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婚約者候補辞退に向けて、サヴェリオが動いてくれると知ってから、アレクシアの気持ちは晴れやかだ。
手入れの行き届いた公爵邸の庭園に咲き誇る、初夏の花がいつもより輝いて見える。自然と、アレクシアの口元に笑みが浮かんだ。
鼻歌を歌いたいくらいに、機嫌が良い。けれどあまりにもアレクシアらしくないので、うっかりこぼれないように気を引き締める。代わりに、香り高い紅茶が注がれたティーカップを傾けた。
優雅だ。
体調はすっかり回復していて、こうして学園を休んでいるのはどこからどう見ても、サボっているようにしか見えない。実際そうなのだが、アレクシアを咎める者はいなかった。
ただ、一つだけ問題がある。
「ヒマだわ」
今までアレクシアが興味を持つのは、美しいドレスや宝石、王太子の伴侶になるために必要な教養を身につけることだった。
「何か、本をお持ちしましょうか?」
「本、ねぇ」
部屋の本棚には難しい本がずらりと並んでいても、気軽に楽しめる小説の類いは一切ない。歴史書には少し興味を引かれるが、気持ちが緩んでいるときに読みたい本ではなかった。
「いらないわ」
あらためて、ジェフリーのために努力ばかりをしていたことを痛感する。やり方を間違えているところも多少、いやかなりあったけれど、アレクシアは一途で健気だった。
(これから、今まで勉強漬けだった日々の分まで楽しみましょう)
がんばり続けた過去の自分を、アレクシアはいたわる。勉強はもう、最低限でいい。学園で成績のトップ争いに加わろうとしなければ、テスト前に出題範囲をさらりと見返す程度でも、アレクシアはそれなりの点を取れるはずだ。
「そうだ。ねぇ、マリッサ。買い物がしたいわ」
この世界の、小説がどんなものか気になる。公爵家には立派な図書室があるけれど、アレクシアの本棚以上に難しい本が並んでいるばかりだ。読む人がいないのだから、娯楽小説の類いなど置いていない。
「どこの商会を呼びましょうか?」
ぱた、とアレクシアは瞬きする。わずかに遅れて、理解した。
そうだった。欲しい物があるときは、商会の方が品物と共に公爵邸へ足を運ぶ。それがアレクシアの買い物だった。
「呼ばなくていいわ。小説がほしいから、街の本屋に買いに行きたいのだけど」
「小説ですか?」
マリッサが、驚くのも無理はない。長い付き合いの中で、アレクシアが今まで興味を示したことがない物だ。
「学園でお友だち、はいないわね」
即座に、え、という顔をされたので、アレクシアはすぐに訂正する。公爵令嬢という身分に寄ってくる人たちはいるけれど、気軽に話せる友だちと呼べる人はいなかった。
それをマリッサが、知らないわけがない。侍女は侍女同士、仕える主が勉学に勤しんでいる間に情報交換をしている。使用人ネットワークを侮る勿れ。
こほん、とアレクシアはわざとらしく咳払いする。一人くらい友人が欲しいと思う気持ちは、今はどうでもいい。
(娯楽が! 欲しいの!)
「クラスメイトが雑談しているのを、偶然耳にしたの。市井で、流行っているものがあるのでしょう?」
適当に、それらしいことを言ってみる。今までアレクシアは他人を気にしたことがないので、周囲で囁かれる雑談も、噂話も、意味を成さないただの雑音だった。
だからと言って、すべての人を見下していたわけではない。話しかけられれば、些細なことでも耳を傾けるのだから、根はいい子なのだ。
「それなら恋愛小説ですね。今度、舞台にもなるそうです」
「舞台にも! 人気なのね。舞台も観に行きたいけど、まずは小説を読みたいわ」
ふわりと、アレクシアはテンションが上がる。
ここ数日、切実に求めていたものだ。
恋愛に苦手意識があるとは言っても、作られたものを娯楽として楽しむのは別だ。頬が緩むこともあれば、泣くこともある。現実世界でも自身に関わりがなく、害が及ばなければ、微笑ましく楽しく眺めていられた。
要は第三者、モブの立ち位置希望だ。
「お嬢様、そういったものに興味ありましたか?」
「今までは、視野が狭かったの。でも今は、興味があるわ」
小説に、舞台、前世を思い出してわくわくする。表面上の冷静さを保つのが、つらいくらいだ。今すぐに観劇できる舞台も、調べたい。本当に、スマートフォンは便利だったと、今はない文明の利器をアレクシアはひそかに嘆いた。
「では、買ってまいりますね」
「待って、私が行くわ」
書店には、間違いなくたくさんの本が並んでいる。眺めているだけでも楽しい場所だ。暇を持て余しているのだから、自ら足を運びたい。
「お嬢様ご自身が、出向いてですか」
「そうよ」
詳しいタイトルなど知らないが、さりげなくどの本かわかるように誘導すればいい。後は、他の面白そうな本をまとめ買いする。荷物は、エリックが持ってくれるはずだ。
もしくは屋敷に届けてもらえば――と、自然にそんな思考になるのだから、前世の記憶が混ざっても公爵令嬢だ。
「今まで、そういった場所には出向かれませんでしたよね」
「ジャマ、じゃなくて……分不相応な肩書きがなくなるのだから、これから色々なことに挑戦したいのよ」
うっかり本音がこぼれそうになり言い直したが、マリッサが瞳を瞬いている。あれだけジェフリーのことばかりだったアレクシアを間近で見ていたのだから、戸惑うのも無理はないことだった。
早く慣れてほしい。
目下の目標は、同じテーブルについて、一緒にお茶をすることだ。
傍らにマリッサとエリックを立たせ、アレクシアだけが座りお茶を飲むのは、しっかり線引きされた正しい構図ではある。今まで何も思わなかったそれに、今は淋しさを覚えた。
「マリッサも一緒に行って、ついでに美味しいものを食べましょう。あ、気軽に入れるカフェでね」
屋敷から出れば、マリッサも同席しやすい。そこにエリックも、同席させるつもりだ。
若干、嫌がらせと取られる可能性があるのだけれど、他意はないことを伝え、信じてもらうしかない。
「もちろんお供しますが、旦那様からお許しが出るかわかりませんよ」
「黙って行くのよ」
「はい?」
「お忍びで行くの。髪を巻かずにシンプルな服を来たら、私とはわからないと思うのだけれど」
公爵令嬢アレクシアは、ゴージャスな縦ロールがデフォルトだ。
おまけに意図しないものではあったが、普段の派手なメイクをやめれば、印象はがらりと変わる。だいたい、アレクシアがお忍びで市井にいるなど誰も想像すらしないことだ。
「ですが、危険です!」
「そうです。無謀です」
成り行きを見守っていたエリックが、黙って聞いていられなくなり声を上げる。珍しく、困った顔をしていた。
「もちろん、エリックも連れていくわよ」
護衛騎士なしで行こうなど、さすがに思わない。前世とは違い、武器は簡単に手に入り、荒くれ者は多く居る。生きるために、罪を犯す者がいることも知っている。貴族女性が一人で、気軽に出歩ける地ではなかった。
(世間知らずが一人で出歩くとか、かもねぎよね)
「……本当に、行くのですか?」
引く気がないと悟ったマリッサが、確認してくる。そうと決めたら、アレクシアが必ず行動に移すと付き合いの長さで理解していた。
「行くわよ」
せっかく、体調が悪くないのに休んでいるのだ。今日行かずに、いつ行く。
学園はある日なので、うっかり知り合いに会うこともない。
なんて、素敵なお出かけ日和だ。
「さあ、そうとなったら準備しましょう!」
部屋に戻り、うきうきしながらシンプルなワンピースに着替える。最後まで渋っていたエリックを強引に引き連れて、アレクシアは街へ向かった。




