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街に降り立った瞬間、おお、とアレクシアは心の中で感嘆の声を上げる。あまり顔に出してもいけない。いい加減、付き添う二人に、解釈違いを叫ばれそうだ。
そのときには、本当の私はこうなの、今までは殿下の伴侶になるために――と言い張るつもりでいる。なんて、便利な言い訳だ。
「お嬢様、あまり離れないでください」
「わかっているわ」
生まれ育った国ではあるが、市井を歩くのは初めてだ。
買い物に来ることもあるが、利用する店はほぼ決まっている。事前に連絡してもしなくても、店の前まで馬車で乗り付けると、出迎えた店員に特別室へと案内されるような店だ。
気ままに店を眺め、目に付いたものを買うなんてことを、今世ではしたことがない。高級店が建ち並ぶエリア外は、馬車からぼんやり眺めるだけだった。
前世の風景とも違うので、ついあちらこちらに視線を奪われ、アレクシアは気がそぞろになる。うっかり迷子になったら、公爵邸に一人で帰る自信はないので気をつけることにした。
(門番に、気付いてもらえない可能性もあるしね)
トレードマークの縦ロールの重要性を、アレクシアはひしひしと感じる。縦ロールがあれば、知っている店に飛び込み屋敷に使いを出すこともできそうだ。
「人が、多いわね」
街に活気がある。食べ物を売る屋台から、美味しそうな香りが漂い鼻先をくすぐった。
「ねぇ、あの肉串を食べてもいい?」
せっかくなので、食べ歩きがしたい。
「お嬢様が、屋台のものを?」
「そうよ。せっかくだもの」
前世では一般庶民だったので、平民が営む店を覗くのも、買い食いをするのにも抵抗はない。少し前のアレクシアだったら、絶対にしないことだろうけれど。
「うん、食べよう」
「え」
止められる前に買いに行き、三本購入するとマリッサとエリックに一本ずつ渡す。せっかくだから焼きたてを食べようと、アレクシアは肉にかじりついた。
(うま)
心の声は、絶対に洩らしてはいけない。けれどおいしい。
公爵家の食卓に並べられるような、上品な見た目でも味でもないが、屋台ならではの味だ。
けれどそれが、妙に美味しく感じる。ふと気付くと、エリックとマリッサがぽかんとしていた。
しまった、と思っても遅い。すっかり公爵令嬢であることを忘れていた。
「二人も食べて。美味しいから」
共犯者にしてしまえ、とアレクシアは肉串をすすめる。こういうときは、気を逸らしてごまかすべきだ。
「え、はい?」
「では」
マリッサは少し戸惑いつつかじりつき、エリックは見た目に似合わず豪快にかじりつく。その表情から、気に入ったのがわかった。
「お嬢様」
「なあに」
「妙になじんでいませんか?」
ぎくり、とするが、軽く口角を上げた笑みを返す。
表情を取り繕うことに長けた、顔面筋にアレクシアは感謝した。
「そう? そう見えるならよかった」
少しずつ、マリッサにも慣れてもらわなければいけない。こっそり街に遊びに来るのは、今日限りにするつもりはなく、いずれまた遊びに来るつもりでいた。
自由に出歩くには、お忍びが一番だ。公爵令嬢スタイルでは、食べ歩きなどもってのほかだった。
(本当に、婚約者候補の肩書きなんてじゃまよね)
王妃になれば、こんな風に出歩くことはできない。
悪役令嬢云々は別にして、辞退を申し出て正解だ。いずれ他国にも足を伸ばしてみようと、アレクシアはまだ見ぬ地に胸を高鳴らせた。
それから適当に露店を冷やかしながら、本屋へと移動する。今世では初めて入るけれど、ずらりと並んだ本の背表紙を眺めるのはやっぱり楽しい。
想像以上の品揃えに、アレクシアは目を輝かせる。遠慮なく、あれもこれもと、気になるタイトルの本を選んでいった。
金に糸目を付けないは、まさにこのことだ。
公爵令嬢万歳! 大人買いの極地! と、アレクシアは心の中で歓喜の声を上げた。
おかげで大量になりすぎて、持ち帰りは断念する。話題の一冊だけを持ち帰ることにして、残りは屋敷に届けてもらうように頼む。嫌な顔をされるどころか、満面の笑みで畏まりましたと返ってきた。
「届いたら、マリッサも読んでいいのよ」
「いいんですか?」
「もちろん。読みたい本を持っていって。どうせ一気に読めないのだから」
「ありがとうございます!」
マリッサが、目をきらきらっとさせる。侍女の間でも、恋愛小説は人気だ。
「エリックは、読まないわね」
「読みません。恋愛小説はさすがに」
「新たな扉が開けるかもしれないのに」
「いや、開かなくていいんで」
「そう、残念」
感想を言い合えたら楽しいのにと、アレクシアは嘆息する。友だちがいないので、相手をしてくれるのはマリッサとエリックだけだ。
「カフェに行きましょう」
スイーツが美味しいと、聞いている。そうなると女性客が多くなるので、エリックには少し申し訳ない。本人は任務に忠実なので、視線など物ともしないだろうが。
「店は、予約を入れておきました」
「そうなの?」
「はい」
さすができる侍女だ。心の中で喝采を贈る。ひそかに、並ぶのも覚悟していた。
「きさまら!」
不意に、荒げた男の声が聞こえる。小さな悲鳴も聞こえて、何事かが起きているのがわかった。
エリックがさりげなくアレクシアを庇うように立ち、周囲を警戒する。心労をかけないためにも野次馬に混ざりに行くのはやめ、そのまま通り過ぎるつもりでいたが、人垣の間から怯える子どもの姿が目に入りアレクシアは足を止めた。
あっという間に、マリッサが情報収集してくる。
「二人は兄妹で、妹が手に持っていたジュースが、あの男の服を汚したようです」
状況を伝えながら、わずかに眉を下げた。
「ぶつかったのはあの男の方なのですが、貴族のようで、誰も助けに入れないのが現状です」
「そう」
身分が絶対の世界で、平民が貴族に逆らえば、命を落とす可能性さえある。だから痛ましい目で兄妹を見ていても、無事を祈るばかりで誰一人として動こうとしなかった。
「謝って済むわけがないだろう! お前たちのみすぼらしい服とは違うんだ!」
耳障りな声に、アレクシアは眉をひそめる。男は完全に、見下していた。
もしかしたら少し前のアレクシアも、似たような考えだったかもしれない。
そう考えると、目の前の光景に心臓が冷えた。
(え、私もあんな感じ悪い人だった!?)
そこまでではないと、思いたい。
仮に、で想像してみる。ドレスを子どもに汚されても、せいぜい嫌な顔をする程度だ。あんな風に怒鳴り、責めることはしない。服など、新しく買えばいいだけだ。
けれど人の振り見て我が振り直せ、うっかり傲慢が出てこないよう、アレクシアは気をつけることにした。
「お前たちが一生働いても、弁償できない金額だぞ」
正直、面倒事には関わりたくない。
今も昔も、正義感は強くない。特に見ず知らずの人たちのもめ事に、関わっていいことなどなかった。
けれど幼い子ども相手に、謝罪以上を要求しているところを目にすると、見ない振りは罪悪感が大きくなる。この場で助けを出せそうな者がアレクシア以外にいないことも、後味が悪くなりそうな要因だ。
ちらりと、エリックの方へ視線を向ける。目の前の光景へと向けられる眼差しから、助けに行きたい気持ちが見て取れた。
けれど任務中に、アレクシアのそばから離れるわけにはいかない。助けたくても、助けられずにいた。
ああもう、とアレクシアは覚悟を決める。
(ほんと、ガラじゃないのに!)
「間に入るわ」
二人に声をかけ、前へ足を進めた。