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幼い頃、サヴェリオに付いて王宮へ来ることもあり、ある日子どもの好奇心から、一人でふらりと出歩いたことがある。その結果は、誰もが予想できる当然のものだった。
気付いた時には、ぐるり、と辺りを見回してもどこにいるかわからない。
子どもの低い目線では遠くまで見渡すこともできず、右も左もわからなくて、ひどく心細かったのをアレクシアは覚えている。それでもうつむかずに前を向いて歩いていると、ふわりと華やかな香りが鼻先をくすぐった。
その日は、少し風の強い日だった。
ふわり、ふわりと風が吹くたび、香りが運ばれてくる。子ども特有の強い好奇心が顔を出し、香りに誘われるように庭園を歩いて行くと、艶やかに咲き誇る薔薇たちが視界に飛び込んできた。
その美しさに、目を奪われる。まるで不安と悲しみが広がったアレクシアの心を、慰めてくれているようだった。
相変わらず、居場所はわからない。
アレクシアの置かれた状況は何一つ変わらないのに、自然と笑みが浮かぶ。
ざわり、と薔薇の枝葉を揺らし、ひときわ強く吹いた風が、悪戯にさらりとした長い髪も乱す。むうっと軽く眉をひそめ、顔にかかった髪をはらい、アレクシアは手ぐしで整えていった。
何をせずともさらさらな髪は、あっという間に元に戻っていく。
「こんなところで、何をしているんだ?」
声をかけられ振り向くと、日差しにきらめく金の髪の男の子がいた。
幼いながらも整った容姿は、薔薇とはまた違った美しさがある。アレクシアは一瞬目を奪われ、絵本で読んだ、王子様が抜け出してきたようだとも思った。
「迷子よ」
すぐに我に返り、聞かれたことに答える。あまりにも堂々とアレクシアが言ったせいか、男の子――ジェフリーは驚いて見せた。
「迷子なのに、泣かないんだな」
「泣いたところで、何も解決しないもの」
先ほどまでひどく心細かったのを隠して、アレクシアは反論する。
「強いんだな」
「ううん、強くありたいの」
心からの言葉は、自然と笑顔で答えていた。
その後、何を話したかまでは覚えていない。
人のいるところまで案内してもらっている最中に、アレクシアを探す声が聞こえ、ばいばい、とその場でジェフリーとは別れた。
「こんなところで、何をしているんだ」
耳の奥に残る、あどけなく優しい声は、今はこんなにも冷たい。
同年代が顔を合わせる茶会の席ではもう、アレクシアに対するジェフリーの態度はこんな風だった。婚約者候補なのが、気に入らなかったのかもしれない。
またあの時の王子様に会えるとドキドキしながら、偶然耳にした、理想の女性像に合わせるように容姿を整えて行ったのに無駄で、あの時はひそかに落ち込んだ。
今となっては、感傷もどことなく懐かしい。
「王太子殿下に、ご挨拶致します」
応える声も、返事も、あの日とはまったく違うものだ。
学園内ではないので、正式な礼を執ってアレクシアは挨拶する。指先、所作の一つ一つに気を遣い、いかに美しく優雅に見えるか、練習した日々をなぜか思い出した。
こうしてジェフリーの姿を見ても、婚約者候補を辞退したことに対して、少しの後悔も感じない。けれど、すべてをなかったことにしたいとは思えなかった。
相応しくあろうとした日々が、今のアレクシアを作っている。ゆっくりと顔を上げると、わずかだがジェフリーが嫌な顔をしたのがわかった。
本当に、嫌われているのだと再認識させられた。
「……なぜ、王宮にいる」
こんなところにまで押しかけてきたのか、と言外に言っているのがわかる。学園に入学してからはしていないが、それまではジェフリーに会いに、アレクシアは王宮へ来ていた。
国王と王妃が交流を深めてほしいと許していたのだが、本人は知らないのかもしれない。もしくは、聞き流していた。
「陛下に、謁見するためです。謁見はもう終えておりますが、一緒に来た父が、陛下と話しておりまして、待つ間に少し散歩をしておりました。陛下と父の話がすめば、すぐに帰ります」
押しかけてきたんじゃないよーと、アレクシアは丁寧に状況を説明する。今の時点で、ジェフリーが信じてくれるかはわからないけれど。
(あれ? さすがに本人には、私が婚約者候補から辞退したって言うよね?)
そんな疑問が、ふと浮かぶ。
伝えてくれないと、いつまでもジェフリーからの警戒心は消えない。そうなれば、今と変わらぬ悪役令嬢のポジションだと、アレクシアは気付いてしまった。
(ここで、私から伝えたらダメなやつ?)
どっち!? と内心で頭を抱えていると、ジェフリーが眉をひそめる。無意識に何かしただろうかと、アレクシアは瞳を瞬いた。
「陛下に、何を言ったんだ」
(婚約者候補から辞退したい、ですが?)
喉まで出かかった台詞を、アレクシアはぐっと呑み込む。
ジェフリーは紛れもなく当事者なのだが、現時点で言って良いかの判断がつかない。その辺りのことも、先ほど確認すべきだったと後悔した。
「少し前から、ロシェット嬢と誠実に向き合い、尊重しろと言われていた」
「まあ」
余計な指示を出すな! と、アレクシアは先ほど会ったばかりの国王に憤る。曲解もいいところだ。おかげでさらに、知らないところでジェフリーからの好感度が下がっていた。
困らないけれど、困る。先入観により冤罪で、断罪されるのは嫌だ。
「今までと、趣向を変えたのか? だとしても、そう簡単に私の気持ちが動くことはない」
どんな手段を使っても、おまえなど望まない――要は、そう言っている。そこまでジェフリーに嫌われているのかと思うと、さすがに少し淋しくもある。本当に、アレクシアの恋心は少しも届いていないのだと知った。
「はい」
他に、答えようがない。
今となっては、すべてアレクシアには関係のないことだ。
潔い返事に、ジェフリーがまた軽く眉をひそめる。これも、気を引くための駆け引きだと思われているのかもしれない。
そう思わせるだけの行動を、今までずっとアレクシアは取っていた。
(今までずっと、煩わせてごめんなさい)
ここで会えて、良かったのかもしれない。
すべてを、過去にできる。万感の思いを胸に、アレクシアは綺麗に笑んだ。
「もう殿下を煩わせることはないと、お約束します」
軽く、ジェフリーが息を呑む。
信用ないなぁと、アレクシアは苦く思った。
「そろそろ、父の元へ戻ります」
少し強く吹いた風が、くるりと巻いた髪を揺らす。
悪戯な風が髪を絡ませないうちに、屋内へ入った方がいいとアレクシアは判断した。
「では、殿下」
不意に、まるで引き留めるかのように、ジェフリーが腕を掴む。
驚き、アレクシアは目をしばたたいた。
「殿下?」
「……俺は、何か忘れているか?」
一人称が、変わっている。きっとこれが、素のジェフリーだ。
けれど少しも、アレクシアの心は動かない。普段は俺なんだ、と思うくらいだ。
「イアンにも、君と向き合った方がいいと言われた」
は? と、上げそうになった声を、アレクシアは息で流す。
疑問符しか、浮かばない。
余計なアドバイスするなー! と、心の中で憤りつつ、イアンはなんでそんなアドバイスを? と、意図がまったく理解できなかった。
「残念ながら、私にはわかりかねます」
わかるか! と、アレクシアは心の中で突っ込みを入れた。
唐突すぎる。確かにストーカーもどきではあったが、交流という交流をしてこなかったのだから、ジェフリー自身のことを問われたところでアレクシアがわかるはずがない。何かを忘れているのなら、自力で思い出してほしかった。
「……そうか、そうだな」
そうそう、と心の中で頷く。
「それでは、失礼致します」
本当に、これで終わりだ。
(さようなら、アレクシアの初恋)
さっと、未練なくジェフリーに背を向ける。まっすぐに前を向き、お一人様の未来に向けて、アレクシアは足を踏み出した。
これにて一章終わりです。
評価等をしてくださる方のおかげで、予想より早く一章を書き終えることができました。
二章はのんびりと、また開始まで少しお時間をいただくかもしれません。
最後まで書き上げるつもりですので、お付き合いいただければ嬉しいです。




