白い世界にふたりきり って、そうなんですか?
――そこは、どこまでも白い世界で。
右も、左も、前も、後ろも、あるいは上も、下さえも判らない。
目に映る全てが、ひたすらに白い世界。
唯一、右手をぎゅっと握られる、その手の感触だけ。
それだけが、今の俺の全てだった。
――そこは、どこまでも白い世界で。
ただ、動いてはいけない。
それだけが、なぜか確かに解っていた。
どのくらい経ったのだろう。
ずっと纏わりついていた白い世界は、いつの間にか薄まり。
「……アキッ、ハルアキッ」
樹音の声に呼び戻されるように、俺は目を開き。その視界に樹音を捉えた。
こげ茶色の瞳には、心配そうな色が浮かんでいる。
「よかった。ハルアキがじっと目をつぶったまま動かなくって。どうしようかと思ったよ」
「あれ、ジュネさん。オレたち、どうして?」
山頂から滑り出した俺たちは、ホワイトアウトに見舞われて、前後不覚に陥っていたらしい。何も見えない中、二人でじっとガスが晴れるのを待っていたのだと、樹音は教えてくれる。
……そうだ、樹音が手を握ってくれて。
という所まで考えて、俺はまだ樹音の手を握りしめ続けていることに気付く。
「わわっ、すいません」慌てて手を放す俺。
「ふふ、はぐれずにすんだね。ハルアキがしっかり捕まえていてくれたから」
まだ少し、白く霞んだ世界越しに、樹音は笑いかけてくれた。熱くなった耳の色はヘルメットで見えなかったはずだ。
そして。その白く霞んだ世界は急速に薄れていった。開ける視界。
目の前には雪の積もったコース、というか林道が続いている。初心者向けだからだろうか、少しだけ下っていて。周囲には大きな針葉樹の森林が広がっている。それは大人が数人がかりで手を繋ぎようやく、その幹回りを一周できるかどうかというほどの。そんな太さの樹が幾つも目に入る。
「ジュネさん、ここが初心者コースなんですか、って……えっ?」
樹音に話しかけながら、俺が樹音の方へ一歩踏み出そうとすると。
樹音の方へと向かおうとする身体。だけど動こうとしない足。それでも身体はゆっくりと動き続けようとして。
――ぐらり、ぼすん。
……ぼすん?
俺の視界はまた、白い世界に覆われていた。
柔らかな雪面に顔から突っ込んだことで、俺はようやく足元がすっかり雪に埋まっていたんだと気付いた。
もぞもぞと起き上がる俺。どうやら雪はくるぶしが埋まるほどに積もっていたようだ。俺の両足はスキーから外れてしまっている。
「ちょっと、気を付けな……よ……、っ……」
手を差し伸べる樹音の口元が妙に歪んでいた。必死に笑いを堪えているかのようで。
樹音のゴーグルに反射して俺の姿が目に入る。真っ白に雪にまみれて、ゴーグルだけが、そこから覗いていて。
「ぶふぉっ」
ついそれを見た俺の方が吹き出してしまった。口元に張り付いていた雪が盛大に吹き飛ぶ。
つられて我慢できずに笑いだす樹音。
静かな林間に、二人の笑い声だけが響きわたっていた。
ひとしきり笑い合った俺たちは、大きく深呼吸して息を整える。
雪に隠されたスキーをなんとか救出し、スキーを履こうとするが。……履けない。
ブーツのつま先をスキーの固定具に合わせて、かかとを強く押し込む。すると、ガチャリと。……嵌らない。壊れたのか?
どうしようか。樹音の方へ目を向けると、黙ってこちらを見ている。その口元は穏やかに微笑んでいるかのようで。
あ、この表情を俺は知ってる。たしか……開発中のシステムで、俺がデバッグに苦労していた時のこと。見落としていたロジックの穴を自力で見つけるまで、じっと見守っていた。その時の表情に似ていて。
……何か見落としているのか?
……スキーは? ――問題なさそうだ。
……ビンディングは? ――きちんと開いている。こっちも問題なさそう。
……ということは、ブーツ? ――だが、ビンディングへとはめ込む突起に問題はなさそうで。
もう一度視線を巡らすと、樹音がポケットからオレンジを取り出して、ぷよぷよと潰しているところが目に入る。ちらっと俺を見るということは、これがヒントなんだ。
……オレンジ……潰す……スキーの裏……土踏まずの下! そうか!
俺の指がブーツの裏に触れ、そこには雪の塊がびっちりと張り付いていることを伝えてきた。
ブーツの裏に張り付いた雪をかき取り、俺はスキーを……今度は履けたぞ。
そうして、待っている樹音の方へと顔を上げ。
「お待たせしましたー」
二人、目の前に続く雪の林道を進もうとするが、なかなかに上手くいかない。沈み込む雪に邪魔されて、スキーが前に進まないのだ。
「しょうがない。滑れるところまで、スキーを脱いで歩こうか」
「……そうですね」
どうにも上手くスキーを動かせない俺は、疲れた声で樹音の提案に乗った。もう何度もプロテクターのご厄介になっていて、すっかり気持ちが折れかかっていたのだった。
――ざく、ざく、ざく。
重ねたスキーを肩に担ぎあげて、二人歩く。少しずつ下っていく林道を。
柔らかく積もった新雪に、二人の足跡だけが続く。
――ざく、ざく、ざく。ざく、ざく、ざく。
随分と歩いたように思うのだけど、聞こえてくるのは俺と樹音の足音だけ。リフトを降りた時には、周りにかなり居たはずのスキーヤーやスノーボーダーに一切出くわさない。
俺も樹音も、何も気づいていないように、あえて無言で歩き続け。
――ざく、ざく、ざく。
道は緩やかなアップダウンを伴って、雪の林間を縫っていく。
「あ、そうだ」
どうしてだろう。スキー場の異世界っぽさに当てられていたからだろうか。なぜか、たった今まで思いついていなかったが。俺はウェアのポケットからスマホを取り出した。が。
しかし、その画面は黒く沈黙していて、寒さのためだろうか、目を覚ましてはくれなかった。樹音も同じようにスマホを取り出すが、やはり結果は同じで。
……もしかして。
つい顔を見合わせ。
「ジュネさん」「ハルアキ、もしかして」
「「迷った?」」
揃った声は、針葉樹の森へと吸い込まれていき。
白く染まっていた空は、その明るさをしだいに失いつつあった。
――ざく、ざく、ざく。
二人は無言で歩き続けていた。
針葉樹の森には、すでに闇が落ち、林道にも夕闇が迫りつつあって。空には僅かばかりに、光の残滓が見えているだけ。周囲からは、優し気な温もりは失われ、刺すような冷気が気力を奪い取る。
いつもは楽観的な樹音なのだが、今だけはその口元も強張ってるようだった。
空から最後の光が消え去りかけた、そのころ。
登っていた林道の頂点を俺たちは越えようとしていた。
坂道の頂点にたどり着いたその時。二人の目に、さっと橙色の明かりが差した。
ずっと下っていく林道のその先。そこには灯りのともった小屋があった。
樹音と俺、二人はどちらからともなく駆け出していた。