ネモフィラの花冠①
__どうしよう、この沈黙が少し気まずくなってきた。
別に、莉紅さんとの間にある沈黙が嫌なわけではない。ただ、話したいけど、話す内容が思い浮かばないだけなのだ。でも、その場しのぎで出した話題は、所詮1分もすればまた沈黙に逆戻りするのだと、これまでの人生経験で学んだ。だからこそ、何も言えないでいる。
それに、莉紅さんも莉紅さんだ。ずっと微笑みを浮かべていて、こちらに見向きもせずに、ただひたすら前を向いて歩いている。不思議な人だ。
そんなことを考えていた時。
「__ところで、涼さんは好きなものとか、は何ですか?」
急にバッと振り向かれて、そのひと言。ちょっと、というか結構この状況についていけていない。多分今の私は目が点になっているだろう。
「好きなもの、ですか……?」
実は聞き間違いなんじゃないか。そんなことを思ったけれど、こんなにも静かな場所で雑音に声を消されるなんてことはまずないし、もし、仮にそうなら私の耳が大分おかしいということになる。そして何より、どうして今そんなことを聞くのか、莉紅さんの意図がまるっきり掴めなくて戸惑う。
「いや、せっかくこうして会えたのも何かの縁だと思いますし、何かお互いのことを、名前以外で。少し知れたらいいな、と思ったのですが。何を、どこから切り出して話せばよいのかわからなかったので……。すみません、こんなこと聞いてしまって。」
きっと戸惑いが表情に出てしまった私を気遣って、意図を説明してくれたのだろう。
確かに、莉紅さんの言うことも一理あるだろう。初めて会ったけど、まだお互いの名前しか知らないというのはちょっとどうかと思う。何もお互い話さない状況が続いたら、それはそれでまた気まずい。それに、話すことで莉紅さんの、触れてはいけない部分もわかるはず。
しょん、とする莉紅さんを見ると申し訳なくなって、しっかりと自分の言葉で私の考えを伝える。
「_確かに、そうですよね。でも、うーん…。私の好きなもの、かぁ。何だろ。考えたら意外と出てこないものなんですね?」
普段はこれ、っていうものが割とはっきり浮かんでいたりするのに、訊かれたら急にわからなくなるのはなんでなんだろう。
でも、1つに絞るのならやっぱりこれ、かな。
「__私は、菜の花がいちばん好きです。」
これは私の、思い出の花。
***
__私は、菜の花がいちばん好きです。
そう言った彼女は、春の日差しのような、温かく、穏やかに微笑んでいた。その時、ここには決して吹くはずのない暖かな風が吹いて、目の前の彼女のサラサラで、柔らかそうなミディアムロングの茶色がかった黒髪も、ふわりと靡く。僕の髪も、頬に触れる。くすぐったくて、目が一瞬細くなった。
でも彼女は。涼さんは。僕が思った通り、明るい…、そう、菜の花みたいな黄色がいちばん似合うな。
涼さんには、今、僕が何を考えているかなんて分からないだろう。
さっきと同じように、口角を上げながら歩いているのだから、分かるはずがない。そして何より。人間である限り、誰かの心の中を覗くことなんて、出来っこないんだから。だから、分かりもしないんだろうね。
***
「_莉紅さん?」
どうしたんだろう。莉紅さんの顔は笑っているのに、それさえも貼り付けられた紙のように見えてしまう。まるで、どこか心ここに在らずで、どこかこことは違う場所にいるかのように思えた。それを笑みで隠しているよう。商売人だからか、その辺は人よりも敏感だった。
莉紅さんの瞳に光が戻る。
「…あぁ、すみません。ちょっと、ぼうっとしてしまいましたね。」
莉紅さんはまだなんだか眠たそうな顔をしている。でも、その後はいたずらを企む子供のような顔に変わった。
「そうだ、涼さん。ちょっと僕について来てもらえませんか?とっておきの場所があるんです。…菜の花が好きなら、きっと気に入ってくれると思うので。」
そんな場所があるんだ。私は基本、表情の変化がわかりにくい方だが、今は誰から見てもわかりやすすぎるぐらいに心が弾んでいた。莉紅さんが顔を綻ばせる。
「じゃあ、行きましょうか。」
私たちは並んでまた更に歩く。新たな目的地に向けて。私が莉紅さんに辿り着いた道の先を。
これは、まだ始まりにすぎなかった。