ありきたりの日常②
「莉紅、私__」
今、ただでさえ大きなコップから溢れて、とうとう零れ落ちた彼への愛情。ずっと心の何処かで抑えてきたもの。たった今、抑えられなくなったもの。
彼は驚いた顔をしつつ、私の話にちゃんと耳を傾けてくれる。
「__私ね、今日が誕生日だってこと、忘れてたの。これまで忘れたことなんてないのに。でも、気づいたの。貴方と過ごす毎日が誕生日を忘れるぐらいしあわせ過ぎたからなんだってこと!」
莉紅が僅かに目を見開いているのがわかった。
でも、もう止まれない。
「莉紅、ありがとう!私にこんなしあわせをくれて。貴方に出逢うために、私は生まれてきたんだと思う。松宮涼として生きてきて、今日こうやって28歳の誕生日を迎えることができて本当によかった。」
その時吹いた少し強めの風で、アネモネの花びらが宙を舞う。私の髪の毛にも、一枚絡まっていた。
莉紅がすぐに「涼、花びらが髪についていますよ」と、私の髪に手を伸ばす。
私と莉紅との距離が一気に近くなった。
「ほら、取れ__」
彼のシャツの襟を掴み、彼の頭を引き寄せ自分の唇を重ねる。彼の薄いそれから、彼の体温を感じる。生きているんだと実感できる。その歓びを、私はひしひしと感じていた。
どれくらいそうしていただろうか。彼の体温が離れた瞬間、寂しさと心細さに襲われた。
上を向くと、彼はしっかり赤面していて、言葉も出ない様子だった。
でも私はまだ、一番伝えたかったことを伝えていない。だから、赤面するならもう少し後にして欲しいと思う。我ながら自分勝手だな、と自嘲する。
戸惑う彼の瞳に自身の瞳を映す。
「莉紅、私も貴方を愛してる」
やっと言えた。今最も言いたかったこと。
でも、彼の表情が動かない。急に不安になってくる。間違ったことをしたとは思っていないけれど、この空気感は何なんだと思わずにはいられなかった。
彼にまた一歩近づいて尋ねる。
「ねえ莉紅、本当にどうかし__」
私の言葉が最後まで紡がれることはなく、莉紅の温かいそれが、再び私のそれに重なった。
腰を引き寄せられたためか、さっきとは違った、より深く、長いキスだった。それは止むことを知らず、角度を変えながら続いていく。私はそれを受けとめるばかりで。しかし、求めずにはいられなかった。
行かないで、やめないで、とまるで駄々をこねる子供のようだ。
どのくらいの時間が経ったのか。私たちが再び向かい合う頃にはお互いに呼吸が乱れていた。
あんなにキスしたのは人生で初めてだった。でもこれから慣れてゆくのだろう。
帰り道、ふとそんなことを考えた。
莉紅に視線を移す。
前をまっすぐ向いて歩く貴方の隣を、ずっと歩いていたい。ずっと傍にいて欲しい。私も貴方の傍にいるから。そう強く思った。
***
涼からあんなキスをされたのは初めてだった。
正直、すごく嬉しかった。僕の言う『好き』が、彼女の言うそれとは重さが違うのではないかと何度も思ってきた。心の何処かで、ずっと怖かった。
夜、ついさっきまで。
彼女と星を眺めていた。夜の空を見て綺麗だと思ったのは今日が初めてだった。いつもは見ない暗闇の中を、何の憂いもなく思いのままに輝く星たち。あの中のひとつになれたらよかった。でも、そうしたら彼女とは出会えていなかった。どちらを取るか、僕には選べないと思う。
涼はもう眠いからと、先に眠りについた。今日はたくさん歩いて疲れただろうから、ゆっくり休んで疲れを癒して欲しい。明日の朝見る彼女が笑えていますように。いつも、本当にただそれだけを願っている。
あと、どのくらいだろうか。
今を喩えるなら、それはきっと線香花火。強くて明るい光を放ちながら、笑顔を浮かべる誰かを照らす。線香花火はただ光を放っているだけでその瞬間を誰かの夏の思い出にする。
光を放ってくれる、ただそれだけで十分な存在。それが線香花火だと僕は勝手にそう思っている。
あとどのくらい、光を放っていられますか?
有限の光だなんて言わないで。ずっと照らし続けていて欲しい。
でも。
光が無限に放たれるわけないじゃないか。この世界のすべては有限なもので形作られている。すべての根本となる、この地球でさえも。
心の何処かに、それを受け入れている自分がいる。
自分はしあわせ者で、これ以上何を望むのだと。そう叱責する自分がいる。
でもそれと同じぐらい、それを受け入れられない自分もいる。
何なんだろう。同じ人間なのに。頭の中がごちゃごちゃしてくる。
いつも誰からも、自分は冷静沈着で完璧で、感情が読めないと言われてきた。正直、それでよかった。
周りの憐れむ視線がずっと嫌いだった。ずっと早くこの醜い世界から離脱したかった。
けれど、やっとそんな虚像しかない、残酷な世界から解放された。
そして君に会えた。
それだけで僕は………___。
***




