ネモフィラの花冠②
涼さんがここに来る直前。
夢を見るはずのないこの場所で、ある夢を見ていた。
幼い頃に経験した、初恋の思い出。自分とその子が楽しそうに喋っている、もう戻れないあの日の。
とある晴れた休日の午後。初めて家族と旅行をした時。自分が思うに結構な田舎暮らしをしていた僕は、20年近く経った今でも印象に残っていることは、その思い出と人の多さぐらい。外を歩いていても顔見知りのご近所さんに会うか、のどかな緑と田んぼが見えるかのどちらか。見える景色はいつだって同じ。そんな環境で暮らしていたからか、旅行した所で車のエンジン音を聴いただけで驚き、ガソリンの臭いに酔って。自分でもよく分からなかった。ただ、両親は違ったようで、どこか懐かしそうな表情をしていたのを、今でも憶えている。
そして訪れたのは、海の近くにある、ネモフィラが満開の丘。ネモフィラの青。空の青。海の青。一度にこんなにもたくさんの青を見たのは初めてだった。辺り一面が美しすぎて、言葉を失っていた。
当時の自分の瞳は、どれほど純粋無垢に、きらきらと輝いていたことだろうか。今はもう知る由もないが、目の前にいる夢の中の両親の僕を見る眼差しから容易に想像できた。隣にいた妹の夏純も、わかりやすくはしゃいでいる。
「ねぇ、この花の名前はなんていうの?」
父がしゃがんで、今より60センチぐらい身長の低い、当時の僕と目の高さを合わせて、教えてくれる。
「この花はね、ネモフィラっていうんだよ。莉紅、綺麗だろう。父さんと母さんにとって、特別な花なんだ。なんだか莉紅と夏純に見せたいと思ったんだよ。_ね、春那。」
目を少し細めて、父は母の名を呼ぶ。父が、いつも母の名を呼ぶ声は、僕たち子供に向けるものよりも熱がこもったような声だ。
だが、この時の僕たちはまだ知らない。
__母は、この10年後に病死する。
僕が18歳で、夏純が15歳。僕も夏純も、どうしようもないほどの哀しみと、ガラスのコップが割れたような、何か大きなものを失った空虚な気持ちに襲われた。
誰より、父がいちばん泣いて。救えなかったことに悔いて。ずっと母の名を呼んで。嗚咽と叫び声が混じって。父にとっての母は、それぐらい大切な人だった。
何より、母に聞いた、最後の言葉。お見舞いに来た時、僕を呼び止めてまで話してくれたこと。表情には出していなくても、家族ならすぐに分かるぐらいに隠しきれていない苦しさ。そんな状況でも僕に話したいこと。
僕は父たちに何も言わずに母のもとへ行った。
「…ありがとう。」
あんなにも瑞々しいぐらいだった母の声は、すごくやつれていた。身体も徐々に痩せていっている。_もしかして、母さんは。
「……私は、きっともう助からない。…莉紅、そんな顔しないで。」
母が笑いかけてくれる。僕は、母から見てもそんなにひどい顔をしているのだろうか。無理に笑いかける母を見ると、余計にその日が近づいているのを感じる。
聞いてほしいことがある、と母は言った。僕は静かに耳を傾ける。
「莉紅、私にはね、大切な人の少し先の未来が視えるの。このままだと、冬眞は、やつれて彼ではなくなってしまう。私がいなくても、彼には彼のままでいて欲しい。だから、莉紅。あなただけに頼める、最後のお願い。冬眞を励まして、私の代わりに支えてあげて。夏純が、安心して大人になれるように、見守って、時には助けてあげて。莉紅は昔から頭がよくて、勘がよかったから、わかってくれるよね。」
「うん」
僕には、そう言う選択肢しかなかった。出来るかじゃない。母が求めているのは、託しているのは。
正直、不安しかない。母の代わりが僕で務まるわけがない。母の存在は、家族みんなにとってとてつもなく大きなものだから。
母は、そんな僕の不安もすべて知っているかのように、話しだした。
「あなたは、独りじゃない。あなたには、その苦しみも、全て。一緒に背負って歩んでくれる女性が近い未来必ず現れる。決定事項なの。だから、心配しないで。」
どうしてか、そう言う母は悲しみを無理やり押し隠そうとしているように見えた。
今、点と点が繋がったように母がなぜいつもその達観したオーラをしているのか、わかった気がした。そして、母は言った。
__僕を、愛してくれる女性が現れると。
それが誰かは教えてはくれなかったけれど、その存在にこれまでどれぐらい救われていたか、今は亡き母も、その女性も、きっと知ることなんて出来やしない。
母の葬式の日。
父は、母の言ったように銀縁の丸眼鏡の奥で、表情だけではなく魂まで抜け落ちたかのような顔をしていた。涙の枯れたような顔でもあった。
夏純は母の棺の前で崩れ落ちながら、その事実を受け入れることを否定するように泣きじゃくりながら、何度も、何度も。ただひたすらに「お母さん」と呼んでいた。
僕はただ母に対して誓った。絶対に母さんが守りたかった父と夏純を守り、支えると。だから、だからこそ、泣けなかった。泣くわけにはいかなかった。
___「莉紅」
僕がぼうっとしていたからか、今はもう亡き母が母の死を知らない当時の僕の名を呼んだ。胸が締めつけらるようだった。
母はとても優しくて、儚くて。まるで今にも吹いた風で飛んでいってしまうのではないかと心配になるほどだ。でも、それに反した芯の強さももった人だった。
振り向くと、やっぱり母は笑っていた。母は、いつも笑っている。でもそれは、決して華美なものではなく、周りの空気を安心したものに変えられてしまうようなものだった。
その時、ちょうど少し強めの風が吹いた。
母のおろしたままの黒髪も風向きに沿って揺れる。
夏純のワンピースの裾が円を描くようにふわっと広がった。夏純は年齢に比例して楽しそうにして笑っている。
そんな夏純を父が抱き上げて家族みんなで風が強いね、と話す。
ちょっと風が止んだかなと思ったら、また今度はさっきより更に強い風が吹いた。そして僕の顔面に何かが飛んできた。直撃して、地面に落ちる。思わず拾い上げた。
何だ、これ。
いかにも都会の、テレビによく映っている子役の女の子とかが被っていそうな縁の広い白の帽子。目の前に咲いているネモフィラと同じような色のリボンがついている。
ただ、何も考えずにぼんやりとしたまま、その帽子を両手に持っていた。
帽子を持っていると、後ろから声をかけられた。
「ねぇ、そこの白い帽子を持っている君!」
感想や評価などいただけると、もれなく私が喜びます。
所々よく分からない言葉を使っている部分があるかもしれませんが、あなたの温かい目で見守っていただけると嬉しいです。