はじめてのスキー③ 二人きりのリフト、つなぐ手と、ホワイトアウト
――ごうん、ごうん。
直径三メートルはあろうか、巨大な滑車が回っている。
雪の斜面に沿ってやってきた太いワイヤーロープは、屋根の下で水平に回り続けるその滑車に、一度巻き付いては、また斜面の上へと送り出されていく。
――ガコン。
上から降りてきた空の座席、四人ほどが座れる横長のベンチ様のそれは、時計回りの滑車に巻き取られる寸前、大きな音をたててワイヤーロープから解き放たれた。そのまま、明るいグレーに塗られたレールにワイヤーロープを掴んでいた腕を乗せて、ゆるゆると進む。
そうやってワイヤーロープから自由になった座席がすでに数台、レールの先に溜まっていて、大きく滑車を迂回するように、ぐるりとその身を進めていく。
そうして、斜面の上へ向かうワイヤーロープと進行方向を合わせた座席の先頭の一台。その先には雪面に黄緑色の線が引かれ。そこには四人のスキーヤーが待ち構えていた。だが構わず、座席はゆるゆると進み続け、そしてスキーヤーの足元を払う。スキーヤーたちは、その足を払われるままに、座面に腰を下ろし、運ばれていく。
――ガチャリ。
座席を吊り下げる腕が、滑車から送り出されるワイヤーロープを再び掴んだ。にわかに加速する座席。ふわりと浮き上がる、八本のスキー。四人のスキーヤーがリフトに運ばれていく頃には、次の四人の足がまた払われていた。
「ね。あんな感じで、係員の合図があったら、待機線まで進むの」
リフト乗り場の横から様子をみる俺に、樹音が乗り方を解説してくれる。
「座席が足に当たったら、そのまま座ってね。ストックは雪に引っかからないように、少し前にあげておいて」
懇切丁寧な解説に不安はない。後は、俺がすんなりと待機線まで進めるかだけだ。
「よし、乗ろうか」
楽し気に語り掛ける樹音。そして俺たちは黄緑色の待機線へと歩を進め。
「ん、いい感じだね」
少しもたつく俺に、樹音は優しく背中を押してくれる。
ん? もちろん物理的に、だが。
――ふわり。
と浮かび上がるリフト。足元の雪面が、みるみる間に遠ざかっていく。膝の裏にはスキーとブーツの重みがかかり、こんなに重たかったのかと今更ながらに感じる。
「バー、降ろしまーす」と、右側から声がかかる。
乗り合わせた別のスキーヤーだ。セーフティバーを頭上から引き下ろしてくれる。
このリフトは四人乗りだが、今この搬器――リフトの座席をこう言うらしい――には左端から、俺、樹音、そして乗り合わせたスキーヤーの三人が座っている。四人乗りに三人だから、本来ならゆったりと寛げるはず、なのだろうが。何しろこの、お尻が浮いている状況、が初めてなのだから、そんな余裕はあるはずもなく。
――ゴンゴンゴンッ。
「うぉっ」
支柱を越えるたびに伝わる振動に、ついつい身を強張らせてしまう。
不穏な気配を感じて右へと視線を向けると。にんまりと口角を上げてコチラを見ている樹音と目が合った。
「ねぇ、緊張してる? ほれほれ」
にまにましながら、樹音は俺の脇腹をつついてくる。
ちょ、やめ。ほら、隣のお兄さんがどうしたらいいか困ってるでしょう。
無表情を装って、前を向いていたお隣さんだったが、そのこめかみがピクピク震えることは隠せなかったようだ。んん、申し訳ない。
樹音とお隣さんに気を奪われている内に、いつの間にか緊張もほどけていたようで。
「もうすぐ降り場だよ。わたしが合図するから、それに合わせて立ち上がって」
「はーい、先生」
少しだけは樹音へと軽口が返せるようになったけれど、まだまだ、俺のはじめてイベントは続く。一度ほどけていた強張りが、またやってきていた。
すでにリフト降り場は、俺の視界に入っている。
降り場までにワイヤーロープを支えている支柱はあと二本。
――ゴンゴン。
あと一本。う、ドキドキしてきた。
――ゴンゴンゴン。
セーフティバーを上げてください。とアナウンスが流れている。
「バー上げまーす」
上がるセーフティバー。お隣さんが動かしてくれたようだ。
迫る、降り場の雪面。うぅ。
……スキーの先を少し上げて、ストックを前に向けて構えて、スキーはまっすぐに。
乗る前に樹音から教えられたリフトの降り方を、頭の中で反芻する。
――あと五メートル。
「ハルアキ、スキーの先を上げて」
樹音の声に素直に従う。スキーの先を上げて、ストックを前に。ううぅ。
――あと三メートル。
とん。
スキーの裏が雪面に触れる。これまで膝の裏に感じていた重みが消え、代わりに足の裏から雪面を滑っている感覚が伝わってくる。
――あと一メートル。
「三、二、一、立って、ハルアキ」
ぐい。っと立ち上がったはいいが、これからどうすれば。
「そのまま動かないで。リフトに押されるまま、まっすぐ」
じっと固まる俺。ふくらはぎをリフトが押してきて、リフト降り場の前に開けた斜面へと押し出され。
「そうそう。そのまま進んでー。よし、ピザを開く!」
びしっ! 止まった!
大きく足を開いて止まったまま、俺は足元に落ちていた視線をゆっくりと上げる。そこには、笑みを湛えた樹音が待っていて、おもむろに右腕を突き出し。
「やったね。初リフト経験クリア」
親指をびしっと立てて、まっすぐに俺を見てくる。
それに、こくこくと頷き返すことしかできない俺。
そうして。樹音の言葉が俺に染み込んできて、ようやく緊張が解けていく。
まだ、ドキドキと早鐘を打ち続けている心臓を落ち着けるように、俺は樹音に笑みを返した。つもりだったけど、上手くできたかな。頬が引きつっていたような気がするな。
ただ、その決めポーズ。周りの人たちが何事かと、ちらちら見てきているので。
……少しは気にしてください。
「山頂までは、あのリフトに乗るんだよ」
そう言って、樹音は誘うように滑り出した。
少しだけ斜面を下ったところに、リフト乗り場が見えていた。数人が列を作って待っている。次々とスキーヤーやスノーボーダーを、その乗り場から吐き出されるリフト。その様子から、どうやら二人乗りであるようだ。
俺は、樹音を追いかけ、そしてリフト乗り場へと辿り着いた。
……しっかりプロテクターのお世話になったことは、今は伏せておくとしよう。
いや、お子様ゲレンデとは比べ物にならないくらい急なんだよ!
「お疲れさん」
嫌な顔一つせずに待っていてくれる樹音が眩しい。
「さ、いこう。ハルアキ」
申し訳ない気持ちが顔に出ていたのだろうか、樹音はにこりと笑い。俺の肩をポンと叩いて、リフトへと促す。
俺は、一度足元へと視線を落とし、大きく息を吐く。両手のストックを握りなおして、雪へ突いて。そして前を向き、歩き出す。今は待っていてくれる樹音に、必死に並びかけることしかできないから。
――ウォン、ウォン、ゴトゴトン、ウォン……
リフトは静かに二人を運ぶ。時折、搬器が支柱を越える音が響き。
足元には四本のスキーが寄り添うように並んでいる。
……近い。
このリフト、幅がやけに狭くないか? 触れる肩を、どうしても意識してしまう。何を話せばいいのだろう。俺は口を開きかけては閉じて。
「静かだね」
突然の樹音の一言。どきっとして、少しだけ腕に力が籠り。動いたストックが樹音のストックに触れ、かちゃりと音を立てる。
「っと、すみません。確かに……静かですね」
先ほどまでゲレンデ中に響き渡っていたポップスやアイドルソングが、いつの間にか聞こえなくなっている。
ふと視線を感じて、樹音の方を向く。樹音はこちらを向いている。ゴーグルには周りの白い景色が映り込んでいて、表情がよくわからないけれど、口元は優し気に曲線を描いている。
その口元が開き。
「ねえハルアキ、スキー楽しい?」
お子様ゲレンデでも聞いてきた問いかけを繰り返す。
「すごいです。なんていうか、これまでに体験したことなくて」
ひどく近い樹音との距離。その非日常さに浮かされてしまい、俺は興奮気味に答えていた。
「うまく言葉にできない。まるで異世界にでも来たみたいな感じというか」
まったく、ひどい言い草だが。自分の言葉に違和感を覚えるけれど、どうにも表現しようがないんだよ。
そんな、しどろもどろになる俺を、樹音は黙って見つめていた。表情は判らなくても、その優しい雰囲気だけは伝わってくる。
……なんだか、吐息まで感じそうだな。
そう思っていると、不意に目の前が白くなる。え、本当に樹音の吐息?
が、そんな訳もなく。
「ガスが濃くなってきたね」
樹音がぽつりと呟く。何かその声音に俺は、僅かな不安の色を感じてしまう。
真っ白いガスは濃くなったり、薄くなったりを繰り返しながら、山頂に向けて少しずつ増えていくようだった。さっきの言葉じゃないが、本当に異世界みたいだ
――セーフティバーを上げてください。
突然聞こえたアナウンスに、リフト降り場が迫っていたことを知る。
急いでバーを上げると、一連のリフト降りシーケンス――スキーの先を上げて、ストックを前に、樹音の合図で立ち上がり、そのまま真っ直ぐすすんでピザ! びしっ! ――を繰り返した。最後まぬけだな……
そうして、リフトから降りる頃には、ガスが随分と濃くなっていて。わずか五メートル先でさえも見えにくくなっていた。
「ゆっくりいこうか」
かけられた樹音の声が、少し固い。
俺たちは寄り添うように、少しずつコースを進んでいく。
そんな間にも、ガスはさらに濃くなっていき。風景が白く溶けていく。
近くを幾人ものスキーヤーたちが滑っていたと思うのだが、その姿も、もう見えない。
これがホワイトアウトか! そう思っていると。
「はぐれないで!」
不意に右腕を掴まれた。その鋭い声と、俺の腕をぎゅっと握る樹音の手に込められた力に、緊迫したものを感じ。俺はつい、右手のストックを取り落としてしまう。手首にかけたベルトにストックがぶら下がる。俺の腕を掴んでいた手が一度ほどかれ。その樹音の手は、俺の空いた右手を、ぎゅっと握りなおす。俺の手を放すまいと握られる、その指はとても細くて。折れそうなほどに、きつく握られるその指を、俺はしっかりと握り返した。
視界はさらに白く塗りつぶされる。
足元のスキーが消え。
隣にいるはずの樹音が消え。
握っているその手が消え。
――全ては、真っ白に。