19 誰も知らないすれ違い
カップケーキを手に持ったまま、ステファノは機嫌好く教室に戻る。昼の休憩時間はまだ終わっていないので、人は少なくまばらだ。
本を読んでいる者、机に突っ伏して寝ている者が多い。雑談をしているグループもいるが、かなり声のトーンを落としている。元々貴族の令嬢は、大声で話すことなどしないが。
本来ならステファノも、今頃はまだ中庭で昼寝をしている。けれど自らも想定外だった行動を取ったことで、その時間はなくなった。だからといって、睡眠時間を惜しむ気持ちはない。
充分すぎる対価が、手にある。いつも座っている席に着くと、ステファノはもらったマフィンにかじりついた。
(やっぱうまいな)
普段食べる焼き菓子よりも甘さが控えめで、とても食べやすい。
結局、何の野菜が入っているかは聞き忘れてしまった。
自力で当てようにも、野菜がスイーツになるなどステファノの中ではありえなすぎて、まったく見当もつかない。元々野菜は苦手な物が多く、このまま知らない方がいい気もしてきた。
美味しいならそれでいいよな、うん、と結論づける。また持ってきてくれると言ったのだから、そのときに気が向いたら尋ねてみることにした。
(あんな、人だったのか)
顔を合わせる機会は多かったが、会話と言える会話をしたことは少ない。
アレクシアにとってステファノは、ジェフリーのそばに居るだけの者でしかなかったからだ。いわば、景色と変わらない。
向き合ってくれない人相手に、歩み寄るのは虚しいものだ。
本当は家柄――国の英雄でもある、前騎士団長のサヴェリオ率いるロシェット家の騎士団は、ステファノにとって魅力的である。アレクシアの護衛騎士は、王家も欲しがる剣の腕前を持つエリックだ。
親しくなり、出来ることなら手合わせを願いたい。
サヴェリオは怪我で騎士団長を辞したとはいえ、手合わせ程度は問題ないと聞いている。エリックは、幼い頃よりサヴェリオに鍛えられた者だ。
騎士を目指していて、彼らの指導、手合わせを夢見ない者はいない。けれど通常その機会は、滅多にないものだった。
――ロシェット公爵との手合わせは、王家の騎士になれば可能性はある。
父親はそんなことを言っていたが、息子を騎士団に入れるための甘言の可能性がある。だからこそ、先ほどは結構本気で言っていた。さらりと、かわされてしまったが。
(でも、縁はできた)
本来の目当てだったマフィンは、文句なしに美味しい。
契約とは言えない契約だが、アレクシアの敵にならないだけで、これからも美味しいお菓子をもらえる。声をかけた自分を、ステファノは褒めたかった。
だいたいアレクシアの後ろにいる人たちを知っていて、敵になろうなどと思えるわけがない。要は、ジェフリーの妃に他の令嬢を推すな、ということだ。それだけでよく、助力はいらないという潔さだった。
色々、誤解していたことを反省する。結局ステファノも、表面しか見ていなかったということだ。先ほども、自然な表情で友人たちに接しているのを見ていなければ、素通りしていた。
普段から、アレクシアには何人もの令嬢が付き添っている。華やかな集団ではあったが、女王様とそれに付き添うその他大勢、といった印象が強かった。
ジェフリーにも言えることだが、身分が高くなればなるほど、寄ってくる有象無象とは線を引き、ある程度の距離を取るのは仕方のないことだ。
ジェイニーもその中の一人だったと記憶しているが、以前とは違う関係を築いているように見える。アレクシアの雰囲気も、少し変わったような気がした。
見た目ではない何か――ステファノでは、それを言語化できない。
(そういえば、最近見かける頻度が減ったような?)
先日の交流会でもジェフリーの隣ではなく、ジェイニーと端の方の席に座り、ケーキを食べていたと思い出す。帰り際にはパティシエに声をかけ、土産をもらっていたのは羨ましかった。
「どうしたんだ、それ」
いつの間にか、イアンが傍らに立っている。思考を働かせすぎていたせいで、ステファノは気付かなかった。
「もらった。やらないからな」
最後の一個を、手に取る。一気に食べすぎかと思ったが、すぐに美味しいうちに食べるべきだとステファノは思い直した。
「誰にもらったかもわからないものを、取りはしない。ステファノも、むやみに食べ物をもらうな」
さすが公爵家の嫡男だ。
危機管理はしっかりしている。確かに見ていると、イアンに突撃してくる令嬢たちの本気度が窺えた。
今までのアレクシアに通ずる、鬼気迫るものがある。どうにかして公爵夫人の座を手に入れようと必死なのが、鈍いと言われるステファノでさえわかった。
正攻法で成果が得られなければ、非合法のものに手を出さないとも限らない。ジェフリーとイアンが人気を二分しているせいで、ステファノはどうも自分には関係ないと思いがちだ。
「わかってる。もらったときに、同じこと言われた」
本当に、今まで無防備すぎたと反省する。無自覚に周囲の者を信頼していたのか、学園内では何かが起きるわけがないと油断していたのか、自己分析はうまくできない。けれど、気が緩んでいたのは確かだ。
側近候補で、将来的にもジェフリーの傍らにいるのだから気を引き締めろと、アレクシアは忠告と共に助言してくれた。
よく見ていると、感心するしかない。今までつきまといに近い奇行のせいで、アレクシアの優秀さが霞んでしまっていた。
「そんなことを言って、おまえにくれたのか?」
「あ、俺がねだった?」
ことになるのだろう、きっと。
最初、アレクシアには冷たく断られそうになった。
「ステファノがねだった?」
そ、と軽く頷く。
「なんかうまそうに見えたんだよ。で、もらってすぐにかじりついたら言われた」
「それは、言われても仕方がないな」
「うん、反省した。だから、もうしない」
「菓子をくれ、尚且つ指摘してくれるような、仲のいい令嬢がいたのか?」
訝しむような眼差しを、イアンが向ける。普段ステファノは、令嬢たちとは会話が成り立たないと嘆いているのだから、その反応も頷けた。
「仲ねぇ……どうだろうな?」
まだ、友人とは言えない。
冗談めかしてだが、下僕と言っていたくらいだ。
けれど、これから親しくはなれる。はず、と思いたかった。
「誰にもらったんだ?」
「ロシェット嬢だよ」
は、とイアンが息のような声を洩らす。
ある意味正しい反応に、ステファノは苦笑した。
「そんな驚く?」
驚くか、と納得もする。アレクシアの行動はすべて、ジェフリーに基づくものだ。
「賄賂とかじゃないからな」
去り際に居場所を教えはしたが、ステファノが伝えなくても、アレクシアが行動すると決めたら結果は変わらない。
「手作りなのか? それ」
気になるのはそこなのか? と、ステファノは瞳をしばたたく。
「まさか、ロシェット嬢が作るわけないだろ」
「ああ、そうだな」
「さっき昼寝しに行った中庭に、友人たちといたんだよ。そこで、もらった」
三人で談笑していた光景が、ステファノは浮かぶ。
アレクシアと親しくなりたい気持ちに、下心がないとは言えない。騎士を目指すステファノにとって、ロシェット家は魅力的だった。
拝み倒せば、呆れながらも手合わせの場を設けてくれそうな、アレクシアの友人ポジションを手に入れたいと、ステファノは決意を新たにした。