30 プロローグ
湖の上を渡って吹く風が、涼やかで心地好い。
夏の日差しを受け、きらきらと輝く水面は少しだけ目に眩しいが、美しかった。
船にも乗れると聞いているが、どうしようかアレクシアは迷っている。前世では乗り物のうち、どうしても船とは相容れなかった。何をしても、どうやっても、絶対に酔うのだ。
あの具合の悪さが思い出されて、躊躇が生まれる。
(でも、せっかくだし)
くるり、と手に持っていた日傘をアレクシアは回す。
今世は大丈夫だろうという希望的観測で、マリッサへと声をかけようとしたところ、近づく人の気配を感じた。
「ロシェット嬢」
思わず、顔をしかめそうになったけれど、幼い頃より鍛えた表情筋が頑張ってくれる。普段と変わらぬ淑女の仮面をつけて、アレクシアは軽く首を傾げた。
「よく、ここにいるのがわかりましたね」
行き先は、家の者にしか伝えていない。
それも、かなりざっくりとしたものだ。
「すまない、少しだけ反則技を使った」
(権力とか、権力だね)
舌打ちしたくなるが、さすがにそんな不敬はできない。
なんとなくアレクシアが猫を被っているのは察しているようだが、取り繕っておくに限る。別に、バレたところでまったく問題ないのだけれど。
「そこまでして、私に何かご用ですか?」
「ああ、とても重要なことだ」
向けられる笑顔に、面倒事の予感がひしひしとする。逃げていいかな、とげんなりしたところで、不意に、アレクシアの前に跪いた。
(え、何してんのこの人)
驚きに、動きが固まる。ぱちり、とアレクシアは瞳を瞬いた。
「……殿下? 何をなさって」
夏の強い日差しを受けて、きらきらと髪が輝く。
アレクシアを見上げる瞳も、美しい色をしていた。
文句なしに、顔面偏差値が高い。
思いがけない態度にぎょっとしているこんな時にもつい見惚れてしまい、アレクシアはくそうと心の中で悪態をつく。
(顔がいいのが悪い)
責任転嫁していると、手を取られる。
軽く引かれたせいでのぞき込むような姿勢になり、目が合った。
「今しかないと思った。どうか、私の妃になってほしい」
「……はあ?」
瞬時に、この人何してんの、から、この人何言ってんの、に変わる。そのせいで、少しばかり令嬢らしからぬ、低い声が出てしまったけれど仕方がない。今更だ。
「ダメ、だろうか?」
いたずらっ子のように笑って見せても、残念ながら顔面以外には全くときめかない。なんでこうなったと、アレクシアは天を仰ぎたくなった。




