バルコニーで昼食を 3
ヴェルクルッドが微笑みながら見ていることに気付いて、シンディは少し、居心地の悪さを感じた。
「……ヴェ、ヴェルクルッド様?」
「ああ、いえ、失礼しました。……ワインを、どうぞ」
控えめに声をかけてみれば、ヴェルクルッドは笑みを深くして――少なくなっていたシンディの杯に、ワインを注ぎ足した。
場の空気が戻ったことにほっとしつつ、シンディは杯を受けた。
「ありがとうございます。――ヴェルクルッド様は、子馬亭さんに、よくいらっしゃるんですか?」
「ええ。私は夜のほうが多いですね」
「あら、ですが騎士の方は、夜の外出、自由に出来るのですか?」
「ええ。夜番に当たっていなければ、基本、自由です。寮の門限はありますが、夕食を済ませて寛ぐくらいの時間はあります。ですので、一曲二曲、歌を聞いて丁度よいというところでしょうか」
「先ほどお会いした、マリーヌ様ですね。お上手な方なのでしょうね」
シンディは、マリーヌに牽制されたことを思い出し、ヴェルクルッドの反応を見てみることにした。
ヴェルクルッドは、特別照れることも、挙動不審な素振りを見せることもなく、あっさりと頷いた。
「ええ。同僚にも、彼女のファンが多いですよ。シンディ嬢は、歌はお好きですか」
「はい。是非一度聞いてみたいところですが……残念ながら、夜の外出は難しいものですから」
どうやらマリーヌの片想いらしい。というか、そもそもヴェルクルッドは、マリーヌの想いに気付いていないようだ。シンディからしてみれば、マリーヌの反応は分かりやすい部類といえたのだが。
「女性の一人歩きは物騒ですからね。力不足で申し訳ないことです」
「いいえ、そんな。ヴェルクルッド様を始め、騎士の方々には感謝しております。皆様のおかげで、この街の治安はよいと、商人の方から伺っています。それに私も、ヴェルクルッド様にはとても助けていただいています。先ほどもですが、初めてお会いしたときも」
ヴェルクルッドは、女性の一人歩きが安全に出来ることを理想としているようだが、それでも他国に比べれば、この国は格別に安全といえた。
街道を一人でいけば確実に盗賊に襲われるのが一般的な中、この国周辺はその遭遇率が低い。時々お忍びで街を出るシンディは、今まで一度だって、盗賊に襲われたことはなかった。それは、ヴェルクルッドを始め、騎士たちの威光のおかげだろう。
「ああ――お役に立てたのは光栄なのですが……シンディ嬢は、いつもお一人で街の外まで?」
「……その」
ヴェルクルッドを労わろうとした言葉は、シンディにとってはやぶへびだった。
いたずらの見つかった子供のように――いや、いたずら小僧よりも性質が悪いかもしれない――シンディは首を竦めた。
「お分かりとは思いますが……とても危険なことですよ?」
シンディの反省の様子が伝わったのか、ヴェルクルッドの声は柔らかかった。窘める響きが、しかし余計にシンディの罪悪感を強める。
「……はい。セイニーにも叱られました。あ、あの、でも、いつもは街の外までは、そう行きません。あのときは……どうしても欲しい花が、外にしかありそうになかったので……」
言い訳を重ねてみるが、所詮言い訳だ。自覚しているシンディの声は、尻すぼみに小さくなっていく。
「――満足できる香水は、出来ましたか?」
「え? あ、はい」
唐突な質問に虚を突かれながらも、シンディは頷いた。
事実、あの時採集した花があったからこそ、香水を改良することが出来た。もしあの時採集が出来ていなかったら、シンディは、今こうしてヴェルクルッドと一緒に居なかっただろう。昼食の誘いには頷かず、早々に逃げていたはずだ。
「それなら良かったです。……ですが、もうしないでくださいね」
「…………」
ヴェルクルッドの言葉に、シンディは頷けなかった。
ヴェルクルッドがシンディの身を案じてくれているのはわかっている。わかってはいるが――もうしません、とは、やはり約束できなかった。
黙り込んだシンディを見て、そのへんの気持ちを察したようだ。ヴェルクルッドは苦笑を見せながら言った。
「――どうしてもというのでしたら、私に声をかけてください」
「え……?」
「僭越ながら、お供いたしますので」
「え、いえ、そんな……! そこまでしていただくわけには……!」
まさかそこまでヴェルクルッドに甘えることは出来ない、とシンディは慌てて両手を振って――その拍子に、ブイヤベースの器をひっくり返してしまった。
まだブイヤベースが入っていた器。その熱々の中身が、シンディの膝にかかる。
「あ!?」
「っ大丈夫ですか!?」
シンディの悲鳴に、ヴェルクルッドは慌てて立ち上がった。
バスケットに入っていた布巾を手に取ると、シンディのスカート部分を持ち上げて、ブイヤベースを拭い取る。
「あ……」
「やけどはなさっていませんか? すぐに冷やさないと……」
あらかた拭い去った後で、ヴェルクルッドは冷やせるものを探して視線を動かしたが、生憎と、そろそろ温くなってきたワインボトルぐらいしか、冷たいといえるものはなかった。崖下には海が広がっているが、まさか下りて布巾を冷やし、また上ってくるわけにもいかない。
「あ、ああの、だ、大丈夫、ですから……その」
歯がゆい思いを抱くヴェルクルッドに、動揺したシンディの声が届いた。
一体どうしたのかと、シンディを見て――気付いた。
「! これは……失礼致しました」
ヴェルクルッドは、慌ててシンディのスカートから手を離した。
スカートを持ち上げたのは、シンディの足を火傷させまいとする配慮からであったが、それはシンディのスカートを捲くる行為に近い。女性が素足をさらすのは、非常に羞恥を感じることなのだ。
「い、いいえ……その、ご迷惑をお掛けしまして……」
シンディは、スカートのまだ熱い場所が肌に触れないよう横にずらして裾を整え、ヴェルクルッドに詫びた。
「シンディ嬢、医者に」
「いえ、大丈夫です! その、私の家にいけば、薬草もありますし」
シンディが、ヴェルクルッドの言葉を遮るように言った。
「……ああ、香水用に、薬草も栽培を?」
シンディの慌てようは、ヴェルクルッドには理解が難しかったが――花から香水を作るシンディなのだ。薬草の知識があるのは、そう不思議ではなかった。
「はい。ですので……その」
「では、お送りします」
足を火傷したとすれば、この崖の道を戻るのはやはり不安だ。
「い、いえ。お気持ちだけで……」
「……お一人で、大丈夫ですか?」
しかしその申し出すらも拒否されるにいたって、ヴェルクルッドは眉を顰めた。シンディに明らかな壁があるのは感じていたが、しかし怪我をした時にまでそれを張られるのは残念でならなかった。
「――はい。あの、すいません、本当に大丈夫ですので……。ただ、申し訳ないのですけれど、こちらの……」
「勿論、後片付けは私がします」
ヴェルクルッドは、食器類をバスケットに片付けようとしたシンディを押し留めた。
「ですから、シンディ嬢は一刻も早く手当てをなさってください。どうか、痕が残りませんように」
送らせて貰えないのなら、一刻も早く手当てをして欲しかった。後片付けなど気にせずに。
「……あ、ありがとう、ございます……で、では、申し訳ありませんが、ここで失礼させていただきます」
「はい。――どうか、お大事になさってください」
ヴェルクルッドが見守る中、シンディは何度か振り返りながらも順調に崖の道を進んでいった。
シンディが無事、安全な道に戻るのを見届けたヴェルクルッドは、安堵の息をつくと、後片付けに取り掛かった。




