逃げるもの、追いかけるもの 4
そそくさと部屋を出て行くトレフィナを見送ってドアを閉めたセイニーが、嬉々として振りかえった。
「流石は姫様! 見事に撃退なさいましたね!」
「セイニー?」
撃退、という言葉を使われて、シルディアは首を傾げた。トレフィナの不心得を諌めようとした説教だったので、シルディアにしてみれば「逃げられた」のほうが強かったからだ。
「ヴェルクルッド様も、そう思われますわよね!?」
「ええ。シルディア姫の王族としての矜持に、感服いたしました」
「まあ、そんな……いえ、お見苦しいところを……」
ついつい説教モードに入ってしまったが、セイニーはともかくヴェルクルッドの前でするようなことではなかったと、シルディアは恥じ入った。
「まったく、トレフィナ姫様に、姫様の爪の垢を煎じて飲ませたいくらいです! ああ、ですが、ヴェルクルッド様、ヴェルクルッド様も素敵でいらっしゃいましたわ! 敬愛する主の傍に仕える幸せ……ああ、なんて羨ましい……! 姫様、素晴らしい騎士様に恵まれましたわね!」
セイニーは夢見がちにうっとり呟いた後、シルディアに詰め寄った。
「せ、セイニー」
セイニーの勢いにシルディアは気圧され――気を取り直すことも兼ねて、話題を変える。
「……で、でも、困りましたね。トレフィナ……あの子は、なかなか諦めそうにありません……」
「…………」
ヴェルクルッドは目を伏せた。
確かに、トレフィナのあの様子では、実際に臣従礼を行うまで諦めてくれなさそうだ。
シルディアを主としたいヴェルクルッドにしてみれば、それはむしろ願ったり叶ったりだが、しかし、シルディアが本心で望んでくれないのならば、意味がない。
「姫様、もうこれは、ヴェルクルッド様を名実ともに親衛隊の騎士にするしかございませんわ!」
「セイニー嬢」
思わぬ援護射撃に、ヴェルクルッドが軽く目を見張った後に感謝の視線を向ければ、セイニーは応えるように、にっこりと笑って見せた。
が、笑えないのはシルディアである。
「まあ、セイニー、ですが私は……」
「大丈夫ですわよ! だって、今まで無事でいらしたではないですか!」
「……無事、とは……一体、どういうことでしょうか?」
ヴェルクルッドは訊ねるが、しかしシルディアもセイニーも、その質問には目配せをしあっただけで、答えようとしなかった。
「――けれどセイニー、さっきのは……」
「さっき? もしかして姫様、ヴェルクルッド様の先ほどのお言葉を、疑ってらっしゃいますの?」
「…………」
シルディアは、ヴェルクルッドをちらりと窺った後、視線を手元に落として黙り込んでしまった。
「――シルディア姫? セイニー嬢?」
「…………すいません、ヴェルクルッド様。少し……セイニーと二人だけにしていただけます?」
「――畏まりました。何かございましたら、お呼びください」
話は気になったが、それが主の願いであれば、ヴェルクルッドに断るという選択肢はなかった。
席を立ち、一礼をしたのち、螺旋階段へと向かう。すれ違いざまにセイニーと視線を交わせば、セイニーは「悪いようにはしません」というように笑みを湛えて頷いた。
ヴェルクルッドが階段を上る足音が聞こえなくなったところで、待ちかねたセイニーが口を開いた。
「姫様、だって、香水、お使いになっていらっしゃいますでしょう?」
「そうですけれど……室内ですし、とても近い距離でしたし……」
「大丈夫ですわ! 芳しい薔薇の香りしかいたしません! ……って私が申し上げても、駄目ですわよね……」
「……ええ。男性には別の香りがしているようですから……」
自らの手を引き寄せ、薔薇の香りを嗅ぎ取ったシルディアだが、口からは溜息が零れる。
自分とセイニーには薔薇の香りしか感じ取れずとも、ヴェルクルッドもそうだったとは限らない。
ヴェルクルッド個人に対して、含むところがあるわけではない。むしろ、己にはもったいないほど立派な騎士だと思っている。
シルディアが抱えている不安さえなければ、喜んで忠誠を受け入れ、有頂天になったことだろう。
だが、そうは出来ない理由がある。ヴェルクルッドのために、彼を拒絶しなければならないのだ。
「――ですが姫様。ヴェルクルッド様を今更手放すのは、誰のためにもなりませんわ」
「え……?」
ヴェルクルッドのためにも拒絶しなければならない、と考えた矢先にそういわれ、シルディアは目を瞬いた。
「先ほど姫様も仰いました通り、トレフィナ姫様は諦めませんわ。ヴェルクルッド様を姫様が手放されましても……トレフィナ姫様が捕まえにいらっしゃいますわ」
「……なら、ヴェルクルッド様が相応しい主を見つけられてから……」
「……いいえ、例え姫様が、この後、臣従の契約をせずにヴェルクルッド様を解放なさったとしても、ヴェルクルッド様が他のお方と契約が出来るとは思えません」
「……どうして、そう思うのです?」
シルディアは小首を傾げて聞き返した。
臣従礼は済ませていない。ならば、ヴェルクルッドはこの後、誰に忠誠を捧げるのも自由なはずだ、とシルディアは思っている。
「……確かに、法的には何の問題も御座いませんけれど、人はその理由を知りたがります。好意的で、本質を見抜かれる方は、トレフィナ姫様から逃れるためと思ってくださるでしょうけれど、悪意ある見方をすれば、姫様やヴェルクルッド様の人格が否定されますわ。特にヴェルクルッド様は、トレフィナ姫様から逃れるのに姫様を利用したあげく、約束を履行しない方と見られます。そのような不誠実な方を、誰が、己が騎士として迎え入れたいと思うでしょうか」
「まあ……」
「加えて、トレフィナ姫様が手薬煉ひいてお待ちですもの。トレフィナ姫様のお怒りを買ってまで、ヴェルクルッド様を受け入れてくださる方は……残念ながら、姫様以外にはいらっしゃらないと思いますわ。――本当に、この国の貴族たちは腰抜けばかりですわね!」
「…………」
セイニーの言葉が、最後は軟弱な貴族連への批判に落ち着いたところで、シルディアはそっと溜息をついた。セイニーの見解は、シルディアにとって想定外であったが――聞かされれば、納得できてしまった。
「……私、浅はかでした……」
良かれと思ってしたことであったが、結局は、ヴェルクルッドに選択の余地を残してあげられなかったのだと、シルディアは落ち込んだ。
「いいえ、そんな姫様。あの場では、あれしかございませんでしたわ。でなければ、ヴェルクルッド様はトレフィナ姫様の脅しに屈していらっしゃいましたもの!」
「ですが……」
「……皆が、姫様のように純粋でしたら、良かったのですけれど……」
セイニーは溜息をついた。優しい人たちだけならば、こんなに悩むことも無かったのだが。
しばしの沈黙の後――シルディアは決心した。
「…………では、私は、責任を取らなくてはいけませんね」
「姫様!」
セイニーは胸元で手を握り締めた。
シルディアの決断は、彼女の人生において、大きな変化をもたらすだろう。
セイニーは、ずっと、その時を待ちわびていた。
「では、ヴェルクルッド様をお呼びいたしますわね!」
「…………ええ、お願いします」
「はい、姫様!」
覚悟を決めて頷いたシルディアに、セイニーは弾んだ声で返事をし、軽やかな足取りで階段を駆け上っていった。




