16 憂いの在処
とん、と長い指先が、机の上を軽くたたく。
微かな音でしかないが、静寂の広がる室内では大きく響き、ジェフリーの気を引くには充分だった。
現在、生徒会室には二人しかいない。誰が立てた音か自ずとわかり、ジェフリーは同席しているヘルベルト・シナーの方を窺った。
「ああ、悪い」
すぐに、ジェフリーの視線に気付くと状況を察する。今年度の生徒会長で、公爵家の嫡男でもあるヘルベルトは、切れ者と噂高い。
髪こそジェフリーよりもトーンを落とした金色だが、瞳は王家の血を継いでいるのがわかる色を持っている。少し垂れた瞳で、穏やかな印象を受ける容姿をしているが、警戒心を抱かせ難いその容姿をいいように利用しているところがあった。
王位継承権をも持つ、公爵家嫡男という立場は伊達ではない。優しく、人が良いだけではあっという間に強欲な人間に足を引っ張られ、家が傾く。
幼い頃より王宮に出入りしていて、交流があるのでジェフリーにとっては兄のような存在でもあった。
「仕事を振っておきながら、邪魔したね」
「いえ、気を取られた私が未熟なので」
気心の知れた者しかいないので、気持ちが緩んでいるのかもしれない。王太子であるジェフリーが、肩の力を抜いて話せる人、場は少なかった。
「ほんと、真面目だな」
苦笑されるが、ヘルベルトのように立ち回れないのだから仕方がない。
時々、彼のような人が王に相応しいのではないかと、ジェフリーは夢想することがあった。
再度書類に視線を落とそうとすると、先ほど机をたたいた指先が、とん、とこめかみをたたく。ヘルベルトが、何かを考えているときの仕草だ。
「そういえば最近、ロシェット嬢の姿を見ないな」
「……そうですね」
少し前まで、アレクシアは当たり前のように生徒会室に入り浸っていた。
ジェフリーがいるときは、必ずと言ってもいいくらいだ。
華やかな容姿で、また本人の性質も印象そのままなので存在感がある。急に居なくなると、生徒会室然り、自身の周り然り、妙な静けさをジェフリーは感じた。
だからと言って、会いたいわけではないが。
「彼女が、どうかしましたか?」
いや、とヘルベルトが言葉を切る。思案するような表情を見せた後、言葉を継いだ。
「そうだな。ロシェット嬢の好きな物を、知っているか?」
唐突な質問に、ジェフリーは軽く驚く。
質問の意図がまったく見えない。けれどヘルベルトの表情から、茶化されていないのはわかるので、ジェフリーは渋々口を開いた。
「私、です」
わずかな間の後、ふはっとヘルベルトが吹き出す。
思わぬ反応にジェフリーが驚くと、うんうん、と頷きながら、くつくつと喉を鳴らして愉快そうに笑った。
「会長!」
「いや、ごめん。そうだね、間違ってない」
自惚れすぎだと言われなかったことに、ジェフリーはほっとする。勘違いも甚だしいと断じられたら、物事の真偽も見抜けないと間抜けだと言われたようなものだ。
「好意を向けられている自覚はあるんだね」
「それは、はい」
わからないのなら、鈍感すぎる。元々、何もせずとも王太子であるジェフリーの周囲には人がいるし、異性からは好意を向けられることが多い。そんな中、アレクシアは誰よりも苛烈だった。
家の力が強く、この国唯一の公爵令嬢と身分もあるので、行動を諫められる者は少ない。うんざりさせられることも多かった。
最近では趣向を変えたようで、ジェフリーの前に姿を見せない。けれど家の力を使ったようで、国王である父親に、もう少しアレクシアに歩み寄れ、尊重しろと苦言を呈された。
「でも、君というカードは切れないからね」
「はい?」
先ほどから、ヘルベルトと意思の疎通がうまくいかないと感じる。何か企んでいるのは察するが、それが何かは想像すらできなかった。
「彼女の気が引けそうな物を、知りたかったんだよ。あ、君以外でね」
「……会長には、婚約者がいましたよね」
親同士が懇意にしていることから縁を結び、政略ではない幼馴染みの婚約者がいる。控えめで、清楚に笑う姿が、ジェフリーに初恋の子を思い出させた。
「ああ、妙な誤解をさせたかな。彼女にお願い事をする時に、有利になるような物が知りたかったんだ。まあ、わかりやすく言えば賄賂だね。何か知らないかな?」
「残念ながら」
「そうか」
はあ、とヘルベルトが息を吐く。
同じ公爵家の嫡男で、懇意にしているレイモンドに訊けばいいのでは? そんなジェフリーの考えを読んだように、ため息が深くなった。
「レイモンドは絶対に教えてくれないよ。あの妹への溺愛ぶりはちょっと、いやかなり引くところがあるな」
「……そうですね」
よく耳に入るが、ロシェット家とは関わりを避けているので、ジェフリーにとっては遠いところの出来事だった。けれど父親のサヴェリオが国王に圧力をかけてくるほどと知ったので、警戒すべきことだと認識を新たにしていた。
「彼女、筆頭婚約者候補なのに、好みも知らないっていいの?」
「……候補でしかありません」
「まあ、そうだけどさ」
相手を知るための交流会が、定期的に開かれているのは周知の事実だ。
ただの候補であろうとも、将来の妃候補を見極めるために相手を知ろうとすれば、会話や行動から好みも自ずと知れる。けれどジェフリーはアレクシアを知りたいとは思えず、普段の装いから華やかな物が好みだということくらいしか知らなかった。
他の参加者に対しても似たようなもので、アレクシアだけに限らない。
交流会に参加する顔ぶれの中から選びたくないという気持ちを、ジェフリーは持て余している。それならば誰を、と問われても答えられないのだから厄介だ。
「聡明な君の目を曇らせているのは、なんだろうね」
「意味がわかりません」
「彼女が最善だろう?」
やわらかな指摘に、ジェフリーはぐっと胸が重くなる。
わかっている。王家としては、ロシェット家と縁を結ぶのが望ましい。そんなことは、ジェフリーも理解していた。
頭では理解しているのに、感情がそれを良しとしない。王太子として、いずれ国を率いる者として、己の感情を優先するのは間違っているともわかっている。だがいずれその道を選ぶことになるとしても、今はまだ自由でいたかった。
婚約者の指名まではまだ猶予があると、甘えているのかもしれない。
それまでに、心からジェフリーが望む女性が現れてくれたらと、わずかな希望に縋っている自覚もあった。
「まあ、華やかさでできているような人だけどさ」
あまりにも好みの女性とは真逆であることも、ジェフリーがアレクシアを避ける要因の一つだ。
まるで――まるで? と、ジェフリーは自らの思考に引っかかりを覚える。なんだと突き詰めて考えるより早く、ヘルベルトの声が思考を遮った。
「え」
「彼女の圧が強いのは認めるが、優秀だ。少しは、歩み寄ってみたらどうだ?」
――一度、ロシェット嬢と向き合ってみたらどうだ?
先日、イアンにも似たようなことを言われている。貴族の腹の探り合い、人間関係が面倒くさいと思っているような男で、恋愛に関しては特に興味がなく、普段なら絶対に言わない台詞だ。
わざわざ言ってくるのだから、イアンは何かを知っているのかもしれない。落とし物を、アレクシアに届けたとも言っていた。
けれど相手が知られたくないと思っているようなことは、イアンは絶対に口にはしない。例え相手に口止めされていなくても、動物的な勘で口をつぐむ。
だからこそ、ジェフリーは問い詰めるようなことはせずに曖昧に流した。
生徒会室のドアが開いたことで、雑談はそこで終わる。随分と遅くに姿を見せたゲイリーは、おざなりな挨拶をしたと思えば、酷いしかめ面で席に着く。机の上には、未処理の仕事が積まれていた。
ちらり、とゲイリーへと視線を投げるヘルベルトにジェフリーは気付く。その瞳は、上に立つ者が何かしらを見極めるときの色を帯びていた。




