はじめてのスキー② どきどきオレンジターン
「じゃあ、ジュネ。後は任せた」
「ん、後は任された」
樹音と互いに親指を立てあい、啓介はリフト乗り場へと滑っていった。
それを追って滑り降りる、あゆみと翔太。翔太の背には大きなバックパック。よく見ると、燕尾のスノーボードと、ごつい三脚が括り付けてあった。一人だけ醸し出す雰囲気が違うぞ。
そして三人は四人掛けのリフトに乗って、ゲレンデの上へと向かっていった。
スキーを担いで登って、またまっすぐにバターを塗る。
どのくらい繰り返しただろう。随分と滑らかに塗れるようになった気がする。
そんな実感を持ち始めた俺に、樹音は次の課題を出した。
「次はオレンジジュースを絞ろう」
「……はい?」
何を言ってるのだろう? 再び間抜けな声が漏れた。
いや、分かってるよ。樹音はいたって真面目だ。俺が理解できてないだけだ。
でも、さ。スキーとオレンジジュース、どうにも繋がらない。
一気に、そこまで考え、そして俺は、思考を放棄した。
「最初のピザは一緒ね」
樹音はそう言って、俺を立ち止まらせる。
それから俺の目の前、二メートルほどのところに移動すると、同じようにスキーをピザの形にして止まって見せた。
樹音の後ろ姿が、否応なく目に入る。
パールホワイトのヘルメットの下からは、はみ出した後れ毛が。赤みがかった金髪が印象的に煌めいている。その下には、アイスブルーのジャケットとライトグレーのパンツ。それが、絶妙に樹音の身体にフィットしていて。くびれたウェストから、腰のふくらみ、そして丸く描かれていくお尻のラインまでが、容易に想像できてしまう。
「ちょっと、聞いてる?」
「は、はぅぇい」噛んだ。
樹音の言葉に、慌ててててて。あう、なんだか顔が熱くなる。ゴーグルに隠れて、気付かれていないといいけれど。
一度、大きく溜め息を吐いてから、樹音は続ける。
「足の裏、土踏まずの下にオレンジがあると思って。こんな感じ」
と、おもむろにポケットから丸ごとのオレンジを取り出す樹音。
突然の展開に、目を見開く俺。よく見るとそれは、よくできた作り物だった。よく雑貨屋なんかにディスプレイされているアレだ。
そのオレンジを雪面に置くと、樹音は右足のスキーを持ち上げ、そして踏みつけた。
ぶにゅっと潰れるオレンジ。樹音の言うように、ちょうど土踏まずの下あたりだろう。
「それで、体重をかけて、果汁を絞りだすの。こう!」
そう言いながら、さらに右足へと体重を乗せていく樹音。おいおい、そのオレンジは親の仇なのか? 後ろからではあるが、鬼気迫る表情なのが、ありありと伝わってくる。
オレンジはすっかり、雪へとめり込んでしまっていた。ああ、かわいそうに。
正気に戻ったのか、樹音は少し恥ずかしそうにオレンジを回収して。ちょっとごまかすように俺に告げる。
「んんっ。先にやってみるからさ、見てて」
滑りだす樹音。
「右のオレンジを絞ってー」
大げさに右足へと体重を乗せる。すると。
樹音が左へ左へと向きを変えていく。
「いちど戻して、次は左のオレンジー」
今度は、右へ右へと向かう樹音。そしてピザを大きく開き、止まって見せる。
なるほど。
「じゃあ、やってみてー」
大きくストックを振る樹音に、俺はストックを振り返して、滑り出した。
――ぐらり。ばたん。……あれ?
まあ、すぐには上手くいかないよな。もう一度。
まっすぐ滑って、右足の裏のオレンジを、思い切り、潰す! おりゃ!
――ぐらり。ばたん。…………あれ?
もう一度。――ぐらり。ばたん。
もう一度。――ぐらり。ばたん。
こけ続ける俺。――ばたん。 ――ばたん。 ――ばたん。
どんなに強く踏み潰そうとしても、上手くいかない。解せぬ。
そんな中、ふと、俺はあることに気付いた。
……あれ、そういえば痛くないな。
先ほどの翔太の言を思い出す俺。
『ほら、初めては痛いものだからさ。これなら痛くなかろう?』
翔太よ、疑ってすまなかった。下ネタかと思った俺を許してくれ。
そんなことを考えていると、いつの間にか樹音のところまで滑っていたようだ。
すいっ、と俺の横に並んできた樹音が声をかける。
「もう、はじめてなのに乱暴ね♡」
いや、それは明らかに下ネタだろ。
「いい、ハルアキ。いきなり乱暴にすると、反発されるの」
樹音によると、先ほどのバター塗りが大事らしい。
薄く薄く塗り拡げる感じから、じわじわとオレンジを踏み潰して。
その時にジュースを一気にぶしゃっと出してはいけない。
じんわりと少しずつジュースが出る量を増やす感じで。そして最終的にしっかり体重をかけていく。
「さあ、もう一回」
俺が滑るすぐ前で、同じように樹音が滑る。声をかけて、タイミングを教えてくれる。
「右から行くよ。最初はまっすぐ薄ーく、じわっとオレンジ潰して」
――おっ。
じわじわとスキーがその向きを変え始める。そのまま樹音の声に合わせ、その動きをトレースしていく。
「ぎゅーっと最後まで、絞ったら戻ーす」
――おおおっ。
向きを変えたスキーがぐっと俺の足を押し返してくる。何だろう、なんとも例えようのない、はじめての感覚だ。
「次は左ー。じわっとー」
立ち止まってその感覚に浸る間もない。そのまま樹音は滑り続けていく。
俺は必死に、その後姿を追いかける。樹音の声に合わせて、その動きに合わせて。
――左、右、左、右。
体重を乗せてオレンジを潰すたびに、スキーがぐるり、ぐるりと、勝手に腰の下へと戻ってくる。なんだこれ。楽しいじゃないか。
お子様ゲレンデの終わりが目の端にとまるころには、少し余裕が出てきて、そうすると余計なことを考えてしまって、目の前には樹音の丸いお尻があって……あっ!
――ぐらり。ばたん。
「雑念入ったな? エッチなことでも考えてた?」
倒れた俺に気付いて、登り返してきた樹音が言う。
その言葉に反して、樹音の表情は柔らかい。差し込む日差しがゴーグルに反射して、うっすらと見える瞳に光の粒が煌めいているように見えた。
樹音の差し伸べた手を取って立ち上がる。俺は、ちょっとした気恥ずかしさを感じて視線を逸らした。その先には、たった今滑ってきた斜面。それを見上げる俺。
「ねえハルアキ、スキー楽しい?」
「はい」素直にそう答えを返す。
……ジュネさんと一緒だから。
答えの後半は口には出さないけどな。
ばたん、ばたん。と倒れつつも、どうにか滑れる距離が伸び始めた頃。
「ハルアキ、山頂まで上がってみない?」
軽い感じで告げる樹音。いや、待て。
「さんちょうって、山のてっぺんの山頂っすか?」
「そう。スキー場の一番上」
俺は、今まで滑っていたお子様ゲレンデと、その脇から遥か先まで続いているリフトとを見比べる。そのリフトの終点は見えないほど先だが、それでもまだスキー場の中腹ほどだったはずだ。
「えーと、ジュネさん。それは冗談……」
「じゃないよ」
眩しいほどの笑顔で否定されてしまった。しかも喰い気味に、だ。
樹音のポケットから取り出された、スキー場のマップ。それを指し示しながら、樹音がいう。
「ここ。山頂から尾根沿いをぐるっと回る初級コース。ハルアキなら、もう滑れるよ」
「本当ですか?」
確かに、スキー場の最上部からは、初級コースを示す緑色のラインがスキー場の一番外側へ沿うように、一番下――今居るお子様ゲレンデの横まで繋がっている。
「だいじょーぶ。わたしが一緒だから」
随分と鼻息が荒い。ずっと俺に付き添って、お子様ゲレンデでは、そりゃあ楽しくないのだろう。
そう思うと、無碍に断ることもできず。
「わかりました。お供します」
「うん。よし!」
ふう、と一息吐いて答えた俺に、樹音は満面の笑みを返す。よかった、この返事は間違いじゃなかったみたいだ。
正直、まだ不安はあるのだけど、な。
作中に登場した「オレンジターン」は、作者のお師匠様であるスキー教師 故佐々木徳雄氏の提唱された実際のメソッドです。本作に利用させていただいたことを感謝して、ここに記します。