魅了の香水 1
王妃との話を終えたヴェルクルッドは、その足でシルディアの私室を訪ねた。
「――姫」
「っヴェルクルッド様!? どうしてこちらに……っ私は……!」
がたん、と椅子を鳴らして立ち上がり、シルディアは後退した。
壁に背中を張り付け、それでも尚逃げ場を探すシルディアに、ヴェルクルッドは、理由を知っていても胸が痛んだ。
「姫、どうか、お願いします。……ここよりお傍には参りません。どうか、お話をさせてください」
ヴェルクルッドは、ドアのすぐ傍で足を止めて願った。シルディアは反対側の壁に張り付いているから、室内であればこれ以上の距離はない。
「ですが……」
シルディアはそれでも迷いを見せた。
数日ぶりに会うことが出来たシルディアは、やつれたように見える。
己の言動が、そこまでシルディアを追い詰めていたのだと思えば、申し訳ない気持ちがこみ上げる。
だがヴェルクルッドは、己の言動を撤回するために来たのではない。
ヴェルクルッドは遠くにあるシルディアの瞳を見据えて、切り出した。
「――魔法の秘薬の件、王后陛下より、お伺いいたしました」
「!!」
シルディアのエメラルドグリーンの瞳が瞠られた。
「……そう、ですか……」
目を伏せ、もう逃げ出すつもりもないのか、シルディアは椅子に座り込んだ。
「…………いくつか、確認させていただきたいことがあります。宜しいでしょうか」
「……はい、どうぞ」
「……姫が私にくださったあの香水は……秘薬の力を抑えるためのものなのでしょうか」
ヴェルクルッドを親衛隊に取り立てるための条件。
何故そのような条件を、と思ったが、それが、シルディアの力を抑えるために必要な処置だったのだとしたら、納得がいく。
「……はい、そうです」
シルディアは溜息交じりではあるが、肯定した。
「……やはり……」
シルディアの肯定を受けて、ヴェルクルッドは得心すると同時に、嬉しかった。
シルディアは、理不尽な魅了の力に対して、手をこまねいていたわけではなかったのだ。
どうにかして解決しようと、努力していた。
その聡明さと行動力が――ヴェルクルッドは誇らしかった。
「……姫、秘薬について姫がご存知のことを、お教えください」
「――わかりました」
シルディアは一つ息を吐くと――覚悟を決めたのか、顔を上げてヴェルクルッドを真正面から見た。
久しぶりに交錯した視線。
たったそれだけであっても――シルディアが、ヴェルクルッドを認識して応対してくれることが、ヴェルクルッドの胸を高鳴らせた。
「私が秘薬のことを知ったのは、社交界デビュー後、クリス様の暴力事件に関ったときです。お母様から教えられました。……それまでは、私は自分にそのような力があるとは思ってもいませんでした」
「……それまでは、それらしきことは起きていなかったのですか?」
シルディアの発したクリスの名に少々の嫉妬を抱いたが、その気持ちは押し込めて、ヴェルクルッドは訊ねた。
王妃の推測どおりだとしたら、その効果は幼い頃から、それこそ赤ん坊の頃からあって然るべきである。
「はい。……今思えば不思議なことですが……社交界デビュー前の私は、ごく一般的な王族として生活していました。大臣を始め、男性貴族ともお話しすることはありましたが、皆様、普通に良くしてくださるだけで……おかしいと思うような事はなにもありませんでした」
「……では、社交界デビューの日は、如何でしたのでしょうか」
シルディアが「デビュー前は」と告げたからには、何かしらの変化はあったのだろう。
何かの理由で力が抑えられていたのか、それとも、何かのきっかけで、力が発現するようになったのか。そのきっかけが社交界デビューというのは、ありえそうに思えた。
「……そうですね。……確かに、男性に声をかけられることは多く、どこか熱に浮かされたような印象も抱きましたが……王族の姫のデビューともなれば、そういうことも有り得るのだろうと、思うくらいでした」
「……クリストファー殿と……その時にお会いになったそうですが……」
聞きたいような聞きたくないような気持ちで、ヴェルクルッドは水を向けた。
ヴェルクルッドの複雑な心境には思い至らぬ様子で、シルディアはあっさりと頷いた。
「はい。丁度同じ頃合に、夜風に当たりにバルコニーに出ていらしたようです。辺境伯のあの方は、王都の外のことを、お話しくださいました。とても興味深くて、何度かお茶会にもお越しいただきました」
「……それだけ、でございますか?」
シルディアの口調に、何かを隠す素振りはなかった。
淡々と語る様子は、想像以下の反応だ。ヴェルクルッドは拍子抜けの気持ちを隠し切ることが出来なかった。
「? はい。ああ、それと、お花にもお詳しい方でした。……以前頂いたお花も、そのうちの一つです。……ヴェルクルッド様……?」
「……いえ、失礼致しました」
訝しげな視線のシルディアに、ヴェルクルッドは緩く頭を振った。詮索したい気持ちを押さえ込んで、本来の質問を続ける。
「では、明らかにおかしいと思われたのは……あの、暴力事件のときでございますか?」
「……そうです。……あの方の目には……ただならぬ光を感じました」
シルディアが、膝の上で両手を握り締めた。
俯き、微かに肩が震えるのを見たヴェルクルッドは、駆け寄って抱きしめたい衝動に駆られたが――それはシルディアを怯えさせるだけだろう。ヴェルクルッドは足に力を込めて耐えた。
「……それ以降は、姫は公に姿をお見せにならなくなりましたが……街には、いつ頃からお忍びでいらしたのですか?」
臆病といえるほどの慎重さを持つシルディアだ。異性との接触を徹底的に回避し、街にも出ずに部屋に引きこもって過ごしてもおかしくない。だが、実際シルディアは街の外を普通に出歩いていた。ならば、その辺りにも何かしらの変化がありそうだった。
「あれは――そう、あの事件から、一年ほどしたときでしょうか。……先生が、突然いらしたのです」
「先生? ……ユファ殿ですか?」
ヴェルクルッドは、郊外に住む老婆の姿を思い出した。
「はい。その頃の私は、部屋で刺繍をして過ごすばかりでした。ある風の強い日に、ハンカチが外へと飛んでいってしまって……それを、たまたま登城していた先生が拾ってお届けくださったのです。お礼にとお茶をご一緒して……その時に、いわれました。私には、強い魔法の力が宿っている、と」
「……ユファ殿は、姫の魔法の力を知っていらしたのですか!?」
「――はい。そういうことになります。私も驚きました。それだけではなく……先生は、私の力を抑える方法に心当たりがあると、仰ってくださったのです」
「……それが、香水、ですか?」
ヴェルクルッドに下賜された、森の香りの香水。
それをユファに教わって作ったというのなら――ユファは、失われた魔法について詳しい知識を持っていることになる。
ヴェルクルッドは、次はユファに話を聞きにいくことを決めた。勿論、シルディアが既に話を聞いているのだろうが、ヴェルクルッドに出来ることもあるかもしれない。
「はい。ヴェルクルッド様に差し上げたのも勿論そうなのですが……まず私が教わりましたのは、私が使っている香水の作り方です」
「……姫の、香水……」
「――ヴェルクルッド様。正直にお答えください。……私が纏う香り、どのようにお感じになられましたか?」
シルディアが、じっと、ヴェルクルッドを見つめる。
どうやらその答えは、シルディアにとってかなり重要なことらしい。
「……私が、感じましたのは……」
ヴェルクルッドは、己の答えが、良い結果をもたらすものである事を願った。




