望む誰かと繋がっているのだと信じることができた。それなのに今はどうしてだろう。魔法の小箱は、ただのガラクタでしかなかった。だってどんなに強く望んでもあの人の声を届けてはくれないし、私の想いも届けてはくれないのだから。
無様に携帯をベッドに放り投げると、私は星空に向かって足を伸ばした。今、あの人もこの星空を見上げていればいいのに。そんなことを、つい考えてしまう。同じタイミングで、同じ空を見ているのだと信じられたのなら、ほんの僅かだけどまだ、繋がりが残っているのだと思えたのだろう。
でも、そんな第六感は働かない。そればかりか、天を巡らす星々にも負けないくらい無数の人が暮らすこの街で、再びあの人と会える奇跡を思うと、暗闇の中で溺れるような絶望に引き込まれていくみたいだった。
奇跡は多分、起きない。沙奈の言うとおり、それが努力の対価として与えられるものならば、それに値するだけのことを、私は何も出来ていなかった。
悔しくなって目を閉じると、目蓋の裏にあの人の顔が見えた。もう随分見ていないはずなのに、面影はより鮮明になっているように感じられた。そしてそれが徐々に涙で濡れて、滲んでいく。
辛い恋なんてしたくないと思った。後悔するような結末だけは、欲しくなかった。だけど私の恋はまた、初恋のときみたいに悔いだけを残して消えてしまおうとしている。どんな楽観的な希望よりも強く、その確信だけがあった。
気づいたら、両手を強く握り締めながら泣いていた。勇気が欲しいと心の底から思った。行動できないのは、その人のことがそれ程好きでもなかったのだと嘘を吐く自分なんてもういらなくて、好きな人に好きだと言える勇気が、ただ欲しいのだと願った。
梅雨が明けて、青い空に飛行機雲が伸びやかに橋を架ける頃、結衣に彼氏ができた。あの、見ているだけだった彼。沙奈の言うとおり思い切って声をかけると、相手も結衣のことを見つめていたのだと、そうはにかみながら答えたらしい。朝の教室に駆け込みながら報告する結衣は幸せそうで、羨ましかった。
言葉がなくたって通じる想いというのは確かにあるのかもしれない。だけどそれを強い結びつきに変えたのは一歩前に進み出た、結衣の勇気だったのだと思う。良かったねと言いながら、心のどこかで嫉妬していた。そんな感情抱いた自分がひどく卑しいもののように感じられて、私は上手く笑えなかった。
あの人が私の世界から消えてしまってから、もう一月が経とうとしていた。
それでも私はまだ、7時27分発急行の、後ろから3番目のドアに並んでいる。毎朝乗りもしない電車に間に合うように家を出て、もういるはずのないあの人の姿を探す。それは後悔とか未練とか、そんなもの以外の何ものでもなかった。
こんな意味のないことなんてもう、止めてしまおう。何度もそう思った。今日で最後、明日で最後、来週まで待ってみて――諦めたフリなら簡単にできるのに、本当に諦めることができずにただずるずると日々を重ねていた。だけどそれにも疲れてしまって、本当にこれでお終いにしようと、家を出た。
幼稚園の花壇にヒマワリの蕾が膨らんでいた。毎年植えられているチューリップの印象もないままに、そこには夏が来ていた。国道沿いの文房具店はいつの間にかコンビニに変わっていたし、高校に入学したてのときには通学の際、いつも頭を撫でていた犬のミッキーも、この時間は表に出ていないのに気づいた。毎日歩いていたはずの駅までの道なのに、何年かぶりに訪れたような発見があった。この半年間私は多分、彼のことばかりを考えて、何にも目をくれずにいたのだろう。
だけどそんな日々ももう、終わる。
改札を抜けてホームに下りると、ベンチに座って急行を待つ。本日は信号の不具合のせいで電車が3分ほど遅れているのだと、駅員の言訳じみた放送が流れていた。私はやることもなくて、ただ周りを眺める。普段私が乗る電車は通勤客がはけている時間だから、この人でごった返したホームも、今日で見納めかもしれない。そう思うと、懐かしさに似た感傷があった。
暫くして、列車のアナウンスが入った。立ち上がると、後ろから3番目のドアに並ぶ。今日こそは彼がそこにいるのではないか。そんな予感は微塵もなかった。ただ見届けることだけが最後の儀式だって割り切っていて、胸の中にはもう、溜息で吐き出す程度の期待も残っていない。
鉄を軋ませる音が聞こえて、列車が入ってくる。ホームを滑っていく風が、スカートの裾を小さくはためかせる。車窓から覗く顔は週末に近づいているためか、朝なのにどれも疲れ切って見えて、その膿を吐き出すようにドアが開くと人が転がってくる。
私は座席を求めて我先に飛び込んでいく人波に抗いながら、いるはずのないあの人の姿を探していた。だけど、折り重なる人の頭でよく見通せない。でも、それでも良かった。そのまま何も見つけられなければ、やっぱり縁がなかったんだって、諦められると思った。
それなのに――
一瞬、人波が途切れた。それを訝しむようにドア脇の男子が一人、手元の文庫本から視線を上げて、何とはなしにホームを眺めた。その目が、私の前を通り過ぎていく。私は至近距離からライフルで心臓を打ちぬかれたような気がした。それが、およそ一月ぶりに見る、彼だった。
遠目からでは、何一つ変わっていない。眉毛に少しかかるくらいの前髪の長さも、左の腰骨の辺りで少しはみ出したシャツの具合も。あまりにも変わっていなくて、まるでこの一月あまりのことなんてなかったみたいだった。相も変わらない彼にまた出会えたことは嬉しいけれど、一月の空白を埋める痕跡が何も見つからないのが、逆に不安にさせる。だって急に彼が消えた理由もわからなければ、こうして急にまた戻ってきた理由も、私にはまるでわからない。だから明日も彼がそこにいてくれるのかどうかさえも、何の確証もなかった。
これはきっと、残酷な神様の意地悪なのかもしれない。もう諦めようと決めたその日に期待を持たせて、そこから突き落とされるのかもしれない。もしそうなったら、私はまた未練たらしく胸を痛めながら、自分を納得させるための嘘を探すのだろうか。
そんなのは、嫌だ。
発進のベルが彼との再会の終わりを告げる。階段を走りながら駆け込んでくる人影が途切れれば、彼はまた、私の手の届かないところへ行ってしまう。明日会える保証もないままに。
待っているだけでは奇跡は起きないのだと、沙奈は言った。その沙奈の言葉に従った結衣は、自分の想いを伝えられた。それを羨ましいと思ったのも、勇気が欲しいと願ったのも、私だ。
一歩を踏み出したあとは、思わず走り出していた。タイムリミットを示すベルがふと鳴り止むと、目の前でドアが閉まり出す。まるでハリウッド映画の最後で主人公がギリギリ脱出に成功するみたいに、私が飛び乗った直後に背後でそれは完全に閉じた。間一髪セーフ。そうして安堵したところで列車は小さく揺らめき、私のいたホームは流れていく。
それまで向こう側にいた私が、あの人と同じ列車に乗っている。
乱れた息を整えて顔を上げると、蜘蛛の子を散らすように周囲の視線が逃げていくのを感じた。突然走り込んできた女の子は、少しばかり周りの注目を引いたらしい。そんな自分が彼にはどう目に映ったのだろう。ドア脇に目をやると、彼はまるっきり興味がなかったように視線を手元の本に注いでいた。平静を装いながら向かいのドア脇に立っても視線は動かずに、なんら意識されている素振りも見えなかった。
私はそれ程あの人に気にはされていなかったんだ。小さな失望が息を漏らす。私はきっと、ただの電車を待つ女の子としても、彼の中にはいないのだろう。乗客の中から彼がいなくなったことに誰も気づかなかったように、私がここにいることも恐らく彼は、気づきもしない。
どうすればいいのだろう――正面にいる彼をガラス越しに見つめながら、いきなり途方に暮れる。発進のベルに背中を押されて勢いだけで飛び込んだけれど、その後のことなんて何も考えていなかった。取りあえず一歩踏み出せば何かが変わるって、そう信じていた。だけど、そんな都合のいい予兆なんてこれっぽっちもない。それなのに私はどうやってあの人にもっと近づけばいいのだろう。どうやって話しかけたらいいのだろう。結衣の場合は見つめていた相手も、実は結衣のことをずっと見つめていたらしい。だからきっと、どこかで通じ合う雰囲気みたいなものがあったのかもしれない。だけど、私はどうだろう。黙々とページを捲っていく彼の目には私なんて、まるで映っているとも思えなかった。
いきなり話しかけたら絶対、変な子だって思われてしまう。それに、耳を塞ぐオーディオの音楽が、私の声なんて遮ってしまうのだろう。そんなふうに躊躇してしまうのはまるで、初恋の時と同じだ。あの時渡せなかったバレンタインのチョコを、今も持っているような気がした。鞄に取り残されたまま、置き去りにされた私の恋。もう2度とあんな辛い思いしたくないのに、私はまだ、そこから抜け出せていないのかもしれない。あの人のことをもっと知りたいのに、声を出そうにも喉がつかえて何も言えない。胸の内を蹴破らんばかりに高鳴る胸の鼓動が、そんな私を責めているみたいだった。
そして溜息を吐くように、ドアのガラスに額を押し付ける。
見知らぬ景色が走っていく。気づけば住宅街を抜けて、田や畑が目につくようになっていた。頭の中で路線図を思い浮かべてみても、自分がどの辺りに立っているのか、よくわからなかった。どれだけ広いのかも知らない世界の中で、私は迷子になっているみたいだった。薄く雲が出てきた空が、傘を持ってこなかった不安と相まって私を気弱にさせる。
いったい、何をしてるんだろう。こんな思いをするために、学校を遅刻してまでこの列車に乗ったわけではないのに。
溜息が自然とこぼれていた。これ以上前に進み出る勇気もなければ、逃げ出すほどの潔さも持たない私は、小さなダンボール箱の中で迎えに来ない飼い主を待ち続ける子犬のように、行く先もなく途方に暮れていた。
ただ、胸が痛かった。緊張と切なさと苛立ちと情けなさで、どうにかなってしまいそうだった。こんな苦しい想いをするのなら時間なんて速く過ぎ去ってしまえばいいのにと思い、そしてそんなことを考えている自分に気づいて愕然とした。あれほどもう一度手に入れたいと願ったものなのに、今はただ、辛かった。
やっぱり私は、沙奈の言うように強くなんてなれない。
だから弱い自分を守るために私は、目を閉じた。彼の姿を見なければ、彼の存在を感じなければ、胸の苦しみが和らぐのだと、そう思った。
ふと、どこかで鉄が軋むような音が聞こえた。最初それは私の心が上げた悲鳴かとも思ったけれど、それにしては耳に障った。続いて伝わってきた振動で、私の体は持たれかかっていた壁に押し付けられ、そしてそれに遅れて何かに押し潰されるような圧力を感じた。
「すみません」
誰かが耳元で呟く。少し高くて、でも落ち着いた感じのよさそうな声。それは、繰り返し想像していたあの人の声に似ていた。
目を開けると、彼の顔がすぐそこにあって、私の心臓は跳ね上がった。少し顔を突き出せばキスが出来そうな距離。そこから彼が、私を見つめている。
どうやら鉄橋後の急カーブでバランスを崩したらしい。でも、そんな成り行きなんてどうでもよかった。
「大丈夫ですか?」
そう訊ねる相手が間違いなく私であることが嬉しくて、信じられなくて、気づけばただ、涙を流していた。
突然泣き出すなんて、変な子だって思われるかもしれない。それに、折角彼の目に映るのだから、出来るだけ可愛く見られたい。こんなくしゃくしゃな顔なんかではなくて、精一杯笑って見せたかった。だけど、溢れ出す涙はまるで止まってはくれない。胸を打つ鼓動がが壊れたポンプみたいに私の奥底から止めどなく感情を汲み上げては、吐き出していく。まるでこの車両を私の涙で満たすように。
不意に泣き出した女の子に狼狽した彼は、どこか怪我をしていないか訊いた。涙の理由は、どこかが痛んだからだと思ったみたいだった。
だけど私のことを気遣ってくれるその優しさに首を振る。あなたとこうして触れ合えたのが嬉しかったのだとは、言えなかった。あなたのことが好きなのだとは、言えなかった。本当は彼の胸に飛び込んでこの胸の高鳴りを伝えたいのに、そこまで図々しくなることも出来ずに、制服の袖で頬を拭った。
「すみません。もう、大丈夫ですから」
そう告げると彼は、厄介事から解放された安堵のような、だけどまだ心配が残っているような、そんな感情が入り混じったような顔をした。でも、私が有難うございましたと言うと、それで納得したみたいに元の立ち位置へ戻っていき、そしてまた文庫本を開いた。
そうしてまた、元通りの関係へ戻っていく。だけど彼の方も突然泣き出した女の子のことが気になっているのか、時折顔を上げるのが感じられた。それでも目が合いそうになるとお互い気まずくなって逸らし合う。結局、それ以降視線を交わすことはもう、なかった。
次の駅で彼は降りていった。減速する列車の中であの人は窓ごしに外を覗き、駅が見えると本を閉じた。しおり代わりに指を挟んで、そして無造作にその腕につけた腕時計に見つめる。その時見えた、使い込まれて古ぼけたブックカバーの裏表紙、その端っこに小さく名前が書かれているのを見つけた。
――K.コウイチ。
それはただ単に無意識で、偶然のものだったのかもしれない。だけど私には、彼が無言で教えてくれたように思った。彼の、名前。
「コウイチさん……」
閉るドアの向うに離れていく背中に向かって、何度も呟いていた。声にはならない声で、まるで壊れたレコーダーみたいに。
もう一度振り返って欲しい。今度は笑いかけてもらいたい。そんな願いを込めたつもりだったけど、あの人の影が階段の下に消える前に列車は走り出した。そうして見知らぬ駅の風景も、目を離すことも出来なかった彼の姿も流されていく。
後に残された私はずっと窓の外ばかり眺めながら、いつまでも幻に映るあの人の背中を追っていた。
結局、彼と私の繋がりはまだ、二つの糸が静電気で寄せ合うようなものでしかなかった。どちらかが少しでも動いてしまえば、その小さな接点は容易く離れてしまう。それをもっと強いクリップで留めたいと願ったけど、私にはもう、明日彼と会える保証すらなかった。
でも、今はそれでもいいと思った。私なんかには十分過ぎる奇跡をもう、受け取ったから。
――だけどお願い、あと、一つだけ……。
夜になって、私は仰向けでベッドに横たわりながら、窓から覗く星空を見つめていた。そこであの人の顔を思い出し、あの人の声を思い出し、あの人の名前を呟く。目を開いていても、閉じていても、思い描くのはただ、あの人のことばかりだった。
あの人のことが好きだ。それを何度も実感する。だけど私はまだ、何も伝えられていない。
仰向けのままで、枕元に放っていた携帯電話を探った。そして指先で拾い上げると、ディスプレイに灯を点す。画面を映し出す蒼白い光はどこか神秘的で、それを初めて手に入れたときのような、魔法が始まる予感みたいなものがあった。
メールの画面を開き、少し考えた後で本文を埋める。
好きです。
ずっと、見てました。
From ミキ
To コウイチさん
胸を押し潰さんばかりの切ない気持ちも、文字にすると素っ気なかった。だけど、それを何度も見つめながら想いを込めた。私の本当の気持ちが、この胸のドキドキが、伝わって欲しい。そしてアドレスに適当に記号を並べると、送信ボタンに指を乗せる。
きっと届くって信じられた。この夜空に星の数程飛び交う電波の中で、私の想いはあの人を見つけ出せるのだって、そう思った。
もう私の願いは二度と叶わなくてもいい。この魔法が通じてくれるのなら。
ベッドの海に浮かんでいる間だけ、少しだけ強気になれる自分が可笑しかった。一人で笑うと、送信ボタンを押した。
朝、時間通りに列車が入って来る。7時27分発急行。私はその後ろから3番目のドアの前に並ぶ。
ゆっくりと滑り込んだ列車はいつもの場所で止まった。平静を装いながらも、心臓が飛び出るくらい高鳴ってた。
あの人はそこにいてくれるのだろうか。あの人に私の想いは届いたのだろうか。
ドアが開いて、せっかちな人の波が私を押し流そうとする。私はそれに耐えながら背伸びをして、人の頭の間からドアの脇を探した。
その時、あの人の目が本から離れ、目が合った。暫く雑踏も消え、その憧れ続けた目に見入ってしまう。そして彼は唇の端を緩ませた。私には笑ったように思えた。
出発を告げるベルが鳴る。
気づけばまた一歩、私は踏み出していた。
久々の投稿です。
読んでくださり有難うございます。
感想なりコメント頂ければ嬉しいです。
よろしくお願いします。