残された者の憂鬱 1
ヴェルクルッドからの便りが途絶えて半年が過ぎたある日、シルディアはお忍びで外に出ていた。
以前ヴェルクルッドと昼食を共にした崖のバルコニーに佇み、海を眺める。
「……ヴェルクルッド様……」
シルディアの微かな呟きは、吹き付ける潮風に攫われて、傍に控えるダイアンにも届かなかった。
――ヴェルクルッドが旅立って、一年は経つ。
シルディアは、最後の便りにあった村にエストを派遣し、聞き込みを行った。
ヴェルクルッドらしき人物が滞在していたのは確認できたが、湖に向かって以降は見かけたものがいないという。
ではとエストも湖に向かったが――何も発見できず、結局エストは有力な手がかりを得られないまま、城に戻った。
また、旅の商人たちを中心に聞き込みも行ったが、しかし、ヴェルクルッドらしき人物の目撃情報は、全く手に入らなかった。
今でも目撃情報を募っているが、それらしき情報はない。
「…………」
シルディアは、溜息をついた。
――ヴェルクルッドが旅立って、一年。
それだけの時間があれば、ヴェルクルッドが、シルディアの魅了の呪いから解放された可能性は十分あった。
己が身を蝕む呪いに対して、シルディアはただ手をこまねいていたわけではない。
本格的な対策を講じられたのはユファに出会ってからだが、それまでも、せめて被害を拡大しないために異性がいる場は徹底的に避けたのは勿論だが、魅了の呪いをかけてしまった相手への追跡調査も行っていた。
その結果――シルディアの魅了の呪いは、シルディアに会わずにいればいるだけ、その効果を薄めることが分かった。一度呪いがかかってしまっても、数年会わずにいれば、強い執着はなくなる。昔の恋の思い出と同程度にはなるのだ。
ヴェルクルッドが、シルディアの下を離れて、一年。
呪いが効果を薄めるにはまだ年数が足りないかもしれないが、シルディアは常に、魅了を抑える香水を纏って応対していた。ヴェルクルッドにも、呪いへの抵抗力を高める魔除けの香水を使用させていた。何かの拍子で魅了を受けたとしても、軽症で済んだと期待できるし、それならば、効果をなくすのに必要な年数も減るだろう。
そして何より――本当に、魅了の呪いを解く方法を発見できたのなら。
それで、ヴェルクルッドの呪いが、解かれたのなら。
「……お戻りにならないのも……仕方ありません……」
シルディアは、ぽつりと呟いた。
折角、シルディアの呪縛から解放されたのだ。ヴェルクルッドが、同じ轍は踏むまいと、シルディアの下に戻らない選択をすることは、十分考えられた。
魅了の呪いがあったがゆえに、シルディアへの恋情を語ったのなら。
魅了の呪いがあったがゆえに、シルディアへの忠誠を誓ったのなら。
呪いが解けて正気に戻り――シルディアへの嫌悪に、気付いたのなら。
「……っ」
己で考えたことに、シルディアの胸が塞がり、息詰まった。
胸元を押さえ、思わずその場に蹲る。
「っ姫!?」
慌てたダイアンが、シルディアの肩に手を置いた。
「如何なさいました、姫……!」
「……だ、大丈夫です……すいません……」
シルディアは無理に微笑んでみせて――ダイアンの手をそっと払った。
そして、しっかりと立ち上がる。
ダイアンは、シルディアがふらつくのに備えて手を差し伸べ身構えていたが、シルディアがその手を借りることはなかった。
「姫……」
「……すいません……少し……気分が悪くなっただけです。……もう、大丈夫ですから」
「…………」
シルディアが浮かべられたのは、弱々しく、引きつった微笑だけだった。自分でそうとわかるのだ。ダイアンがそれに気付かないはずがない。
――しかし、ダイアンは、踏み込むことはしなかった。
「……姫、風が冷えて参りました。雨も降りそうです。そろそろ、お戻りになられたほうが……」
「……そう、ですね……」
シルディアは、黒い雲が立ち込める空を仰いで頷いた。
「……そろそろ、お客様方も到着し始める時刻でしょう。お会いしないうちに、戻らないといけませんね」
シルディアの父、国王の誕生日が近い。
その祝いのために、近隣諸国から人が集まる。早いところは、今日にも到着するという知らせが届いたのを、シルディアはセイニーから聞いていた。
シルディアが面会する予定はないが、道中すれ違うのも避けたい心境だ。
シルディアは、一度、平たい岩に視線を向けた後――振り切るように身を翻し、崖の道を上った。
崖を上りきり、森の小道に到達するまであと少しのところで、シルディアの頬にぽつりと雨が触れた。
「……あ……」
「! 降って来てしまいましたね。姫、お急ぎを」
「はい」
ダイアンに手を取られ、シルディアは駆け出した。
しかし、雨はあっというまにその勢いを強め、雨除けに翳したマントは重くなり、支えることが辛くなってきた。
雨は、シルディアが纏う魅了抑制の香水を洗い流してしまうが、傍にいるのは女性騎士のダイアンだ。シルディアはマントを翳すことを諦めた。
すっかり濡れ鼠となりながら、二人はせめても、木陰に入って雨宿りを試みるが――木々の葉は、完全には雨を遮ってはくれなかった。
「……すいません、ダイアン様。私が散歩になんて出なければ、雨に降られることもなかったでしょうに……」
少し先の視界すら覆う雨。
シルディアは、ダイアンを見上げて謝罪した。
「いいえ。どうがお気になさらないでください。姫が外に出たいと仰ってくださって、私は本当にほっとしたのですから」
「……ダイアン様……」
「セイニー嬢もエスト殿も、私と同じ気持ちです。……姫。姫のご心痛を、私たちが理解しきることは難しいとは思いますが……しかし皆、姫のお心が安らぐことを願っております。そのために必要なのでしたら、火の中だろうと、雨の中だろうと、どこまでもお供いたします」
「……有難う御座います、ダイアン様……」
ダイアンの心遣いが嬉しくて、シルディアは微笑んでいた。
久しぶりの、無理のない自然な微笑だった。
その微笑を見ることが出来たダイアンは、豪雨に見舞われただけの、いや、それ以上の価値があると思えた。
「……少し、雨脚が弱ってきましたね」
雨脚が次第に弱まってきたのに気付いて、シルディアが空を見上げながらいった。
「はい、視界も戻ってきました。そろそろ、帰れそうですね」
もうずぶ濡れなのだ。多少雨が残っていても構いはしない。それよりも、一刻も早く城に戻って身体を温めることが重要だろうと、ダイアンはシルディアに手を差し伸べた。
「はい、戻りましょう」
ダイアンに手を重ねたシルディアは、空いた片手でスカートの裾を軽く摘んで、木の下から踏み出した。




