終わりの鐘の音
ヴェルクルッドが王都の門を潜ったのは、太陽が中天に掛かるころ――件の闘技大会の、午前の部が終わった頃合であった。
門番や顔見知りの人間から、驚いた声や再会の挨拶が投げかけられたが、ヴェルクルッドはそれらに丁寧に応じる余裕は持ち合わせていなかった。
とにかく大会会場のコロシアムに駆けつけたが、昼休憩に入ったと教えられた。
ならばと次はシルディアの控え室に駆け込んだが、そこはもぬけの殻であった。
「……っ」
一体シルディアはどこにいったのか。
焦るヴェルクルッドは、とりあえず城の部屋を見に行ってみようと身を翻した。コロシアムからならば、秘密の通路がある家を通ったほうが近い。
秘密の通路を駆け抜け、階段を駆け上がり、ヴェルクルッドはシルディアの部屋に駆け込んだ。本来ならば無礼な入室であるが、咎めるものは居なかった。
「……ダイアン様? もう、午後の部が始まるのですか?」
沈鬱な、弱々しい声が聞こえた。
シルディアの声だ。
ヴェルクルッドの胸がどくん、と強く打った。
ずっと聞きたかった声は、しかし酷く沈んでいる。
窓から外を眺めたまま、悄然と肩を落としている。
ヴェルクルッドは、ぐっと拳を握ると、シルディアの前に姿を現した。
「――っ姫……!」
「!? ヴェ、ヴェルクルッド様……!?」
シルディアが、弾かれたように立ち上がって振り返った。ヴェルクルッドの姿を認めた美しいエメラルドグリーンの瞳は、零れ落ちそうなくらい、大きく瞠られていた。
「姫、申し訳御座いません! このヴェルクルッド、不覚を取りまして斯様な遅参、真に申し訳なく……!」
ヴェルクルッドはシルディアの足元に駆けつけると、跪き、謝罪した。
「ヴェルクルッド様……お元気でいらしたのですね……良かったです……」
「姫……」
心から悔い、詫びるヴェルクルッドにかけられたのは、無事を喜ぶ言葉だった。
ヴェルクルッドは、シルディアの優しさに感動した。
だが、その感動や喜びに浸っていられる猶予は余りない。
ヴェルクルッドはシルディアを見上げた。
「……っ積もる話もありますが、今はそのような場では御座いません。姫、どうかお答えください。姫は……この大会の勝者と結ばれることを、ご納得されていらっしゃるのでしょうか」
「……私は……」
シルディアは表情を隠すように俯いた。が、そこに憂いが宿ったのを、ヴェルクルッドは見逃さなかった。
――しかし、シルディアは、是とも否とも告げようとしない。
嫌な想像が、ヴェルクルッドの脳裏に浮かんだ。
「……どなたか、姫の意中の方が、参加されているのですか」
「…………」
掠れてしまったヴェルクルッドの声、その、恐る恐るの問いに、シルディアは――弱々しく頭を振った。
そのことに、ヴェルクルッドは何より安堵した。
落ち着いた心で、優しく、シルディアに語り掛ける。
「――姫。お嫌でしたら、どうぞ、そう仰ってください。私は姫がお望みなのでしたら、地の果てまでも、お供いたします」
「……ですが……ヴェルクルッド様……それは、たくさんの人への裏切りです」
シルディアは顔をあげ――悲しげに、どこか諦めたように告げた。
「姫……」
ヴェルクルッドは胸を痛めた。シルディアの優しさと王女としての責任感は、貴いと思う。だが、その優しさと責任感が今、シルディアを不幸にしようとしている。それが、ヴェルクルッドには悲しくてならなかった。
「それに、高潔な貴方様に、そのようなこと……」
続いたシルディアの言葉に、ヴェルクルッドは胸を突かれた。
シルディアが気にしているのは、ヴェルクルッドのことだという。
それならば――説得は容易だ。
ヴェルクルッドは微笑みを浮かべて、シルディアを見つめた。
「……いいえ、姫。私は、高潔な騎士などではありません。姫の幸せのみを願う、利己的な人間です」
「ヴェルクルッド様……」
「――姫。どうか、仰ってください。姫の、本当のお気持ちを。それがどんなことであれ、私は姫の願いを叶えるべく、働きます」
「……」
ヴェルクルッドの視線に耐え切れなかったのか、シルディアは瞳を閉じると、そっと顔を背けた。
「……ヴェルクルッド様は、きっと後悔なさいます」
「致しません」
「……反逆者や裏切り者といわれても、構わないのですか?」
迷いのないヴェルクルッドの断言に、シルディアは戸惑った。
誰よりも騎士らしく高潔であろうとしていたヴェルクルッドが、裏切り者の汚名を良しとするとはどうしても思えなかったのだ。
だが、シルディアの確認に、ヴェルクルッドは微塵も動揺しなかった。
柔らかな笑みを浮かべ、シルディアをじっと見つめたまま、気負いなく頷く。
「はい。姫が、幸福な笑みを私に投げかけてくださるのでしたら、私は裏切りものの汚名も甘んじて受けましょう。抱いた僅かな後悔も、やがては薄らぎましょう」
「……ヴェルクルッド様……」
ヴェルクルッドから寄せられる、強く、おおらかで――暖かな感情に、シルディアは身体が火照るのを感じた。鼓動が早まる。
「――姫、申し訳御座いませんが……あまり、長くお考えいただけません」
響き渡る鐘の音を聞きつけて、ヴェルクルッドは表情を引き締めた。
この鐘が鳴り終われば、闘技大会の午後の部が開始されてしまう。シルディアは、会場にて事を見届けなければいけない。衆人環視の中でシルディアを攫うのは至難だ。
「…………」
「どうか、ご決断を」
逃げるのならば、今。
ヴェルクルッドはシルディアに決断を促した。
「……ヴェルクルッド様」
「は」
心を決めたような凛とした呼びかけに、ヴェルクルッドは頭を垂れ、命令を待った。
「……私は、参りません」
「っ姫!?」
まさかの返答にヴェルクルッドはバッと顔を上げ、腰を浮かしてシルディアを見つめた。
「……私は、残ります」
「姫、何故でございます!?」
辛そうな顔で、何故そんなことをいうのか。
ヴェルクルッドはシルディアに詰め寄った。
シルディアは緩々と、力なく頭を振ったあと――しっかりと、ヴェルクルッドを見据えた。
「……ここで私が逃げてしまうことは、参加者皆様への侮辱。……他国の賓客を招いての場で、そのような無礼は――許されません」
王女としてのシルディアの決断。それは何よりも気高く――そして痛々しく、ヴェルクルッドの目に映った。
「っですが、姫……!」
「――私の、本心です、ヴェルクルッド様。……叶えて、くださるのでしょう……? 私の、親衛隊騎士様。……必要ならば、命じます」
「…………っ」
そんな風にいわれてしまっては――シルディアの親衛隊騎士として、断ることは難しい。
ヴェルクルッドは唇を噛み締め、拳を握り締めた。
例え口では本心だと言ってはいても、シルディアの表情がそれを裏切っている。
シルディアの本心は、残ることを望んでいないと分かっている。
口で何といおうと、シルディアの心からの望みを叶えるのが真の騎士だと、ヴェルクルッドは思っている。
だが――それでも。
さっきシルディアが、ヴェルクルッドに問うたのと同じだ。
ここでシルディアを無理矢理攫ったら、きっとシルディアは、それをずっと後悔する。
国を、民を愛するシルディアは、彼らから裏切り者とそしられることに、きっと耐えられない。
噛み締めた唇が切れ、血の味が広がる。
響き渡る鐘の音は、余韻を残して終わりつつある。
――ヴェルクルッドは声を絞り出した。
「……姫、私は今初めて、貴方様の騎士である事を後悔しております」
「…………」
シルディアは無言で、胸元で手を握りしめた。
ヴェルクルッドに、このような苦しみを与えてしまったことを心苦しく思う。やはり最初から、彼を騎士に取り立てなければ良かったのかと……思いもする。
鐘の音は、完全に途絶えた。
また、変わらず存在するはずの、風の音、鳥の声、人の声。そのどれもが、二人の耳には届いていない。互いの言葉、息遣いだけに、集中する。
やがて――
「――私は、その命令に、従わなければ、ならないのですから……」
非常な自制で持って、ヴェルクルッドは折れた。
「ヴェルクルッド様……すいません。……有難う御座います……」
シルディアは、ほっとして――残念だと思う気持ちは押し隠して――そう、言った。




